第7話 Gがつくアイツ

 アカネに襟首をひっつかまれ、数メートルほど距離をとって始めて、ようやくキミタカは平静を取り戻した。

 離れた、という事実を認識さえできれば嘘のように症状が消えるのも、百年前から人類につきまとっている“病”の特徴である。

 だが、キミタカは憔悴していた。

 自分の無力さにしばらくうなだれたまま、一言も口に出来ない。

 ずいぶんと長く感じられる沈黙の後、


「……助かりました」


 最低限の礼儀を果たすだけの言葉を述べ、のそのそと起き上がる。

 顔を上げると、《人形》はこちらを見ていなかった。返事の代わりに、ボリボリという豆菓子を噛む音が聞こえる。

 つくづく奇妙なやつだと思っていると、


「それじゃ、あたしは少し離れるから。しばらくここで待っててくれる?」

「どこか行くところがあるんですか? なんなら手伝いますよ」


 本音を言うと、今日はもうさっさと帰って寝てしまいたかったが、一応、提案してみる。


「うん。そうしてくれるとありがたいんだけど……、ほら、あたしが用あるのって、あの中だからさ」


 そう言って指さしたのは、例の古びた鉄塔がある方向。

 なるほど、たしかにあそこに入ることはできない。


「なんなんです? あそこって」

「あんたらの先祖の基地だったところよ」


 先祖、というと……、つまり、“最終戦争”の頃の軍のことだろうか。

 大昔の基地に、何の用があるのだろう。


「ちょっと探しものがあって」

「探しもの?」

「ちょっくら、月を壊す武器をね」


 なんだか突然、途方も無いことを言われて。


「壊すつもりですか? ……その、月を?」

「まあね」


 よくわからないが、どうやら本気らしい。


「月見団子が食えなくなるのは嫌だなぁ」


 我ながら間の抜けた感想を言うと、アカネはひくっと眉を上げる。


「ああ、――そういう意味じゃなくて、……ひぎぃっ!」


 何か言いかけた《人形》の顔色が、さっと青く変化した。

 何事かと思って目を見張ると、視界の隅で、何かが動く。


「なによなによなんであいつら絶滅してないのよ絶滅してよしかもでかいし青いしなにああれ気持ち悪い気持ち悪い……っ」


 対するキミタカは、むしろ安堵のため息をついて、


「苦手ですか。――ゴキブリは」


 そう応えた。

 “物の怪”の身体の下部にある、ぽっかりと空いた空洞から、十数匹の青いゴキブリが飛び出ているのが見えたのだ。

 “物の怪”の腹の中を住処にしていたのか、それともアカネが話していた『ゴキブリを退治する機能』によって捕らえられたのか。真相は定かではないが、アワジシマアオバネゴキブリの群れが、わさわさと元気そうに這い回っている。


「この世に存在する女の子は全員、ゴキブリが嫌いなのよっ」

「そうなんですか?」

「そうなのっ」


 アカネは断ずる。

 まあ、「女の子」に限定しなくても、この辺の住民は皆、あの虫を嫌っている。

 青いゴキブリの体長は平均で十センチ、名の通り羽に青色の光沢があるのが特徴で、雑食。イタチやタヌキ、ヤマネコの骨だけになった死骸を見かけることがあったら、ほとんどこのアワジシマアオバネゴキブリの仕業らしい。


「気をつけてください。あいつら、油断すると噛みますので」


 念のため注意を喚起する。が、これは失策だった。


「か、噛むって……ゴキブリが?」

「はあ」


 その一言は、赤髪の人形を狂乱させるに十分だったのである。


「め、目をつぶってェ!」

「――ッ!?」


 何事かと考える前に、思い切り目を瞑る。

 《人形》がバックパックから荒々しく何かを取り出したらしい音がして、


「とおりゃあっ!」


 と、何かを放り投げた。

 同時に、前方からものすごい爆音がして、ぐわんぐわんと鼓膜が震える。

 何か、小型の爆弾のようなものを投擲したらしい。


「あまり刺激しちゃ駄目です!」


 声の限りに叫ぶ。

 青色の羽根を持つゴキブリは”山のピラニア”と呼ばれ、群れればちょっとした動物なら簡単に食い尽くしてしまうという。


 ようやく薄目を開けた次の瞬間には「いつまでぼーっとしてんのよ来てる来てるまじで気持ち悪いの来てるなんとかしてよ男でしょ!」などと喚き散らしながら自分の手を引いているアカネの姿を見ていた。


 どうやら、ゴキブリが一匹、こちらに向かって接近してきているらしい。

 キミタカは、素早くアカネの手を振りほどいて、


「下がっててくださいっ」


 そう叫んだ。

 腐っても保護隊員として訓練を受けた者としては、ゴキブリ如きに尻尾を巻く訳にはいかない。

 それに、さっきのごたごたで、大弓がかなり離れたところに置かれたままになっていた。


(あそこに放っておいたら大目玉だな)


 闇夜でもぎらぎらと光を放つ特徴的な羽の色のお陰で、ゴキブリの姿を追うのはたやすい。


「すいません、先に行ってて下さい」

「えっ?」

「弓を回収します」


 キミタカはとりあえず、きた道を全速で引き返した。

 “山のピラニア”と言っても、所詮はゴキブリだ。

 群れていなければ、それほどの驚異ではない。

 キミタカは、タイミングを見計らって“それ”を思い切り踏んづける。ブーツの裏に粘性のある踏み応えを感じて(あとでよく洗えば問題ない。たぶん)、そのまま大弓をひっつかんだ。


