わたしの愛した殺人鬼

日野原 爽

第1話 杉崎三郎の手記

一八八九年七月 ロンドン


 このような手記を残すのは、実はあまり利口なやり方ではない。

 これは、あるいは俺を絞首台に導くかもしれない。

 だが、俺は武士の末裔として誇りを持って生きてきた。たとえ異国の陋巷に逼塞しようとも、魂まで失いはしない。

 読み手にお願いしたいのはこのことだけだ。

 どれほど信じがたいことでも、そのままに受け取ってもらいたい。俺は確かに軽率であり、そのために数々のあやまちを犯した。俺はもはや……(文字を消した痕跡)

 前置きはもう十分だ。

 邪魔の入らぬうちに始めよう。

 

 

 派手な水しぶきをあげて縛られた身体が落下すると、水槽の周りに緋色のカーテンがするすると下りた。楽隊が心得たようにどろどろと低い太鼓の音を響かせて雰囲気を盛り上げる。観客は固唾を呑んで、視界をさえぎった緋色のカーテンを見つめている。カーテンの裏では、水槽一杯に満ちた水の中、ロープで両手首を固く縛られた美しい娘が死の罠から脱出しようと身をもがいているはずだ。だが、ガラスの水槽は蓋をされ、頑丈な錠までついている。薄い水着一枚身につけただけの娘はどうやって脱出するつもりだろうか。そもそも、脱出できるのだろうか。

 アメイジング・ヘラクレサ。

 驚異の脱出芸人。

 観客は皆、爪が食い込むほど強く両手を握り締め、隙間風に頼りなく揺れる緋色のカーテンを見つめている。

 ふっと太鼓の音が止んだ。

 緋色のカーテンがすとんと床に落ち、ガラスの水槽があらわになった。

 中には誰もいない。

 はっと息を呑んだ観客をからかうように、客席の後ろのドアがばん、と開く。そこに、髪から水をしたたらせ、息を切らしながらもにこやかに微笑んでいる娘が立っていた。娘はステージに駆け上がり、誇らしげに両手を突き上げ、解いたロープを振ってみせる。割れるような拍手喝采、耳を突き刺す指笛に小屋が揺れる。

 さあ、忙しくなる。

 俺は楽屋に駆け戻って仕事を始めた。ストーブに火を入れ、湯を沸かす。テーブルの上に茶器を並べ、ブランディーの小瓶をその脇に置く。衝立の後ろに着替えを用意する。

 テッサは演技の後、すぐに戻ってくるとは限らない。観客と握手したり、ファンからの花束を受け取ったり、気が向くと観客の要望に答えてちょっとした手錠抜けを見せたりして、半時間も表に残っていたりすることもある。だが、師匠がいつ戻ってきてもいいように、準備を整えておくのが弟子の役目だ。弟子入りしてそろそろひと月。手順は心得ている。

 

 俺は九州のある小藩で、旧幕時代には家老を勤めた家の三男に生まれた。わけあって日本にいられなくなり、ロンドンまで流れてきたところで所持金が尽きた。運よく世話してくれる人があって、見世物小屋の奇術師の小屋に雇われた。大道具を出し入れする重労働だったが、食うことはできた。ここの猥雑な空気が性に合ったこともある。小人や大女の見世物、蛇使いに軽業師、道化師にナイフ投げ、射的場、人形芝居と様々な小屋が集まっている見世物小屋は、故郷の夜祭に似ていた。芸人連中は仕事が終わると、仲間同士、行きつけのパブに繰り出す。酔っ払った挙句の口論が殴りあいにまで発展することも珍しくなかったが、そんな喧嘩までも、あけっぴろげで気取らない連中の気質を反映しているように思えて、好ましかった。

 ところが、奇術師が小屋をたたんで地方巡業に出かけることになると、あっさりお払い箱になった。仕事と気に入った仲間の両方をいっぺんに失くしたわけだ。

「よ、三郎、不景気なつらすんなよ」

 パブの片隅で最後の小銭をかき集めて買ったビールを前に暗い顔でうつむき、らしくないため息をついていると、蛇使いが背中をどやしつけた。

「今度、脱出芸人が来る。狼少年の後に入るんだ。雇ってくれるかもしれないぜ」

 翌日の夕暮れ時、脱出芸人がやってきた。せいぜい十七、八歳の小娘で、鼻のまわりに薄くそばかすがういている青白い顔は、大きな青い目ばかりが目立った。金髪を耳の下でばっさりと切りそろえ、細い身体とあいまって、女というより少年のようにも見える。

