第11章 ドクターの弟子
タンブレッティを探すといったところで手がかりは何もない。考えたあげく、俺はホワイトチャペルの娼婦たちに情報を求めた。タンブレッティはホワイトチャペルに住んでいたのだから、彼らのうちの誰かが何かを知っていたはずだ。特に、ジャックと疑われたのだからなおさらである。数日後、キャシーが探索のとっかかりを見つけてくれた。タンブレッティが付き合っていた少年が、ドクターの助手をしていた男を知っている、と言ったのだ。
ドクターのお気に入りの助手は、小鹿を思わせるような大きな茶色い目をしていた。きょろきょろと絶えずあたりを見回し、追い詰められて怯えた小動物によく似ている。年はまだ二十には間がありそうだ。この男は以前、タンブレッティの診療所で助手を勤めていた。今は電信局で電報配達の仕事をしている。俺は配達の帰りを待ち伏せして、話があるからと手近のパブに連れ込んだ。
「もう話すことなんか何もないよ。全部新聞に載ってる」
タンブレッティについて聞きたいと言うと、元助手は口を尖らせた。だが、おごりのビールはうまそうに喉を鳴らして飲んだ。少年のようなかわいらしい顔はしていても酒飲みらしい。
「一年も前の事件をほじくってどうするのさ。そんなんじゃ新聞売れないよ」
よけいなお世話だが、こっちを記者と思いこんでいるのは好都合だった。
「ジャックの事件はまだ解決してないからね」
「あんたもドクターを疑ってるわけ?」
「わからないよ。だから君に聞きに来たんだ。君はどう思う?」
男は肩をすくめた。
「それはどう思ってるってこと?」
「わかんないってことだよ。毎日一緒に仕事して、冗談を言い合ったり、お昼を一緒に食べたりしてた人が、実は殺人鬼でした、なんて言われて、ああ、そうですかなんて言えないよ。でも、一方でさ、ドクターならやるかもしれないなって気もするんだ」
「どうして?」
「ドクターはいつも言ってた。自分にはやらなければならないことがある、これは神から与えられた使命だって。ドクターはすごく宗教的な人だった。神様の話をよくしたよ。神様の命令だったら、人殺しなんかへいちゃらかも。相手は娼婦だしね」
「その使命ってのは何なんだ?」
「さあ。よくわからない」
多分、伯爵の言っていたことだろう。俺は質問の矛先を変えた。
「君はリバプールの診療所で助手をしてたんだね」
「そうだよ」
「ロンドンへは一緒に来たのかい?」
「いいや。ドクターが先に来て、それから僕を呼んだんだ」
「ロンドンでのドクターの患者さんを誰か憶えていないかい?」
元助手は首を振った。
「ロンドンに来てすぐにドクターとは別れちゃったんだ。だから、よく知らない」
「けんかしたのかい?」
「っていうか……。来てみたら、ドクターは若い男と一緒にいたんだ。僕よりずっと年上で、すかした格好して上品ぶった口きくやつ。馬鹿にしてるだろ。だからすぐに別れちゃった。おかげでドクターが捕まった時には無関係でいられたから助かったよ。それでいてあんたみたいな人が寄ってたかってビールおごってくれるし」
ジョッキはほぼ空になっている。
「もう一杯おごってくれない?」
「君、仕事中だろ」
「もう一杯おごってくれたら、いいこと教えてやるよ。とびっきりの情報。まだ、誰も知らない。ヤードも知らない」
「何だ?」
元助手は空のジョッキを振った。俺は立ち上がってカウンターへ行き、もう一杯、ビールを取ってきた。
「さあ、話せ」
元助手はぐっと大きく飲むと、にやりと笑った。
「ドクターはロンドンに戻ってきてるよ」
「なぜわかる?」
「先週、レスター・スクエアで見かけたからさ」
「もっと詳しく話せ」
「先週の火曜日、昼過ぎに仕事でレスター・スクエアを通った時、リプスコムを見かけたんだ」
「誰だって?」
「ドクターと一緒にいたすかしたやつだよ。話したろ?」
「リプスコムという名前なのか?」
「そう。相変わらず気取った格好で帽子屋の飾り窓の前に立って、連れの男と話しながら通りの反対側を見てるんだ。そのうち、通りの反対側の薬局から若い女が出てきた。変な女で、髪を男みたいに短く切ってて、縁なしの帽子をかぶってる。ドレス着てなきゃ男かと思ったよ。女はやってきた辻馬車を呼び止めて乗った。リプスコムと連れの男は急いで通りを渡って、辻馬車を呼び止めた。そいつの後を追っていったみたいに見えた。その時、あっと気がついたんだ。さっきの男は、ドクターだったって」
俺の心の中は嵐のようだった。
「まちがいないのか?」
「まちがいないよ」
「なぜすぐにわからなかった?」
「そりゃ、ドクターご自慢の口髭がなかったから。あの大きなピンと横に張り出した口髭が無いと、全然別人みたいに見えるんだ。リプスコムが一緒にいなきゃきっと気がつかなかった」
「その女だが…金髪だったか? 身体つきは細くて水色のショールを肩にかけて、帽子の色は青だ」
「うん。知ってるの?」
テッサだ。先週の火曜日の午後。テッサは買い物に出かけたはずだ。タンブレッティがテッサを追っていったとすると、伯爵の危惧は本物なのだ。タンブレッティはテッサを狙っている。
「ドクターが今、どこに住んでいるか知らないか?」
「知らない」
「その、リプスコムという男は何者なんだ?」
「よく知らない。金持ちらしかった。ドクターは金持ちの有名人が大好きだったよ。アメリカでは大統領と親しかったなんて言ってた。ほら、劇場で暗殺された大統領」
リンカーン。そういえば、タンブレッティは一時、リンカーン暗殺に関わりがあると新聞に書きたてられたことがある。
「それじゃ、ここでも親しい有名人がいただろう」
「いただろうね。僕は知らないけど」
元助手は空のジョッキをひねくりまわしながら、上目遣いに三郎を見て、ふふ、と笑った。
「なんだ」
「うん。今、思い出したんだ」
「何を?」
元助手は空のジョッキを振った。
畜生。三郎はポケットの小銭をさぐりながら、カウンターへ向かった。
元助手は三杯目のジョッキを満足そうに受け取った。
「ドクターの保釈金を払ったのは誰だと思う?」
「あれは二人の匿名の紳士が……」
「あの二人はただのお使い。金の出所は別にある」
「どこだ?」
「大きな声じゃ言えないよ。もうちょっとこっちに寄って」
テーブルの上に肱をついて身を乗り出すと、元助手は顔を寄せてきた。
「耳、貸して」
その名前は、爆弾のように耳を撃った。
「嘘じゃないだろうな?」
「噂だよ、うわさ」
だが、もしそれが本当ならば、なぜ、タンブレッティが逃亡できたのか、なぜニューヨークの警察がタンブレッティの追跡に失敗したのか理解できる。
俺は立ち上がった。そろそろ、小屋へ行かなければならない。
「お前は仕事に戻らなくていいのか?」
元助手はビールの泡をなめながら、今日はもうおしまい、と言った。今日だけじゃなく、この分じゃ明日からの仕事もおしまいになりそうだが、知ったことじゃない。パブを出る時、振り返ると、元助手は舌を突き出してジョッキに残った最後のしずくを受けているところだった。
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