 振り返ってアカネを見ると、呆然とその場に立ちつくしたままである。


 その顔には「うわ、踏みやがったアイツ。キモ……」という言葉が浮かんでいるような気がしたが、キミタカは無視して《人形》の元へと駆け戻る。


「逃げましょう!」

「で、でも……」


 アカネは、未練がましく基地の方角へ視線を投げる。


「ひょっとすると、連中の巣に迷い込んでしまったのかもしれない。生きたまま食われることだってありえるんですよ」


 キミタカは、少し話を大げさにして、言った。

 このゴキブリは確かに危険だが、その多くは人里離れた場所に生息している。人間を襲うことは滅多になく、連中に食われて死んだ人間の話など滅多に聞かない。

 だが、危険なことには変わりなかった。


「あー、あーっ、うーっ……」


 さすがにそれはかんべんして欲しいと思ったのだろうか。《人形》は、赤子のようなうめき声を上げる。


「で、でも、確かにあそこにあるって情報が、――」


 それでもなお、欲しい玩具を目の前にした子供のように愚図るアカネを前に、キミタカは軽く歯噛みした。

 無理にでも引っ張って行こうか、と……思った矢先。

 血の気の失せたアカネが、再び「ひぎぃっ」という声を上げる。

 なんだと思って振り向くと、


「う、うげっ!」


 今度ばかりは、キミタカもアカネと全く同じ表情になった。


 二人の前にいるのは、鬱蒼と生い茂る樹々の葉に張り付いた、――

 視界いっぱいに広がる、青いゴキブリの群れ。


 どこかそれは、そういう色の果実がたわわに実った樹のようにも見える。


(さて、と)


 キミタカは、頭の中の冷静な部分で考えた。


 彼らの目的は、自分か。隣りの《人形》か。

 少なくとも、食べ甲斐があるのはアカネの方だが。


 隣に視線を向けると、半分白目を向いた《人形》が、アワアワと口を開けたり閉じたりしているのが見えた。


(ゴキブリに食われて死んだと聞けば、実家の母はどれほど無念に思うだろう)


 麻痺した思考でそんなふうに考えていると、ふいに耳元を何かがかすめた。


 ぼとり、と。


 木の上のゴキブリが一匹、地に落ちる。

 たったそれだけで、「ふにゃあっ」とアカネが情けない悲鳴を上げた。


 続いて、一匹、二匹と。

 つぎつぎと、ゴキブリが樹から落ちてくる。


 地面に落ちたそれらが身動き一つとれないでいることを見てから、その腹部に正確に矢が突き刺さっていることに気づいた。


「――?」


 首を傾げる。

 青いゴキブリが、……次々を矢に射られて死んでいるのだ。

 だが、その出処がわからない。


 振り向くと、


「だぁかぁらぁ、言ったっしょー? もっとイッパチ持ってきた方がいいってさぁ」

「まー、追い払えりゃ十分なんじゃん?」

「ごちゃごちゃ言ってる暇があったら、撃てってッ!」


 聞き覚えのある声。

 まさか、彼らの声が福音に聞こえる日が来ようとは。


 佐藤二士、山崎二士、それと、松村二士。

 メスゴリラ、メガネザル、チビネズミの三人組。


 よくよく目を凝らすが、そこにいるのは三人だけではなかった。樹々の合間から、少なくとも十数人の先輩たちの姿が見え隠れしている。

 みな一様に、草木を自身の身体に結びつけ、一見しただけでは当たりの草木に埋もれてしまいそうな格好で身を隠しているようだ。

 その中央には、ぷかぷかと紫煙をくゆらせる島田一士の姿も見える。


 ぼんやりとしている合間も、ひゅ、ひゅ、ひゅ、と雨あられと矢が飛び出しているらしい。

 そのほとんど全てが、正確にゴキブリを射抜いていくのだった。


 虫の群れの反応は、野生の生き物とは思えないほど鈍重な動作で、ようやく木の上から離れ始める。


「お前ら! 仕留めた数が少ない奴は罰ゲームだからな! いいな?」



「「「「――おぉッす!」」」」



 数人以上の野太い返事。


 闇夜の静寂は打ち砕かれ、喧噪が当りを包んでいた。


 ふと、周囲をもうもうと煙が立ち込めていることに気がつく。

 どうやら、先輩方の仕事らしい。

 青いゴキブリの動きが鈍いのは、煙に包囲された結果、行動が制限されていたことも関係しているようだ。


 次々と撃ち落とされていくゴキブリの死骸を呆然と眺めていると、


「羊が十三匹、羊が十七匹、羊が十九匹、羊が……」


 焦点の合っていない目で、アカネがブツブツと呟く。


 どうやら、百年前の生物兵器には刺激の強すぎる光景だったらしい。


 思わず苦笑する。

 その時だけ、彼女が普通の女の子のように見えたからだ。

 そうこうしていると、


「よお。調子どう?」


 街でたまたま出会ったかのような気安さで、島田無行が挨拶してくる。

キミタカは顔を思い切りしかめて見せて、


「……っていうか、先輩」

「なんだ?」

「わざわざ擬態装束まで持ちだして……。ずっとつけてましたね」


 島田は、ぷふぅーう、と、煙草の煙を空に向けて吐き出してから、


「逆に聞くが、キミタカ」


 にやりと笑ってみせた。


「この俺達が、つけてこないとでも思ったのか?」

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