17

「証拠なら幾らでも、幾らでも御座いますわよ。ノートにしたためました式次第の青写真や招待状の文面案に、式場や教会、或いは各種業者に取った見積もり、後は、集めた資料等々、」

 妖崎が、怪訝そうにしながら、

「ええっと、貴女と閣盛さんの結婚式の準備をしていた物証が有り、よって、本影ポコロコという人類が遺産を受け継ぐのは別段義に反しまい、と。……貴女の主張は、こう言う事ですか?」

「その通りで御座いますわ。」

 これを聞いた、苛立たしげな秋禅が、

「ちょっと待ちなよ本影さん。証拠とは言うけど、そんなの、本当に必要でそうしていたのか、それとも打算だか狂気だかであんたが勝手に電話を掛けまくって蒐集したかどうか、見分けが付かないじゃないんですか? 例えば、が手ずから要求した見積もりとか、或いはの署名とか、とにかくあんたが個人で勝手にやっていた訳じゃないということを示せる物は、その中に有るんですか?」

「馬鹿なことを仰らないで下さいませ、秋禅様。閣盛様のお手を、そんな瑣末なことで煩わせる訳が無いで御座いましょう?」

「誤魔化さないでくれよ本影さん。とにかく、無いんでしょう? あんただけでなく、までもが、本当に結婚式を企んでいたという証拠は、」

 妖崎が、両者を宥めるように、

「ええっと本影さん、『見積もり』、と仰いましたよね。それは、書面でですか?」

「無論で御座います。」

「ということは、その見積もりの発行者が、本影さんの熱意を証明してくれると。

 ……すると、勿論最終的には裁判官次第ですが、それなりに有力な証拠として認められるでしょうね。つまり、閣盛さんと本影さんの間柄が、妾か何かよりも、もっと純に愛しあう関係であったと司法から見做される公算が高いです。」

「そんな、馬鹿な。が関わっていない以上、それだけでは、本影さんが最初から何もかもたばかって、迷惑千万なことに実効が生ずる事の無い見積もりをそこら中に出させた可能性が否定出来ないじゃないですか。」

「そうですが、……しかし秋禅さん、民事の『証拠』というものは、その程度です。刑事は、疑わしきは罰せずの原理に従う――という――ことになっていますし、罪有る被告人を解放してしまっても必ずしも破滅が起こる訳ではないですが、しかし民事裁判ではそう行きません。もしも民事で、『どちらの言い分が確かなのかの確度で判ぜないため、訴えを破棄する。』などとしてしまえば、明らかに正義に反しますし、絶望的に原告が不利となるでしょう。百パーセントとは行かねども尤もらしく見える側の言い分を、その尤もらしさの度合いに応じて受け入れるべきです。

 なので、本影さんの『証拠』の価値を毀損したければ、秋禅さん、そちらからも何か突き付けねばなりません。それが、本影さんの物よりも尤もらしければ、争える余地が出てきますが……」

「成る程、」秋禅は、苛立たしげに背を椅子へ委ねた。「無論、反撃出来る証拠なんかこっちには何も無いですよ。こんな事態なんか、想定出来た訳無かったのですから。」

 彼はそのまま、両手を後頭部の辺りで組みつつ、

「そもそも、裁判の証拠というものが妖崎さんの仰るようだとすると、……最早期待しておりませんでしたが、つまり、この相続騒ぎに於いて、公序良俗に反するかどうかで争うのはやはり厳しい訳ですね。」

 本影は、不穏な漢字四文字を聞き咎めて見せ掛けの眉を動かしたが、そこへは取りあわず、

「有り難う御座います、妖崎様。……いえ、妖崎様というよりも、賢明なる法制度へ御礼申しあげた方が宜しいのかも知れませんが、」

 彼女は、ここで視線を翔々子へ差し向けてから、

「と言うわけです、若奥様。この『臨潮館』を含む閣盛様の遺産を受け継ぐ上で、わたくしはなんら後ろめたいところを負っておらず、寧ろ、使命感すら感じているのです。愛し愛されていた様の遺された物を、しっかりと保全して行かねばならないと、」

