第20章 迷宮

 楽屋の片付けは簡単だ。脱出術に使うロープや手錠、足枷、様々な錠前、鎖は一まとめにして箱に入れた。テッサの衣装、化粧品、服はトランクに入れた。大道具は分解できる物は分解した。額に入れて壁に飾ってあった舞台写真、ポスターをはずしていると、ドアにノックの音がして、ステファノ爺さんが顔を出した。

「終わったかね?」

「大体は」

「大体じゃあ困るんだよ。二日後には軽業師が来るんだから、それまでに明け渡してもらわないと」

「わかってるよ」

 ステファノ爺さんはぶつぶつ言いながら出て行き、俺は片付けを続けた。

 テッサはどこへ行くつもりなのだろうと思う。イングランドの田舎町を回ってスコットランドの方まで行くのか。それとも、いっそ、ドーヴァーを渡るか。まてよ、最近、テッサはアメリカがどうとか言ってなかったか?

 もしテッサがアメリカへ行くつもりなら、三郎はそれでも構わなかった。日本へは帰れない以上、どこへ行くのも同じだ。

 一八八七年十二月二十五日、日本で、集会・結社の禁止を定めた保安条例が制定され、即日施行された。数日のうちに五百人以上が逮捕され、皇居から三里以遠への退去を命じられた。中江兆民などの大物民権活動家に混じって、俺も東京を退去しなければならなかった。大したことをしたとも思わなかったのだが、官吏を勤めていた兄には大迷惑だったらしい。つまらぬ思想にかぶれて家名に泥を塗ったと親戚中からも非難ごうごうだった。おまけに中江兆民に従って上方に逃れた後、芝居小屋に出入りして役者の真似事などしたものだから、ますます危険人物扱いになり、とうとう、しばらく戻ってくるなと船に乗せられ、日本から叩き出されたのだ。

 外に出てみると、藩閥も民権もたいした問題ではなかった。コップの中の嵐に過ぎないのに、何をあんなに熱くなっていたのか、と我ながら馬鹿馬鹿しくなった。小心者の兄に悪いことをしたと少しばかり反省した。ホワイトチャペルで暮らしていると、どんなに立派な思想も見掛けだおしに過ぎないとわかる。生き方なんて一人ひとり、全く別のもので、絶対的な善悪の基準なんてない。その場その場で選択するしかないのだ。

 夕刻になって、キャシーが楽屋へ飛び込んできた。

「大変だよ、三郎。マエストロがいなくなった」

 やっぱりやったか。

何もかも投げ捨ててしまった心の中に、ただ一つだけ残っている言葉がある。

「卑怯なまねはするな」

 祖父のこの言いつけだけは破れない。

 俺はキャシーと一緒にテッサを探しに出かけた。

 

 ガス灯の明かりがともり始めたコマーシャル・ストリートは、荷馬車と辻馬車、手押し車でごった返していた。仕事帰りの男たち、通りを縫って走り回る子供たち、買い物をする女達、パトロール中の巡査、酔っ払い、配達中の御用聞き、大きな声で新聞を売る少年。いつもの夕刻の風景だ。二人はドーセット・ストリートに向かって歩いていた。

「警察も自警団も総出でマエストロを探してる。ハッチンソンは見つけたら袋叩きにしてやるって吠えてた。連中はウエラー・ストリートに向かってる」

「全然、方向違いじゃないか」

「蛇使いがうまく子供に頼んだんだ。ホワイト・レディをウエラー・ストリートで見たって言ってくれって。テッサはそっちにはいない。メグが夕方、マエストロをドーセット・ストリートで見かけたような気がするって言ったんだ」

「テッサは一時、あの辺に住んでたな」

「メアリー・ケリーと一緒にね」

 ミラーズ・コート十三号室。

 驚いた。 

「おい、ドアが新しくなってるぞ」

「一昨日に大工が来て、新しいのを取り付けていったんだって。借り手がついたのかもしれないね」

 こんな不吉な部屋を借りるやつがいるのか?

 ドアのノブを回してみた。

 鍵はかかっていない。

 そっと開けてみる。

 夕闇の迫る中で、部屋の中はぼんやりとしか見えない。ドアを開けた真正面の壁に沿ってベッドがある。その上に人が寝ている。

 中に踏み込むと、蜀台のロウソクに火をともした。

 五十歳ぐらいの恰幅のいい男だった。ぴくりとも動かない。死んでいる。太い首に指のあとがある。絞め殺されている。

 キャシーが後ろから恐る恐る覗き込んだ。

「知ってるか?」

と、聞くと、首を振った。

 上等の服を着ている。ホワイトチャペルの住人ではないだろう。娼婦を買いに来てギャングと争いにでもなったか。

 キャシーがそっと部屋を出ていくと、間もなく、両手に小石をいっぱい抱えて戻ってきた。男の口をこじ開けて、小石を詰め込もうとする。

「何してるんだ?」

「こうしておけばヴァンパイアにならない」

 突然に閃いた。

「アンナさんの口に石を入れたのは君か?」

「そう。だからアンナさんはホワイト・レディじゃないよ」

 キャシーは男の口をこじ開けるのに苦労している。俺は目をそらした。死体は苦手だ。

「放っておけよ」

「ダメだよ。ヴァンパイアが出るとみんなが困る」

「だが、こんなところでぐずぐずしてると……」

 ひっと、後ろで息を飲む音がした。

 振り返ると、近所のおかみさんらしい女が、開いたドアの向こうから目を丸くしてこちらを見ている。ドアが開いていて明かりが見えたので、ちょいと覗き込んだといった様子だった。二人と目が会うと、小さな悲鳴をあげて逃げ出した。

