第10章 ビーフステーキルーム

 今夜もライシアム劇場で、閉演後、名優ヘンリー・アーヴィングが常連のゲストたちと夜食をとりながら会話を楽しんでいる。顔ぶれに多少の変化があった。エレン・テリーは同席していない。海軍軍人のレイク大佐、ブダペストの神学博士のアルミニウス教授が抜け、代わりに新聞記者のコナー氏が加わっている。


「不老不死の記述は前五世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスにまで遡れます」

 旅行家のマクリーン卿が言った。「彼の言によれば、ペルシア王のスパイがエチオピアで魔法の泉を発見したそうです。その水を飲んだ兵士は若返り、百二十歳まで生きたといいます。わたしはエチオピアへ行ったことがありますが、残念ながらそんな泉はどこにもありませんでした」

「若返りの泉は、人類のかなわぬ夢の一つですよ。不死が望めぬまでもせめて、少しでも長く、若さと健康を楽しみたいと願うのはあたりまえでしょう」

 アーヴィングは、上等のワインをじっくりと味わいながら言った。「願わくば、うまいワインと葉巻の楽しみが奪われる前に……」アーヴィングはパチリ、と指を鳴らした。「こんな風に人生から退場できるといいのですがね」

「若返りの泉だったら、わざわざエチオピアまで出かけるまでもない。この英国にありますぞ」

 王室付きの医師、ガル博士がいたずらっぽくテーブルの周囲を見渡しながら言った。「バースの鉱泉に行けばよろしい。ストレスを和らげ、血圧を下げる効果があります」

「まあ、博士」

 と、ロンドンの金融界の実力者、ファンショウ氏の夫人が笑った。

「いや、これは本当の話です。ヨーロッパ各地の鉱泉は二千年前から、ケルト民族やローマ人の間で長寿と健康の元と知られておりました。御婦人の肌にもよろしい」

「では、次の休暇にはバースでゆっくりお湯に浸かって参りますわ、ねえ、あなた」

 と夫人は夫に言った。ファンショウ氏はうん、と浮かない返事をした。

「お湯に浸かるのも結構ですけど、それ以外には不老不死を実現する方法は無いんですか?」

 詩人のロビンス氏が訊ねた。二十歳そこそこの彼には、じっとお湯の中にしゃがんでいる健康法の話は退屈だろう。

「あなたはオヴィデウスの『メタモルフォシス』を読んだことがおありですか?」

 アムステルダムから来たヴァン・ホーテン教授が尋ねた。

「いや、浅学にして知りません」

 ロビンス氏が残念そうに言うと、ヴァン・ホーテン教授は説明を加えた。

「『メタモルフォシス』の中でオヴィデウスは古代ギリシアの魔女メディアが年取ったアイソーン王を若返らせるための薬を作る場面を描いております。メディアは子羊の血、梟の肉、蛇の皮、様々な木の根、薬草を煮立てると、老王の首に短刀を突き立てた。首の血管を切り開き、そこに魔法の薬液を注ぎ込んだ。年老いた王は臨終の床から立ち上がり、四十年来失っていた若さと活力を取り戻した、といいます」

 ヴァン・ホーテン教授はひとりうなずきながら続けた。「人類はこの頃から、不老不死の鍵が血液にあることを知っておったようです」

「ははあ、血は命の水、と言いますね」

 ロビンス氏が言った。

「まさにその通り。一四九二年、六十歳だったローマ法王イノセント八世は、若返りを図って三人の少年から取った血液をおのれの血管に注入させた。世界最初の輸血ですな。しかしこの実験は失敗し、少年たちも法王も亡くなった」

 ヴァン・ホーテン教授の言葉に、新聞記者のコナー氏が首をかしげ、ガル博士に向かって訊ねた。

「しかし、現代の医学でも、輸血は行われているのではありませんか?」

 ガル博士は重々しくうなずいた。

「行われてはいます。しかし、それは医学的に必要だからであって、若返りの魔法のためではない。わしは、やむを得ない場合以外は、輸血に反対しておる。成功率があまりに低い。せいぜい五十パーセントです」

「それはまた、どうして?」

「医学がまだそこまで血液の謎を解明していない、としか言えません。ある症例では成功し、ある症例では輸血した血が凝固してしまう。理由がわからんのです。わしは、患者の元々の血液と輸血した血液との間に相性のようなものがあるのではないかと思っておるが、それはこれから医学が解明していく問題です」

