第16章 納骨堂

 ロンドン郊外の広大な墓地の一角にあるキリヤコス家の納骨堂は、丸い屋根を持つ石造りで、頑丈な鉄の扉で閉ざされている。この朝、そのドアの前に二人の人間が立った。

「ダーリントン卿、わしはこんなことは好かない。馬鹿げていると思わんかね?」

 小柄な年寄りが、動かない右腕を左手でそっと撫でながら抗議した。

「思いますよ。これが終わったら、いくらでも一緒に笑ってさしあげます。でも、今はガル博士、あなたに証人になって頂きたいんです」

 ピーターは後悔していた。ルイズが死んだ時、いかに動転していたとはいえ、クエイドとあのヴァン・ホーテンとかいうイカサマ師の口車に乗ってしまったことを。ピーターもホワイト・レディの噂は聞いている。だが、ルイズがヴァンパイアであり、ホワイト・レディだなどというたわごとには一切、耳を貸す気はない。ガル博士から、ヴァン・ホーテンがライシアム劇場でヴァンパイアの実在について熱弁をふるったことを聞いて、ピーターは寒気がする思いだった。その調子であちこちでしゃべりまくられたら、ルイズにどんな下らない噂がたつことか。そして当然、自分の名前もルイズと結び付けられて人々の口に上るのだ。由緒あるダーリントンの名前が吸血鬼などと一緒に囁かれる。ピーターには耐えられなかった。

 今日、ルイズの棺を開けてまちがいなくルイズが死んでいることを確認する。不死者などでないことを証明する。ガル博士なら、その実績といい知名度といい証人としてふさわしい。そして、今日のことを誰彼かまわず吹聴するような人でないことも、ピーターには分かっていた。

 ピーターは片手に持っていたガル博士の医者用の黒い鞄を地面に置いた。念のために辺りを見回す。まだ朝早い墓地には、人の姿は見られない。薄いもやが、石碑や十字架の間を泳ぐように漂っている。夏の朝らしい透明な光が天から注いでいる。小鳥のさえずりがことさらに静けさを強調するようだった。ピーターは安心して懐から納骨堂の鍵を取り出した。古めかしい大きな鍵はつい先週、埋葬の際に使ったばかりだ。鍵が滑らかにまわるように塗った油がまだ残っていて虹色に光った。

 きしむような音をたてて重い扉が開く。冷ややかで埃っぽい空気が二人を迎えた。ピーターはカンテラに火を入れた。片手にカンテラ、もう一方の手に黒い鞄を持って、納骨堂の中に足を踏み入れた。ガル博士が後に続く。

「扉は閉めなくてもよかろう。ここは空気があまり良くない」

 ガル博士が言った。

 人目につきたくはなかったが、ピーターは同意した。ピーターも扉を閉めてしまうのには抵抗があった。迷信深いつもりはないのだが、死者たちと共にこの石の家に閉じ込められるのは正直言って恐ろしかった。葬儀の時はこんな気持ちにはならなかった。大勢の会葬者や牧師と一緒に棺をここへ運び入れた時には、ここは生きている者の世界であり、生きている者の喧騒がそのまま持ち込まれていた。だが今は、ピーターと博士は死者たちの静謐を侵す招かれざる客であった。いてはならない者だった。

 半分開いたままの扉から外光が入ってくるとはいえ、中は暗かった。カンテラの光があたるたびに、陰鬱な光景が目に飛び込んでくる。

 ぐるりの壁には寝棚のように窪みが切ってあり、そこに棺が並んでいる。死者たちが眠っている。英国で亡くなった者だけだから、代々といってもそれほど多くはない。それでも二十はあっただろうか。ピーターは、一番奥の二つの新しいマホガニー製の棺の前で立ち止った。一つはキリヤコス夫人。もう一つは、ルイズのものだ。キリヤコス夫人の棺の上に載せたバラの花束が、枯れて茶色く干からびていた。ルイズの棺の上には、何も載っていない。

 ピーターは身を屈めて、石の床から干からびた花束を拾い上げた。まだ新しいピンクのリボンで結んである。ピーターがルイズの棺の上に置いたものだ。

 どうして床に落ちていたのだろう?