 無論、本影の言葉を信じるならば、という前提付きではあるが、その、彼女へ付されていた、財産の為に取り入った小賢しい女、そうでなければ富豪の最期に偶〻たまたま愛しげに立ち合った幸運な女という属性が、今や、愛が為に毅然と戦う未亡人の姿に豹変しつつあった。

 語りを続ける本影は、目を鋭く絞りつつ、

「そして、先程からわたくしの申しあげる、『身の程』とはこういうことです。……若奥様、わたくしは閣盛様とは愛を交わし、またあの方への絶対の忠誠をも誓いました。これらを蹈まえた上で、お訊ねしたいのですが、」

 彼女は、腕の勢いの余り、鏘然しょうぜんたる音色が鳴りそうな程にブレスレットを揺らしつつ、翔々子の顔を指した。

「貴女は、……何者ですか?」

 翔々子の当然の困惑を見て、満足したような顔を泛かべてから、

「つまりですね、若奥様。わたくしは閣盛様への絶対の愛と忠誠を誓いし者であり、そしてこの臨潮館の管理のほぼ全ての責任を負っておりましたが、……貴女は、何者ですか? 閣盛様の嫡子やその系ならまだしも、入り嫁にしか過ぎぬ貴女が、何故私へそう偉ぶるのです? 仮に、血原家へ入ってくることがそんなに偉いのであったら、わたくしとなんら変わらない、……いえ、わたくしが姑に当たる分、寧ろわたくしの方が敬われてもバチは当たりますまいに。」

「何を、貴女生意気な、」

「まぁ、若奥様のそういうお気持ちも、勿論理解出来ないでもないで御座います。閣盛様との愛をひた隠していたのも、面白がってはしためのような服を着続けていたのも、このわたくしなのですから。ですから、目上に扱えなどとは要求致しませんし、そもそも臨潮館の客人には変わりないのですから、誠意を持ってあしらわせて頂きますわ。

 しかし若奥様、……いえ、翔々子様。例えば、小食堂のテーブルで御座いますけど、何か御存知ないですか?」

 漸く明らかになってきた本影の論点に、翔々子は露骨に居竦んだ。

「御存知、の筈で御座いますよね? 鹿驚魔キキーモラ達が教えてくれましたよ。……貴女、また、乱暴を働いて、」

 再び黒白分明な威嚇の顔貌となった本影は、翔々子を射るような厳しさで睨みつけつつ、その黒線に顎の動きが縛められているかのように、一語々々を、重々しく語った。

「巫山戯るのも大概にして欲しい物で御座いますわね? 血原翔々子、

 この館の全ての物資は、限りある、閣盛様の資産から賄われるのです。ええ、お客様に快適かつ尋常に過ごして頂く為の費用は本懐ですからお出し致しますが、しかし、……度々度々、しょうもない癇癪で調度や物品を破壊して、――もう一度訊ねますが、貴女は何者ですか? 血原翔々子、」

 忿りと軽蔑に顔が歪んだことで、その、頰に走る瞳の法線が拗くれている。

「情況から鑑みるに、恐らく皆様の中の少なからずは、わたくしやこの臨潮館の存在が閣盛様の御遺産を毀ち続けていたと結論付けたかった様で御座いますが、しかし、実際はどうで御座いましょう。この臨潮館は、閣盛様が最も大切になさっていた物であり、また私はその番人である上に、そもそも閣盛様の御遺産を受け継いで管理する権利と義務を負いし者なのです。ならばわたくしが、館を保全したり、或いはその新たな主に相応しく身の回りを少々調えたり、そう謂ったことに多少の資金を用いたところで、何に背くので御座いましょうか。全くもって、正当な用途では御座いませんか。寧ろ、そう、……貴様です。貴様の方ですよ血原翔々子、馬鹿な無作法でこの館を、そして閣盛様の御遺産を傷つけ続けてきたのは、そちらの方だと思い知り遊ばせ!」