「わたしは昨年、ハンガリーからギリシア、トルコをまわってきたのですが、セルビアの村で、面白い話を聞きました。今夜ここにアルミニウス教授がいらっしゃれば、よくご存知だったでしょう。ヴァンパイアです」

 マクリーン卿が言うと、ファンショウ夫人は、それは何ですの? と訊ねた。

「吸血鬼ですよ」

「おお、こわい」

 ファンショウ夫人は身震いした。「マクリーン卿、また、なんでそんなお話をなさりたいのですか?」

「血は命の水だというお話でしたからね。それに、ヴァンパイアは不老不死です。もし、おいやなら話すのを止めますが」

「いや、ぜひお聞きしたい」

 ファンショウ氏が言って、夫人をきつい目で睨んだ。

「では、お話ししましょう。今から百年ほど前、キシロヴァというセルヴィアの村でピーター・プロゴホウィッツという貧しい農夫が死に、村の墓地に埋葬されました。それから二ヶ月ほどたった頃、一週間の間に立て続けに九人の村人が死にました。死んだ村人は皆、臨終の床で驚くべき告発をした。夜、眠っている間にプロゴホウィッツがやってきて、彼らの身体の上に身をかがめ、命を吸い取っていったというのです。つまり、ヴァンパイアになったというのですな。その頃セルヴィアはオーストリア帝国の支配を受けていたんですが、オーストリアの官吏は村人からのプロゴホウイッツの墓を暴きたいという陳情を受けて非常に困惑したといいます。官吏はヴァンパイアなど信じていなかった。しかし、村人はもし、彼らの要求が容れられないのなら、悪霊に殺される前に全員村を捨てて立ち退くとまで言ったので、官吏はやむなく、神父立会いのもとに、プロゴホウイッツの墓を掘り出し、棺の蓋を開けました。すると……」

 マクリーン卿は芝居気たっぷりに言葉を切った。

「何があったんです?」

 身を乗り出すようにして聞いていたファンショウ夫人が急かした。

「棺の中の死体は、鼻を除いてー鼻だけはどうしたことか落ちてしまっていたそうですが、それ以外は全く傷んでいなかった。二ヶ月もたつのに、まるで昨日死んだようだったといいます。髪と髭、爪までも生きているように伸びていた。古い皮膚が白くなって剥がれ落ち、新しい皮膚がその下に見えていた。死体の口の中は九人の犠牲者から吸った新鮮な血が溢れていた。呆然としている官吏を無視して、村人たちは尖らせた木の杭をプロゴホウイッツの胸に押し当てると、ハンマーで力いっぱいに打ち込みました。すると、死体の胸と耳から真っ赤な血が溢れ出てきました。それから、村人たちは死体を完全に灰になるまで焼いたそうです」

 マクリーン卿が話し終わると、テーブルの周囲がしん、となった。部屋の温度が急に下がったように感じて、ガル夫人とファンショウ夫人は肩にかけたショールを胸の前でかき合わせた。

「その、ヴァンパイアというのは、本当にいるんですの?」

 ファンショウ夫人がこわごわ沈黙を破った。

「伝説だよ、エミリー」

 ファンショウ氏が言う。

「あなたは黙ってらして」

 ファンショウ夫人はうるさそうに夫をさえぎった。「マクリーン卿、どうなんですの? ヴァンパイアというのは現実に存在しますの?」

「さて、どうでしょうね。少なくともセルヴィア、ヴァラキア、トランシルヴァニアの農民たちは、いると信じているようです。あの辺の村では窓や家の入口ににんにくをぶら下げてるのが多いんです。ヴァンパイアはにんにくを嫌うそうで、わたしも泊まった宿で、おかみからにんにくの花輪を首に掛けてもらいました。臭くて閉口しましたが、おかみは大真面目でしたよ」

 マクリーン卿は巧妙に確答を避けてどっちつかずの回答をしたが、科学者たるガル博士の意見は明確だった。

「死んだ人間が起き上がって歩き回るはずはない。もし、歩き回ったとしたら、それは元々死んではいなかったということです。つまり、マクリーン卿には申し訳ないが、わしは先ほどのお話の官吏は嘘をついたのだと思いますな」

