船から下ろされた私達は、簡素な船着き場から伸びる、やや急峻なれど良く整備された潮臭い石段を労せず登りきり、――と思ったのだが、伴う妖崎だけは息を切らしていた。どうにも、時々他者と感覚がずれてしまう。

 とにかく、私達は目的地である〝臨潮館〟にようよう辿り着いた。二階建ての古風な洋館だが、島の大きさによって何かを制限されたのだろうか、血原家の資産高を蹈まえると存外小体である。無論、一般的な感覚からすれば大いに持て余す程で、中で迷路遊びすら興じられそうだ。

 開け放たれた鉄格子門を妖崎と共に勝手に通り、館の入り口に直面した。切子のように執拗に刻まれた色硝子の嵌まった木造扉の左右を、青々とした木蔦が瓔珞ようらくのように垂れてまもっている。如何にも古びた、竜を象ったドアノッカーが目に付いたので、流石にこれは現役でないだろうと電子的な呼び鈴を目で探したのだが、

「ああ、これで良いんですよ。呼びたければ、これを使うんです。」

 妖崎は、そう言いながらも、只扉の前で突っ立っていた。

「どうした、さっさと叩かないのか?」

「あ、いえ。いつもの感じだと、恐らくその必要も無いかと、」

 そう妖崎が言うと、確かに、館内からの駈ける跫音あしおとに続いて勝手に扉が開かれた。出て来たのは、目鼻立ちのはっきりした、器量の良い、人間風の若い女だ。緑色の瞳が、麻紙ましのように色白な顔の上で良く映えている。

「お待ちしておりました、妖崎様、……と?」

「ああ、こっちも弁護士です。竜石堂と言います。」

 私は、無言のまま頭を下げておいた。

 向こうは、何か意外だったのか少し目を剝いてから、

「これはこれは、……この度は宜しくお願い致します。」

 こうして私達を出迎えたのは、いかにも使用人然とした、メイド服とブリムを纏った女性であり、この島の支配者たる血原家の者でないことは一目で知れた。小麦色の髪が短めに切り揃えられているようにも見えるが、どうもその実、鬘のようである。良く見なければ分からないが、顎下の辺りが、白い肌を裏切りながら支子くちなし色を帯びつつ鑢紙やすりがみのごとく僅か棘張って見える様子は、彼女が部分的にでも鱗を持つ種族であり、ならば当然に体毛を生やさぬことを示していた。皮肉な、ものだ。本来体毛を持たぬ者が、某かの目的で偽物の毛髪をわざわざ誂え、被り、そしてそれが日頃の作業に差し支えぬように、改めて上からブリムを身に付けているというのだから。某かの目的というのは、十中八九、有毛の種族への迎合乃至ないし融和だろうが、彼女の種族では、自ららの血に誇りを持ったりしないのだろうか。人間と同一な容貌――それも幸いに偶(たまたま)秀でていたもの――を持つ私には、良く分からなかった。とにかく、彼女の鱗が薄い黄色系で、地の皮膚に良く馴染んでしまっているのも、その人間風の変貌に役立ってしまっているとは想像に難くない。服の下は鱗がどういう分布で領域を占めているのだろう、と、私は下世話な想像をした。乾いた鱗の部分が、人間並みに湿った皮膚と入り交じり、眺める同族の雄を興奮させ、導いて、ついには媾合へ辿り着かせる、妖艶な地図。

 私と妖崎は、この女中によってそのまま洋間へ通された。什器から装飾や照明まで、品の良い、そして古そうな調度で纏められており、或いは埋め尽くされており、もしも館の各部屋がこの調子ならば、遺産分割協議に先立つ資産評価は骨が折れるだろうなぁと心配させられる。

 私と妖崎を、大きくない洋卓の相対した席へそれぞれ掛けさせてから、鬘の女は私へ向けて腰を折った。

本影もとかげ、と申します。この〝臨潮館〟に控えております、二人の使用人の内の片割れです。短い間になりましょうが、どうぞお見知り置きを。そして、何なりとお申し付け下さいませ。」