「アメイジング・ヘラクレサよ。本名はレティシア・ストロンボリ。テッサでいいわ。よろしくね」

 テッサは、弟子も助手も連れてこなかった。手伝いを申し出た男たちを断わって、荷馬車から大きな衣装つづらを下ろすのも、ガラスの水槽や鋼鉄製の金庫を楽屋に運び込むのも、一人でやってのけた。身体に似合わない大力らしい。話しかけるチャンスをうかがってあたりをうろついていた俺も、声をかけ損ねた。

 その夜の彼女の演技は、まさしく驚異だった。テッサは手錠をかけられ、三つの頑丈なロックのついた等身大の鋼鉄の箱に閉じ込められ、そこから一分もかからずに抜け出して見せた。蒼白い頬をほんのりと紅潮させて観客の歓呼に答えているテッサを見て、即座に弟子入りを志願した。

「あたし、弟子はとらないの」

 テッサは困ったように言った。

「あんた、身体は立派だけど、気が優しそうだもの。この仕事には向かないよ。これをやるには、心臓に毛が生えてるくらいでないと」

 心外だった。俺は両親が早く亡くなり、昔気質の祖父に育てられた。潔くあれ、卑怯な真似はするな、と子供の頃から叩きこまれたせいで、自分を馬鹿だと思ったことはあっても臆病者と思ったことはない。

 黙っていると、テッサはからかうように、あら、怒っちゃった? と訊いた。目にいたずらっぽい光が踊っている。

「怒ってなどいません」

 俺は数えで二十三歳になる。こんな小娘ごときの言葉に腹を立ててどうする。

 そう? とテッサは小鳥のように首をかしげた。

「あんた、口は固い?」

 もちろんだ、と胸を張った。これでも先祖はサムライだった。口外するなと言われれば、骨になっても黙っている。

 骨になったら、口きけないじゃない、とテッサはクスクス笑いながら言った。

「オーケー、雇ったげる。その代わり、秘密を漏らしたら……」

 声のトーンがすとんと落ちて、

「ハラキリどころじゃ済まないからね」

 と、耳元で囁いた。

 耳たぶに甘い息を吹きかけられて、鳥肌がたった。やせっぽちのくせに、妙な色気のある小娘だ。

 その日から、テッサの弟子になった。カーテンを下ろし、楽団にきっかけを与え、楽屋で衣装や湯茶の世話を焼く。

 弟子になってわかった。テッサの脱出術は徹頭徹尾、彼女一人だけのものだ。緋色のカーテンの後ろで何が起こっているのかは、誰も知らない。助手の俺も知らなかった。万に一つの事故が起こった場合に備えて、水槽を叩き割るための斧を持って舞台裏に控えてはいるが、間に合うかどうか。その不安を口にすると、脱出術って、そういうものよ、とテッサは言った。自分ひとりが頼りなの。人の助けをあてにするようになったら、脱出芸人なんてやめた方がいい。

 小娘ながら、覚悟ができている。

 肝心の脱出術をまだ教えてもらえないのは残念だが、俺はこの生意気な小娘をちょっぴり尊敬している。

 

 テッサが戻ってきたのは、ショーが終わって三十分もたってからだ。

「ファンサービスも結構ですけど、濡れた水着でぐずぐずしてると風邪ひきますよ」

「そんなやわじゃないよ。あんたじゃあるまいし」

 俺は季節外れの風邪をひいて、数日前まで鼻をぐずぐずいわせていた。

「まったく、こんないい陽気で、どうやって風邪ひけるんだろ」

「俺は人間ですからね。なんとかは風邪をひかないっていう、師匠とは違います」

「なんか言った?」

 衝立の上から青い目が覗いている。三郎は話題を変えた。

「急いでください。そろそろ例のお迎えが来る時間です」

 五日前から、毎夜、テッサは奇妙な仕事をしている。迎えの馬車が来ると、テッサは目隠しをして乗り込む。馬車がどこぞのお屋敷に着いて、目隠しを取ると、家具とかカーペットなんかもえらく贅沢な、立派な部屋の中にいる。テッサの仕事はそこで若い娘をベッドに縛りつけることだ。娘はテッサよりも少し年上に見えるというから、二十一、二なのだろう。上品できれいな顔をしている、という。

「それって犯罪じゃないんですか?」

「なんか事情があるんじゃない?」

 テッサは平然としていた。娘と口をきいてはいけないことになっているし、娘の方も沈黙している。だが、娘は縛られることに全く抵抗せず、協力的だという。むしろ感謝しているようにさえ見える、と言った。