「博士はヴァンパイアはいない、とお考えなんですのね」

 と、ファンショウ夫人はやや、安心したように言った。

「生と死の間にある深淵は非常に深い。いまだこれを越えて戻ってきた者はおりません」

 ガル博士はきっぱりと言いきった。

「もしも」

 テーブルの一角から声が上がった。

「もしも、その深淵を越える橋があったとしたらどうでしょう」

 ヴァン・ホーテン教授の声だった。「そして、その橋こそが血液だとしたら? ヴァンパイアは生者でもなく死者でもなく、不死者だと考えられませんか」

「馬鹿な。いや、失礼。しかし、本気で言っておられるとは思えんが?」

 ガル博士は半ば冗談だと思っているようだった。だが、ヴァン・ホーテン教授は熱心に続けた。

「わしには、人類の歴史上、洋の東西を問わず、世界中に吸血鬼の伝説があるのが不思議に思えるのです。古代バビロニアにはエディンムがいた。死後の安息を得られない魂はエディンムとなって地上をさまよい犠牲者の血を吸うといわれている。ヘブライ民族の伝説にはリリスがいる。アダムの最初の妻で、不服従の罪でエデンの園を追われ、赤ん坊や子供の血を吸う。古代中国にはキョンシーがいた。死体に宿る悪霊で、その死体の腐敗を防ぐために他の死体や生きてる人間から血を奪う。古代ギリシアのラミアは、美しい女の形をした悪霊で若い男の血を吸う。アラブ世界のグウルも女の悪霊で墓場をさまよい、死者の血を吸い、道端で不運な旅人を待ち受ける。そして我らがキリスト教会の聖餐式。我々はパンをキリストの肉と呼び、ワインをキリストの血と呼びませんか? これだけ多くの伝説があるからには、なんらかの理由があるはずだ、とわしは考えるのです」

「血は命の水」

 詩人のロビンス氏がつぶやいた。

「まさしく」

 ヴァン・ホーテン教授が大きくうなずく。

 ガル博士はわざとらしく咳払いした。

「わたしは科学者でして、文学者でも哲学者でもないので、古代の伝説までは理解が及びませんな」

「民間伝承は馬鹿になりませんぞ」

 ヴァン・ホーテン教授は言った。「ブラッドワートというありふれた野草がありますな。赤紫色の血球に似た花をつけるので、中世から村の魔女たちは血止めの薬に用いてきました。近年、実験室での研究で、この花には本当に血止めの効果があるとわかりました」

「あの、もし、ヴァンパイアがいたとしてですね」

 ファンショウ夫人がおずおずと言い出した。「にんにくが嫌いだというのはわかりましたけれど、他にはどうすればわかりますの?」

 ロビンス氏がくすくすと笑った。

「ヴァンパイアはイタリア料理店には足踏みできないだろうな。これから新しい友人ができたら、ガーリックトーストを食わせてから付き合うことにしよう」

「さあ、それはどうでしょう」

 と、マクリーン卿も微笑んだ。「案外、あなたのご友人のヴァンパイアはガーリックトーストが大好物かもしれませんよ」

「え、だって……」

「わたしが泊まった村では、たまたま、にんにくをヴァンパイア避けに使ってましたが、使ってない村もありました。村ごとに少しずつ違うんです。十字架や聖餅を窓辺にかかげてるところもありましたし、野茨の枝をかざしてあるところもありました。ヴァンパイアは鏡に映らないとか、影がないという村もありましたが、いや、骸骨の影が映るからそれとわかるのだという村もありました。流れる水を恐れるという人もいましたし、そうかと思うとキリストのように水の上を歩けるという人もいる。日の出から日没までは棺の中で眠っていて夜だけ動けるのだという人と、普通の人間と変わりなく昼でも夜でも活動できるという人もいる。人間の血しか飲まないという人もいれば、動物の血でもよいという人もいる。動物の血でも良いという人は、たいがい、ヴァンパイアは普通の食事ができる、と言ってましたな。ガーリックトーストが食べられるわけだ。もう、色々で、どれが本当だかわかりませんでした。いや、案外全部本当かもしれない」

