第四章 墓地
今日はマチネがない。朝食とも昼食ともつかない食事をとると、テッサは散歩に出かけた。薄暗く陰気な日だった。鉛色の厚い雲が太陽を覆い隠し、空気は雨の気配を宿して冷たく湿っている。ウールのショールを身体にしっかりと巻きつけ、頭を低くさげて歩いていくと、編み上げのブーツが、石畳をたたくたびにかつかつ、と硬い音を立てた。
行く先は決まっていた。
聖メアリー教会の鐘楼は、周囲の煤けた古いレンガ造りの三階建ての建物を見下ろすように灰色の空高くそびえている。ホワイトチャペル地区のどこからでも見えるこの鐘楼は、貧民街の住民の喜怒哀楽を、空の高みから何年も見守ってきた。洗礼式、堅信礼、結婚式、そして葬儀。恵まれたとはいえない人生を、それでも必死に生きた住民がこの教会の墓地で静かに眠っている。彼らにとっては生涯最初で、そして最後の休暇でもある。テッサの尋ね人も、ここに眠っている。
白っぽい墓石には名前と没年月日が彫ってあるだけだ。
メアリー・ジェーン・ケリー
一八八八年十一月九日没
心がもやもやする時、テッサはこの墓の前にやってくる。墓石の前で頭を垂れて、メアリ―・ケリーに話しかける。
「ねえ、メアリ―・ケリー。あたしはいったい、どうしたらいいんだろう?」
両親はテッサが十四歳の時に死んだ。ロンドンに出てきて、あるお屋敷に台所女中として雇われた。召使の中でも最下級の女中だ。仕事はきつかった。朝の六時から始まって、水汲み、床掃除、窓拭き、走り使い、洗い物……一日中働いて、給金は年に八ポンド。住込みだからベッドと食事、お仕着せは保証されていたけど、それはただ息をしているだけの生活だった。厳しい言葉で追い使われて、命令通り走り回り、一日が終わればぐったりとベッドに倒れこむ。目を覚ますと昨日と同じ一日が待っている。昨日も、今日も、明日も何も変わらない。
テッサがもう少し大人であれば、これが運命だと諦めたかもしれない。どこの家の女中も大体同じようなものだと知っているし、外の世界で一人で生きていくのが容易でないのもわかっている。出奔しても下手すれば野垂れ死にだ。ここにいれば、少なくとも屋根の下で眠り、食うことだけはできる。
逆に、もう少し子供だったら、素直に周囲の大人の言葉を信じたかもしれない。がんばって出世して家政婦のモリー夫人のようになる。そうなれば、女中たちをあごで使い、年に二十ポンドの給料をもらい、休みの日にはめかしこんで遊びに出かけるようになれる。
テッサは大人でも子供でもない、中途半端な年頃だった。
ある日、食堂から銀食器のセットがなくなった。召使全員の部屋が調べられて、テッサのベッドのマットレスの下から銀のスプーンが見つかった。テッサはもちろん、何も知らない、と言った。事実、何も知らなかった。前夜は遅くまで台所で働いていて、部屋に戻るなりすぐに眠ってしまった。相部屋の先輩女中が、テッサが部屋に戻ってきてすぐに、また一度外へ出て行ったと証言した。ミルク缶を台所口の外に出しておくのを忘れていたのを思い出して台所へ戻っただけだ、と言ったが、誰も信じてはくれなかった。
銀食器をどこへやったと責められた。おとなしく返せば、放逐するだけで警察に訴えることはしない、と説得された。知らないと言い張ると、強情な小娘だと罵倒された。しまいに、警察が来るまでそこにいろ、と縛られて地下の石炭置き場に閉じ込められた。テッサは縄を抜けると、明り取りの窓を破って逃げ出した。
それからは、今思い出しても、悪夢のような日々だった。
青い制服を着た警官の姿に怯えながら町を放浪した。食べ物屋の屋台からソーセージをくすね、パン屋の棚からパイをかっぱらう術を覚えた。それもできない時は、レストランの裏口のゴミ箱をあさった。野良犬のように生きながら、いつの間にかホワイトチャペルに足を踏み入れていた。
結局のところ、貧民街が一番、生きていくのに楽なのだ。こぎれいでお上品なお屋敷町には、テッサのような孤児のいる場所は無い。
