第21章 夜の終わり
クエイドは、執事から訪問客の名前を聞いて顔をしかめた。堂々と本名を名乗るとは大胆にもほどがある。
「客間にお通ししてくれ。それから、僕が呼ぶまで誰も客間には近づくな」
クエイドはここ数週間、探偵社にある調査を依頼してあった、その結果をまとめた書類つづりを取り出した。机の引き出しから愛用のウインチェスター銃を取り出し、特製の弾丸が入っているのを確認してからポケットに入れた。
客間のドアを開けると、窓の方を向いて立っていた若い娘がくるりと振り返った。
テッサは頭からすっぽりと薄手のショールをかぶって、見誤りようのない金髪の断髪を隠していた。
「さすがですね。留置所を脱出することなんか、お茶の子ですか?」
テッサはにっと笑った。
「あんな錠前、一分もかからずに開いたよ。でも、あんまり早く出ても、せっかく働いたおまわりさんに悪いから、また、鍵をかけ直しておいた」
「それは親切なことで」
「それに考えなきゃいけないこともあったし。あそこは静かで考え事には向いてる」
「何を考えていらした?」
「あんたは何者なんだろうって」
ほう、とクエイドはテーブルの上の紙巻煙草の箱を開くと、テッサに、いかかです? と勧める。テッサが一本取ると、マッチで火をつけてやった。自分も一本取ると、火をつけて安楽椅子にすわった。
「お掛けになったらいかがですか?」
「いい。立ってる方が話しやすい」
クエイドは肩をすくめて、お好きなように、と言った。二人はしばらく黙って煙草をふかしていた。
「おはなしをうかがいましょうか」
クエイドが催促すると、テッサは煙草をもみ消した。
「あたしね、さっき、キリヤコス家の納骨堂に行ってみた。お嬢さんは棺の中にいたよ。心臓にナイフを刺されて死んでいた。あんたがやったの?」
「違う」
「じゃあ、彼女の婚約者がやったんだね。あたし、さっき、ここの執事にここの家の主人はどこにいるのか聞いてみたんだ。そしたら、旅行中だって言うじゃないか。彼はもう帰って来ないだろうね。だって、ルイズと一緒の棺の中で死んでるからね」
ドアにノックの音がして、二人ははっとした。ドアが開いて、執事が顔を出した。
「お騒がせして申し訳ありません」
「呼ぶまで誰も近づくな、と言ったろう?」
クエイドが苛々と言った。
「はい。ですが、ミス・ストロンベリに急用だという紳士が」
「僕です、マエストロ」
三郎は、執事を押しのけて部屋に入った。「やっと見つけた」
俺は客間にいる二人を見比べた。初めて見る若い男は、上等の服を着て椅子にすわっている。なるほど、電信局の若者が言った通り、すかした男だ。テッサは、驚いた顔をしていた。
「よくここがわかったね」
「ちょっと苦労しましたけどね。この人がクエイド・リプスコム氏ですか?」
若い男は突然に自分の名前を呼ばれて、目を瞬いた。まあ、いいだろうとつぶやくと、執事に行っていい、と言った。執事は頭を下げて、ドアを閉めた。
「君は、ミス・ストロンベリの助手だね。君も聞いておいた方がいい。問題は、僕が何者か、じゃない。君の師匠が何者か、なんだ」
「何をおっしゃってるのかわかりませんね」
クエイドは微笑んだ。腹に一物あるような、油断のならない笑顔だった。こいつは狐だ。童話に出てくるライネッケ狐そっくりだ。狐は、まあ、すわれよ、長い話になる、と言った。俺はテッサと隣り合って長椅子にすわった。
「まず、ミス・ストロンベリの質問に答えよう。僕が何者か、だったね」
クエイドは煙草の火をもみ消すと、そこらを歩き回りながら話し始めた。
「僕はニューヨーク州北部の辺鄙な村に生まれた。雪の深い村でね、子供の頃から本をよく読んだ。その中で僕がとりわけ気に入ったのが、エドガー・アラン・ポーの作品だ。彼の『アッシャー家の崩壊』は何度も繰り返し読んだものさ。読んだことがあるかい?」
テッサは首を振ったが、俺は読んだことがあった。
「まだ死んでいない妹を、まちがえて棺に閉じ込めてしまう話だろう?」
「そう。まさに悪夢のような話なんだが、僕は不思議とこの話に魅せられた。僕が五歳か六歳の頃、よく似た事件を目撃したからなんだ。村の墓地を移転することになって、改葬のためにたくさんの棺が掘り起こされた。もちろん、子供は近づくことを禁止されていたが、いつの時代も大人の制止は、子供の好奇心には勝てないものさ。僕はこっそりと見に行って、気がついたんだ。いくつかの棺の中の死体が、妙な姿勢をとっている。ほとんどの死体は行儀よく両手を胸の上に組んで仰向けに横たわっているんだが中には、身をよじって、腕を顔の前まで上げていたり、両手で顔を覆っていたりしてるのもあった。棺の蓋の裏の内張りがびりびりに破れているのもあった。手の爪の先に乾いた血がこびりついてる死体を見つけた時は、大人たちは身震いしてその場でお祈りを始めたよ。もっともその時、僕にはその意味がよくわからなかった。理解したのはもっとずっと後年になってからだ。とにかく、僕の最大の恐怖は『早過ぎた埋葬』だった」
