第3話 ビーフステーキルーム
今夜の夜食会も盛会だった。
ライシアム劇場の主催者、ヘンリー・アーヴィングは、舞台がはねた後、劇場内のビーフステーキルームと呼ばれる部屋で、ロンドンの知名人と夜食をとる習慣があった。
今夜のゲストは、海軍軍人のレイク大佐、詩人のロビンス氏、英国王室の信頼厚い医師のガル博士夫妻、ロンドンの金融界に隠然たる力を持つ実業家のファンショウ氏夫妻、ブダペスト大学の神学博士アルミニウス教授、世界をまたにかける旅行家として名高いマクリーン卿、アムステルダムから来たヴァン・ホーテン教授。
ホスト役はもちろん、アーヴィング。俳優で初めてサーの称号を得た名優で、まさにその名声の絶頂期にある。今夜は、相手役で、美貌と演技の双方で名花とうたわれているエレン・テリーも加わっていた。
「悪魔との契約は全世界の民話や伝説に残ってます。ファウスト博士は有名ですが、それ以外にも、魔術師シモンは悪魔と契約して空を飛べるようになったそうですし、中世の魔女たちも、悪魔と契約したそうですよ」
マクリーン卿が今夜の演目、ファウストにひっかけて見聞の広いところを見せると、エレン・テリーがころころと笑った。
「そんなにひっぱりだこでは、悪魔も忙しくてたまらないでしょう」
「まったく。人間の欲には際限がないという証拠ですな」
アルミニウス教授が顔をしかめて言った。
「悪魔と契約して何を得ようとするのかしら? ファウストは人生は美しいと言った瞬間に命を失ったわけですけど」
ファンショウ夫人がちらりとアーヴィングの方に目をやりながら訊ねた。
希代のメフィスト役者としてロンドン中の評判をさらっているアーヴィングは、優雅に銀のフォークを操りながら、ファウストが望んだのは、人生をやり直すことでしょうね、と言った。
「ファウストは学者で、彼の人生は全て書物の中にあった。何一つとして、人生をじかに体験しないうちに年を取り、死が近づいているという、闇雲な焦燥感に駆られていた」
「そこにメフィストフェレスが現れて、もう一度生きるチャンスをさし出した。ファウストは若返って美しいグレートヒェンと恋をする。うらやましいな。僕だって喜んで契約しますよ」
笑いながら詩人のロビンス氏が言った。
「しかし、悪魔との契約では、不老不死を望むものの方が多いのですよ。その魂は地獄に落ちる代わりに、永遠に若く美しい人生を謳歌する」
マクリーン卿が言った。
「不老不死は魅力的ではありますが、しかし、実際に実現可能なものなのですかね?」
ファンショウ氏が、誰にともなく訊ねた。
「錬金術師は、可能だと考えていましたな。錬金術を、鉛を金に変える術だなどと思ってはいけない。金が欲しいのならば山を歩いて金鉱を発見するか、もっと確実な方法は、商売に精を出せばよろしい。錬金術師はその時代でも一流の学者たちでした。そのくらいのことがわからぬはずはない。鉛を金に変える、とは単なる比喩です。古来、西洋東洋のあまたの錬金術師がその一生をかけて追い求めたのは、実はエリクシール、不老不死の妙薬です。賢者の石または第一原理とも呼ばれる、世界創造の鍵を発見したもののみが、エリクシールを創り出し、不老不死を実現すると考えられていました」
オランダから来たヴァン・ホーテン教授が熱弁をふるった。きれいに髭を剃った顔が興奮で赤くなっている。
「錬金術は神にそむく行為として禁じられている」
アルミニウス教授が固い表情で言うと、ファンショウ氏はいやいや、と手を振った。
「わたしが言うのは科学です。科学の力で、不老不死を実現させることはできませんか。博士、いかがです?」
ガル博士は困ったようにテーブルを見回した。興味津々といった顔が並んでいる。
「がっかりさせてお気の毒だが、今の医学の段階では、不老不死は夢物語と申し上げるしかありませんな」
「しかし、昨年でしたか、パリ大学の教授が発表した若返り術というのがありました」
ファンショウ氏が追求した。彼はそろそろ六十歳に手が届く。不老不死まではいかずとも、健康法には大いに関心があるらしく見えた。
「パリにいた時、新聞で読んだのですがね。若い犬とモルモットの砕いた睾丸から抽出した液体を注射したところ、劇的な効果がもたらされた。その教授は七十二歳でしたが、衰えていた筋肉の力が甦り、若い頃のスタミナが戻ってきた。彼は再び夜遅くまで研究室で仕事ができるようになり、階段を駆け上る体力を得て、最近迎えたばかりの若い妻と夫婦生活を営むことができるようになったと…」