 激烈な、認識の是正勧告だった。そして少なくとも、翔々子の方が閣盛氏の財産を蔑ろにして来たのだ、という訴えについては、論の筋が一本通ってはいる。そうなると、残りの主張、実質の夫婦であった程に愛しあっていたのだという部分も、どうも信じたくなってしまう。発言が嘘か真か見破れる、という妄想を抱かないというのは、判事として最も大事にしてきた自戒であったが、しかし、卵の無事や遺書の内容を知った時の止めない落涙が誠実な物証であったように思えてしまい、私は最早、その愛の実在を疑えなくなってしまっていた。必要なら、命すら懸けてしまいそうだ。

 当の本影は、何も言い返せない翔々子の怖じる姿も見飽きたらしく、物想うように視線を下げながら、

「全く、今日は館に物騒な者が多過ぎますわ。法律には余り明るくありませんけど、……キブツソンカイ、でしたか? それだけでなく、」

 本影は、ここで一旦絶句すると、元通りの顔色に戻りつつ、目を瞠りながら両の手を拝むように合わせた。作った惣菜を一皿出し忘れたことを思い出した主婦のような、毒の無い所作だ。

「ああ、すっかり忘れておりましたわ。」

 そう呟いてから、また鋭い音の命令を発した本影へ、私が、

「忘れたって、何をです?」

 この幻獣遣いはすっかり尋常な様子で、手をひらひらさせながら、

「いえ、若奥様がやんちゃを働いたお蔭でずっと忘れておりましたが、そう、申賀が居ないではないですか。」

 ……ああ、

「そういえば、そうでしたね。」

「そこで、今、そこら中を探させておりますので、」

 本影は、またここで一旦言葉を止めつつ、化粧眉を興味深げに持ち上げた。

「見つかりました。すぐに連れて来させますわ。」

 そう本影が宣告してから本当にまもなく、申賀は現れた。現れた、と言うか、鹿驚魔キキーモラの群れに揉まれながら運ばれて来、そして床に放り出されたのである。幻獣の内の一頭が残り、俯せな彼を後ろ手に縛していた。

 本影はこの光景を見ながら、一応は口許を隠しながらも、しかし肩を揺らす下品な笑いを発している。

「お久しぶり申賀、元気にしてらした? なに、岩礁の辺りに潜んでいたらしいではないの。」

 寝そべる彼の靴や穿き物の裾は確かに濡れそぼっており、莫告喪なのりその破片らしき物も纏っていた。

「不様で、健気で、甲斐甲斐しいこと。……その根性を、少しでも業務に差し向けてくれていたらと、わたくし、悔やんでなりませんわ。」

 申賀は床から、その老いた痩せぎすの体の乏しかろう体力を、有らん限り籠めるような声で、

「何を言ってるんだ本影、貴様の方だ。貴様こそ、旦那様を誑し込んでこの館や財産を、それこそ、その妙なドレスだって、」

「ああ申賀、そこの話は結構。貴方が汐に脅かされつつ顫えていた間に、もう終わった話だから。

 そんなことよりも、皆様、こいつですわ。……この男が、私の脇腹を刺してくれた極悪人で御座いますの。」

 ……そうだ、そうだった。金の話なんかしている場合ではなかったのだ。

「本影さん、その、お怪我の具合は?」

「ああ。それが、存外に大したこと無かったので御座います、竜石堂様。いえ、今日のお昼前にわたくしが冷蔵倉庫に入りましたら、この、申賀の鹿(吐き棄てるようなアクセントが置かれた)が外から扉に何かえましてね。あんな中からでは鹿驚魔キキーモラへの命令も届きませんし、わたくし、どうしようもなく凍えてしまったんですの。それで、意識の無くなりかけた頃に、漸く外から開かれたと思ったら、……グサリ、と。

 しかし、幸いなことに、わたくしの脇腹の鱗板と真皮の間へ滑り込むように刺さっただけで、ええ、血はそれなりに出ましたけども、深傷ふかでには至りませんでしたわ。そして、そうして流れた血を見ただけで戦いた臆病者は、トドメを刺す訳でもなく、寒さで動かなくなっていたわたくしをそのまま放置して行った、と。」

 本影はそう言うと、ぽん、と自身の脇腹を叩いたが、流石に痛みが走ったようで顔を酷く顰めた。

「ですから本影さん、そういう馬鹿な真似は、」

「……ええ、金輪際控えさせて頂きますわ。それで竜石堂様、わたくし、そんな目に遭わされたのですけど、今後裁判を経て、申賀へ相応の罰が下されることは期待しても宜しいでしょうか?」

