第19章 ミラーズコート13号

 テッサはあたりが薄暗くなるまで待って、留置所を抜け出した。錠はスカートの折り返しに隠してあったピン一本で開いたし、監視の警官三人をぶん殴らなければならなかったことを除けば、特に面倒はなかった。ガス灯がともり始めたホワイトチャペルを、特徴のある短髪をショールで覆い隠し、俯きがちに、ひと気のない路地から路地を急ぎ足で抜けた。荷馬車と辻馬車が忙しく行きかうコマーシャル・ストリートを横切って、ドーセット・ストリートに折れた時には、ほっとした。だが、まだ安心はできない。この辺が一番知った顔に出会う危険が多い。テッサがほとんど走るようにして、ミラーズ・コートの入口を入った時、夏の長い日ももうとっぷりと暮れていた。

 十三号室のドアは新しくなっていた。

一年前、最後にテッサが見た時、警察の破ったドアは板で釘付けにされていた。そのあともずっと、そのままだと聞いていた。あまりにも凄惨な部屋の様子に、メアリー・ケリーの遺体が運び出された後も誰も部屋の中に入りたがらなかったし、家主もこの部屋はもう使えないと、ほぼ諦めていたと聞く。切り裂きジャック・ツアーの連中が、カンテラをともして窓から恐る恐る室内を覗き込む以外は、ミラーズ・コート十三号室に近づく人間はいなかった、はずだ。

 テッサは真新しいドアの前で少しためらった。この部屋に住人がいるなど、予想していなかった。横手に回って窓から中を覗き込もうとしたが、あの頃は破れていた窓もきちんと修繕され、カーテンまでかかっている。

 テッサはドアをノックした。

 返事はない。

 ためしにドアノブを回してみると、鍵はかかっていなかった。

 部屋は、一年前と変わっていなかった。ドアの向かい側にベッド、窓の正面の壁に暖炉、小さなテーブルが一つに椅子が二脚。テッサは手探りで部屋に入り、暖炉の上に蜀台を見つけるとろうそくに火をつけた。ベッド脇の壁に血しぶきがとんでいる。マットレスには黒く固まった血がこびりついている。テーブルの上も床も血の痕がそのまま残り、その上に厚く埃がたまっている。新しいのはドアとカーテンだけらしい。

 誰だか知らないが、この部屋を一年前と同じ状態にしておきたいらしい。蜀台の位置まで前と同じだ。

 テッサは埃だらけのベッドの上に腰を下ろした。

 メアリー・ケリーの部屋。

 短い間だが、テッサもここで暮らした。今も暖炉にかかっている小さな鍋でシチューを作り、小さなテーブルに向かい合って一緒に食べ、狭いベッドを半分ずつ使い、並んで天井を眺めながらメアリー・ケリーの故郷の話を聞いた。幸せだったと思う。

 最後にここへ来た夜のことを思い出す。

 ファンから上等のワインをもらったので、久しぶりに一緒にやろうと思ったのだ。何時だったか覚えていないが、随分遅い時間だったのは確かだ。

メアリー・ケリーはシーツを裸に巻きつけただけの格好でドアを開けた。客が帰ったばかりのようだった。メアリー・ケリーはすっかり出来上がっていたし、テッサも飲んでいた。テッサがワインを見せると、メアリー・ケリーはげらげら笑いながら、朝まで飲みあかそう、と言った。二人はベッドに並んですわり、飲み始めた。何を話したのか憶えていない。ロウソクの炎がゆらゆらと揺れて、メアリー・ケリーの赤い髪が細い銅線のように光っていた。とてもきれいだった。そう言ったように思うが、メアリー・ケリーがなんと答えたのかは聞き取れなかった。メアリーはぶつぶつ、わけのわからないことをひっきりなしにつぶやいている。泥酔していて上半身がふらふらと前後に揺れていた。倒れそうになったのを支えようとすると、ふわりといい匂いがした。甘い、蜜のような香りだった。つい、抱きしめてキスしようとした。とたんに、思い切り突き飛ばされて、息が止まりそうになった。

