第2話 ピーター
馬車は空で戻ってきた。御者の報告を聞いて、ピーターは難しい顔をした。御者に馬車を戻してやすむように言うと、客間に戻った。
「どうした?」
友人のクエイドが読んでいた本から顔を上げて訊ねた。
「ミス・ストロンベリは来ない」
ピーターが事情を話すと、クエイドは、警察? と驚いた声を出した。
「警察が脱出芸人に何の用があるんだ」
「そいつは知らないが、こっちには関係ない話だ。ただ、困ったことになった」
ピーターは手近の長椅子にどさりと乱暴に腰をおろすと、背もたれに背中をあずけた。天井の明かりがまともに目を突き刺した。眼鏡をはずして、こめかみを揉んだ。
クエイドが気の毒そうにこちらを見ているのがわかる。
ピーターはその視線からわざと顔をそむけた。
友人といえども、クエイドにはこの苦衷はわかるまい。彼はアメリカ人だ。金はあっても、家格とは無縁だ。十三世紀にまで遡る家名を背負っているわけではない。
ダーリントン伯爵家の次男であるピーターが、ルイズ・キリヤコスに会ったのは一年前のことであった。三十歳を越えて、そろそろ身を固めておきたいと、周囲も本人もふさわしい相手をさがしていた時である。ある園遊会でルイズ・キリヤコスを紹介された。ルイズは華やかな金髪で、ととのった顔立ちは、園遊会の若い娘たちのなかでも、人目を惹いたが、小鳥のようににぎやかに笑ったりしゃべったりしている娘たちの輪には加わっていなかった。頭をまっすぐにもたげ、静かに周りを見ている。大人びて、威厳のある態度をピーターは好もしく思った。さっそく、ひとを使って調べてみた。
キリヤコス家は元々はギリシアの出で、祖父の代に海運業で巨富を築いたという。ルイズの父は早くに亡くなり、事業は現在、叔父の手で運営されているようだが、ルイズと母親とはロンドンで十分に豊かに暮らしていた。一人娘なので、いずれは莫大な財産を受け継ぐことになる。貴族の生まれとはいえ、爵位も領地も受け継がない次男のピーターにとっては、理想的な結婚相手といってよかった。
ピーターとルイズの婚約が発表されたのは、それから間もなくであった。結婚式は翌年の九月十八日と決まった。
あと二月である。
式の準備だの新居の支度だのの打ち合わせのために、ロンドンのキリヤコス邸を訪れたピーターは、ルイズからある秘密を打ち明けられた。ルイズは子供の時から夢遊病の気があったが、ここにきてまた病気が再発したらしい、というのだ。
母には言っていない、とルイズは言った。母親は心臓が悪く、心配かけたくない、と言う。ピーターは困った問題を抱え込んだ。
「どうする」
クエイドが暖炉の上の置時計を顎の先でしゃくった。時刻はもう十一時に近い。
「しょうがない。今夜は僕がやる。ルイズもわかってくれるだろう。君、手伝ってくれるね?」
「それはいいけど、母上の方はいいのか?」
「もう寝室に引き取ってる。黙ってればわからないさ」
未婚の娘の寝室に、婚約者とはいえ若い男が入るなど、本来なら許されない。ルイズの母が知ったらそれこそ卒倒しかねない。だが、幸いというか、キリヤコス夫人は夜は早めに寝室に引き取り、薬を飲んで眠ってしまう習慣だった。
ピーターとクエイドは立ち上がって、二階へ続く階段を登った。
軽いノックの音をさせるとすぐ、はい、と返事があってルイズが顔を覗かせた。ドレッシングガウンをはおり、金髪は梳き下ろして編んである。すっかりベッドに入る支度を整えた姿だった。
「ピーター?」
驚いた声だった。当然だ。視線がさまよって、ピーターの背後を探る。
「ミス・ストロンベリは?」
「彼女は来られないんだ。今夜は僕とクエイドが彼女の代わりを勤めるよ。いいだろう?」
ルイズはわずかにためらった後、すぐに、もちろん、お願いするわ、と答えて、ドアを大きく開いた。
作業を終えると、ピーターはルイズの頬に軽くキスして、おやすみ、と言った。クエイドは窓の戸締りを確かめている。
「明日の朝は、いつもの時間にメイドが来るからね。安心して、ゆっくりおやすみ」
ルイズは微笑んで、ええ、と答えた。
「これで朝まで安心だ」
ピーターは、外から鍵をかけ、ポケットに入れた。
「だといいが」
クエイドがあやふやに言った。
「何だ?」
「ロープが朝まで持つといいが、と言ったんだ。僕らは素人だよ。ルイズ嬢を傷つけないように、それでいて絶対にほどけたり、抜け出したりできないように縛れるものかどうか。君が自分で言ったんだよ。メイドに縛らせてみても、朝になると彼女はロープから抜け出ていたって。それでプロを頼むことにしたんじゃないか」
「そうだが、今夜はこれ以上、どうしようもないじゃないか」
ピーターは苛々と言った。
「今夜のことを言ってるんじゃない」
カタン、とどこかでモノが床に落ちる音がした。二人はあわてて声をひそめた。
ルイズの母親の寝室からメイドが出てきて、暗い廊下に突っ立っている二人を驚いたように見た。二人は逃げるように階下の客間へ降りた。
「何か飲むか?」
「スコッチ」
二人はしばらく黙ったまま、アルコールが身体中の血管をめぐり、緊張を解きほぐしていく感覚を楽しんでいた。話を戻したのは、クエイドだった。
「さっきの話だけど、僕が言ってるのは今夜一晩のことだけじゃないんだ。こんな状態をいつまでも続けるわけにはいかないだろうってことさ。君が外聞を気にするのはわかるけど、やはり医者に相談すべきだ」
「医者に治せるのか? ルイズの夢遊病は子供の頃からだというぞ」
「僕の知ってる医者を紹介するよ。信頼できる男だ。アムステルダムの大学で教えたこともある」
「外国人か」
「信頼できると言ったろう?」
ピーターは内心、外国人の方がいいかもしれない、と思った。外国人ならば、英国社会にそれほど多くの友人知人がいるわけではないだろう。将来のダーリントン卿夫人が、夜中に眠ったまま、うろうろと町をさまよい歩くなどという噂が立ってもらっては困るのだ。絶対に困る。
「その医者はなんというんだ?」
「ヴァン・ホーテン教授。たまたま当地に滞在中だ。明日にでも話してみるよ」
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