 「k」の発音が少々嗄れる癖と、先程から気になっている鱗の様子から、蜥蜴人リザードマンだろうなと私は想像した。

 私は、挨拶を返そうとしたのだが、その前に彼女の言葉が引っかかった。

「えっと、本影さん。今、『二人』、と仰いましたか? この御立派なお邸を、二人の使用人だけで?」

「はい、そうで御座います。」

 ちょっと惑った本影は、私の目の前の青い男の方を見て、

「どうでしょう、妖崎様。本日も、少しわたくしにお話させていただけますか?」

「ええ。宜しければ、是非。船の都合で少々早く着き過ぎてしまいましたが、実はやるべきことも無いというのが、私と竜石堂先生の正直な所でして。」

 鱗の女は、上品に口許を隠して笑った。

「では、お飲み物をお持ち致しましたら、わたくしもお邪魔させていただきます。竜石堂様は、お紅茶で宜しいですか?」

「ええっと、はい、まあ、」

 本影が去ってから、妖崎が、

「いやはや、今の本影さん、どうにもお喋り好き、……ああいや、僕から見れば女性は皆喋り好きですけど、そういうレヴェルではなく本当に話すのが好きな方でしてね。僕らが暇なのは事実ですし、ちょっと時間潰しに付き合ってもらいましょう。クライアントそのものではなく使用人ではありますが、彼女と打ち解けておくのも多少は意味が有るかも知れませんしね。」

「そりゃ潰すのは構わないが、そもそも、暇というのはどういうことだ? 血原一家には、さっさと会えぬのか?」

「それが、まだ皆さん寝ているんですよ。何せ蝙蝠人きゅうけつきですから。」

「ああ、……成る程。」

「今日の昼や夕刻の予報が悪かったので、どうしても急遽朝の出港になりました。すると、港町まで間に合うように都心から移動するには、あんな集合時間になってしまいまして、と。昨夜や今朝の慌ただしさは、そう言う事情だったのでどうか御勘弁を。」

「承知したが、……不便なものだなぁ、離島というのは。私には、こんなものに大枚はたく気持ちが知れぬよ。」

「まぁ、島というか、土地とは、改めて考えると不思議なものですよね。転がっているものを人類が勝手に劃して、その上で勝手に大騒ぎするのですから。火山の噴火やプレート運動も、別にそんなことの為に陸地を作った訳ではないでしょうに。」

 

 そんな、弁護士同士とは思えぬほどの根の無い話を我々がしている内に戻ってきた本影は、私に茶を、そして妖崎に水を供すと、自分の分の茶も注いで席を占めた。二人しか居ない使用人の一人ということで、客の相手をするのも仕事に含まれているのかも知れない。流石に、品の良い生菓子を並べた皿は、私からしか手の届かぬ場所に置いて見せたが。

 妖崎は、蝶人フェアリーの偏食に従い、いつも通り何やら良く分からぬ粉を勝手に持ち出して水へ溶かすと、ちびちび口へ含み始めた。

 そんな妖崎へ向けて、本影は弾むように、

「妖崎様。竜石堂様は、この度の事情を把握なさっておいででしょうか?」

「いえ。これがお恥ずかしながら、まだ全然伝えられておりませんで、」

 先程から、こんな本影の朗らかさが不気味だった。そりゃ、使用人であるのだから親族並みの愴然までとは行かないだろうが、しかしそれでも、主が死んでまもなくで、これ程まで底抜けに明るいものなのか? 或いは、実際胸の中で晴々としているのだとしても、それをこうもあからさまにしてしまうものなのか?