「何をしておるのかね? 早くしたまえ」

 博士に促されて、ピーターは花束を床に置いた。カンテラを博士に渡すと、棺の蓋を閉じているバネ式のロックを開けにかかった。かちり、と手応えがあってロックが外れた。ピーターは深呼吸を一つしてから、棺の蓋を開けた。カンテラを掲げて、ガル博士も覗き込んだ。

 何もなかった。

 ピンクのサテンの内張りはそのままだ。中に横たわっているはずのルイズの死体だけが消えている。

「棺を間違えたんじゃないのかね?」

 ガル博士が言った。意外そうな声音ではあったが、あわててはいなかった。

 ピーターは棺についているプレートの名前を見た。ルイズ・マリア・キリヤコス。まちがいない。まちがえるはずがない。

「こんな馬鹿な」

 ピーターはかすれた声を押し出した。「馬鹿な」

「遺体は無いな」

 ガル博士が落ち着いた声で宣言した。

「無くなるはずは無いんです。葬儀の時にはちゃんとここにあったんだ。ちゃんとここに……ルイズは死んでいた。確かに死んでいたんだ」

 うわずった声で繰り返すピーターをガル博士が制した。

「君はいったい、何を言っているのかね?」

「だから、ルイズは死んでいたと」

「だが、死体は現に無い。誰かが持ち去ったんだろう」

「持ち去った?」

「盗まれたんだな」

 ピーターは全身の力が抜けるような気がして、ぺたんと石の床にすわりこんだ。盗まれた、盗まれた、と機械のように博士の言葉を繰り返すしかなかった。

 そうだ、落ち着いて考えればそれしかない。死んだルイズが立ち上がって歩き回るはずがないのだから、誰かが運び出したのだ。僕は何を考えていたのだ、とピーターは安堵のあまり笑い出しそうになった。

「しかし、誰が、何のために? 解剖用の死体ならば救貧院で手に入る。わざわざ盗む必要などない。ダーリントン卿、心当たりはないかね?」

「ありません。ここは葬儀が終わった時に閉めたきりです。鍵はずっと、僕の机の引き出しに入っていました。一体、誰が……」

 突然、ある名前が頭に閃いて、ピーターは言葉を失った。

 もしかして、ヴァン・ホーテンか?

 ルイズの死体に興味を持ったのは、あのイカサマ医者だけだ。

「念のため、キリヤコス夫人の方もあらためた方が良いだろう。ダーリントン卿、開けてくれるかね?」

 ピーターがええ、と言って夫人の棺のロックを開けようとした時、背後から、その必要はなくてよ、という声がした。ピーターと博士は振り返った。

 ルイズが立っていた。

 葬儀の時に着せた純白のドレスのまま、青白い顔に、ピーターのよく知っているはにかんだような微笑を浮かべて立っている。

「ピーター。お久しぶりね」

 ピーターは、今度こそ声が出なかった。心臓がどくどくと身体の中で脈うつのがわかる。全身が熱くなり、ついでさあっと血の気が引いていくのがわかった。息が苦しい。

 ルイズは一歩、ピーターに近づいた。その白い繻子の靴に、泥がついているのを、ピーターは見た。

「一体、どうなさったの? 急に言葉を忘れておしまいになったのかしら? せっかくこうしてまた、お会いできたのに」

 ガル博士が咳払いをした。

「ダーリントン卿、こちらはどなたかね?」

 ピーターはぎょっとしてガル博士を見た。博士の顔には恐怖はなかった。突然の闖入者に対する気短な不快感とわずかな困惑が見てとれるだけである。

「紹介して頂けんだろうか」

 ガル博士はルイズを知らなかったんだ!

 ピーターは気がついた。彼は、ルイズを生きている女と思っているんだ。

 そして、まさに、目の前のルイズは生前の姿と何も変わらなかった。自分だってそう思っただろう。数日前に葬儀を行い、棺に入れて埋葬してなければ。

 ルイズはガル博士の方に向き直った。

「ピーターは礼儀を忘れてしまったようですわ。自己紹介するしかありませんわね」

 ルイズは白い腕を差し出しながら、ガル博士に歩み寄った。「わたくし、ピーターの婚約者ですの。ルイズ・キリヤコスと申します」

 ピーターは笑い出しそうになった。なんてことだ。僕らはどこにいる? 納骨堂じゃなくて、どこかの夜会にでも出席してるのか?