「あの発表は気の毒な見世物でしたよ」
ガル博士がさえぎった。「ブローンーセコール教授はまじめな科学者だったのですが、どうしてそんな邪道に入り込んでしまったものか」
「邪道ですか?」
ファンショウ氏は不満そうに言った。
邪道です、とアルミニウス教授がきっぱりと言った。「人の寿命は神が定められたもの。勝手にいじっていいものではありません」
「しかし、教授、聖書によれば、かって人間はもっと長生きしたのではありませんか? ノアは洪水の時六百歳、その後も三五〇年生きたと言いますし、メトセラにいたっては九六九歳まで生きた。それが数世代後のモーゼの時代になると、人間の寿命はたかだが百二十年程度しかない」
「それは神の恩寵が少しずつ減じてきた結果でしょう」
アルミニウス教授は静かに答えた。
「いったい、人間の寿命はどれくらいなんでしょうか?」
ロビンス氏が訊ねた。まだ二十歳そこそこの彼は、寿命の心配をするには早すぎるようにも思えたが、やはり無関心ではいられないらしい。
「現在のところ、平均して五十歳から六十歳というところですかな」
ガル博士が答える。
「それは短い。オールド・パーはいくつまで生きたんでしたか」
十七世紀に生きたシュロップシャー出身の農夫。長寿者として有名になって田舎から出てきて国王にも拝謁したというパー爺さんの話は、若いロビンス氏も知っているらしかった。
「一六三五年に亡くなった時、一五二歳でした」
ファンショウ氏が答える。
「しかし、それは伝説でしかない。第一、オールド・パーが一五二歳だったというのは、自己申告に過ぎない。当時の田舎では出生証明書だってちゃんとしてなかったでしょうから、彼が自分でいうよりもはるかに若かった可能性はある」
ガル博士が反論する。
「サン・ジェルマン伯爵は一八八歳でしたかね、フランス革命当時に現れた時」
ファンショウ氏が言うと、ガル博士はそれこそフィクションに過ぎない、とにべもなく言い放った。
「わしは五千年の長寿者に会ったことがありますよ」
ヴァン・ホーテン教授が口を挟んだ。
「五千年……」
ファンショウ氏が呆然とつぶやいた。
「もちろん、人間ではありません。植物です。アメリカ西部の砂漠に生えるブリストルコーン・パインツリーは、雨季には新しい細胞を増やし、乾燥期には完全に成長を止めて、五千年を生きのびてきた。海綿やイソギンチャクにもある種の活動停止期があって、全く老化の兆候を見せずに百年近く生きることができる。人間の寿命は、わしが思うに、医学の発達でこれからどんなに伸びても、せいぜい百二十歳が限度で、しかも最初の二十年を過ぎれば、肉体と精神は絶えず衰えていく運命にある。ファンショウ氏が不当とお考えになるのも無理はない。神は、はるかに長い命を他の生き物にお与えになっている」
「神が決められることです」
アルミニウス教授が言った。
再び、座に沈黙が下りた。
「わたしは、不老不死だと言われている人間に会ったことがありますよ」
今まで黙って皆の発言を聞いていたレイク大佐がぽつり、と言った。テーブルの周囲の視線がいっせいに無口な大佐に向けられた。
「ぜひ、お聞きしたいわ」
テリーが励ますように言った。
「一八八一年六月のことです。わたしは軍務で日本の沖合いにいました。当直で甲板に出ていた時、水平線の向こうから、古い大型の帆船が近づいてくるのに気がつきました。まるで、海面をすべるようにまっすぐにこちらに向かってくるのです。わたしは急いで警報を鳴らしました。その時になって、わたしはその船にどこかおかしいところがあるのに気がついたのです。船の周辺が妙に暗い。朝の八時ですよ。わたしは空を見上げた。雲ひとつなく、よく晴れていました。晴天なのにその船の周辺だけが、闇をまとったように暗いのです。その暗い中で船はぼうっと発光するように光って見えました。うすぼんやりした青白い光で、その船の帆がみんなぼろぼろに破れているのが見てとれました。船のへさきに、古めかしい海員服を着た男が一人、立ってました。男はわたしに向かって、軽く敬礼するように片手をあげた。その時には、もう、船とわたしとの間は十ヤードもなかった。衝突する、わたしはそう思って目を閉じた。衝撃に備えて身体中の筋肉が緊張しました。ところが、何も起こらなかった。わたしは目を開いた。謎の船も、男も姿を消していた。見渡す限り、船も闇も何もなかった」