「魅せられたって言ったじゃないか」
「恐怖し、魅せられたんだ。この二つは表裏一体だ」
クエイドは言って、新しい煙草に火をつけた。
「僕の父はやがて村を出てマンハッタンに移って事業を始め、そこそこ成功した。おかげで僕は父の事業を継ぐ前にあちこち旅して見聞を広めることを許されたわけさ。僕はまず南米を回り、それからヨーロッパに向かった。ヨーロッパで僕は五歳の頃の体験とよく似た話を色々聞いたよ。でも、彼らはそれを『早過ぎた埋葬』とは考えていなかった。彼らは僕にヴァンパイアの話をしてくれた。墓場から甦り、永遠に生き続ける吸血鬼。僕は夢中になった。そして、パリでフランシス・タンブレッティに出会った」
クエイドは、知ってるようだな、と言った。
「タンブレッティは不老不死にとりつかれていてね、不老不死の鍵は血にあると、考えていた。『血は命の水』というのがやつの持論でね。僕はタンブレッティと一緒にドーバーを渡り、ロンドンに来た。ホワイトチャペルに居を定めて、実験に取りかかった」
「何の実験だ?」
「もちろん、不老不死さ」
と、クエイド。
「実験には大量に人血が必要だった。ジャックの犯罪で、警察が不審に思ったことがあるだろう? 喉が切り裂かれているわりに、現場に流れた血が少ない。別の場所で殺されたんじゃないか、という仮説さえあった。血が少なかったのは、僕らが採集したからだ。それが目的だったんだからね。ただ、タンブレッティは妙な男で、子宮のコレクションをしていた。やつの部屋には色々な階層と年齢の女の子宮の標本があるよ。あいつは女嫌いだから、やつなりの憎悪の表現なんだろう。腎臓を切り取ってきたこともあった。だが、それはおまけだ。僕らが欲しかったのは血で、その採集にホワイトチャペルは理想的だったよ。暗くて、人目につかずに人血が採集できる。終わったら迷路の中に逃げ込めばいい。ホワイトチャペルを知っているのはそこの住人だけだ。事実、警察は僕らに追いつけなかった。ただ、下手な射手でもまぐれ当たりということはある。タンブレッティは派手な男だったから警察の注意をひいてしまって、男色罪で逮捕された。まずったと思ったよ。これですべて終りか、と思ったが、奇特な御仁のおかげで釈放された。タンブレッティはすぐにフランスへ逃げた。僕らはニューヨークで再び落ち合った」
言っておくが、とクエイドはいったん、言葉を切ったあとで付け加えた。「警察に言っても無駄だよ。証拠は一切ない」
「そんなことはわかってる」
平静に答えたが俺の心の中は怒りで煮えくり返っていた。メアリー・ケリー。
賢明だな、とクエイドはそっけなく言った。
「一年前、ロンドンをあわてて離れた時、実験はまだ終わっていなかった。僕はニューヨークで続きをするつもりだったんだが、タンブレッティは別の考えを持っていた。彼は、ロンドンにヴァンパイアがいる、と言った。不老不死の血を持つヴァンパイアがロンドンにいる。その血そのものが、エリクシールだ。僕はすぐには本気にしなかった。だが、バルカン半島の吸血鬼伝承を調べているうちに、これは本当かもしれない、と思えてきた。墓場から甦る死人ではなく、生まれながらにして不老不死の血を持つ一族がいるのかもしれない。その一族は太陽を怖れず、外見は人間と変わらず、ただ、人間離れした力を持ち、霧や雨を呼び寄せ、狼やこうもりに変身する能力を持ち、並みの人間の血を飲んで力を蓄え、永遠に年をとることなく生き続ける」
あほぬかせ、と言ってやった。
「おや、そう思うかい? では、君は何も見ていないんだな」
クエイドが嘲笑うように言った。
何を、と気色ばんだが、テッサに止められた。
「最後まで聞こう」
ふ、とクエイドは笑って、話を続けた。