 ガル博士は差し出された手を取らなかった。疑いの目で女を眺め、ついでピーターに向き直った。

「ダーリントン卿、これはなんの冗談かね?」

 ピーターは何か言おうとした。だが、のどがからからに渇いて、何も出てこない。

「わしは年寄りで、あまり時間がない。つまらない冗談に付き合ってはいられない」

 博士の声には押さえた怒りがこもっていた。

 ピーターは、違う、と言おうとしたが、言葉にならない。必死で首を振った。

「すまんが、先に帰らせていただく。お嬢さん、失礼しますよ」

 ガル博士は納骨堂の入口に向かってすたすたと歩いていった。行かないでくれ、ひとりにしないでくれ、というピーターの心の叫びは、博士には届かないようだった。

出口の前で、ふっと、博士は足を止めると振り返った。

「ダーリントン卿、君は興奮し過ぎている。あとでわしの屋敷に来なさい。鎮静剤を処方してさしあげよう」

 ガル博士は納骨堂を出ていった。


「行ってしまったわ。失礼な人ね。どなただったの、ピーター?」

 ルイズはピーターに向き直った。「でも、これで二人きりだわ。ねえ?」

 ルイズはあでやかに笑った。赤い唇の間から舌の先がちょろりとのぞいて、唇を舐めた。

「ゆっくりおはなしができるわ」

 ルイズは一歩、ピーターに近づいた。

「来るな」

 ようやく、言葉が出た。「お前は死んだんだ。来るな」

「なんてことをおっしゃるの? わたくし、あなたのフィアンセなのに」

 ルイズの声は悲しそうだった。また一歩、ピーターに近づく。

「お前は死んだんだ」

 ピーターはうわごとのように繰り返した。

「馬鹿おっしゃい」

 突然、ルイズは風のように走ってピーターに抱きついた。ピーターはよろけて、うしろの棺に手ひどく背中を打ちつけた。

「さあ、つかまえた」

 ルイズは声をたてて笑った。ピーターは悲鳴をあげてルイズを振り放そうとしたが、ピーターを掴んでいるルイズの力は、細い腕にこめられているとは信じられないほど強かった。

「ピーター、ピーター、わたしのかわいい人、わたしのかわいい小鳥」

 ルイズはうたうように言った。青い瞳はうるんだように輝き、濡れたように赤い唇が開き、頬はばら色に染まっていた。ピーターはルイズがこんなにも美しく、魅惑的に見えたことはないと思った。ルイズの腕は力強く、息はかぐわしかった。ルイズの身体は温かく、柔らかくピーターの身体に押しつけられていた。

 これは夢だ、夢に違いない。

 ピーターの中で何かが壊れた。腕をルイズの身体にまわして抱きしめた。ルイズは伸び上がってピーターにキスした。ピーターは頭の中が真っ白になったような気がした。これは夢だ、夢だ、と思いながら、自分からもキスを返した。ルイズの唇が顎にふれ、頬をさまよい、耳を撫ぜ、耳たぶを軽く噛み、さらに下がって喉に触れた。背筋がぞくぞくした。もう、立っていられない、と思った時、何かが身体にぶつかってきて、ピーターは石の床に突き転ばされた。

 したたかに膝を打って、うめきながら立ち上がろうとした時、すぐ側に同じように立ち上がろうともがいている小柄な身体があった。

「ガル博士、いったい……」

「目を覚ませ、この馬鹿者。女をよく見ろ」

 ピーターははっとルイズを振り仰いだ。ルイズの顔は恐ろしい変貌をとげていた。さっきまでの優しく愛らしいルイズはどこにもいない。ぎらぎらと光る目は赤く血走っている。怒りのあまり紅潮した頬、小鼻は開き、激しい息を吐き出している。そして真っ赤な唇は吊りあがり、めくれ上がって白い鋭い犬歯をむき出しにしていた。

 ひっと叫んでピーターは腰をぬかした。

「ピーター、どうなさったの? 何を怯えているの?」

 ルイズが言った。声だけは同じルイズの声だ。だが、これはルイズではない。地獄から抜け出してきた悪霊だ。

 ピーターは腰を抜かしたまま、必死に後じさりした。その手に黒い鞄が触れる。そうだ、この中に。手探りで留め金をはずし、後ろ手に中を探った。痛っ。鋭い刃で指を切った。思わず血の流れる指を口に含んだ。

