第14章 ヴァンパイア

 ファンから花束をもらうことはよくあるが、こんな見事なものをもらったのは初めてだ。ロングステムの真紅のばらは何本あるのか、テッサの顔よりも大きい。楽屋番のステファノ爺さんは、立派な若い紳士からですよ、とにやにやしながら言った。気色の悪いじじいだ。

 花束にはカードがついていた。普通の名刺のようで、表には飾り気のない書体で、クエイド・リプスコムとあり、ニューヨークの住所が印刷してある。裏を返すと、手書きでロンドンの所番地が書いてある。クエイドという名前はひとりしか思い当たらない。お嬢さんの婚約者の友達とかいうあのアメリカ人だ。すると、この所番地があのお嬢さんのお屋敷なのだろうか。

 お嬢さんのことを考えると、あまり気分がよくなかった。仕事は終り、お手当てはちゃんと頂いた。それでも、最後に見た、あのお嬢さんの悲しそうな顔は心残りだ。見捨てたようで、思い出すと心が痛む。

 お屋敷がわかるなら、行ってみようか。

 でも、行ってどうするというのだ。お嬢さんは所詮お嬢さんだ。住む世界が違う。他に考えなければいけないことが山ほどある。ここのところ、小屋の入りがよくない。ジャックが戻ってきたとか、人さらいのホワイト・レディとかの噂があって、世の中が騒がしいからかもしれない。夏が過ぎれば客足が落ちるのはわかっているから、今のうちに稼いでおきたいのにこれでは困る。

 夏が過ぎたらいずれにせよ、巡業に出なければならない。今まではせいぜいドーヴァーを渡ることしか考えていなかったが、最近、いっそのこと大西洋を渡ってみようかとも思っている。この間会ったあのアメリカ人に言われてから、それも面白いかも、と思い始めたのだ。この古い国の階級社会にはうんざりだ。アメリカは若い国だ。もっと思いがけない面白いことがあるかもしれない。

 三郎の気持ちも聞いてみたいのだが、あの男はここ数日、仕事が終わるとそそくさと帰っていく。金も力もない――人一倍無い――色男に女ができるとは思えないから、腑に落ちない話だ。もちろん、三郎にはいいところもある、とテッサは弟子の棚卸しをしたことを反省した。堅苦しいけど、義理堅い。三郎は信頼できるのだ。この世の中、それだけでも貴重だ。でもやっぱり、三郎が女と会ってるところは想像できない。想像したくもない。

 くさくさする。

 テッサはクエイドのカードを化粧台の引き出しに放り込んだ。

 ブルヘッドにでも寄って行こう。


 ブルヘッドには、顔なじみが集まっていた。蛇使い、娼婦のネリー、コニー、キャシー、メグ。ネリーの隣で小さな女の子が二人、半分ずつに割ったりんごを食べていた。娘なの、とネリー。ホワイト・レディが心配で子供だけで置いておきたくないが、仕事に出なければあごが干上がる。それで連れて出てきたという。ネリーの仕事を考えると、子連れはあまり感心しない。蛇使いも同じことを考えたらしい。露骨に顔をしかめた。

「かえって危険じゃないか」

「目を離す方が、もっと怖いよ」

 と、ネリーが言い返した。

「いったい何者なんだろうね、ホワイト・レディ」

 コニーが言った。

「その、首の傷ってのが気になるじゃないか」

 と、蛇使いが言った。

 そう、テッサもホワイト・レディの噂を聞いた時から気になっていた。虫刺されのような二つの小さな穴。お嬢さんの首にもあったのを思い出す。

「傷っていったって、ほんとにちっこなもんだよ。ピンでちくりと突いた程度のもので、ほとんど血も出ていない」

 と、コニー。

「見たのかい?」

「弟のとこの女の子がね、ホワイト・レディに襲われたって言うんで、見舞いに行ったんだ。かわいそうに、青い顔して寝てたよ。その子のすぐ上の子がね、ホワイト・レディを見たらしいんだ。白いドレスを着た女の人が、妹の上にかがんでたんで声を上げたら、その女の人はこっちを向いた。目が真っ赤だった。それから女の人は消えちまって、妹だけがその場で泣いてたって」

「真っ赤な目って変なの」

 メグがけたけたと笑いながら言った。メグはいつも少し調子っぱずれだ。

「ヴァンパイアだ」

 キャシーが低い声で言った。

「何だって?」

 ネリーが聞き返した。

「吸血鬼。墓から甦って、人の血を吸ってまわる悪霊」

 キャシーはテーブルのまわりの顔を見回した。

「子供の頃、おばあちゃんから聞いたことがある。人に殺されたり、自殺したりした人は、ちゃんと臨終の秘蹟を受けてないから天国へ行けないんだ。そういう人は埋められてからヴァンパイアになる。青白い幽霊みたいな顔をして墓場から出てきて、人の生き血を吸う。血を吸われた人間はすぐに死んでしまって、自分もヴァンパイアになる。おばあちゃんが子供の頃にいた村では、そんな風にして、村の人の半分以上が死んでしまったって」

 それは伝説だろう? と、蛇使いが言った。キャシーは首を振った。

「おばあちゃんは本当の話だと言っていた。だから、ヴァンパイアになりそうな死人が出たら、口の中に石を詰めてから埋葬するんだって。ヴァンパイアにならないように」

 口中に石?