 そんな本影は、素晴らしい明朗さのままこちらを向いて、

「では、宜しければわたくしから少しお話させて下さいませ竜石堂様。まず、この館の主、血原閣盛かくせい様が逝去致しました際に、以前から何かとお世話になっていた――ああ、近年はどちらかといえば夕景せっけい様、つまり閣盛様の御子息様が専らお世話になっておりましたが――妖崎様にわたくし御連絡申しあげまして――ああ、あの時は本当に有り難う御座いました妖崎様、お世話になりました――、それで、閣盛様の遺言の内容も夕景様や若奥様に御覧いただけると思っていたのですが、なんとまぁ民法の、……何条でしたか? 詳しいことはわたくし不勉強で存じ上げませんが、とにかくそれのお蔭でお遺言の内容を確認出来ないと仰るではないですか! 解錠の番号をお知りかつ呪術式の心得をお持ちで、つまり金庫を開けられる妖崎様も、閣盛様の唯一の御子息である夕景様も、若奥様の翔々子しょうこ様も、お二人のお子様の秋禅しゅうぜん様も阿古あこ様も――ああ、阿古様は成年被後見人であられますから頭数に入らないのかも知れませんが、申し訳有りませんどうもその辺には疎くて――いらっしゃるのに、どうして中身をあらためられないなんてことが御座いましょう。素人のわたくし共からすると、どうにも不思議に思えてしまいます。それでですね、そんな理由が有りましてわたくし共――いえ正確にはわたくし共というよりも夕景様や翔々子様と述べるべきで、『わたくし共』というのは不遜なのでしょうが、しかし実際に普段ここに寝泊まりしているのはわたくし申賀しんがや阿古様なのですから、このがどうなるのかということを心配する思いは寧ろ強いので御座いますので――が閣盛様の御遺志を確認するまで、今日の今日まで、――ああ、正確にはわたくしに限った場合、御開封の瞬間には寝入っておりますから、明日でしょうが、とにかく――二ヶ月も待たされたのです。二ヶ月です、二ヶ月! 裁判所様は、なんと残酷なのでしょう! 社会秩序を保つ為には、幾らでも残酷を振るうことが出来てしまうのですね? しかも、あちらが一方的に、検認とやらまでに二ヶ月も待たせておいて、ええっと、『熟慮期間』、でしたか? ――わたくしお恥ずかしいことにまるでその方には明るくないので御座いますが、とにかく――その三ヶ月の期間はびた一日たりとも伸ばして下さらないだなんて! 残酷、本当に、いとも残酷で御座います! まぁ確かに閣盛様はその偉大なお気遣いによって負債らしい負債は全て処理しておしまいで御座いましたから、熟慮期間がどれだけであろうとも結局夕景様が相続を抛棄することなんて有り得ない、いえ仮に幾許かの負債が有ろうとも債権者に迷惑を掛ける事を夕景様が肯んずるなんてこと有り得ませんでしょうが、とにもかくにも関係の無い話では偶〻たまたま、……御座いましたけど、しかし、とにかく余りにも、あんまりでは御座いませんでしょうか! 二月ふたつき、二月も閣盛様のお言葉を封じてしまうだなんて! ああ、本当にあんまりで御座います。もしも、もしもその中に、傷心の御遺族を悼み励ますお言葉が、或いは叱咤激励するお言葉が、或いは或いは、不遜な希望なれど、しかしわたくし共使用人へのちょっとしたものでもお言葉が有ったりしたら、それがほんの一片ひとひらでも有ったりしたら、二ヶ月の無遠慮な残酷さは、それが最も必要とされた、即ちそれが最も輝いて熱を持てた時期を奪ってしまったということなのです! しかも、たかが――いえ、法機関の都合も知らずに『たかが』とは無礼千万でしょうが、しかし素人な市民の素朴で正直な感情として――人員の都合がつかず検認とやらが行えないという愚にも付かぬ事情で、この二ヶ月という残酷と遅滞はもたらされたのです。何という、ことでしょう! 更に申しあげれば、即物的な意味でもこの遅延は問題な訳で御座いませんか? わたくしその手の経験が無くて良くは分かりかねますが、本来、資産や或いは投資、投機と言った物は、そうして相続までに凍りついてしまった数ヶ月も有れば、充分利殖出来た筈なので御座いますから! 本当に、実益と感情の交々こもごも、少なくとも私個人としては、憤懣のやる方ない処で御座います!(こう述べながらも、本影は笑んだままだった) そんな中で、ああ、妖崎様には御尽力いただきましたが、しかしそれでも裁判所様は、ああ、……ええ、そんな経緯が有りましたので、私共、そして夕景様達は、本当に今日と言う日を待ちわびていたので御座います。……ああ、待ちわびていたと述べながらも、肝腎の夕景様御本人が参られていないのが少し間の抜けてしまう所で御座いますが、しかし、夕景様の御不在も、世界的なお仕事やお付き合いをなされての、已むを得ない事情で御座いますから、閣盛様もきっと、御子息の、長兄の――ああ、そもそも御姉弟は居ない訳ですが――御活躍を寧ろ天で喜んで下さっていると思われるのです! ああ、済みません、血原家は代々ヴァイダ教徒ですから、『天から』というのは本来おかしいのでしょうけど、しかしザナクルド――我ら蜥蜴リザードに広く信仰されるものですが――の教えが身に沁みた、このわたくしは、どうしても、天より我々を見つめて見護って下すっている、閣盛様のお姿を想像してしまうのです!」

 私は、この一瀉千里の途中から、顔の下半分を手で押さえていた。呆れで口をぽかんとしてしまうのを、防ぐ為だ。向かいの妖崎を睨みつけると、案の定この本影の悪癖を承知していたらしく、愉しそうに――つまり憎たらしく――にやついている。

「ああ、ああ、」蜥蜴の女は、気が付いて頭を振りながら、「お恥ずかしい、申し訳有りません竜石堂様。いえ、閣盛様が捐館えんかんされてから、この館もすっかり静かになってしまいまして。なのでわたくし、久々にお客様とお会い致しますと、ついつい舌がつらつら滑ってしまいまして、」

 謝罪まで冗々くだくだしくなりそうだったので、私は急いでさしはさまった。この女の無整理な長口舌を聞かされていると、折角七十年間磨いてきた理智が壊されていくような気がしたのだ。