幸運は、コマーシャル・ストリートで待っていた。酔っ払いの懐から財布を掏り取ってやろうと入り込んだパブで、声をかけられた。
「テッサじゃないか、おい」
飛び上がって逃げ出そうとしたが、太い指ががっしりと肩に食い込んだ。
「暴れるなよ、おい。何もしやしねえよ。レイノルズだ。憶えてねえか? お屋敷に出入りしていた魚屋のじじいだよ」
身体から力が抜けた。レイノルズ爺さんは大人たちのなかではマシな方だった。大きなエプロンをかけて、裏口から注文の魚を届けに来るたびに、何かしら一言、言葉をかけてくれた。今日はいい天気だな、というような。レイノルズ爺さんにとってはどうということもない言葉だったろうが、コックと先輩女中に役立たずと始終怒鳴られてばかりいる身には、雲間から差し込んでくるお日様の光のように暖かく心地よかった。
「お前、お屋敷を出てからどうしてたんだ? まあ、すわれよ。腹、空いてねえか?」
レイノルズ爺さんは盆に載せたコーヒーとパンと牛骨のスープを運んで来ると、ゆっくりやれや、と言って自分はビールのジョッキを傾けた。
湯気を立てているスープはいい匂いがした。ジャガイモとニンジンの切れ端が少し入ってる。ぱさついたパンを浸して食べるとおいしかった。本当に久しぶりに、人間に戻ったような気がした。爺さんに聞かれて、お屋敷を出奔した理由を話した。
「そいつは気の毒だったな。おめえ、誰かにはめられたんだ。なに、お屋敷でございと上品な顔して澄ましてたって、裏に回れば汚えもんさ。だが、お前さん、これからどうするつもりなんだい?」
なんのあてもなかった。捕まりたくない一心でここまで来た、ただ、それだけだ。
「お屋敷の方じゃ、お前が盗んだと思い込んで警察に届けを出したって聞いたぜ」
心臓が縮こまった。ぐずぐずしてはいられないと思った。
「まあ、落ち着けよ。心配するな。一そろいのフォークとナイフの窃盗犯をロンドン中探し回るほど、メトロポリタンポリスは暇じゃないさ。それより、お前、誰かの懐狙いでもやってやしねえか? その方が問題だぜ。こういう仕事にはちゃんと縄張りがあってな、その縄張りごとに親方がいるんだ。個人営業は掟破りだ」
レイノルズは、まあ、今夜のところは俺に任せろ、と言った。
「知り合いのところに紹介してやる。気のいい奴だから、一晩ぐらい、面倒見てくれるだろうよ」
そうして、レイノルズが連れていったのが、ミラーズ・コート十三号室。鮮魚市場で働くジョセフ・バーネットがメアリー・ケリーと暮らしている一間のアパートだった。
赤毛のメアリー・ケリーはよく笑った。
レイノルズがテッサを連れていった時も、大声で、おやまあ、えらく年の離れたカップルじゃないか、と言って笑った。テッサはきまりの悪い思いをしたが、メアリーはすぐに、冗談だよ、と言ってまた笑った。陽気な女だった。
結局、メアリー・ケリーとバーネットの部屋に、三ヶ月の間、厄介になっていた。その間に、レイノルズに縄抜けに手錠抜け、足枷抜け、錠前破りの脱出術を習った。
「老いぼれて魚屋なんかやってるが、元々はこいつが俺の本職なんだ。お前の縄抜けの話を聞いた時、思ったんだ。才能ありそうだって」
三ヶ月後、レイノルズと一緒にカーニバルの一座に加わってロンドンを離れた。二人でチームを組んであちこちを回り、大陸へも渡った。二人はいいコンビだったと思う。でもレイノルズはパリであっけなく死んだ。長年の深酒がたたった肝硬変だった。テッサは一人でショーを続け、去年の夏にまた、ロンドンへ戻ってきた。
メアリー・ケリーは前と同じ、ミラーズ・コートの十三号室に住んでいた。バーネットとは別れて一人暮らしだった。
「あいつ、魚市場をクビになっちゃってね、家賃が払えなくなっちまったんだよ」