 頭の中で何かがひっかかった。

「俺の国のグウルに似てるな」

 と蛇使いは言った。「墓場から出てきて、旅人の血を吸ってまわる化け物だ。キャシーのばあちゃんはどこから来たんだ?」

「おばあちゃんは若い頃、トランシルヴァニアの小さな村に住んでいたって言ってた」

「トランシルヴァニアってどこ?」 

コニーが訊ねた。

「大陸のどこか。森の多い国だったって」

「ふうん。でも、ここはイギリスだよ」

「ホワイト・レディは、ヴァンパイアだよ。首の二つの穴は牙のあとだ。そこから血を吸ったんだ」

「よしとくれよ、子供が怯えるじゃないか」

 ネリーが強い口調でさえぎった。子供たちは、大きく目を見開いて夢中になって聞き入っていた。キャシーは口をつぐんだ。

「あたし、もう行くよ」

 ネリーは子供を促して立ち上がると、パブを出て行った。メグとコニーも後に続いた。

「待って」

 テッサは立ち上がりかけたキャシーを引き止めた。「もし、ヴァンパイアに襲われたら、どうすればいい?」

 キャシーは戸惑ったような顔をした。

「どうしてそんなこと聞くの?」

「あたしの知り合いにもいるんだよ。首に二つ、小さな穴があいてたんだ」

 お嬢さんの夢の話をすると、キャシーは震えだした。

「ヴァンパイアだよ。その人はヴァンパイアに襲われたんだ。やっぱり、子供だけじゃなかったんだ」

「やっぱり?」

 キャシーはささやくような声で、その人、死んだ? と聞いた。

「死んでないと思うよ」

 昨夜は、よく眠れなかった。ベッドの中で寝返りばかり打っていた。とうとう諦めて起き上がり、窓を開けると、月が煌々と照らす無人の街路に、お嬢さんが立っていた。純白のドレスを着て、こちらを見上げている。

 そんな馬鹿な、と思った。幽霊じゃあるまいし、こんな時間にお嬢さんがたった一人でこんな場所にいるはずがない。振り返って時計を見た。午前一時。

 もう一度見直すと、お嬢さんはいなくなっていた。

「あたしが寝ぼけてたんだね」

 だが、キャシーは首を振った。

「その人、死んだんだ。死んでヴァンパイアになったんだよ」

 キャシーは首にかけていた十字架をはずすと、テッサにかけようとした。

「はずしちゃだめだよ。いつもかけてるんだ。絶対にその人に近づいちゃいけないよ」

 テッサは十字架を押し戻した。

「いいよ」

「でも、マエストロ」

「十字架なら、うちに一つあるんだ。だから大丈夫」

「ちゃんとかけてるんだよ。約束して、ちゃんとかけてるって」

 キャシーは何度も何度も念を押した。


 下宿に戻ると、トランクの底から長らく仕舞っておいた十字架を取り出した。

 テッサは信心深い方じゃない。最後に教会へ行ったのがいつだったかも憶えていない。だが、もっと長く教会にご無沙汰していたに違いないレイノルズは、ごく信心深い男だった。酔っ払うたびに、お祈りのように神様へお詫びの言葉をつぶやいていた。レイノルズが死んだ時、テッサは、神様もきっとこの横着な男の真摯な信仰をわかってくれただろう、と思った。遺品の中に古びた聖書と十字架を見つけた時、処分する気になれず、いつかレイノルズの身内が見つかったら渡してやろうと、トランクの奥に仕舞っておいた。

 レイノルズの十字架は、ガス灯の光を反射してきらきらと光った。

 あたしはキャシーの言葉を信じているのだろうか? ヴァンパイアが本当に存在すると? だが、お嬢さんのあの傷はどうだ? 彼女が話した霧と赤い目の夢は? 昨夜、窓の外の街路に立っていたのはお嬢さんではないか。

 いいや、あれは夢だ。もう一度見直した時には、誰もいなかったではないか。

 テッサは四柱寝台の枕元のポールに、十字架の鎖をかけてベッドに入った。

 昨夜と同じで、眠りはなかなか訪れなかった。眠ろうとすればするほど、目が冴えてくる。とうとう、諦めて起き上がった。立ち上がって窓のブラインドを上げると、街路を見下ろした。

