第18章 ビーフステーキルーム

 ライシアム劇場に、おなじみの顔ぶれがそろった。名優ヘンリー・アーヴィング、相手役のエレン・テリー、旅行家のマクリーン卿、実業界の大物ファンショウ氏夫妻、若手の詩人ロビンス氏、新聞記者のコナー氏。テーブルにはもう一人分、席がしつらえられていたが、客の到着は遅れているようだ。

 今夜のライシアムの舞台は「ザ・ベル」。アーヴィングの出世作である。アルザスの町長であるマシアスの家では、娘の結婚式の準備が着々と進んでいた。手伝いに来た近所の人々は、表で吹き荒れる吹雪を気にしながら、十五年前にこの町で起こった殺人事件のことを話していた。そりに乗って通りかかった金持ちのユダヤ人が何者かに撲殺されたのである。犯人は不明のままだ。マシアスは彼らの話にひどく心乱された。彼の耳には、そりの鈴のしゃんしゃんしゃんしゃんという音が吹雪を突いて遠くから近づいてくるのが聞こえていたのである。不思議なことに、他の者には鈴の音は聞こえないらしかった。その夜、マシアスは夢を見た。彼は法廷に引き出され、催眠術をかけられてユダヤ人殺しを実演させられるのである。彼は悲鳴をあげて飛び起きた。隣室の人々は、よろよろと入ってきたマシアスの姿に驚いた。「このロープを、ロープを取ってくれ」誰にも見えない絞首刑のロープをかきむしりながら、マシアスは息絶える。

「ぞくぞくしましたわ。鈴の音が本当に聞こえてくるようで」

 ファンショウ夫人が言った。

「鈴の音とともに、殺された男はマシアスを迎えに来た。鈴の音は近づく死の足音だったわけだ。しゃんしゃん、しゃんしゃん……か」

 ロビンス氏が夢見るように言った。

「しかし、鈴の音はマシアスにしか聞こえない。この場合、死神はマシアスの良心そのものだったといってよろしいでしょう」

 恐怖におののくマシアスを演じて、満場の観客を戦慄させたアーヴィングは、銀のフォークを置いてナプキンで口元を押さえた。

「しかし、すべての死の使いが実体のないまぼろしとは限りませんよ。わたしは似た話を聞いたことがあります。やはり、死者が墓場から戻ってくるのですが、その話では甦った死者が大勢の人間に目撃されているんです」

 マクリーン卿の言葉に、まあ怖い、とファンショウ夫人が身震いした。

「幻覚ではなく?」

「幻覚ではありません。これは、十八世紀フランスのベネディクト派の修道僧、ドン・オーガスチン・カルメが報告している話です。ある兵士がハンガリー国境に派遣され、とある農家に宿をとった。そこの家の家族と一緒に夕食の席についていた時、男がひとり、入ってきて席についた。すると不思議なことに、同席していた者は全員、主人の農夫も含めて怯えて口もきけなくなってしまった。兵士にはさっぱりわけがわからない。翌日、主人の農夫は頓死しました。そして、ようやく、兵士は何が起こったのか話してもらえた。前夜の男は十年以上前に死んだはずの、主人の父親だというのです。この話を聞いた兵士の上官は、数人の将校と軍医、公証人を連れて問題の農家を訪れ、父親の墓を掘り返させた。朽ちかけた棺の中の父親はまるで生きているように血色が良い状態で発見された。つまり、父親はヴァンパイアになったわけです。上官は死体の首を切って、再び埋葬させました」

「ヴァンパイアですか」

 ファンショウ氏が面白そうに言った。「この前もヴァンパイアの話が出ましたな。どうも縁がある」

「ガル博士がここにいらしたら、きっとヴァンパイア現象に科学的な説明をして下さったでしょうね」

 と、テリー。

「ガル博士のご容態はいかがなんですか? 入院されたことは聞いたのですが」

 と、ファンショウ氏。

「お見舞いにうかがったんですけれど、お会いできませんでしたの。まだ、眠っておられるとかで」

 テリーの言葉に、暗い顔になったのはファンショウ氏だけではなかった。

「『パリのヴァンパイア』の話を聞いたことがありますか?」

 新聞記者のコナー氏が沈みかけた空気を救うように言った。

「初耳です。パリにヴァンパイアが出たのですか?」

 と、ファンショウ氏。

「ええ。四十年ほど前の話なんですが、パリのペール・ラシェーズ墓地の門番が、深夜、墓地をうろつきまわる人影があるのに気がついたんです。朝になってみると、墓があらされ、墓石がひっくり返され、遺体が放り出されて損なわれている」

「ペール・ラシェーズには、名のある画家や文学者、音楽家が葬られてませんか?」

 と、ロビンス氏。

「ええ。それで警察もやっきになって犯人を捕えようとしたんですが、捕まらない。続いてモンパルナス墓地も荒らされました。墓地は高い塀で囲まれていて日没とともに入口の門は閉まる。簡単に侵入できるはずがないんです。それで、パリの新聞はヴァンパイアの仕業だとして、『パリのヴァンパイア』と名づけました」

