10

 人類ひと殺しが、この中に居る。そんな、血原の御曹司がち撒いた毒に巻かれながら、我々は皆揃って、彷徨う鹿驚魔キキーモラに難渋しつつきざはしを上って行く。私は、昨日秋禅の為によくよく気を揉んでやった事を後悔し始めていたが、しかしすぐに、如何に軽蔑したくなるような相手でも、判事は正義に於いて気を抜くものではないだろうと、もう役にも立たない反省を行った。それに、警戒を為すべきという、彼の指摘自体は間違っていなかっただろうから(そもそも、危険な情況への目眩しとなった検認の話を始めたのも、また彼であったが。)。

 そうおもんみている間に、目的の金庫部屋へ到達した。私の居ぬ間に遣り取りでもあったのか、何故か鍵を持っていた雪峰が、覚束ない手つきで扉を解錠する。皆で中へ入って行くと、金庫が有った、と言うよりは、見上げる程に巨大な黒塗りの金庫が、右一面の壁を占めていたのであった。これは、うん、確かに、家裁へ持ち込むとかそういう議論をするものではないな。

 その大き過ぎる金庫の、把手の辺りには便箋サイズの上質紙が貼られ、万年筆で書かれたと思しき短文と、閣盛氏の署名捺印が見られる。署名の上には日付も記されており、法曹人として好もしさを感じてしまう「正しさ」がそこに有った。

 その書面のすぐ脇に雪峰が立ち構え、まずは申賀を喚んだ。彼に内容と筆跡を確認させ、次に翔々子を喚ぶが、

「ああ、裁判官さん。我々目が良く利きませんので、妖崎先生を代わりにさせて宜しいでしょうか。そもそも、私に読ませるのは夕景あの人の代理なのでしょうから、顧問の妖崎さんでも遜色は無いでしょう?」

 その結果妖崎が、恐らくは既に読んだことがあるだろうに、真面目に封印紙へ近寄って腰を折ったので、私もあまり遠慮せずに近付いてしまった。

『遺言書在中、開封せずに家庭裁判所の検認を受けること。』

 成る程な。うんうん。素晴らしい。お手本のような文章ではないか。……金庫じゃなくて、封筒に書いてくれればなぁ。

「では、」雪峰はそう呟くと、手鞄から黒い鋏を取り出した。そのぎらつく刃を見て、私は、腹を裂かれた本影が未だ下階で冷やされているのを思い出してしまう。彼女の信奉するという「ザナクルドの教え」とやらは全く知らないが、それでも、食品のように冷却されている様は、一人類に対する侮辱のように思え、出来る限り早くあそこから解放してやりたいという義心に駆られた。そもそも、よくよく彼女の骸の様子を見ることすら出来ていないが、どういう状態だったのだろうか。

 雪峰は、尋常な封筒の検認に倣うことにこだわったらしく、金庫を開けるのに邪魔となるその紙を剝がすでなく、鋏でもたもたと切り裂いた。上方の隅が留められていた紙葉は、二つに分かれると途端に均整を失って傾ぎ、部屋内の僅かな気流を執拗に捉えて暖簾のように揺らめきつつ、そこにかくしていたニッチを露呈する。

「本来は、私が開けねばなりませんが、」

 そう呟く彼女に場所を譲られた妖崎は、再び屈み、現れた金庫の施錠機構へ対面した。そこから、何か始める前に、

「皆さん、僕は顧問弁護士として閣盛さんに番号を教えていただいており、今日までそれを使ったことは有りません。先程の封印で、信じていただけるとは思いますが。」

と、しっかり宣言して見せた。

 まじない仕掛けの筈の錠機構も、見た目は普通のダブル・ダイアル錠で、並んだ回し金が間抜けた顔の円眼鏡のように見えてくる。妖崎はその内の右目を握り、右へ五周回した。続いて左へ三周、更に右へ二周、最後に左へ半周。そして、左目の方も同じ様にぐるぐると虐め始める。これが済むと、彼は両手の親指を揃えて、眉間に相当する場所へ突き刺すように宛てがい、残りの八指を大きく広げた。瑠璃紺の肌の彼がそうするので、以前知人から橙国旅行の土産に貰った、アクリルに閉じ込めた珊々さんさんたるモルフォ蝶のように見えてくる。