「ええっと、つまり、血原閣盛さんが亡くなってから二ヶ月間、今日まで遺言をひもとくのを待たされてしまった、と。」

 そうやって纏めた私の方が、恐ろしい程の圧縮度と、本影の言葉の空疎さに驚かされた。

 とにかく私は鸚鵡返ししただけのつもりだったのだが、しかし本影は、緑色の目を暢気に瞬かせつつ、

「イゴン?」

 と首を傾げてしまうのだった。

 私の方もこの反応に困っていると、妖崎が、

「竜石堂先生、『遺言いごん』では中々一般の方へ通じませんよ。『遺言ゆいごん』ですね、所謂。」

 おっと、

「ああ、ああ、そういうことでしたか、お恥ずかしいですわたくし不勉強で、」

「あ、いえ、こちらこそ不用意な言葉を使いまして、」

 成る程なぁ、こういうところが私に欠けて、そして妖崎がこなれている点か。学んでゆかねばな。

 そして、本影の明るさにも納得出来た。死後二ヶ月も経っているのならまぁ、死別の悲愴も、久々に他者ひとに会えたという喜びに負けてしまう程度には和らぐのだろう。また、本影はこの、二ヶ月という検認までの期間に御立腹のようだったが、残念ながら、待機期間としてこれは常識的な範疇だった(長いか短いかで言えば、まぁ長いが。)。寧ろ、熟慮期間の三ヶ月が満ちてしまうより暫く前に、なんとか船旅で判事と書記官を現地に送り付ける都合を付けた、家裁の努力を私としては称賛したくなる。

 さて、今、退屈を乗り越える為の手段が有り難いのは事実なのだが、だからと言ってこんな喋々しい女に好き勝手話させ続ける訳にも行くまい。鏡板の上から退廷や噤口を命ぜられたかつての権力を少しだけ恋しく思いながら、私は話題を律そうと試みた。

「本影さん、先程、この館には二人しか使用人がいらっしゃらないと仰っていましたが、どういう仕組みなのかお聞きしても良いですか? 何か、少人数で厖大な雑務を処理出来る、凄まじい家政学の知恵でもお有りで?」

「ああ、そのことで御座いますけど、確かにそうですわね、秘訣は御座います。ただ、そんな、学問だとか知恵などという流麗なものよりも、もっとこう、たとえるなら、重機に近い代物で御座いますわ。」

「……重機?」

「つまり、有無を言わせぬパワーで、仕事を処理してしまうのですよ。」

 そういうと彼女は、喉を詰まらせた者が喘ぐように見上げ、両手の指先を鎖骨と首の間に宛てがうと、口を緩く開き、およそ人類が発するものではないような、鳥の断末魔と金属の捩じ切れる音を掛け合わせたような声を、あるいは音波を、殷々いんいんと発したのである。まこと奇怪であったが、余りな突飛さと迫力のせいで、不快に思うことすら出来なかった。

 これが一種の号令であったらしく、この洋間の四方の出入り口から、或いは天井近くの思いも寄らぬ経路から、うじゃうじゃとは殺到して来たのである。

 杉の木の根元の様に、節榑ふしくれ立った指が四方から束ねられて直立している、鶏の足。それは粗末な麻のサロペットスカートの中へ、無毛の鳥肌のまま隠れて行くのだが、黄ばんだように見える内着から伸びる哺乳動物のような両腕は、力強そうに豊かな黒毛を蓄えている。しかもその癖、突然手首から毛を失って裸になる両手は、幽鬼の様に細く不気味な指を揃えていた。頭部では、犬属動物のようにすくと立った耳と澄んだ目を持っているが、まさに飼い犬の様にそれらを落ちつきなく蠢かせる様は、二足歩行かつ着衣を為しているにも拘らず、その実まともな知性を持たぬことを明瞭に示している。この、一応の着衣と獣の知能とが為す不釣り合いによって、私は、いつか曲馬団で見た大熊を髣髴とさせられた。この世で最も安全な代わりに最も不自由となった、この世で最も狭い縄張りを持つ熊が、自転車騎乗と言う、本来遠くへ駈けて行く為の技術を教え込まされていたのだ。そしてあの熊と同じ様に、この目の前の奇怪な生き物達も、本影へ愛おしそうに擦り寄って来ている。彼女がその内の、一頭だか一匹だか一人だか(或いは一羽?)を撫でると、それは犬の顔貌を裏切って再び鳥類のようになる口許、つまり鋭い嘴を開いて、快さそうな啼き声を挙げるのであった。