「本当にヴァンパイアの仕業でしたの?」

 ファンショウ夫人が尋ねた。

「いや、ヴィクトール・ベルナールという、若い、ハンサムな青年の仕業でした、どうしても墓地をうろつきたい、血を飲みたいという衝動を抑えられない、というんです。捕まって裁判にかけられましたが、一年の懲役で釈放されました。判事の判決がふるっている。『生きている人間は一人も傷つけられていない』というんです。死者には安眠妨害の文句を言う権利はないとみえる」

「ヴァンパイアの話なら、『血まみれの伯爵夫人』を忘れるわけにはいきませんよ」

 ロビンス氏が言うと、すぐにマクリーン卿が受けた。

「そうだ、彼女を忘れていた。エリザベート・バートリー」

 そしてにやりと笑った。「ここにアルミナス教授とヴァン・ホーテン教授がいないのが残念だ。凄い論争が聞けたと思いますよ」

「話してください。どういう人なんですか?」

 ファンショウ夫人がせがむように言った。

「エリザベート・バートリーは一五六〇年に生まれたハンガリーの伯爵夫人です」

「また、ハンガリー?」

「カルパチア山脈は吸血鬼の本場ですよ。バートリーの一族というのは、ハンガリー有数の名家でして、一族からはすぐれた政治家、軍人、学者、聖職者を輩出してますが、同時に悪魔主義者、毒殺犯、性的倒錯者も多く出ている、そんな一家です。バートリーは十五歳でフェレンツ・ナダスディという貴族と結婚した。若夫婦は森に囲まれたチェイテ城に住み、四人の子供に恵まれました。表面上、何もかもうまくいっているように見えたんですが、一六〇四年に夫が死んでから、バートリーの隠れていた残忍さが表に出てきた。彼女は自分の美貌に高い誇りを持ち、新しい美容術の探索に余念がなかったのですが、ある日、若いメイドを折檻している最中に、その血しぶきがバートリーの肌に飛んだ。バートリーは驚いた。血をぬぐったあとの肌は、いつもにもまして白く柔らかく瑞々しく見えた。ついに若さと美貌を保つ方法を見つけた、とバートリーは喜んだ。それから六年の間に、バートリーに殺された若い娘は六五〇人を越えると言われています。バートリーは娘たちを裸にして拷問にかけ、全身の血を絞り取ってその血を満たした風呂に入り、その血を飲んだといいます。やがて若い娘が消える魔の城の噂が流れ、バートリーの一族もさすがに放ってはおけなくなりました。一六一〇年、バートリーは捕えられ、裁判にかけられました。彼女の手伝いをした家来たちは有罪になり公開で処刑されましたが、伯爵夫人本人はスキャンダルを怖れた一族の手で、城の中の一室に幽閉されることになりました。全ての窓と扉を石でふさぎ、わずかに食物を入れる小さな穴のみを残した真っ暗な牢獄の中で、彼女はそれでも四年間生き、一六一四年にその牢獄で死にました」