 まずい。

 俺はキャシーを引っ張って部屋を飛び出した。背後で警察、警察、という大声が聞こえる。かまわずに走り続けた。日はもう沈み、通り過ぎる人々は黒い影に過ぎない。顔もよく見えないはずだ。

 ドーセット・ストリートを抜けてコマーシャル・ストリートに入る。その辺りで、先導はキャシーに変わった。無数にある狭い路地を出たり入ったりしながら、迷宮のようなホワイトチャペルを抜けていく。

 二つの倉庫に挟まれた、人一人がやっと通れる幅しかない路地を蟹のように横ばいに歩いて抜ける。再び広い通りに出たところで、レンガ造りの建物に入る。廊下の両側に同じような扉の並ぶ下宿屋のようなつくりだったが、中はがらんとして人の気配はない。まっすぐに突き抜けると、狭い裏庭に出た。キャシーは建物の横手にまわり、半地下の部屋に続く上げ蓋を開けて中に飛び降りた。続いて俺も飛び降りる。中は天井が低く、家具がひとつもない、埃っぽい空室だった。びりびりに破れた壁紙といい、蜘蛛の巣だらけの天井といい、多分、長い間誰も住んでいなかったのだろう。

「キャシー、ここは?」

 息を切らしながら訊ねると、キャシーがきつい声で、黙って、とささやいた。同時に顎の先で天井の方を示す。

 上の廊下をばたばたと歩く数人の足音が聞こえる。がやがやという話し声。言葉まではわからない。どこかの扉を開ける音が聞こえた。すぐに閉まる。また、扉を開ける音。閉まる。二人を探しているのだ。キャシーの目が薄暗い反地下の部屋で、獣の目のように光った。

 長い時間をかけて、数人の足音は一つ一つ、部屋を調べていった。どの部屋も空き部屋らしい。一階の部屋が終わると、足音は階段を二階へ登っていった。

 自警団だよ、とキャシーは囁いた。

「ここでしばらく待ってれば、行っちまうよ」

 キャシーと俺は埃だらけの床に腰をおろした。

「ここは空家なのかい?」

「そう。もうすぐ取り壊されるって噂だよ」

「よくこんな隠れ場所を知ってるな」

「でなきゃ、商売できないもの」

 切り裂きジャックがどうして警察の目をくらませたかわかる気がする。細い路地、中庭、空家、半地下、袋小路、地下室、ありとあらゆる通路と隠れ場所に娼婦は精通している。ジャックもまた、そうだったはずだ。

「何考えてんの?」

 ジャックの逃走経路を考えていた、と説明すると、キャシーは、屋上、と付け加えた。

「あんた、これからどうするの?」

「テッサを見つけて、ロンドンを出る」

「それがいいね。どこにいるか、見当がつく?」

 さっぱりだ。二人はしばらく黙っていた。

「さっきのあの男、誰だろう?」

 重苦しい沈黙を破るようにキャシーが口を開いた。

「僕も考えていた。どこかで見たような気もするんだが」

 五十代の男。上等の服。鷲鼻。がっちりした顎。厚い唇。どこで見たのだろう。

 思い出せない。

「今頃、きっと警察が調べてるよ」

 きれいに剃った顔。

 髭が無いから、別人かと思ったよ。

 電信局の若者の言葉が甦った。

あの厚い唇の上に、立派な八の字の髭があったら。

 俺は立ち上がった。

「どうしたの?」

 キャシーが怪訝そうに聞いた。

 タンブレッティ。 

 さっきの男はフランシス・タンブレッティだ。

 タンブレッティが殺された。誰に? やつはジャックじゃないのか?

 タンブレッティはテッサを追っていたはずだ。

 テッサはどこだ?

「キャシー、僕は行かなきゃならない」

「もう少し待ちなよ。今出て行ったら、自警団と鉢合わせするよ」

 そして、その言葉通り、がやがやという声と共に、二階から足音が降りてきた。

 永遠にも思えるほどの長い時間が過ぎた。自警団が空き家を出ていき、キャシーと俺は半地下の空室から抜け出した。

 ひと気の無い暗い路地に出ると、東の空に月が出ていた。かなり時間を費やしたらしい。

「これからどうするの?」

「悪いけど、コマーシャル・ストリートまで案内してくれないか。そこで辻馬車を拾うよ。聖メアリー教会へ行ってみようかと思う。テッサは気分が落ち着かない時、メアリー・ケリーの墓参りに行ってたらしいから」

 もしかしたら、ジョーンズ師がテッサの行方を知っているかもしれない、とも思った。

 キャシーはうなずいた。こっちだよ、と言って、歩き出した。しかし、いくらも歩かないうちに、背後から雷鳴のような音をたてて、黒塗りの二頭立ての馬車が走ってきた。脇に止まると、小柄な御者が飛び降りて、うやうやしくドアを開けた。

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