「タンブレッティと僕はロンドンに戻ってきた。タンブレッティはヴァン・ホーテンと名前を変え、自慢の髭を剃り落として人相を変えた。タンブレッティはピカデリー近くの安いホテルに泊まり、僕は旧友のダーリントン卿のロンドンの屋敷に滞在していた。ヴァンパイア狩りには時間がかかると覚悟していたから、長期戦の構えをとったんだ。ところが、実に運のいいことに、思いがけない所から突破口が開けた。ピーターの婚約者のルイズ・キリヤコスが夢遊病の発作を起こすようになった。ピーターは外聞を気にして彼女の屋敷に泊まりこんで監視するようになり、それで僕もこっちへ移ってきたわけだ。ところが監視していても、ルイズの夢中遊行はおさまらない。そこで、君の出番だ、ミス・ストロンベリ」
テッサは何も言わず、ただ、目を大きく見開いただけだった。
「君を見つけてきたのはピーターだった。珍しい女の脱出芸人がいる、彼女に縛ってもらえば、ルイズが夜中にふらふら外を出歩くことはなくなるだろうという。僕は君のショーを見に行った。まさしく驚異的だった。一晩中、どうやって君が水を張り、錠をおろした水槽から抜け出ることができるのだろうと考えた。真剣に考えたよ。手錠を抜けることは水中でも脱出芸人ならばできるだろう。手錠をはずせば、足枷もはずせる。それからガラスの水槽の錠をはずし……いや、不可能だ。そんな時間はない。ならば水槽から脱出できる特別な仕掛けがあるのか? あったとしてもあんな短時間でどうやって? 君は知っているかね?」
訊ねられて、俺は虚を突かれた気がしたが、いつも通りの答えをした。
「それは、マエストロの秘密だ」
クエイドはその答えを聞くと、声をたてて笑った。
「何がおかしい?」
「やはり、君も知らないんだな。知ってるはずがない」
「なんだと?」
テッサが、三郎、と強い口調で止めた。振り向くと、怖い顔で首を振ってみせた。そして、続けて、とクエイドに言った。
「その頃、問題が起きた。タンブレッティが妙な女がいる、と言い出したんだ。外国人で、金を持っているのにホワイトチャペルの木賃宿に泊まって、毎晩出歩いている。それも、ジャックの出没した場所ばかりだ。この女がアメイジング・ヘラクレサのショーを見に行ったのに、タンブレッティが気がついた。今、ここで余計な邪魔が入るのは困る。タンブレッティは隙を見て女を消した」
「ホワイトチャペルで殺された外国人の女の人ね」
テッサが無表情に言った。「彼女の口に石を詰めたのはタンブレッティなの?」
「いや、違うんです、マエストロ」
俺は説明した。「あれはキャシーなんだ。彼女はおばあさんから、ヴァンパイアよけのおまじないを聞いていたんですよ」
「キャシーってのは誰だい?」
と、クエイド。
「君より十倍も上等な人間だ。ホワイトチャペルの娼婦だよ」
「なるほど。誰がやったんだろうと不思議に思っていたんだ」
クエイドは言って、いきなり口調を変えた。
「テッサ・ストロンベリ、君はヴァンパイアだ」
人差し指をナイフのようにテッサに突き付けた。「君はキリヤコス夫人を襲って殺し、ルイズをヴァンパイアにした。ピーターを殺したのも君だ」
「何言ってるんだ。頭がおかしいのか?」
クエイドは初めて俺の方に向き直った。
「おかしいのは君の方だ。なぜ気付かない? 彼女の脱出術は人間じゃないから可能なんだ。人間を越えた力とスピードと能力を持つからできる。彼女は君に脱出術を教えてくれたか? くれないだろう。教えることが不可能なんだ」
「そんな馬鹿なことがあるか。テッサは確かに力持ちだ。だけど、普通の女の子だ。僕らと一緒にパブでビールを飲み、冗談を言って笑う普通の人間だ」
「力持ちだってことは認めるんだな」
「それは……」
一人で重い大道具を運び込んできたテッサ。瞬く間にガラスの水槽から抜け出るテッサ。ヴァンパイア? そんなはずはない。
「なんとか言ってください、マエストロ」
必死で言ったが、テッサは黙りこくったままクエイドを見ている。
クエイドは書類つづりを取り出してゆっくりとめくった。
「僕は、人を使って君の背景を調べてみた。君は以前、僕に英国生まれだと言ったね。違うんだ。一八七二年八月、ヴァルナを出航したロシアの貨物船デーメーテール号が、激しい嵐にあって難波した。ホイットビーの浜に打ち上げられた船には乗組員がひとりもいなかった。嵐で海に落ちたのだと思われる。たった一人、二歳ぐらいの女の子が船室に残っていた。女の子はどこから来たかもわからず、両親の名前もわからなかった。ホイットビーの牧師が引き取り、やがて地元の商人夫婦が養女にして、レティシアと名づけた。通称テッサ。幼い頃に死んでしまった夫婦の娘の名前だ。テッサが五歳になった時、夫婦はロンドンへ移った。君は忘れているのかな?」
