第15章 悪いニュース

 そのニュースを知ったのは、明け方近くだった。宿に飛び込んできた蛇使いにたたき起こされたのだ。

「起きろ、三郎。マエストロが逮捕された」

 部屋の中はまだ薄暗い。ずらりと並んだベッドのうち、半分はふさがっている。朝の早い市場や波止場で働く者のベッドは空だが、残りはまだ薄い毛布にくるまって心地よい眠りをむさぼっていた。

「テッサが警察に連れて行かれたんだよ」

 毛布がひっぺがされ、身体を揺さぶられた。頭の中に漂っていた霞が徐々に晴れて目の前の蛇使いの浅黒い顔がはっきり見えてきた。ひどく心配そうな顔をしている。警察? テッサが?

 俺は飛び起きた。

「何の話だ? ジョークか?」

「ジョークならいいがな。違うよ」

 蛇使いが言うには、昨夜遅く、一人の娼婦が子供がいなくなったとホワイトチャペルの警察署に駆け込んできた。子供は四歳の女の子で名前はセイラ。母親は昨夜娘を連れて商売に出た。子供を預けられる亭主なり親類がいればいいが、身寄りのない女もいる。最近、ホワイト・レディを警戒して、子供だけで宿に置いておくより一緒に連れて出る女は結構多いのだ。

 母親に客がつけば、子供は離れざるを得ないが、年上の子が年少の子供の面倒を見て、男と路地裏や軒下に消えた母親が戻ってくるのを待っている。だが、この娼婦の子は一人だった。母親が戻ってきた時、ガス灯の下で待っているはずの子供はいなかったのだという。母親は子供の名前を呼びながら走り回った。同僚の娼婦や帰宅途中の酔っ払いたちの間を探し回った。疲れ切って警察署に駆け込み、泣きながら巡査に訴えているところに、自警団がやってきた。セイラという名前の女の子と、テッサを連れていた。

「俺はハッチンソンから話を聞いたんだ」

と、蛇使いは忌々しげに言った。「あの野郎、鼻高々でいやがった」

 ハッチンソンたちは、ホワイトチャペル地区のはずれのウエラー・ストリートを見回っている時に、前方から三人の人影が近づいてくるのに気がついた。真ん中の人影は小さく、子供らしい。ハッチンソンは子連れの娼婦とその客だろうと思った。近づいていくうちに、大人は二人とも女であるとわかったが、それでも娼婦二人が子連れで客を探しているんだろうと思った。事実、自警団のメンバーの一人は、すれ違う際に「今日もあぶれかい?」と揶揄の言葉を投げかけている。女は、「急ぎますので、失礼」と冷ややかに答えて通り過ぎていった。

「そん時は、すかした娼婦もいやがる、と思っただけだったんだが」

 と、ハッチンソンは言った。「少し歩いてから、変だなと思った。女の身なりがいやにこぎれいだったと思い出したんだ。他にもそう思ったやつがいてな、さっきの女は上等の白いドレスを着てたが、金髪じゃなかったか? と言い出した。俺たちが立ち止って振り返ってみると、三人は通りの向こう端の角を曲がっていくところだった」

 自警団は走って三人の後を追った。おい、ちょっと待てよ、と言って角を曲がると、女が一人、子供の手を引いて呆然と立っていた。白いドレスの女の姿はどこにも見えなかった。自警団の男たちは二人を取り囲み、もう一人はどこへ行ったと、散々に攻め立てたのだが、女は何も言わない。子供は男たちを怖がって泣き出した。それで、女と子供を引っ立てて警察署へ連れてきた、という話だった。

「その女がテッサだったんだ。子供は母親に戻された。テッサは警察署に留め置かれてる。ハッチンソンの奴は俺がテッサをよく知ってるのを知ってて、得意顔で俺に教えに来たんだ」