 幸せそうに、五頭の怪獣に囲まれる本影を見て、私はふと思い出し、

「ひょっとして、……鹿驚魔キキーモラ?」

 愛でる為に伏していた瞳を、彼女は素早く持ち上げた。

「あら、……流石、博識で御座いますね、竜石堂様。その通りです、この臨潮館に住まうてくれている、鹿驚魔キキーモラ達で御座います。」

「噂には、そういう幻獣の存在を聞いたことが有りましたし、確かに、家のことを手伝ってくれることも稀には有るという話でしたが、……しかし、鹿驚魔キキーモラというのは、基本的には気紛れで摑み所が無く、まるで、(ここで、『蜚蠊』と言う言葉を私は飲み込んだ)……ええっと、うん、鼠、そう、鼠の様に勝手に居着いて勝手に行動してくれてしまうものだと、思っていましたが、」

「普通は、そうですね。ええ。しかし竜石堂様、世にはわたくしのような者も居るので御座います。普通はどちらかといえば害獣となってしまう仔達を、叱って、手懐けて、愛して、いたわって、そして何よりも尊敬して、協力者としてしまう者が。」

 私はまた、曲馬団の猛獣のことを思い泛かべた。

 老婆が孫を愛でるように、本影は目を細め、今度は顎の辺りを優しく搔いてやりながら、

「お蔭で、わたくしは女中としてかなり特殊なんです。普通は、」

 ここで、彼女はふと、何か謀るような間を置いてから、

「……ええっと確か、わたくし詳しくは存じ上げませんが、『秋霜烈日』という言葉が御座いますよね、竜石堂様?」

 どきっとした。

「厳しい寒さや暑さ、そんな日も健気にせっせと身を粉にし、つまり霜降りる峭寒の朝に雑巾を絞って床を拭き、また炎天下の手許すら陽炎で揺れそうな草いきれの中、鎌を振るって庭を整える。そうやって主達の為に奉公を為していくこと、或いはそれを通じて身体を痛めつける事すらも、尋常な使用人にとっては、誇りとする忠実なのでしょうが、……対してわたくしの場合の奉仕は、いとも悠然としたものなのです。わたくしは、この仔達をあいし、で、いとおしみ、うつくしみ、かなしめば、……敢えて機械な言葉を使うなら、管理さえすれば、並の雑役係が束になっても能わぬ量の仕事を、こなしてもらえるので御座います。わたくしはその間、……ふふ、本でも読んで待っておれば良いのです。」

 本影が笑ったので、再び、その口許を隠す手が卒なく現れていた。

「本当、助かる話で御座いますわ。わたくし、どうしても寒さや冷たさが苦手でして、」

 確かに、私の視界へ再び延びてきた、経木きょうぎのように白く艶やかな本影の手は、水仕事の労苦などまるで知らぬ筈で、暗い藍色の、夜闇のような爪も、高次爬虫類はそんな爪を生やすのかとぼんやり思っていた私を裏切り、つまり、優雅なことにマニキュアを塗り込んでいるらしかった。家事労働ではなく、典雅な日々を送り、それで得た安らぎの余慶を愛情として家獣へ振りまくことに、最適化された手だ。

 本影は、集まった鹿驚魔キキーモラ達を一通り撫でてやると、また、例の人類とは思えぬ金切り声を発した。しかし、今度は先程のような大音声だいおんじょうではなく、間近の家獣達へ優しく、何かをつらつら言い含めるような丁度良い大きさと、そして音節の多さだったのである。これを聞かされると獣達は散開して、恐らく、それぞれの仕事へ戻っていった。

「手を、一回洗って参りますわね。」、と本影が席を立った隙に、妖崎へ、

「また、……随分な女だな。」

「しかし、ある種尊敬に値すると思いますね。あの声音、というか喉音が鹿驚魔キキーモラを回すのに必要であるのなら、しっかり蜥蜴人リザードマンの体質を抜け目なく活かしきった結果、主に信頼されて家政を司る立場、しかも優雅な立場になるという、一つの成功を収めたということでしょうから。やはり、戦略と努力の結実というのは、見上げるべきものですよ。」

「『成功』、ねえ。」

 私は、背を硬い椅子へ委ね、豪勢な部屋の中を一通り眺め回した。

「成功とは、本質的に儚いものだと分かっているつもりだが、……あの女の場合、一層だろうな。今夜ここで遺言が開けられて、そして、その後遺産の整理が始まったら、」

 私は、すっかりぬるまった紅茶を一口含んでから続けた。

「だってだ、妖崎先生、さっき本影本人が言っていたが、普段ここに息子夫婦は住んでいないのだろう? 閣盛氏と使用人と、後は気のれているという孫娘しか住んでいなかったのだろう? なら、普通なら、処分してしまうだろうよ、こんな辺鄙な場所の邸なんて土地ごと。そうした場合、……家に住み着く、謂わば土着の幻獣である、彼女の愛する鹿驚魔キキーモラ達はきっと連れ出せまい。理論上可能なのだとしても、絶海の孤島からでは、どうにも、……つまり、あの女は、或いはあの女の成功や手腕は、もうすぐ、」