クエイドは書類つづりをぽんとテッサの前に放り出した。
「牧師の証言、ホイットビーの港湾役人の証言もとれている。それでまだ不足ならば、タンブレッティに君の血液を検査してもらえばいい。普通の人間とは違うはずだ」
「タンブレッティは死んだぞ」
「なんだって?」
クエイドの声には真に驚きの響きがあった。
「ホワイトチャペルのミラーズ・コート十三号室、元のメアリー・ケリーの部屋で締め殺されていた。今頃は警察署に運ばれているだろう」
「じゃあ、それも君がやったんだ」
クエイドは刺すようにテッサを見て言った。「タンブレッティは君を探しにホワイトチャペルへ行ったんだからな」
「こんな馬鹿、相手にすることはない。馬車が待ってます。行きましょう、マエストロ」
テッサの手を取って立ち上がろうとして、ぎょっとした。クエイドが拳銃を手にして、ぴたりとテッサに狙いを定めている。
「動かない方がいいですよ、ミス・ストロンベリ。この拳銃に込めてあるのは、銀の弾丸だ。しかもただの銀じゃない。元々は僕の曽祖父の短剣だったものです。代々伝わった家宝を鋳潰して作った弾丸はヴァンパイアを殺す魔力を持つ。ご存知ですね?」
「テッサはヴァンパイアなんかじゃない。お前はおかしい」
「君は黙っていてくれ。愚か者の相手をする時間はない。ミス・ストロンベリ、あなたを告発するつもりはありません。その逆です。あなたを保護してさしあげたい。あなたは非常に貴重な不老不死の血をお持ちだ。ぜひ、僕と一緒にアメリカに来て下さい。その助手の方がどうしても一緒にというなら、それでもかまいませんよ」
「イヤだと言ったら?」
「それは聞きません」
クエイドはゆっくりと銃の狙いを変えた。銃口はまっすぐに俺の眉間を向いている。
心臓が激しく鼓動するのを感じた。身体中が熱くなり、特に銃口を向けられている鼻の上あたりは火傷でもしたようにひりひりする。マエストロ、と言おうとして言葉が出なかった。喉がからからだ。無理やりにつばを飲みこんで声を押し出した。
「テッサ、こんなやつの言う事聞いてはだめです。こいつは人体実験をする気なんだ。信用しちゃだめです」
「見上げた忠誠心ですね、助手殿」
「僕は弟子だ」
「ミス・ストロンベリ、どうします? お返事はお早く願います」
クエイドの引き金にかけた指がゆっくりと引き絞られた。人生の終りに、人は自分の一生を走馬灯のように見るという。だが、俺は何も見なかった。いきなり突き飛ばされ、したたかに頭を床に打ち付けたからだ。目から火が出た。てっきり撃たれたに違いないと思った。
次の瞬間、ぎゃっという悲鳴が上がり、ついでごぼごぼと激しく咳き込むような音が聞こえた。俺は、痛む頭を押さえながら、必死で起き上がろうとした。目の前がくらくらしてよく見えない。だが、どうやら自分がまだ生きているのはわかった。
「これはひどい」
落ち着いた声が降ってきて、誰かの腕が身体を支えて、椅子にすわらせてくれた。
「マノーラ、水を持ってきてさしあげなさい」
ばたん、というドアの閉まる音。
なんとか目を開けた。目の前に黒い夜会服を着た背の高い痩身の紳士が立って、自分を見下ろしている。その冷たい鋼色の目に見覚えがあった。
「ド・ヴィル伯爵」
「まだ、動かない方がよろしい。大きなこぶができている」
「どうしてここへ?」
「君が中々戻ってこないのでね。待ちくたびれた」
次の瞬間、思い出した。
「マエストロ……テッサは?」
「あたしはここにいるよ」
かすれたような声が答えた。
悲鳴をあげる頭を無視して無理矢理に身体を起こすと、さっきまでクエイドの立っていたところにテッサが立っていた。クエイドはその足元にころがっている。首が横一文字に切り裂かれていて、絨毯の上に血の池ができていた。テッサはどことなく悲しそうな顔をしている。だらんと垂らしたその手を見て、俺は声を上げた。
「手、どうしたんです」
テッサの右手は血まみれだった。尖った爪の先から血が滴り落ちている。
テッサが殺したのか? 素手で、大の男の喉を切り裂いたというのか? まさか。
ドアを開けて中年の落ち着いた感じの女が入ってきた。水のコップを差し出してくれる。ありがたくもらって、飲んだ。その間に、女は冷たい濡れたタオルを頭にあててくれる。
どこかで見た顔だ。
「憶えていませんか? わたしの御者です」
伯爵に言われて、あらためて顔を見直した。あの物騒な雰囲気の、ぶっきら棒な口をきく御者。女だったのか。
「紹介しておきましょう。アンナ・マノーラ」
アンナ?