 やはり。

 月光を浴びて、お嬢さんが立っていた。

 不思議に恐ろしいという気持ちはなかった。ルイズの真っ白な顔は親しげな微笑を浮かべていたし、隣にはもっとずっと小さな影が立っていた。子供だ。三歳くらいの幼女が、ルイズと手をつないで、眠そうな目でこちらを見上げている。

 ルイズが片手をあげて、招いた。

 テッサはすぐに心を決めた。服を着ると、十字架を首にかけた。ぎしぎしいう階段を音のしないようにそっと下りた。

「こんばんは。久しぶりです」

 ルイズは嬉しそうに挨拶した。

 テッサはルイズの様子を頭から足元までじろじろと見た。白いドレスを着て、白い繻子の靴を履き、金髪をきれいに結い上げている。幽霊のようには見えない。手をのばして白い腕をつかんでみた。ひやりとした感触。だが、ちゃんと実体があった。

 ルイズは驚いたような顔をした。

「何? どうしたの?」

「あんたが幽霊じゃないか確かめてみた」

 ルイズはころころとよく響く声で笑った。

「素敵。テッサさんって冗談がうまいのね」

「だって変じゃないか。良家のお嬢さんが夜中にこんなとこにいるなんて」

「わたし、家出したの」

「家出?」

 ルイズはうなずいた。元々、ピーターとの婚約は、財産と家柄が釣り合うことから母親が決めたものだ、と話した。初めから気が進まなかった、と。だから、思い切って家を出て、今は女学校時代の友達の家にかくまってもらっている。

「昼間はピーターが探してるから、夜でないと出られないの。ここへは昨夜も来たのよ。でも、テッサさんが出てこなかったから帰ったの」

 テッサは半信半疑だった。ルイズは幽霊じゃない。でも、噂に聞くホワイト・レディそっくりの姿をしている。

「この子はどうしたの?」

 預かったの、とルイズは言った。「友達の家族に急な病人が出て、どうしても出かけなきゃならないっていうので。一人で家に置いておくのは心配だというから。ほら、今、ホワイト・レディとかいう人さらいが横行してるでしょ」

 あんたがさらって来たんじゃないの? とは言えなかった。女の子はきちんと服を着て靴を履いていた。寝床から誘い出されてきたようには見えない。怯えているようでもない。テッサの顔を無心に眺めている。短髪が珍しいのかもしれない。

「お嬢ちゃん、お名前はなんというの?」

 テッサが聞くと、セイラ、と答えた。

「ママは?」

「お仕事」

「看護婦さんなの」

 と、ルイズ。

 テッサは子供の前にしゃがむと、あごに手をかけて首筋を見た。傷はない。

「何してるの?」

 と、ルイズが言った。

「ホワイト・レディにさらわれた子供たちは首に傷があるって聞いたから。あんたのみたいな」

「ああ、あれ? もう直ったの。ほら」

 ルイズの白い首筋には、なんの傷もなかった。指先に触れた肌は暖かく、柔らかかった。

「虫に刺された傷なんて、すぐなおるわよ」

 そうかもしれない、と思う。疑う方がおかしいのだ。ヴァンパイアなどいるはずがないではないか。そう思うと気が楽になった。

「ここに突っ立ってるのも気がきかない。中に入らないか?」

 テッサが誘うと、ルイズは、実はテッサの脱出術を見せてもらいたくて来たのだ、と言った。

「本当は小屋の方へ行きたかったんだけど、ピーターが探してるのはわかってたから。見つかりたくなくて。こんな夜に悪いんだけど、見せてもらえないかしら。この子も見たがってるし……」

 そうねえ、とテッサは考えた。見せてやるのは簡単だが、手錠も足枷も全部、小屋の方にある。

「じゃあ、そこまで歩きましょうよ。いい散歩になるわ。どうせ友達は朝まで戻って来ないんだから。ねえ、セイラ。お姉さんの縄抜け、見たくない?」

「見たい」

 眠くないの? とテッサが訊ねると、子供は首を振った。テッサは苦笑した。

「それ、何?」

 子供がテッサを指さして尋ねた。首に手をやってみると、固いものが指先に触れる。レイノルズの十字架だった。

 テッサは首から十字架をはずすと、月光にかざして見せた。きらきらと光る十字架を子供は目を輝かせて見ている。はい、と言ってテッサは子供の首に十字架をかけてやった。

「あげる」

 ルイズは微笑みながら、その様子を見ている。

「あら、よかったわねえ。ちゃんとお礼を言いなさい」

 ルイズに言われて子供は、ありがとう、と言った。

「じゃ、行こうか」

 テッサとルイズは、子供を間に挟んで歩き始めた。大通りに出れば辻馬車が見つかるかもしれない。月は東の空に傾きかけている。三人は長い影を石畳に引きずりながら、手をつないで歩いていった。


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