 私は、息を飲んだ。確かに、その話題は私が最も適任であろうが、しかしそこを語るには、この、本影自身が道化た真似で些か緩めてしまった空気を、引き締めねばならぬ。

 せめて、一つ厳かげに咳払いをしてから、

「もしも本影さんの仰る通りのことが起こったのでしたら、文句無く殺人未遂でしょう。」

「量刑は、どうなりましょうか?」

「法定では、死刑又は五年から無期の懲役刑です。但し、未遂ですので、最短二年半まで短縮される可能性は有りますし、十年を超えることはほぼ無いでしょう。」

「二年、」

 本影はそう一言だけ呟いてから、苛立たしげに視線を外し、

「二年半、で御座いますか。……まぁ、わたくしがすっかり恢復かいふく出来ている以上――その節は本当にお世話になりました竜石堂様――、大した苦役は要求出来ないのかも知れませんが、」

 そうやって半ばひとりごつ本影へ、言って良いものか悩ましかったが、しかし、意図的に伏せていたと後から露見する方が面倒な話になると思われ、仕方なく私は――理不尽にも――悪戯を働いた後の悪童のような気持にされつつ、渋々、

「そして、三年以下の懲役刑には、……執行猶予が付く可能性が有ります。」

 果たして、罵声紛いの濁声が響いた。

「執行猶予!? 姙婦を、冷蔵庫に閉じ込めた上で、その腹へナイフを刺して、……そんな非道を働いた上で執行猶予で御座いますか!? ……竜石堂、様、それは、あくまで一応の下限であって、別段今回現実的に想定される訳ではないので御座いましょう?」

「いえ、……量刑の決定においては、実際に齎された被害も大きく慮られます。本影さんがこうして元気になられた以上、微罪で済ませようとする検察や裁判体も、有り得るかも知れません。」

「そんな、わたくし、あんな非道い目に遭わされたのですよ! 真っ暗闇の、凍れるように冷たい倉庫の中で、死に物狂いで扉を叩いて! 本当に、これ以上もなく恐ろしかったのに、……自分の命だけでなく、臨潮館を管理する使命、そしてはらの子という、閣盛様より受け継ぎし最も大切な物達も台無しになってしまうという、絶望に犯されていたのに!」

「何だが、……何を言ってんだ本影!」

 申賀が、寝ころびながら言い返して来ていた。

「黙って聞いていればお前、」

「は? 何申賀、……まさか、貴方に口を利く資格が有ると思ってるの?」

「まぁ、待ちなよ本影さん。」秋禅が、耳許の金塊を悩ましげに光らせつつ、「いや確かに僕達だって、まぁ本影さんの言う通りなんだろうな、って気はしているよ。狂言にしちゃ、余りに色々と真に迫り過ぎているし。

 たださ、一応は申賀さんの話も聞かせてよ。いやさ、誰かを吊るし上げるからには、その当人の言い分も充分聞いてやらないと筋が通らないじゃない。そこを経ないと、僕達も、心の底からは本影さんに味方出来ないよ。」

 こう言われた本影は、数秒、秋禅の顔をまじまじ見つめてから、

「成る程。流石、聡明で御座いますね。」

 秋禅は、含みの豊かな笑顔を返しつつ、

「なんか、……母さんがアレだけ腐された後だと嫌みに聞こえるなぁ。」

「とにかく、ならば申賀にも話させて、」

「ああ、ただちょっと待って。その前に、阿古を外したいんだよね。」

 狂気の妹は、この長い騒動の間ずっと、見た目穏やかに澄ましてむっつり座っていたが、しかし、何か尿意でも我慢しているかのように時折身を捩らせてもいた。確かに、精神薄弱な者にこれ以上物騒な話を聞かせ続けるのも毒だろう。