「全部、嘘だという方に賭けますよ」

と、ガル博士が笑いながら言った。

「その賭け、引き受けた、と言いたいところですが、わたしもヴァンパイアに会ったことがないので、なんとも言えませんな」

 マクリーン卿の言葉で、テーブルの空気は少し和らいだ。所詮、遠い国の伝説だ。おとぎ話に近い。

「たしかに伝承は錯綜しています」

 ヴァン・ホーテン教授の重々しい声が割って入った。「ただ、東ヨーロッパのヴァンパイアについてはいくつかの特徴は共通している。一、不老不死である。二、生きている人間の血を吸う。三、非常な大力である。四、霧やもやを呼び寄せる。五、変身の能力を持つ」

「変身ですか? それは知らなかった」

 マクリーン卿が言葉を挟んだ。

「変身する対象については村によって色々ですが、狼、ネズミ、こうもり、梟といった動物ですな」

「教授は、本当によくご存知ですこと」

 ファンショウ夫人が感心したように言った。

「教授は、東欧へ旅行されたことがおありなんですか?」

 マクリーン卿が尋ねた。

「不死者には興味がありましてな」

と、ヴァン・ホーテン教授。

「でしたら、お伺いしたいのですが、ヴァンパイアも元は普通の人間なのでしょう? それがどうやって、ヴァンパイアになるのですか」

 と、ファンショウ氏。

「ヴァンパイアに噛まれて死んだ人間は死後、ヴァンパイアになる、という伝承があります。しかし、わしはこの説はとらない。これは明らかに狂犬病からの連想ですな。狂犬に噛まれた人間は、狂犬病になって水を飲めなくなる。ヴァンパイアは流れる水を恐れるという説も、おそらく狂犬病とヴァンパイアを混同している。ヴァンパイアは疫病ではない。ヴァンパイアが血を飲むのは、我々人間がワインを飲むのと同じです。我々がワインを飲んだからといってブドウの木が人間になりますか?」

「それではどうやって?」

「血ですよ、ファンショウ氏、血」

「はあ?」

「『メタモルフォシス』を思い出していただきたい。メディアは老いた王の首の血管を切り開き、子羊の血と薬液を注ぎこんだ。おそらくヴァンパイアは、仲間に加えたい人間の血管を切り開いて、そこに自らの血を注ぎ込むのでしょう。ヴァンパイアの血こそが、命の水、人類が長い間求めてきた若返りの泉なのです」

 しん、と部屋の中が静まった。

 コホン、と新聞記者のコナー氏が咳払いをした。

「今、思い出したのですが、ここ一週間ほどホワイトチャペル地区で奇妙な事件が続いているのです」

 皆は何を言い出したのか、という顔でコナー氏の方を向いた。

「夜、母親が確かにベッドに入れたはずの子供が、朝になると家の外の階段や、裏庭の隅にぼんやりと座り込んでるのが発見されるんです。子供には、自分で外へ出て行った覚えはありません。ただ、ホワイト・レディに遊んでもらっていたと言い張る」

「そりゃ、夜中に自分で起き上がって出て行ったんだろう」

 ガル博士が言った。「夢中遊行は幼い子供にはたまにおこるが、家の外へ出してはいかん。親がきちんと戸締りをしなければ」

「ホワイトチャペルでそれは無理です」

 コナー氏が言うと、ガル博士は渋い顔になって黙ってしまった。

「そのホワイト・レディというのは子供の夢なのかしら?」

 ファンショウ夫人が訊ねた。

「いや、どの子供も同じことを言うから、現実のようです。白いドレスを着て、金髪をきれいに結い上げたきれいな女の人だそうです」

「その女が誘い出すんなら、さっさと捕まえればいい。警察は何をしているんだ」

 ファンショウ氏がけわしい顔で言った。

「子供たちにけがはありませんの?」

 ガル夫人が初めて口を入れた。

「それなんです」

 コナー氏は唇を舐めた。「目立つようなけがはないんです。ただ、首に、虫に刺されたような小さな穴が二つ開いていて、その上……」

「その上?」

 マクリーン卿の声は少し震えていた。

「医者が言うには、子供達はみんな貧血を起こしていると」

「馬鹿な!」

 ガル博士が低い声で呻くように言った。

 今度こそ、ビーフステーキルームに夜のように深い沈黙が下りた。

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