「テッサはホワイト・レディなんかじゃない」

 やっと声が出るようになって言うと、蛇使いは、当たり前だ、と言った。「ホワイト・レディはヴァンパイアだ」

 あ然とした。蛇使いは物知り顔でうなずいて見せた。

「俺も昨夜までは信じてなかった。でも、今は信じるよ。キャシーが言った通りだ。ホワイト・レディは化け物だ。煙のように消えちまったんだ」

「どういうことだ?」

「ハッチンソンたちが角を曲がった時、そこには二人しかいなかった。通りはまっすぐで、月に照らされていた。なのに、ホワイト・レディの影も形も無かったんだ」

「どこかに隠れていたんだろう」

「どこに? ハッチンソンたちはすぐに通りの両側の建物を調べたんだ。住人は誰もホワイト・レディを見ていなかった」

「それでもどこかに隠れていたか、逃げたかしたはずだ。消えるはずがあるか」

「消えたんだよ。子供が言っていた。ホワイト・レディは煙になっていなくなってしまったって」

「子供の言うことじゃないか。テッサはなんと言ってるんだ」

「テッサは何も言わない。ひとっこともしゃべらないそうだ」

「テッサは人さらいなんかする女じゃない」

「わかってるさ。子供も自分を連れ出したのはもう一人の女だと言っている。だがな、肝心のテッサが何も言わないんじゃ警察もどうしようもないだろ」

 俺はベッドから降りて薄闇の中で服を手探りした。

「警察署に行ってくる」


 ホワイトチャペルの警察官には、何人か顔なじみがいる。ブルヘッドで時折顔を合わせる警官をつかまえて、テッサの様子を聞いた。テッサは児童誘拐の疑いを受けて留置されている。取調べに対しては相変わらず口を開こうとしない、と言う。なんとかテッサと面会させてくれ、と頼み込んだ。会って説得すれば、彼女も考えを変えて聴取に協力するかもしれない、と言った。警官はちょっと考えて、ここで待ってろ、と言った。

 警察署の固いベンチに腰掛けてじっと待った。昨夜収監された酔っ払いたちが、まぶしそうに朝日に目を細めながら出ていく。当直の交代があり、書類を抱えた若い警官が忙しそうに出入りする。笑い声。コーヒーの香りが漂ってくる。

 ふっと目の前に影が差した。顔を上げると、俺の知らない白髪の警官が、ついてくるように、と言った。

 テッサは冷たい石の床にじかにすわって壁によりかかり、両足を前に投げ出していた。眠っているのだろうか。頭ががくりと胸の前に落ちているので、顔は見えない。その頼りない姿に胸が刺されるような痛みを感じて、マエストロ、と呼びながら駆け寄ろうとした。と、ぐっと後ろから腕を掴まれた。先ほどの警官が、腕をつかんで引き戻したのだ。檻には近づくな、ということらしい。

 しかたない。四フィートほど離れたところから、テッサに呼びかけた。何度目かの呼びかけでテッサの頭が上がった。俺の顔をみとめると、にやりと笑った。

いつもの笑顔だった。

「おはよう」

「おはようじゃありませんよ。いったい、どうしたというんです」

 ほっとしたせいで、つい、がみがみと小言を言った。妙に照れくさい気がしたせいもある。

「どうもしない。昨夜、散歩してたらここへ連れて来られた」

「散歩してただけで、こんな所へ入れられるはずがないでしょう」

「それは入れた連中に言ってくれ。あたしのせいじゃない」

「子供が一緒だったと聞きました。それともう一人」

「うん。散歩の途中で出会ったんだ」

「もう一人の女っていうのは何者なんです?」

「知らないよ。昨夜初めて会ったんだから」

 嘘だ。テッサは軽率なようで用心深い。これだけホワイト・レディの噂が広まっている時に、初対面の女なんか信用するはずがない。そう言い返しそうになって、テッサが目で警告しているのに気がついた。背後の警官は黙って聞き耳をたてている。何を話したにせよ、警察に筒抜けになるということだ。俺は黙った。

「どうしてここがわかった? 警察が知らせたのか?」

「いいえ。自警団のハッチンソンです」

 蛇使いの名前は伏せた。トラブルに巻き込みたくない。ハッチンソンなら構うもんか。

「そうか」

 テッサはしばらく考えをめぐらせているようだった。

「とにかく、一刻も早く出られるようにしますから。何か必要なものはありませんか?」

「別に無いよ。ああ、そうだ、一つ、頼みがある」

 背後の警官がぐっと緊張したのがわかった。

「何です?」

「ショーは休むから、その手配しといて」

「わかりました」

「わたしもね、あんまり長くここにすわっていたくはないんだ。ここの床は冷たくて固くて痔になりそうだよ」

「なんとかしますよ」

「いいよ、心配しなくても。言われたことだけやっといて」


 警察署を出て小屋へ向かった。とりあえず、テッサの無事を確認できたことで気持ちは軽くなった。だが、これからが大変だ。なぜだかわからないが、テッサは高飛びするつもりだ。ショーはしない、手配をしておけというのはそういう意味だ。警察も迂闊だ。あんな簡単な錠でテッサを閉じ込めておけると思うなんて。何か必要なものはないかと訊ねた時、無い、と答えたテッサの顔を思い出して俺は一人で笑った。ここに長居するつもりはない、とテッサは言った。あんな錠、テッサならば、折れ釘一本、スカートの下に隠したピン一つで開けられる。

 それにしても、ホワイト・レディというのは何者なんだ? ヴァンパイアだなんて、信じられない。もっとわからないのは、テッサがなぜかホワイト・レディをかばっているらしいことだ。

 俺は首をひねりながら小屋へ向かって歩いた。

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