「良く、あんな無茶苦茶な捲し立ての中身を聞いてましたねえ。流石です。」妖崎は、いつもの様に、どこまでも青い顎を擦りながら、「しかし成る程、ちょっと、気が付きませんでしたね。確かに、そう聞いてしまうと、中々本影さんには気の毒な話です。でも実際には、案外どうにでもなるんじゃないですか? だって、……言ってしまえば竜石堂先生、貴女もそうじゃないですか。先日までの貴女も、とにかく一種の『成功』だったのでしょう? 何にせよあそこは、狙い澄まさなければ辿り着けない地位或いは座席だったのですから。それにも拘らず、今日の貴女はもう平然として、――失礼ながら忌憚なく述べれば、寧ろ生き生きとすらされておられませんか?」

「そりゃ、あの重圧と劇務から解放されて、どこか楽しんでいるのは否定出来んよ。しかし、……余りにも違うだろう、本影と私では。私は、まぁ馬鹿なことをしなければ費やしきれぬ金も蓄えてあるし、」

 世帯を持つ前提の計算式で俸給が出ていたのだから当然だよな、と口にしかけてやめてから、

「……最初から予告されていた日付の退官だったのだから、気持ちの整理も充分で、少なくとも今の内は、このを私はただ楽しんでいるよ。しかし、本影は何もかも違うだろう。彼女の扱われ方や年齢は知らぬが、今から余生を過ごし果せる程の給金を貯めきれているとも思えぬしな。」

「ですが、少なくとも――残酷なことに――については彼女の場合も、貴女と同じ様にある程度予想は付いたのではないですか?」

 私は、ワザと音を立ててカップを飲み干してから、

「だと、いいがね。……本影が、冷酷な人類であることを祈るよ。」

 つまり彼女が、主の老衰の進行を百葉箱の値の様に淡々と観察して、或いは、日々失われ行く彼の活力を砂時計の砂量として参考にし、その終末時期を機械的に占えた人物であったならば、本影も私のように完全に心を調えることが出来ただろう。しかし、もしも彼女が尋常な心、一定以上に優しい心を持っていたならば、忠義の向け先へ死がおとなう気配を信ぜず、信じられず、信じぬ訳にはいかず、かなりの間目を覆ってしまっていたのではなかろうか。もしもそうならば、そうやって茫然と何も準備していなかったのなら、まもなく転落した後の、本影はどうなる?

 本影の精神がどちらに属するのか予想するのは、難しかった。つまり、愛を降らせ注ぐことしかしていないと言う彼女が、人類らしい温情を欠いているとは想像し難いが、しかしもしも、それこそ人類らしい、清い忠義をそれなりに持っていたのならば、仮に不必要でも非効率でも、つい己の手を動かして幾らかでも素朴な奉公を試みるものではなかろうか? 彼女の、家獣を撫でる為の美し過ぎる手は、この審理の上で複雑な証拠だった。

 戻ってきた本影は、まだまだ話足りぬぞという迷惑な気概を見るからに汪溢おういつさせていたが、座らんとした彼女が椅子を引いたところで、私達や彼女が使ったのとはまた別の扉が外から開かれた。

 入って来たのは、四十台後半に見える痩せぎすの人間の男で、頭から爪先までの女中姿の本影と対照的に、道端でも出会いそうな洋装だった。

「ここに居たか、ポコロコ。」

 蜥蜴の女は、我々とも蝙蝠人きゅうけつきとも違う常識で名付けられたらしく、この奇妙な横文字へ自然と反応した。

「あら。申賀しんが、何か用? ……と、その前に、まずはこっちに寄りなさいな。」

 男が従う隙に、本影は私の方へ翻り、

「こっちが、この臨潮間のもう一人の使用人、申賀と申します。わたくしとすれば、彼はと言う訳でして。今宵先生方が若奥様らとお話する頃には、わたくしはもう休んでしまっておりますので、この申賀を何かとの用事に使って下さいませ。ああ、勿論状況によってはわたくしも叩き起こしていただいても構いませんが、いえ、何せこの館ではとにもかくにも人手が足りませんで、ああいえ、勿論、本当に単純な意味での労働力ならば私の可愛い仔達が千人力ですけど、数が必要なことも御座いましょうし、それに、言うなれば、」