「さっきまではここに邸の全員が揃ってなかったから、阿古の安全の為に一緒に居てやる必要が有ったけど、当の下手人がそこに転がっている以上、もう何も心配は無いし

「なりません。」

 突然の、本影の宣告。

 当然に訝しんだ秋禅が、

「……『なりません』、ですって? 今、なりません、と言いましたか? 家族を心配する僕に対して、」

 苛立ちが、彼も半分は受け継いでいる筈の母親の気質を喚起したのか、元々本影との関係が曖昧なのであろうことと相俟って、その口調が突如叮嚀になっていた。銀色の鎧を纏うかのような、卒なき慇懃による武装。

「何様ですか? 本影さん、

 いえ、僕らに平身低頭しなくても良い、という主張は分かりましたけどね。でもだからって、何で貴女がそこまで僕らに指図出来るんです? 貴女こそ、ですか? そんな、権利は有るんですか?」

「皆様の生殺与奪を握っている、……これだけでは、放恣の資格に不充分でしょうか?」

 莞爾とそう述べた本影は、もしも台詞の中身を解さぬ異人が見ていたならば、さぞかし思いやりに溢れた慈しみを述べたと想像しただろう。その、見た目上の清らかな柔和さと、吐かれた危殆な傲慢さとの対比が、秋禅を効率良く凍てつかせた。

 蜥蜴の女帝は、満足げに間を取ってから、

「ああいえ、とにかく申し訳ないですが、阿古様もどうかもう少しだけ御同席下さいませ。……さ、申賀、好きなだけ吠えなさいな。」

 床へ芋虫のように転がされていた彼は、背中に纏わり続けている家獣に強いられて正座の姿勢となった。苦々しい顔と合わせ、まるで、代官の前に居直された時代劇の盗人のようである。

「まず、申賀、事実はお争いになる? つまり、私を刺し殺そうとしたこと自体を否定したかったりする?」

「さっきから五月蝿いぞ本影、俺達から、何もかも奪っておいて!」

 本影は、この申賀の怒声を聞いて、露骨に肩を竦めつつ辺りを見回した。

「御覧になりました? 皆様、

 何処までも、呆れた男です。盗人猛々しいとは、正にこのことで御座いましょう。」

 そう宣う本影とは、しかし、違った印象を私は得ていた。確かに、彼の吐いた言葉からは反省や呵責の気配は感ぜられないが、しかし、その代わりに、罪を犯した者をはかる上で考慮せねばならない、他の重要な物が垣間見えていたのだ。そもそも、他者を故意に殺めようとした挙句に自責を得られないということは、何かしらの精神の故障か、或いは確信か、そうでなくば、凄まじい憎悪を惹起した特段の事情が有る筈なのである。一定以上に健全な人類は、罪悪感から勝手に遁れることは出来ない。それは、獣と人類を確乎かっこと劃する、崇高な呪縛にして特権である。

「申賀さん。もう少し落ち着いて、そして、詳細にお話し頂けますか。」

 そう言い出した私は、ただ申賀へと視線を注ぎ、本影へは意図的にそびらを向けた。どうか私に任せてくれないか、と、私へ負い目の有る筈の彼女へ背で請うたのである。

 よって彼女がどういう反応を顔へ泛かべたのかは分からないが、とにかく邪魔立てされるようなことはなく、私は静かに問いかけ続けることが出来た。

「まず申賀さん、問い直しになってしまいますが、実際の出来事に関する本影さんの主張について、何か否定したいことなど御座いますか? 即ち、そんなことなんかしていないだとか、或いは、似た様なことはしていたにせよ、少々異なるですとか、」

 申賀は、少し躊躇ってから、

「いえ、……本影の言う通りです。」

 ならば、扉を外から封じたと言う話だったが、どうやって? と、一瞬問いかけたが、しかしそこは警察や検察の領分だと思い直して話頭を転ずることにした。委細は、ひとまずよい。もっと大きな視点を以て、外殻を見極めて整えるのが判事らしい仕事だ。

「では、実際に貴方が本影さんを寒がらせ、刺し、そして凍死させ掛けたとして話を進めてしまいますが、……先程、『奪った』という言葉を使われましたよね?」

 申賀の肩が、ぴくりと動揺した。

「その点について、差し支えなければ少し掘り下げていただいて宜しいでしょうか? 本影さんが、貴方から何を奪ったと?」

 差し支えなければ、とわざわざ逃げ道を作った程の私の心配を他所よそに、彼はすぐに縷々と話し始めた。堰を切ったように、という古典的表現が正しくで、恐らくは永い間、誰かに聞かせたいと願い続けていたのだろう。