 妖崎がそのまま、ブツブツ呪文を呟くと、何か、大きな金具が掛け違う様な音が、機構の向こうからくぐもって聞こえてきた。彼は一仕事終えた素振りで立ち上がり、無言で場所を譲り渡してくる。

 引き継いだ雪峰は、意を決した様子で、解錠された黒い観音扉を開いた。撥条か何かの助けが有るのか、彼女一人の力で巨大な扉は素直に拡がって行く。金庫の中が露となり、暗くて広過ぎるそれの中央にぽつんと寝かされた三つ折りの便箋は、火葬炉の中に取り残された膝蓋しつがいのように落莫としていた。翔々子らが、日々目減りして行く遺産額を思いながら身を焼いていたこの二ヶ月間、その下階からの灼熱に焼かれ続けてカラカラとなった骨屑が、漸く、思い出したように、こうして遺族らへ拾われるのだ。

 雪峰は、一旦そこへ手を伸ばしかけたが、半ばで引っ込めて、

「竜石堂さん、お願い出来ますか?」

 は?

「私、が?」

「はい、お願いします。」

 雪峰以外が拾わねばならぬとするなら、まぁ確かに、最も血原家と疎遠な私がそうするのが適当だろうが、そもそも、何故彼女自身がそうしないのだろうか。良く分からなかったが、周囲を見渡しても誰も異を唱えなかったので、私はしずしずと歩み進み、暗い金庫の中へ両手を差し伸べた。

 手にしたそれを胸許に抱えて振り返ると、洩れるような嘆声が翔々子から発せられてくる。秋禅も、母親と同様に、私の持っている便箋へ熱心な視線を注いでいた。

 私は、大袈裟に、目線を雪峰の方へ向け、

「雪峰、……さん、どうしましょうか。まずは何処か別の部屋へ移りますか、それとも、」

 私に敬体を使われるのが気味悪いらしく、雪峰の返事は少しだけ遅れた。

「そう、ですね。別段場所にこだわる必要も有りませんので、立ちっぱなしになってはしまいますが、このまま参りたいと思います。内容の確認すら、あまり、時間も掛からなそうですし。」

 そう言いながら雪峰がこれ見よがしに見つめてきた、私の手中の折られた便箋は、確かに二三枚程度しかないことが瞭然であり、透けて窺える一枚々々の行数も、酷く少ない。

 私は小さく頷いてから、その便箋を手持幡てもちばたの調子で、ただし、向かいでなく自身へ向け構えつつ、

「宜しいですか? 皆様、」

 一応数秒待ってから、一気にそれをひらいた。一枚目は、遺族へ向けた短い挨拶であり、明らかに法的な意味を持っていない。なんだ、こんなものかと、完全に気を緩めた私は、何気なく二枚目に進み、そして、呆然と固まってしまう。

 遺族に先んじて遺言を独占し続けている様を、血原親子が面白いと思う筈もなく、どうした何をしていると文句をつけてくる。だが、しかし、……なんだこれは?

 

 整理のつかない私は、仕方なく、そのまましどろに読み上げた。

「……尚、我が遺産については、遺留分として最低限認められる分を、長男 血原夕景(――年七月十一日生)に相続させ、残り全てを、……愛する、本影ポコロコ(――年八月十四日生)に、包括的に遺贈させるものと、する。ただし、『臨潮館』とその島、並びにそこに関わる設備等は、可能な限りポコロコの受遺分に帰属させることとし、更に彼女を遺言執行者として指定する。」

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