 坂を転げ落ちるように止めと秩序の無い本影の弁論を、申賀は、手慣れた所作で押しとどめてから、

「どうぞ、宜しくお願いいたします。そして、御無沙汰しております、妖崎様。此方の女性は、……まさか、奥方ではないでしょうが、」

 当たり前だ。

「ええ、こっちの彼女も弁護士で、竜石堂といいます。まぁ、基本的にはお約束通り、僕が何もかも血原家の皆様をお助けさせていただくのですが、一人では手に余る事態が何か起こった時の為に、勉強させがてら同業者を連れて参りました。」

「そうでしたか、それはそれは。……ああいえ、お部屋はちゃんとお二人のつもりで用意しておりますので御安心を、……しかし、」

 ……うん?

「『部屋』?」

「ああ、竜石堂先生、僕はいつもここへ仕事で来る度に、そのまま泊めていただいてしまうんですよ。いえ、蝙蝠人きゅうけつきの血原家の方と膝を突き合わせますと、屡〻しばしば夜も更けて船も呼べぬことになりがちでして。ですから、今回だけでなく毎度、一泊する覚悟でこの島には来るんですが、しかし孤島では宿泊施設も無いですし、どうにか都合ついたとしても結局血原さんに費用を御負担頂くのですから、なら、お邸でそのままお世話になった方が世話無いだろう、と。」

「ああ、……恐縮の至りだが、一応効率的なのか。」

 機を貪欲に見出した本影が、口を開いた。

「妖崎様をお招きする場合だけでなく、ウチとしてはとてもよく有るお話ですので、竜石堂様、どうぞ遠慮なさらずごゆるりと。……ふふ、実際、ちょっと電燈の調子を見てもらう為にお呼びした技師すらも、泊まっていただいたりするくらいなのですから。――ああいえ、別に職業に貴賤を見出す趣味は御座いませんけど、しかし、作業費としての安ワイン一本程度のお支払いと比べると、随分不釣り合いで面白いとは感じてしまいますわ、お食事もしっかりとしたものをお出ししましたし、……うふふ、」

 口を覆いつつ洒落しゃらくに笑っていたこの女中は、ふと、思い出したように表情を無くすと、自然体で同僚へ話し掛けた。

「そういえば申賀、何の用?」

「おっと、そうだポコロコ、お前と話している場合じゃなかったんだよ。」

 申賀は、やや緩んだものから厳かめのものへ、表情をがらりと着替えてから、

「妖崎様に竜石堂様、実は、たった今電話が入りまして、」

「……電話、ですか? しかも、僕ら宛に?」

「いえ、流石に我々、というか血原家宛ではありましたが、……申しあげてしまうと、裁判所からだったのですが、此方へ向かおうと本土の港まで来た担当者が、『時化に成るのが目に見えているから今日は出帆出来ない。』と船長に断られたと、」

 はぁ?

 流石の妖崎も、参ったような顔をしつつ、

「それはそれは、……いやはやうっかりしてましたね、竜石堂先生。良く考えれば、天候を気にして早めに来た僕達が、家裁の人間と未だ行きあわないって事は、……彼らがそういう創意を為していなかったことを、良く示していたわけです。」

「ああ。間抜けな話だが、……しかしまぁ同情もするなぁ。海に詳しい訳でもない、いやそれどころか業務の大半を自分の縄張りで日頃済ませている集団が、そういう所まで気が回らなくとも仕方ないと思えてしまうよ。

 ……ああ、それで、申賀さん、家裁はそれからなんと?」

「明日の同じ時刻に出向けるようにする、と関係者に伝えてくれ、と。……殆ど一方的に、それで切られてしまいました。」

 妖崎は、ちらと此方へ視線を寄越して少しだけ忌憚したようだったが、しかし結局、思いついた軽口を我慢せずに、

「いやはや。判事という方々の為すことは、いつも天下りで参りますね。毎日判決ばかり下している為の職業病なのか、或いは、お役所勤めの人間の範疇を抜け出ないということなのか。

 さて、本影さん、……大変申し訳ないのですが、何分、そう言う事情らしくて、」

「ああ、ああ、」呼ばれた蜥蜴の女は、何かに慌てるように両手を振りつつ、「勿論ですわ。どうぞお二人方共、今宵も明日も泊まって行って下さいませ。余計な一日分の食料費は、ちゃんと裁判官様達に御請求致しますから!」

「うーん。……出来ますかねえ、それ、」

 本影は、自身の、恐らく乳腺やその他の器官が発生しない為に、完全に平らな爬虫類の女の胸を、どんと叩いて、

「素直に払ってもらえないなら、妖崎様、その時も是非貴方様のお力をわたくし共にお貸し下さいな! 行政裁判、になりましょうか? とにかく、訴えてでも裁判所様から頂きますので!」