なんでもないように言ったが、メアリーの顔はむくみ、目の下に前にはなかった不健康な青黒いくまが出ていた。家賃を半分負担する約束で、メアリー・ケリーと共同生活を始めたが、うまくいかなかった。メアリー・ケリーは今では娼婦として生計を立てていて、一部屋きりのアパートに客を連れてくるたびにテッサは外へ出なければならない。さもなければ、メアリ―・ケリーは他の娼婦たちのように人通りのない路地や裏庭に客を連れ込んで商売するしかない。
テッサは見世物小屋の近くに下宿屋を見つけて移った。たまにメアリーに会って、一緒にビールを飲んだ。メアリー・ケリーの笑い声だけは変わらなかった。故郷のアイルランドで覚えたというセンチメンタルな恋の歌を歌っては、馬鹿みたいだよねえ、と言って天井を見上げて笑った。
風が強くなってきた。
空には灰色の雲が流れるように走り、鐘楼の向こうの雲が切れてほのかな明るみが見える。でも、その先、テムズ川の上あたりには厚ぼったい真っ黒な雲が帯のように広がっている。遠くから、低い雷鳴の音が響いてきた。
嵐になりそうだ。
テッサはショールで頭を覆って、墓地の出口に向かって走った。風はますます強くなって、通りに出た頃には、大粒の雨が石畳を黒く濡らし始めていた。屋台の八百屋、花屋、古着屋は大急ぎで店じまいをしている。新聞売りの少年は売り物を濡らすまいと、あわてて軒先に避難した。荷を満載した荷馬車の御者が馬に鞭をくれて急がせる。その間を上着の襟を立て、首をすくめて男たちが走る。女たちは甲高い声で子供の名前を呼ぶ。暗い空を稲妻が切り裂いた、と思うと意外なほど近くから、腹に響くような雷の音がとどろいた。子供達が歓声をあげた。
ざっと音をたてて激しい夕立がホワイトチャペルを襲った。
テッサは倉庫らしいレンガの建物の軒下に駆け込んだ。軒は浅く、濡れまいとすると、冷たいレンガに背中を押し付けるようにしてへばりつかなければならなかった。みるみるうちに目の前の石畳の道路は川に変わり、白い水しぶきをあげている。軒先から滝のように流れ落ちる水の音だけが、薄暗い無人の街路にこだまする。稲光が辺りを明るくするたびに、テッサはさらに奥に下がって身を縮めた。レイノルズ爺さんは酔っ払うとよく言った。稲妻ってえのは、神の怒りなんだ。神様が怒って罪人を打ち砕こうとなさってるんだ。
テッサは身体にショールをしっかりと巻き付けて、嵐が通り過ぎるのを待った。
やがて稲妻の閃光が間遠になってきた。
嵐はようやく遠ざかっていくようだ。
軒先から頭を出して空を見上げた。雨はまだ降っているが、わずかに空の色が明るくなってきた。この分ならば、もうじきやむだろう。ほっとした時、通りの反対側に大きな犬が立っているのに気がついた。
灰色に黒の混じった毛は、ぐっしょりと濡れそぼって痩せた身体に張り付いている。細いとがった鼻、この雨の中でもぴんと立った耳、犬は身体から雫を垂らしながら、じっとこちらを見ている。通りには誰もいない。まさか、狂犬ではないと思うが、知らない犬に凝視されてるのは気味が悪い。
こういう場合、犬の目をまともに見ない方がいいということぐらい知っている。だが、どうにも目が離せなかった。
犬はふいに、あくびをするように大きく口を開けた。白い牙と赤黒い舌が見えて、テッサはぞっとした。
これは犬なんかじゃない。
狼だ。
狼は口を閉じた。
ゆっくりと前足が前に出る。一歩。
逃げなければ、と思う。なのに動けない。目をそらすことさえできない。
狼は立ち止る。黄色い目がじっとテッサを見つめている。
再び前足が前に出る。一歩。次の前足、また次、また次……狼は通りを横切って一目散に走ってきた。
悲鳴をあげようとしたが、何の音も出てこなかった。両手で顔をかばおうとした、と、雷のような音をたてて何かが視界をふさいだ。
二頭の栗毛が引くぜいたくな馬車の扉が開くと、若い男が奥からひょいと顔を覗かせた。
「ひどい雨ですね。お乗りになりませんか」