「おふざけでないよ、この化け物が」

 うなるような声でメアリー・ケリーが言った。「あたしに何する気だい?」

 起き直ったテッサは、メアリー・ケリーの目の中に見たこともないような冷たい光を見た。謝ろうとした言葉は、唇の上で消えてしまった。

 メアリー・ケリーは前後に身体を揺らしながら、ふふん、と笑った。

「レイノルズが言ってた。あんた、血を飲むんだって? 小鳥や子猫を捕まえて、喉をかき切って血を飲むそうじゃないか」

 目の前がまっくらになった。誰にも知られていないと思っていた。身体中の血が、音をたてて引いていくような気がした。メアリー・ケリーの軽蔑の目だけが、ぎりぎりと頭の中に食い込んできた。恥ずかしさのあまり、テッサは悲鳴をあげた。

 それからあとのことはよく憶えていない。一度だけ、メアリー・ケリーが叫んだ声を聞いたように思う。「人殺し!」と聞こえた。

 気がつくと、メアリー・ケリーは死んでいた。首を横に裂かれて、腹も断ち割られていた。メアリー・ケリーの身体の回りに、いろいろな内臓が取り出されて置いてある。テッサはすすり泣きながら、血まみれの両手にメアリー・ケリーの心臓を大切に抱えているのだった。

 

 テッサは泣いていた。一年たった今も、どうしてあんなことになってしまったのかわからない。テッサはメアリー・ケリーが好きだった。メアリーも自分を好いてくれると思っていたのに。たとえそうでなかったとしても、テッサには、メアリー・ケリーを殺すつもりなどなかった。殺せるはずがない。自分は一体、どうなってしまったのだろう。

 お嬢さんのことを思い出す。お嬢さんはやっぱりヴァンパイアだったのだろうか。いきなり霧の中に消えてしまった。人間にできることじゃない。それなら、テッサはどうだ?時々、どうしても血を飲まずにいられなくなる。テッサも、吸血鬼と呼ばれる化け物なのだろうか。

 テッサはしゃくりあげた。

「何を泣いておるのかな?」

 いつの間にか目の前に、男が一人立っていた。五十歳を少し過ぎたぐらいだろう、恰幅が良く、ホワイトチャペルでは中々見ないような立派な身なりをしている。鋭い目に鷲鼻、髭はきれいに剃ってあった。

「ようやく会えたのに、それでは話ができない。泣くのをやめてもらえんか?」

 男はいかにも迷惑そうに言った。

 なんて勝手な言い草だろう。テッサは腹が立ってきた。

「よけいなお世話よ」

 というと、ポケットからハンカチを出して鼻をかんだ。

「それでよろしい」

 男は満足そうに言った。テッサはますます腹を立てた。

「あんだ、誰? 用が無いなら、さっさと出て行ってよ」

「あいにく出ていくわけにはいかんな。この部屋を借りておるのはわしだからな」

「物好きだね」

「おお、ちゃんと理由はある。殺人者は必ず現場に戻ってくるというからな。事実、戻ってきた。わしはメアリー・ケリーを殺した者に会いたかったのよ」

「警察?」

 男は大仰に手を振った。

「とんでもない。わしがあんな無能で無学なやからに見えるかね? わしは科学者だ」

 男はしげしげとテッサを眺めた。獲物を前にした猫のような目だった。

「思ったよりも小柄だな。もう少し大きいと思っていた。だが、昨年はちらりと見たきりだったしな。思い違いということもある」

「何の話?」

「わしらは昨年、ここで会っておる。あんたは気付かなかったようだが」

「あんた、誰?」

「わしはフランシス・タンブレッティ。不老不死を探求しておる」

「不老不死?」

「さよう。そしてあんたは、ヴァンパイアだ。不老不死のエリクシールをその血管の中に持つ貴重な一族だ」

 テッサは笑い出した。

「あんた、頭がおかしいよ」

「とんでもない。わしはこの実験に一生を捧げておる。そのために世界中を旅して先達の教えを乞い、血液のサンプルを集めてきた。昨年の秋は、ホワイトチャペルで娼婦から血を集めておった」