 そのお屋敷に行くたびに、テッサは一ポンド札をもらって帰ってくる。一ペニーの入場料でつましく稼いでいる身には大金だ。だからこそ怪しい。法外の料金は出張費と緊縛の技術料ばかりではあるまい。内訳には当然、口止め料も含まれているはずだ。

 この仕事が始まった時から、あまりいい感じを持っていなかった。相手の身元が不明というのは気味が悪い。犯罪の片棒でもかつがせられ、それが露見したら、せっかく売れてきているテッサの人気に響く。いや、何よりもテッサの身が心配なのだ。か弱いとはとても言えないがー悔しいが俺よりも力持ちだー、なんといっても若い娘なのだからそれ相応の用心はすべきだ。だが、そんなことを口に出したら、テッサに張り倒されるのは目に見えている。せめて自分も一緒に行くと言ったのだが、雇い主の方が難色を示した。何よりも当のテッサが平然としているので、あまり強くも言えずに日が過ぎていく。

「あんたはまた、年寄りの雌鶏みたいに何をくよくよ心配してるの?」

 テッサが衝立の陰から出てきた。夏の夕べの空のような薄い水色のドレスはテッサの目の色によく映る。襟元を飾る流行の白いレースが、若い娘らしくおしゃれだった。

 やかんの熱湯をポットに移す。お茶の葉が十分に開くのを待ってから、ティーカップに注ぎ、皿に載せて差し出した。砂糖とミルクを入れるのが英国流だが、テッサは砂糖は入れず、代わりにブランディーを垂らし、レモンのスライスを一切れ落とし込む。一口飲んで、ほっとため息をつき、ありがとう、とねぎらいの言葉をかけた。その言葉に免じて、さっきの雌鶏呼ばわりは不問に付すことにした。

「ねえ、三郎。あんただっていつまでもこんなチンケな小屋にいたくないでしょ? ヘンリー・アーヴィングのライシアム劇場とはいかなくても、バーンと大きく売り出したくない?」

「そりゃ、そうですが」

「それには金がかかるのよ。せっかくいいスポンサー見つけたんだから、せいぜい稼がせてもらう」

「厄介なことにならなければいいんですがね」

「大丈夫。そういうことには、あたしは鼻がきくの。危ないと思ったら、さっさと逃げるから大丈夫」

 テッサはふんふんと鼻を鳴らして空気の匂いを嗅ぐ真似をして笑った。やはり、子供だ、まだ。

 軽いノックの音が聞こえて、楽屋番のステファノ爺さんが顔を出した。

「ミス・ストロンボリ、お客ですよ」

「わかった。今すぐ行くから外で待っててもらってくれ」

 いつもの迎えの馬車だと思った。だが、ステファノ爺さんを押しのけるようにして、口髭を生やした体格のいい男と、痩せた小柄な男が入ってきた。

「ご多忙のところ、申し訳ないが協力をお願いしたい」

 体格のいい方が、身分証明を見せた。

 だが、それを見るまでもなく、俺は男の名前を知っていた。

 スコットランドヤードのアベリン。

 去年の秋、ロンドンのホワイトチャペル地区で起き、ロンドン、いや、英国中を揺るがした切り裂きジャック事件の捜査主任だった。


 ホワイトチャペル地区のモルグは、倉庫と木賃宿が立ち並ぶ一角に何気ない顔をして紛れ込んでいる。時刻は九時少し過ぎ。パブが閉まるにはまだ早く、石畳の街路には酔っ払いの姿もそう多くはない。連中の懐目当ての娼婦たちも所在なげに木賃宿の入口付近にたむろして、世間話に興じている。あたりを子供達が駆け回って遊び、母親が鋭い声でたしなめたりしている。馬車がモルグの入口で停まっても、誰も気にとめる様子はなかった。

 馬車を降りると、アベリンとその部下は俺たちを促してレンガ造の陰気な建物の中に入った。薄暗い廊下にはひと気がない。淀んだ空気は湿っぽく、つんと薬品の臭いが鼻をついた。

 アベリンは無言のまま、俺たちを天井の低い小部屋に導いた。中央に人の形に盛り上がった寝台が一つある。

「見てもらいたいのは、これです。今朝早く、バッグズ・ロウで発見されました」

 アベリンは、死体を覆っていたシーツを取り除けた。

 中年の女だった。栗色の髪をきっちりと結い上げ、きちんと化粧をしている。身なりも悪くない。ドレスは地味だが趣味のよいものでまだ新しい。靴のかかとも磨り減ってはおらず、つやが出るまで磨いてある。ロンドンの町角で出会っても、どこといって印象に残らず、そのまま通り過ぎてしまいそうな、そんな平凡な女だった。