とっさに言葉が出てこなかった。ただ、褐色に日焼けした、運動家らしい若い顔を見返した。どこかで見た顔だ。
男はひょいと帽子を脱いで会釈した。
「小屋までお送りしますよ、ミス・ストロンボリ」
思い出した。
お嬢さんを縛りに行く家で時々見かける男だ。もう一人の眼鏡の男はこっちの顔などろくに見ないで、無言のまま一ポンド札を寄こすが、この男はもっと気さくな物腰で顔が会えば挨拶の言葉ぐらいは口にする。テッサが馬車に乗り込んでドアを閉めると、男は御者にカーニバル会場のある通りの名前を告げた。馬車はすぐに動き出した。
雨に打たれてテッサのドレスはかなり湿っていた。男の上等の上着を汚さないように離れてすわると、男はポケットからハンカチを出して渡してくれた。
「これを使って下さい」
感謝して受け取って、濡れた髪や肩口をぬぐった。極上の絹のハンカチでよい匂いがした。
「英国ではよくこんな風に突然、天気が変わるのですか?」
「夏の夕べの嵐は、珍しくないよ」
「偶然、通りかかってよかった。実は、あなたのショーを見に行こうと出てきたところでしてね」
「それは嬉しいけど」
心の中で警戒心が動いた。単純に脱出術を喜んでくれる客ならばいい。子供や若い女たちはそうだ。だが、若い男の中には、テッサの芸よりも顔と身体に惹かれて日参する者がいる。レイノルズ爺さんは色事も商売のうちと言ったが、正直言ってあまり嬉しくない。それを歓迎する芸人がいるのは知っている。そっちの方が金儲けにつながるかもしれない。でも、テッサは違う。青臭いと言われようとも、自分なりの矜持がある。テッサは脱出の腕を見せる。客に色目を使って媚を売るのはまっぴらだ。この男が勘違いしてるなら、教えてやる。
きっと頭を持ち上げて、隣にすわっている若い男を観察した。
三十歳には少し間がありそうだ。縁なし帽の下に、栗色のはしっこそうな目が光っている。肩はばの広い、がっしりした身体つきだが太ってはいない。大きな手は器用そうで、油断ならない感じがする。脱出術には、三郎よりもこの男の方が向きそうだ。三郎みたいに信用はできないけど。じろじろと見ていると、男はごく自然な微笑を返してきた。
「今夜はショーが終わった後、僕が楽屋へお迎えにあがります。今日はお出でいただけますか」
「うん。昨日は悪かった」
「驚きましたよ。急用でも?」
うん、と言ったきり黙った。モルグだの警察だの話すことはない。
「昨夜は僕と友人とでなんとかしましたが、やはり、縄から抜け出しましてね。外へは出なかったからまあ、大事には至りませんでしたが」
「そう。悪かったね」
「ル……彼女もあなたがいらっしゃらなかったことを残念がっていました。本当はあなたの脱出術を見てみたいらしい」
「本当?」
「それで、僕がこうして偵察に来たわけです。僕自身も興味がありましたしね。大した評判じゃありませんか」
「まあね」
「僕はこれでもあちらこちら放浪しましてね、いろいろ珍しい芸を見てきたんだが、あなたの脱出術のようなものは聞いたことがない」
「あんた、外国人?」
男のアクセントが少し違う。
「アメリカの生まれですよ。あなたも、この国のお人ではないでしょう?」
「あたしは英国生まれだよ」
男は意外そうな顔をして、そうですか? と言った。
「両親はウエールズ出身の小商人だった。もう死んだけど」
「それはお気の毒に。僕はニューヨークの出身です。ずっと北の方の、冬になると雪で家の中に閉じ込められてしまうような田舎です。ミス・ストロンボリ、アメリカに行かれたことは?」
「ないよ」
「それは残念だ。あなたなら、きっと成功するだろうに」
馬車が止まった。
小屋の楽屋口だった。
「いい具合に雨もあがったようです。では後ほど」
男は帽子に手をやって軽く会釈した。
馬車を降りた時、テッサはもう、狼のことを忘れていた。
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