「つまりです、竜石堂先生にはお話しておりましたが、元々臨潮館で閣盛様に仕えていた私共使用人は、本影の存在によって、私を除いて全員お払い箱となった訳ですが、……分かっては貰えないでしょうが、しかしそれでもなお吐露させて頂きますと、私はこれによって単に同僚を失った訳ではないのです。同僚そのものではなく、彼らや閣盛様との間で永年培い、熟成して来た小社会を失ったのです。……いえ、社会、という言葉では足りないかも知れません。大袈裟になることを怖れなければ、寧ろ『小宇宙』と述べた方が良いでしょう。例えば、館内で密かに恋仲になった者共が居て、成就するのが先か旦那様に察せれるのが先か、そして察せられたとしてあの方はどのような処置をなさるのか、また他にも一つ挙げれば、どうにも主義の衝突でギクシャクしている者らが、いつか蟠りを解消して仲間らしくなってくれるだろうか、など、いとも将来が楽しみで、そして何処か恐ろしい事象が、この館にはかつて鏤められていたものです。人類とは、こういうことではないでしょうか。つまり、そういった、願わくは好もしい結末に至ってくれるであろう事象に、しかし有る程度は絡みついてくる悲劇の可能性が、無事杞憂に終わることを見届けることこそを、生き甲斐とする生き物ではないでしょうか。

 例えば、育児こそそうではないですか? 受験だ就職だなどという小さな山場に於いてもそうしつつ、最終的にはもっと巨視的に、恥ずかしくない良き息子乃至娘に育ってくれと、期待と懸念の狭間を、人生を投じつつ真剣に楽しむというのが、子を儲けて育てるということではないですか? 私は、人類とは、その手の『賭け』の為に生まれて来るのだと思っておるのです。

 つまり、……結局、私は人生を奪われたのですよ。」

 つい先程私が偶〻惟みていたそれとはまた異教の、人類の本質に関する仮説を彼は語っていた。悲劇の原因をおのずから人生という畑へ蒔き、無事それが発芽しなかったことに因る無形の幸福を収穫するという、幻の自足活動に、生涯魅せられて突き動かされる生き物、それこそが人類なのだと言う。成る程、銀行家や裁判官の様な、安全や秩序の権化よりも、もう少し破滅や違法へ踏み込む可能性を見せつつ実際には沈み込まない――時も有る――、起業家や博徒の方が、活き活きとしていて人類らしい、という論筋は、分からなくはない。つまり、私が獣ではない物を人類へ求めているのと対蹠的に、彼は、機械ではないものを人類へ求めているのだろう。

 とにかく、声として出すには余りに大き過ぎたこの信念は、痩せた中年男の狭い喉を通らされたことで歪んだ結果を齎し、具体的には、本影が更に苛立った。

「下らない。小さな男。……まぁ確かに、散々々々ちりぢりばらばらとなった諸先輩方への同情の余地は有りましたけど、では、何申賀? 可哀想だからって、能力に劣る者、つまり才なり努力なりが不足していた者共を罷り通らせておくのが正しかったとでも言うの? いえ、確かに社会学や政治学の観点からは、そういう慈悲が必要ということも分かりますわよ、失職者によって国家転覆や経済崩壊を招かれるよりマシでしょうから。

 しかしそんな気遣いは、もっと使命や暇を持ち合わせている、大層な連中に任せるべきことでしょう。この臨潮館で考えるべき事は、『家政学』だけですわ。一人で済む仕事を五人にやらせたりしない、またそうやって数を減らすのならば、気の毒だけど、優秀でない者から去ってもらう。無論、その過程で犠牲は生じましょうが、しかし、……負け犬共に恨まれる筋合いは御座いませんわよ! これを避ける為に、人手の余らぬよう日々のお仕事に手を抜くこと、つまり、閣盛様への背信が、わたくしに於いて正しい行為だったとでも!?」