 ただ、その目が驚いたように一杯に見開かれたまま虚空をにらんでいることと、今にも悲鳴をあげそうに口を開けたまま凍りついていること、そして、顎の下に横一直線に裂け目が走り、そこから流れた赤褐色の液体が、せっかくのドレスの前を汚していることを除けばだ。

 俺はちらと見ただけで目をそらした。こういうのは苦手だ。もう息をしていないというだけで、人間の身体は何か別のものに変じてしまう。握手をしたり笑いかけたりする同胞ではなくなり、触れてはならないタブーに似た存在になるのだ。テッサは身じろぎもせず、全くの無表情でじっと女の顔を見下ろしている。死体の顔など気持ちのいい見ものではあるまいに。何を考えているのか理解しがたい。

 アベリンは少し離れたところに立っていた。

「どうでしょう。見覚えがありますか?」

 いいえ、と即座に答えた。テッサも首を振って、知らない、と言った。

「そうですか」

 アベリンは大して気落ちした様子もなく言った。

「この人は誰なんですか? なぜ、あたし達が知っていると思われたんですか?」

 アベリンは胸ポケットから一枚の折り畳んだ紙を出してテッサに渡した。

「死体が握っていたバッグの中に入っていたんです。ハンカチや財布と一緒にね」

 テッサは紙を広げた。

 アメイジング・ヘラクレサ! の文字が紙一面に躍っている。死の罠からの脱出! とうたい文句が続き、ガラスの水槽を指さしてにっこり笑っているテッサの似顔絵があった。

「うちの興行のチラシ。なんで、この人が持ってたのかは知らないけど」

 テッサが説明した。

「ふむ。このチラシはどこで手に入りますか?」

「どこででも。あちこちに配って、塀や掲示板にも張った。小屋の前でも毎日撒いてた。でももうやってないよ。チラシが無くなったから」

 ふむ、とアベリンは顎を撫でた。

「この御婦人がショーを見に来た、ということは?」

「あったとしても、あたしにはわからない。いちいち、観客の顔なんか覚えてないもの」

「今朝の午前二時、どこにいらっしゃいましたか」

「あたしを疑ってるの?」

「捜査上のきまりです。他意はありません」

「下宿で寝てたよ。証人はいない。あたしは一人暮らしだから」

 アベリンは俺の方に向いた。

「あなたはいかがです?」

「俺も寝てました。俺のとこは相部屋なんだ。同じ部屋で寝てた連中が覚えてるかもしれない」

 三郎は泊まっている木賃宿を教えた。

「なるほど」

 アベリンはメモを取り、いや、ご苦労様でした、と挨拶した。帰ってもいいということらしい。長居は無用だ。三郎はテッサを促して部屋を出ようとした。

「ああ、ちょっと待って下さい」

 アベリンの視線はまっすぐこっちに向かっている。

「杉崎さん、どこかでお会いしたことがありませんか」

 こういう時、日本人だと損をする。珍しいから目立つのだ。

「いや、記憶にありませんが」

 そらっとぼけたが、顔がこわばったのがわかった。

 そうですか、とアベリンは尚も探るように見ていたが、再び、ご苦労さまでした、と言って背を向けた。

 モルグの外に出ると、生暖かい七月の外気が身を包んできた。

「辻馬車を探してきます」 

 駆け出そうとした時、テッサが、三郎、と緊張した声を出した。

「あんた、アベリン捜査官とどこで会ったの?」

「え?」

「捜査官はごまかせても、あたしは騙されない。捜査官だって、きっと、すぐに思い出すよ。どこで会ったの?」

 テッサの目はガス灯の光を反射して光るように見えた。

 俺は降参した。

「ブルヘッドです」と、ホワイトチャペル地区の中央を縦断するコマーシャル・ストリートにあるパブの名前を告げた。

「去年の秋、メアリー・ケリーが殺された後です。誰かが垂れ込んだんでしょう、あの晩、俺とメアリーが話していたって。それで話を聞きたいって来たんです」

「それで?」

「それだけです。俺はジャックじゃありません」

「本当に?」

「怒りますよ。アベリンだって納得してました。メアリーが殺された夜、俺はさっさと宿に帰って寝ました。証人はいくらだっています」

「あんた、メアリー・ケリーを知ってたの」

 一瞬、言葉に詰まった。はい、とは言いたくなかった。馬車を探してきます、と言って、街路に走り出た。


 恐怖の秋と呼ばれる一八八八年。十一月八日の夜、俺は、コマーシャル・ストリートでメアリーと出会った。メアリーは家賃が溜まっているのだと言って、六ペンス持ってないか、と尋ねた。あいにく、オケラだった。前日の夜、蛇使いとしたたかに飲んで、財布の中身は空っぽ、翌日の金曜日にならなければ給料は入らない。メアリーはわははと笑い、それじゃ間に合わない、明日の朝には家主の使いが家賃を取り立てに来る、今夜じゅうになんとか金をつくらなきゃ、と言って元気よく手を振ると、コマーシャル・ストリートを歩いていった。少し酔っているようだった。それが、三郎が見たメアリー・ケリーの最後の姿だ。