 突然、テッサは悟った。この目の前の男がジャックなのだ。

「切り裂きジャック」

 男は露骨に不快そうな顔をした。

「その名前はあまり気に入っておらん。わしは好んで切り刻んだわけではないぞ。サンプルを収集するのにやむを得なかっただけだ。名づけてくれた新聞記者は、わしの手際の良さを讃えてくれたつもりなんだろうがな」

 男は不満そうに鼻を鳴らして続けた。

「昨年の秋、サンプルを探して歩いておる時、わしは「人殺し!」という声を聞いた。普段なら気にも留めないところだがーどうせ夫婦喧嘩か何かだーその時は神の助けがあったのだな。わしはその声の聞こえた部屋の窓から中を覗き込んだ。何が見えたと思う?」

 男はにやりと笑った。テッサは黙っていた。

「部屋の中には若い女が二人いた。ひとりはベッドの上に仰向けに横たわり、もう一人がその身体にむしゃぶりついていた。わしは失望した。女同士の性行為など見たくもない。その時、上に乗っていた女が顔を上げた。女の口の周りは、血で真っ赤に染まっていた。狼が獲物に食らいついたようにな」

「やめろ。聞きたくない」

 テッサが低い声で言うと、男はそうか、と言って肩をすくめた。

「まあ、簡単に言うと、わしはずっと前から、不老不死の秘訣は血にあると信じていた。東欧のバルカン半島には不老不死のヴァンパイアの伝説がたくさんある。ついに本物のヴァンパイアを見つけたと、わしは年甲斐もなく胸が躍ったよ。その女が部屋を出て行く時、わしは後をつけた。ところが、途中で見失ってしまった」

 男はため息をついた。

「残念なことに、その時はそれ以上のことはできなかった。わしは下らぬトラブルに巻き込まれていて、即刻、英国を出なければならなかったのでな。一年たって、どうやらほとぼりもさめたようなので、こうして戻ってきたわけだ」

 テッサは低い声で笑った。

「あんたもご苦労なことだね。あたしは化け物だけど、不老不死のヴァンパイアなんかじゃないよ。ヴァンパイアはホワイト・レディの方だ」

「ルイズ・キリヤコスか?」

 テッサは驚いた。

「知ってるのか?」

「もちろん、知っておる。ルイズ・キリヤコスをヴァンパイアにしたのはあんただろう?それに、ルイズは死んだ」

「死んだ?」

「ダーリントン卿に殺された。そのダーリントン卿を殺したのもあんただ」

 違う、とテッサは言いたかったが、声が出なかった。お嬢さんが死んだ?

「ルイズ・キリヤコスに死なれた時はがっかりしたがな。しかし、こうしてお前さんがおればそれでいい。むしろ、あの女より血が濃くてよろしいかもしれん。では、行こうか」

「行く?」

「わしと一緒に来てくれ。人類のために、不老不死のエリクシールを創り出すんだ」

「イヤだよ」

「不老不死は全人類の夢だぞ」

「知ったこっちゃないね」

「仕方がない」

 男は懐から銀の十字架を取り出し、高々と掲げた。「神の名において命ず。わしと一緒に来るんだ」

 テッサは十字架をひょいと掴むと、床に投げ捨てた。男の目が丸くなる。

「あんたの十字架なんて怖くもなんともない。十字架は信仰のシンボルなんだ。あんたがいくら掲げたって、あんた自身が信じてなけりゃ、クソの役にも立ちやしないよ」

 テッサは男に飛びかかると、首を絞めた。男の顔がみるみるうちに真っ赤に、次いで青紫色になり、眼球が飛び出すように見えた。男の息が絶えると、テッサは男の身体をベッドの上に投げ出した。

 夜が明ける前に、確かめなければならないことがある。

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