 ルイズの目が光った。獣のような唸り声をあげて、掴みかかってきた。だが、その時にはピーターは解剖用の大きなナイフを両手で掴んでいた。思い切り横になぐと、嫌な手ごたえがあった。ルイズはぎゃっという異様な悲鳴をあげてのけぞった。白い喉から真っ赤な血が噴水のように噴き出して、純白のドレスを汚した。ルイズは喉を押さえながら憤怒の表情でピーターを見る。

「よくも…」

 言葉と同時に、口中から溢れてきた血が顎を伝って流れた。ピーターはナイフを掴んだままがたがたと震えていた。ひたすらに恐ろしかった。ルイズが起き上がった。獣のように目が青く光る。来る。ピーターは目を閉じた。ここで死ぬのだ。

何かが宙を飛んで襲い掛かってきた。ピーターは目を閉じたまま、渾身の力を込めてナイフを前方に突き出した。

 衝撃とともに、動きが止まった。永遠とも思える一瞬の後、重い身体が倒れかかってきた。必死で押しのけ、這うようにして逃げ出した。ナイフが手から離れたことに気付いたが、どうでもよかった。よつんばいになって這い出し、固い石の床に倒れた。冷たい石が頬に気持ちがよかった。そのまま目の前が暗くなった。

「ダーリントン卿! ダーリントン卿!」

 誰かが肩を揺すぶる。

 ピーターが目を開けると、目の前に老人の心配そうな顔があった。

「よかった。気がついたようだな」

 ガル博士……

「さ、これを飲みなさい」

 博士に上体を支えられて、銀のフラスクの液体を飲んだ。強いブランディだった。喉が焼けて咳き込む。だが、おかげで少し気持ちが確かになった。

「博士、どうして?」

「鞄を忘れたことに気がついて、取りに戻ってきたんだ。そうしたら、君が…」

そうだ、ルイズは……

 ルイズは少し離れたところに倒れていた。ナイフを胸に突き立て、歯を剝き出し、かっと目を見開いたまま死んでいる。

 ピーターは血にまみれた両手を見下ろした。

「やむを得なかった」

博士が言った。「やらなければ君が殺されておったろう。あまり気に病まんことだ。立てるかね?」

 ピーターはよろめきながら立ち上がった。

「警察に行かねばならんな。だが、心配はいらん。わしが証人になる。その女は君の喉笛を噛み切ろうとしておった。君は自分の身を守ろうとしただけだ」

「博士、我々は夢を見ていたんです。この納骨堂は空気が濁っていて身体に良くない影響を与える。人に幻覚を見させる」

「幻覚などではない。その女は明らかに精神の平衡を欠いておった」

 ガル博士はまだ、ルイズが死から甦ったことを理解していないのだ。ただの狂人だと思っている。だが、警察へ行くわけにはいかない。あの死体はルイズだ。一週間前に埋葬されたはずのルイズなのだ。公表されれば、ダーリントン家の婚約者が化け物だったことになる。いったいどうしたら……

 痛む身体をひきずりながら、ピーターは出口に向かった。扉のところまできて、思いついた。

「あ」

「どうした」

「鞄とカンテラを忘れてきました。取ってきます」


 ルイズの死体も隠しておかなければ。

 ナイフを引き抜こうとしたが、柄まで刺さっていてうまく抜けなかった。しょうがなしに、ピーターはルイズの死体をそのまま抱えあげると、棺に戻した。床や壁に飛び散った血は今はどうしようもない。掃除するまで、納骨堂の中に誰も入れなければいい。鍵を持っているのは自分だけだ。掃除してきれいにしてしまえば、証拠は何もない。博士が何を言い出したとしても、婚約者の棺を開けるなど、死者への冒涜だと拒否すればいい。誰も怪しむまい。ルイズは一週間前に死んで無事に葬られているのだから。ピーターの頭脳はようやく動き始めた。

 棺の蓋を閉め、元通りに錠をかけた。枯れた花束を拾いあげ、元通り棺の上に載せた。これでよし。あとのことはゆっくり考えよう。鞄とカンテラを持つと、急いで出口に向かった。

「ガル博士……」

 博士は半開きの扉の前にうつ伏せに倒れていた。

 そして、一頭の巨大な狼が、その身体の匂いをかいでいた。

 狼は頭を上げると、茶色い目でピーターを見据えた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る