 翌十一月九日、金曜日の午前十時四十五分、家主のジョン・マッカーシーの使いがメアリー・ケリーの住むミラーズ・コートの十三号室を訪れた。ドアをノックしても返事がない。割れた窓ガラスの隙間から中を覗いた男は、腰を抜かした。必死で立ち上がると、人殺し! と叫びながら通りを駆け出した。

 そうだ、俺はメアリー・ケリーを知っていた。もし、あの夜、金を持っていたら、メアリーは夜の町を歩いていくことはなかったかもしれない。気前のいい誰かに出会って、そいつを部屋に連れていくという致命的なまちがいを犯すことはなかったかもしれない。メアリーにはたくさんの常連客がいた。そのうちの一人がジャックだったのかもしれない。俺が自分を責める理由はないのだ。それでも、メアリー・ケリーのことを思い出すと、胸が痛くなる。あの柔らかい赤毛の感触や、ちょっとつぶれたハスキーな声を思い出すと、哀れでたまらなくなる。

 メアリー・ケリーの話はテッサにしたくなかった。メアリーの客だったのはテッサに会う前だし、そもそも、テッサは師匠兼雇い主であって、純粋にビジネス上の付き合いだ。俺の私生活とは関係ない。俺は一人前の若い男で、誰と寝ようが娼婦を買おうが、引け目に思う必要はない。

 それでも、なんとなく話しにくかった。なんというか、罪深いことに思えたのだ。子供の目の前で裸になるような、あってはならないことに思えた。

 辻馬車を拾って戻ると、有り難いことにテッサはそれ以上、メアリー・ケリーのことは追及しなかった。窓の外を流れていく夜の町並みをじっと見つめている。

「なぜ、アベリンが来たんだろう」

 突然、テッサは独り言のように言った。

「え?」

「あの女の人はバックズ・ロウで発見されたって言ってた。普通なら所轄のメトロポリタンポリスが担当するはずよ。何でわざわざスコットランドヤードが出てくるの?」

「さあ」

「あの人、喉を横に裂かれてたよね」

「ああ、待ってください、まさか」

「ジャックの殺した女はみんな、首を裂かれていた」

 テッサは考え深げに言った。

「それで、アベリンが出てきたと? つまり、ジャックがまた仕事を始めたと、警察は見ている?」

「かもしれない」

「でも、ジャックの被害者は喉を切られただけじゃない。一人を除いて腹も断ち割られていたと、そう聞いています」

「あの人にそれは無かったみたい。だから、ジャックの仕業じゃないのかもしれない。でもね、やっぱり変なんだよ。あの女の人、口の中に石が入ってた」

「石が」

「変だよね」

 それきり、テッサは口をきかなかった。

 テッサは、見世物小屋に程近い、こぎれいな下宿屋の二階に部屋を借りている。家主のハーパー夫人は、傷痍軍人の夫と二人で下宿人の面倒を見ているが、几帳面できれい好きだった。窓からドアの取っ手から階段の手すりまで、磨きたてないと気の済まない性格で、いつも雑巾を片手にうろうろしている。テッサが戻ったのはもう、かなり遅い時間だったが、入口を入ってすぐのところにあるランプの火屋を磨きたてていた。

「あら、ミス・ストロンボリ。今夜は随分遅かったこと。さっきまで、お客さんが待ってたんですよ」

「客?」

「立派な二頭立てで。随分待ってらしたけど、つい半時間ほど前かしら、諦めて帰りなさったよ」

 三郎はテッサと顔を見合わせた。いつものお迎えだ。楽屋の方にはいないと知って、小屋の誰かからテッサの住まいを聞き出してこっちまで回ってきたらしい。

 どうします? と訊いた。

 どうもしないよ、とテッサは答えた。

「しまったなあ、すっかり忘れてた。一ポンドもうけそこねちゃったよ」

 それじゃこれで、と俺は自分のねぐらである木賃宿に向かった。もし、明日からあのお迎えが来なくなるなら、その方がいいような気がしていた。




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