 言っていることは分からなくもないが、それにしても、語勢が申賀を黙らせてしまいかねない程だったので、窘めようかと本影へ振り返った隙に、しかし当の申賀は、私の心配を再び裏切って朗々と、

「本影、もしもお前がお前の言う通り、正々堂々手腕でこの臨潮館を支配していたのならば、確かに、俺の言っているのは全て負け犬の泣き言だよ。しかし、……貴様、俺は忘れていないぞ、お前がこの島にやって来た最初の日のことを!」

「……は?」

「お前は、その最初の日から、旦那様と同衾していたではないか!」

 本影は、童からの謎掛けを冷酷に嘲笑うかのように、

「ああ。ええ、確かにそうだけど、それが?」

「お前はそうやって最初から、旦那様に色で取り入っていたではないか! そうやって卑劣な手段で発言力を高めて、俺達を、」

 しっ! と、本影が矢庭に音を発した。日頃の幻獣への号令で鍛えられている強靭な心肺や喉から奏でられたそれが、鏑矢のようにまっすぐ申賀を射ぬいて黙らせる。

 そのまま彼女は、私の方を見やって、

「竜石堂様、お聞きになられましたか? 犯罪者の思考とは、なんて浅ましく恐ろしいので御座いましょう。あのような妄想で殺されかけては、とても溜まりませんわ。是非とも、しっかり処罰が下されて欲しいものです。」

 確かに、そうだ。私が申賀に期待していた、人を殺しかねない程の動機は、実際存在してはいたものの、しかし、それが過去の実態に沿っていたのかは甚だ怪しく、しかも事実であったとしても、とても生殺の話に踏み込める程の重大なものではなかった。彼への批難を幾らか減ぜられるかも知れないが、しかし、聖人や義人への豹変などとても叶わないだろう。

 ………………

 だが、

「という訳で竜石堂様、もうこの男を何処かへ閉じ込めてしまって宜しいでしょうか? 現行犯ですから拘束しても構わないでしょうし、寧ろ、した方が宜しいで御座いましょう?」

「ええ、……ですが、その前に、もう一つか二つ位、申賀さんに訊いておきたいですね。」

「そんな老猿に、まだ何か? ……まぁ、そうなのでしたら、是非、」

「有り難う御座います。」

 私は、申賀の方を向き直し、出来る限り機械的な声音で、久し振りの被告人質問を始めた。

「申賀さん、まずお訊ねしたいのですが、本影さんが臨潮館にやって来た日はいつだったか分かりますか。」

「ええっと、正確な日付までは、」

「年と、季節くらいで構いません。」

「それでしたら、――年の、……確か、九月でしたね。」

「成る程、……本影さん、正しいですか?」

「ええ、年は間違いないですわ。……月日までは正確に憶えておりませんが、確か上陸する船からこの島を見上げて、透百合が橙色に咲き誇っておりましたから、とにかく夏だったのでしょう。」

「成る程。……本影さんは、かれこれ二十年近くここに仕えてらっしゃるのですね。」

 私は、自身へ対して細かく頷いてから、

「では、更に申賀さんへお訊きします。血原閣盛様の奥様が亡くなられたのは、何年前でしたか?」

「……はい?」

「お答え頂けますか?」

「まぁ構いませんが、ええ、確か七年前だった筈です。」

 この遣り取りの真意を一番に見抜き、漏らすような声を挙げたのは秋禅で、続いて翔々子も淑女らしからぬ様子で唸った。

「はぁ、……成る程、」

 と遅れて呟く妖崎へ、頼りなさげにきょろきょろし始めた本影が、

「何です、一体どうなさりましたか?」

 などと吃りつつ問いかけていたが、私はそれを完全に無視して、

「秋禅さん、貴方にもお訊ねします。貴方の父方のお祖母様の亡くなったのは、七年前で間違いないですか?」

「ええ、その通りです! 無論、追々役所でも証明出来ますがね!」

 この騒ぎの理由が理解出来ぬらしく、浮つき出した本影は、実際に、椅子から腰を浮かしてしまいつつ、

「皆様、本当に何を、」

「本影さん、」とどめは、私の仕事だ。「不貞が確認されました。閣盛さんから貴女への遺贈、果たして本当に公序良俗に反しないのでしょうか?」

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