レイク大佐は口をつぐんだ。
「さまよえるオランダ人、ですね」
ロビンス氏が興奮気味に言った。
「しかし、それは……」
ファンショウ氏は言いかけた言葉を飲み込んだ。伝説ではないか、夢でもみたのではないか、と言いたかったのだろう。だが、さすがに英国海軍の大佐に向かって言える言葉ではない。
レイク大佐はファンショウ氏に顔を向けた。
「おっしゃりたいことはわかります。実はこの話、誰にもしたことがないのです。幻覚でも見たのだろう、と言われるだけですからね。ただ、もし幻覚ならば、わたし一人で見たわけじゃない。その時そばにいたわたしの同僚十三人も、一緒に同じ幻覚を見ているのです」
レイク大佐は、ガル博士に向き直った。
「博士、エディーはあなたにこの話をしたことがあると思いますが」
「エディーというと、まさか、クラレンス公?」
ロビンス氏が仰天したような声を出した。
「ええ。この話は、わたしと彼が一緒に軍務についていた時に起きたのです」
クラレンス公アルバート・ヴィクターは、ヴィクトリア女王の孫にあたり、将来の王位継承者と目されていたが、王室の一員としてはやや無軌道な行動が目立っていた。
「聞いたことはあるように思う」
ガル博士は苦い薬を飲んだような顔をした。
「公は想像力豊かな方だから、わしを驚かせるために作られた話だろうと思っていた。その場に大佐が一緒におられたとは知らなかった」
ガル博士はしかし、きっとレイク大佐に向かい合った。
「しかし、わしの考えは変わりませんぞ。船乗りの間には昔から様々な伝説がある。長い航海の間、陸と人間社会から切り離された狭い空間に閉じ込められた船乗りに、海は様々なまぼろしを見せる。英国海軍軍人といえども人の子、ときに海の力に惑わされて、雲を船に、岩をボートに見誤ることもありましょう」
「きっと、そうおっしゃるだろうと思っていました」
レイク大佐は特に気を悪くした様子もなく言った。そもそも、信じてもらえるとは思っていなかったのだろう。
「あの……伝説のオランダ人は、たしか、悪魔との契約で不老不死を得たわけじゃなかったように思うんですけど? あれは、罰じゃなかったかしら?」
ファンショウ夫人がテーブルの周囲を見渡しながら、誰にともなく言った。
その通りですな、とアルミニウス教授が受けた。
「オランダ人船長は神を恐れない傲慢な男で、乗組員を虐待した。神は船長から乗員を取り上げ、ただ一人、永久に世界中の海をさまよい続けるという罰を下した。つまり、不老不死は神罰なのです。決して恩寵ではない」
「永遠の命は永遠の放浪、永遠の孤独というわけですか」
マクリーン卿がつぶやいた。
「家族、友人、知人のすべてが去っていった世界で、ただ一人生きていたところで何になります? 絶海の孤島にひとりぼっちで島流しにされた男と同じことです」
アルミニウス教授が言うと、ファンショウ夫人が、ベン・ガンですわね、「宝島」の、と嬉しそうに言った。ロバート・ルイス・スティーブンソンの「宝島」は、一八八三年に出版されてベストセラーになった。元々は少年読物として書かれたが、大人にも人気を博し、時の首相グラッドストーンが、「宝島」の初版本を手に入れようとロンドンの古本屋街を歩き回ったというのは有名な話である。
さよう、とアルミニウス教授も微笑んで言った。
「島流しにあったベン・ガンはおのれの半生を思い起こし、悔い改めた。神は三年後にジム少年を差し向けてベン・ガンを救ったのですが、誰もが同じ幸運を得るとは限らない。レイク大佐のお話からすると、オランダ人船長はいまだに孤独の海をさまよっておるようですな」
「オランダ人船長は悔い改める気はない、ということかしら?」
ファンショウ夫人はあやふやな口調で言った。
「どうも、わが同胞は一向にその気がないらしい。そして」
と、ヴァン・ホーテン教授は一同を見回しながら言った。
「不老不死を求める人類の努力は、決して止むことはないでしょう」
いや、それは、とアルミニウス教授が異議を申し立てた。
議論は沸騰し、ビーフステーキルームの灯が消えるにはまだ、長い長い時間がかかりそうだった。
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