 マクリーン卿が口をつぐむと、テーブルに沈黙が降りた。

「そんな人が現実に存在したなんて、信じられないような気がしますわ」

 ファンショウ夫人が言った。「そりゃ、永遠に若く美しくというのは、女の夢ですけれど、でも、ねえ」

「それは、女性に限らないでしょう。男だって、永遠に若く健康に生きたいと思いますよ。僕は、不老不死になれるなら、ヴァンパイアになるのも悪くないと思いますね」

 ロビンス氏が重苦しい空気を吹き飛ばすように、冗談めかして言った。

 軽いノックの音がしたと思うと、食堂の扉が開いた。

「遅くなって申し訳ない。よんどころない事情がありまして」

 黒い旅行用のマントに身を包んだ、背の高い痩身の紳士が入ってきた。

「ド・ヴィル伯爵」

 アーヴィングが立ち上がって出迎えようとしたが、伯爵は、そのまま、と片手を挙げて押しとどめた。給仕が素早く入ってきて、空席になっていた椅子を伯爵の為に引いた。

「伯爵、お食事は?」

「済ませてきました。そうですな、コーヒーを頂こうか」

 伯爵の言葉で、デーブルの他のメンバーからもコーヒーを望む声があがり、給仕はしばらく忙しくテーブルをまわって客たちの世話を焼いた。

「今、ヴァンパイアの話をしていたところなんですのよ」

 と、ファンショウ夫人が言った。

「ほう、それはまた。興味深い話題ですね」

 伯爵がコーヒーを飲みながら言った。

「僕はね、不老不死こそがヴァンパイアの魅力だと、そう思うんですよ。ヴァンパイアになれば若さを保って永遠に生きられるなら、僕はヴァンパイアになりますよ」

 ロビンス氏が言うと、伯爵は謎めいた微笑を浮かべた。

「神にそむくことになっても、ですか?」

「神様はあまり人間にやさしくありませんからね。忠誠を誓う義理はないでしょう」

「全く、近頃の若い人ときたら」

 ファンショウ夫人があきれた声を出した。「あなたがわたしの息子だったら、確実におやつを取り上げるところですわ」

「幸い、僕はそうじゃない」

 ロビンス氏は給仕に合図した。「この間いただいた、チェリーのタルトはあるかな。あれはうまかった」

 ございます、お持ちしましょう、と給仕が部屋を出て行くと、ロビンス氏は挑戦的にテーブルを見回してにんまりと笑った。

 あまりにも子供っぽい仕草に苦笑して、テリーは話題を変えた。

「伯爵、あなたのお国はカルパチア山脈のふもとにあると、うかがったことがあるのですが……」

「ヴァンパイアの本場ですね」

 ロビンス氏が嬉しそうに言い、テリーが軽く睨んだ。

「さよう。トラキア、ワラキア、トランシルヴァニアは、吸血鬼伝承の宝庫です。わたしの一族は代々、トランシルヴァニアに領地を持っております。トランシルヴァニアというのは、英語にすると、森のかなたの国、とでも訳しますかな」

「ロマンチックなお名前ですこと」

 ファンショウ夫人が言うと、伯爵は微笑んだ。

「ロマンチックですか。夜になると、森の奥で狼が――夜の子供らが淋しさを訴えて長く悲しい叫びをあげる、そんなところですよ」

 伯爵はコーヒーを飲み、カップを置くとテーブルの面々を見回した。

「黒海沿岸のトラキア地方には、古くからギリシア人でもなく、スラブ人でもない謎の民族が住んでおりました。この民族は血の犠牲を含む祭祀を執り行い、呪術と音楽に優れ、彼らの祭りには溢れるように血とワインが流れたといいます。何よりも、この民族は不老不死の秘密を知っていました。彼らの祭りでは、馬にまたがり、槍を手にした偶像が祀られましたが、この偶像の正確な名前は伝わっておりません。こんにちでは単に『トラキアの英雄』または『トラキアの騎手』と呼ばれています。彼は酒豪で、優れた狩人であり、あらゆる獣の頂点に立つものでした。野性の猪、狼、そしてドラゴンの殺戮者でもありました」

 一同は今や熱心に伯爵の言葉に耳を傾けていた。針一つ落としても聞こえただろう。伯爵はコーヒーで喉を湿すと、話を続けた。

「馬にまたがり、槍を手にした英雄の姿は、やがて、聖ジョージの姿と混同されるようになります。聖ジョージと彼のドラゴン退治の伝説は有名ですからね。この英国にまで伝わっているから、皆さんもご存知でしょう。さらに聖ジョージ自身もやがて豊穣神と同一視されるようになります。聖ジョージの祝日は四月二十三日、この日はバルカン中で春の生命力を讃え、冬と暗黒と死を追い払う祭りが行われる。そして、どんな民俗学者でも知っていることですが、聖ジョージの祝日の前夜は、ヴァンパイアの力がもっとも強大になる時なのです」

 しん、とテーブルの周囲が静まり返った。伯爵は涼しい顔でコーヒーを飲んでいる。

「ヴァンパイアは、その古代トラキア民族の後裔であると、伯爵はお考えなのですか?」

マクリーン卿が尋ねた。

「幾分かの関係はあるでしょう。トランシルヴァニアの山の奥深くにある湖があります。鏡の湖と呼ばれておりますが、そこには昔から、黒魔術の学校があるという言い伝えがあります」

「黒魔術……」

 ファンショウ氏がつぶやいた。

「この学校が他と違っているのは、悪魔自身によって運営され、教えられていたといわれていることです。自然界のあらゆる秘密、獣たちの言語、あらゆる魔術、呪術が悪魔その人によって直接、教授されていた。生徒はわずかに十人しか受け入れず、全過程を終了した時、卒業して故郷に帰れるのはそのうちの九人のみ。一人は留まり、召使として悪魔に終生仕えねばならなかった。つまりそれが、授業料というわけです。ところで、」

と、伯爵は突然、言葉の調子を変えた。

「ドラゴンは、ルーマニア語ではドラクルといいます。これは、同時に、デヴィル、つまり悪魔をも意味します。わたしは、悪魔によって運営されたという伝説のこの学校は、実はドラゴンの殺戮者、あらゆる獣のあるじである『トラキアの英雄』によって自らの子供達を教えるために創設された学校の話がもとになっていると考えています」

「いや、面白いお話でした。わたしもかなり広く旅をしたつもりだが、そこまでは知らなかった。また、トランシルヴァニアに行ってみたくなりましたよ」

 マクリーン卿が言うと、伯爵はにこやかに微笑んだ。

「どうぞ、ぜひ、おでかけ下さい。その節は、わたしの城、ドラキュラ城にお寄りください。何もないところですが、狩りの楽しみだけは、お国に負けませんぞ」

 そして、話題は乗馬と猟犬へ移っていった。


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