何がなんだかわからなくなってきた。
アンナが早口の外国語で伯爵に何か告げた。伯爵がうなずく。
「時間がありませんから、簡単にお話します。二十年ほど前、トランシルヴァニアのわたしの城から、赤子がさらわれました。手を尽くして探したのですが、見つかりません。ところが去年、ロンドンのホワイトチャペルの連続殺人の記事を新聞で読みました。その記事からすると、どうしてもヴァンパイアが関係しているとしか思えない。わたしはマノーラを先にロンドンに送り込み、わたしも船に乗りました。マノーラはさらわれた一族の娘を見つけ出しましたが、同時に、タンブレッティなる殺人鬼がその娘を追い回していると報告してきました。娘のそばについている人間の若者は、信頼できる男のように思えたので、わたしはタンブレッティ探索を頼み、合わせて娘の保護を依頼しました。ルイズ・キリヤコスをヴァンパイアにしたのはマノーラです。一族の娘がルイズを気に入っているのを見て、仲間に加えたのです。忠義心から出たことでしたが、勇み足でした。わたしは厳しく叱っておきました」
アンナが肩をすくめた。
「キリヤコス夫人とダーリントン卿を殺したのもマノーラです。タンブレッティは、そこの男が言った通り、わが一族の娘の手にかかりました。だが、タンブレッティの場合はおあいこというところでしょう。最初に手を出してきたのはあちらですから。しかし、マノーラと違って、ただの人間に過ぎないタンブレッティが甦ることはありませんから安心するように、キャシーという娘さんに言ってください。他に何か、わからないところがありますか? あまり時間がないのです。この家の執事が警察を呼びました。我々はこの国を発たねばなりません」
「待ってください。すると、テッサは本当に?」
「そんなことはわかりきってると思いますがね」
「三郎」
テッサは小さな声で呼びかけた。「色々とありがとう。楽屋にあるものは全部、あんたにあげる」
「マエストロ」
胸が詰まって何も言えなくなった。テッサは握手でもするように手を差し出したが、その手が血に汚れているのを見て、スカートで丁寧にぬぐった。うつむいたまま、みんなによろしく、と言った。
「マエストロ、僕は……」
一瞬の後、俺はテッサの腕の中にいた。いつ近づいたのか、まったくわからなかった。テッサはぎゅっと俺を抱きしめると、耳元でささやいた。
「誰にも本当のことは言っちゃいやだよ。憶えてる? 秘密をばらしたら、切腹じゃすまないよって」
テッサの息が首筋にかかった。柔らかい唇が首筋を撫でる。チクリ、と刺すような痛みを首に感じて目を開けると、テッサの顔が目の前にあった。恐ろしく真剣な目。
「脱出術、教えてあげるって約束したよね」
テッサは鋭く尖った歯で自分の人差し指を噛むと、その指を俺の口の中に突っ込んだ。血を流している指をしゃぶる以外の何ができただろう。暖かくてほの甘い不思議な味だった。いつまででもそうしていたかった。
「もうよかろう」
伯爵の声で我に返ると、いつの間にか、テッサは離れていた。
「この屋敷の前にとめてある馬車は差し上げます。警察が来る前に、あなたもここを出られた方がよろしいでしょう」
「しかし、あなた方は?」
「わたし達に馬車はいりません」
夢を見ているのかと思った。伯爵とアンナ、テッサの姿がもやにつつまれたように見え、あわてて目をこすった。つん、と鼻をつく雨の匂い。身体が濡れているのに気がついた。髪の毛からしずくが垂れる。部屋の中は白い霧が充満していて、テッサの姿が黒い影のようにしか見えない。マエストロ、と呼びかけようとして、霧を吸い込み、激しく咳き込んだ。やっと顔を上げた時、黒い影は消えていた。
俺は、家に帰りたい、と無性に思った。
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