「いや、それ絶対費用倒れになりますし、そもそも、多分僕は当事者と見做されて代理人には、」

 さもしい、……でいいのだろうか? 良く分からないが、とにかく本影は何かに対して必死だった。やはり、話しているのを余り聞き続けたくない女だ。

 この軽蔑と、そして、早起きが無駄になったことで復活してきた眠気によって、私はこの部屋に居るのが嫌になり、

「ええっと、済みません本影さん、そういうことなら、今の内からそのお部屋をお借りしても宜しいですか?」

「と、お疲れで御座いますか? ああ、いえ、当然で御座いますよね、お船でわざわざいらしていただいたんですから。ええっと、そうしたら申賀、竜石堂様を御案内してもらえる? 私は、この辺りをまず片付けてるから、」

 これを横から聞いた妖崎が、慌てるように立ち上がった。

「おっと。なら、僕も一緒に行きますよ。」

 ああ。そう言えば忘れかけていたが、私はこいつの用心棒をしに来たのだったな。妖崎が、見た目は異性となる私との相部屋を臨潮館に要求していたのも、そう言う理由だったのだろう。

 では案内してもらおうと、私も立ち上がったのだが、何故か申賀は言い出しっぺの本影に捕まっていた。

「ええっと、先生方、ちょっとだけこの申賀と話が有りますので、そこの扉を出た所でお待ち頂けますか。申し訳ないです、無作法で、」

 ……うん?

 今じゃなきゃ駄目なのか、例えば私と妖崎を送らせた後では、とは素直な疑問として感じたが、余程上手く言わねば文句を付けているようにしか聞こえない筈なので口には出さず、大人しく妖崎と共に部屋を出た。

 そうして、廊下から扉を後ろ手に閉じようとしたのだが、この際、私の緩過ぎる服の裾が挟まり、隙間が空いてしまったのである。解消する為に一旦開け直そうとも思ったが、部屋の内から潜め声が聞こえてきたので、少し躊躇われた。そして、この躊躇の内に、事態は手遅れとなってしまい、つまり、密室になったと勘違いした本影が、同僚を毒々しくなじり始めたのである。

「申賀、貴方その様子だと、大人しく引き下がったって訳?」

「引き下がったって、何が、」

「裁判所の連中からの電話で、言ってやらなかったの? 落とし前どうしてくれるのだと、顧問の弁護士先生の滞在費を弁償してくれるのかと、」

「いやお前、そんな小さなこと一々、」

 その話か、と私が呆れかけていると、「貴方ねぇ!!」、という怒声に耳が劈かれて驚かされた。身動みじろぐと扉を動かしてしまいそうなので振り向けないが、本影が、申賀へ怒鳴り散らしたらしい。

「小さなこと? ……貴方、今『小さなこと』って言った、ねえ? ……ねえ!?」

 「k」の発音の乱れが、著しくなっている。

「いや、すまん、言葉の綾で、」

「この館はね、閣盛様のお遺しになった御資産の、現金分だけで今持っているのよ? 何、貴方、無駄な用途で、或いは不当な要求で、この聖なる、血のような資金を、目減りさせてもいいと思っている訳?」

 その後、申賀は謝り、本影は尚も少しの間、収まらず熱い呪いを幾つか吐いてから、漸く矛を収めたのだが、しかし、こんな物を聞かされてしまうと、先程出されてロクに口も付けなかった茶菓子が、ただならないものであったように思えてきてしまう。どうせ、日常の挨拶のように取り敢えずで突き出してきたのだろうと、ぞんざいに扱ってしまったのに、その実、彼女は身を切るような想いでそれを盛りつけてきていたというのだから。

 恐らくは、「そうなら、見栄を張らずに節約しろよ、」とか、そういう話ではないのだろう。彼女にとって、「臨潮館」とは、孤島に聳えて海風をほしいままに浴びる建屋、というだけでなく、訪れる者を優雅に、瀟洒に、卒なく接遇する珠閣であるのだろう。客をあしらう際に吝嗇を働くようでは、もう、それは彼女にとって、「臨潮館」ではないのだろう。

「いやはや、……あんな大声、仮に扉を閉じていても聞こえたでしょうに、」

揶揄からかう妖崎の低声こごえは、余り頭に入らなかった。今の騒ぎから、本影という女が、やはり、「冷酷」ではないように思えてしまったからだ。冷血動物の体に、冷酷でない心を泛かべる彼女は、近々この邸を取り潰して何もかも奪われる時に、どうなってしまうのだろう。

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