18

「……不貞? 公序良俗?」

 本影は、苦い蔬菜そさいを噛み砕くように顎を動かしつつ、そう呟いてから、

「まぁ、そうで御座いましょうね。閣盛様は当時まだ既婚者で御座いましたから、不貞だったと言えば、そうなるのでしょう。ですが、それがどうかなさりましたか? 閣盛様の求めに応ずること叶わぬお年になられていた奥様に代わって、わたくしが当時お妾であったことが、皆様やお上に何か関係御座いますか?」

「関係、大有りです。例えば本影さん、もしも閣盛さんから貴女への包括的遺贈が、そのかつての不貞関係に完全に拠っていたのなら、貴女の受遺権は無くなります。」

「……はぁ!?」

 そう叫んだ本影は、思わずに浮いた腰のまま近くの雪峰へ摑みかからん勢いだったが、冷気におののいてすぐに手を引っ込めた。

 冷えてしまった方の手を擦りながら、

「雪峰様、本当ですか、本当にそんな馬鹿なことが御座いますか?」

「ええ、」久々に声を発する雪峰は、張り付いてしまった喉に難儀するかのように、「私は地方裁判所の者ではないですが、しかし一裁判官の感覚からするに、竜石堂さんの仰る通りに思われます。

 ただ、『かつての不貞関係に完全に拠っていたのなら』という語句は、誤解を招いているかも知れません。これを噛み砕けば、『提訴された結果、〝その遺贈の意志が、かつて不貞行為を維持する為に約束されたものである〟、と認定されたら』、くらいの意味になります。不貞が有っただけでは不充分で、貴女への遺贈の意思表示が、純に、その公序良俗に反する男女関係を維持する代償として為されており、かつ、その事実が裁判で認定されねばなりません。」

「公序良俗!? 誠に愛しあい、そして万一そうでなくともそもそも、閣盛様へ永らく献身して参りましたわたくしが、その遺志を受け継いで臨潮館を護り続けることの、何がどう後ろめたいというのです!?」

「ですから、ええ、近年の貴女と閣盛さんの情愛、及び、永年の奉仕による実績や感謝のみが、貴女へ遺贈を為そうという動機になっていたのならば、全く問題ないのです。しかし、極端な話として、例えばこう、……貴女の気を惹く為に、寝物語で『お前にいつか遺産をくれてやるからな、』と当時の閣盛さんが仰っていたりすると、」

 昼前の誤解が解けたことで、わだかまり――は――なく繰り広げられていた本影と雪峰の初めての会話は、ここで、か黒く顎を染めた蜥蜴が激昂したことで打ち切られた。

「お戯れを! あの方がそんな低俗な言葉を吐く訳ないで御座いましょう! 雪峰様、それ以上、閣盛様を侮辱するようでしたら、」

 私から容喙せざるをえなかった。

「本影さん、確かに不愉快な思いをさせてしまったかも知れませんが、しかし、雪峰は、迂闊だったかどうかはともかく、とにかく知見を誠実に述べただけです。そんなこと無かったのだ、と貴女が主張するのは勿論当然の権利ですが、しかし、仮定の話をされただけで面罵などすべきではありません。……そもそも、彼女へ意見を求めたのは貴女ではないですか。」

 本影が、苦い顔をしながらも存外大人しく引き下がったので、そうして出来た隙に翔々子が、

「妖崎さん! どうです、そういう話ならば遺言の有効性で戦い得ますか!?」

「そう、ですね。どちらかといえば不利でしょうが、やってみる価値は充分有るでしょう。何せ、額が額ですから。」

 本影は、銷沈したかのように、しどろに座り直そうとして、しそこねて椅子から落ちかけた。まるで、万全に設えていた筈の玉座が、存外treacherousであった地盤のせいで沈みつつあることに気付き、動揺しているかのように。

 どうにか腰掛けた椅子の上で、渋い顔で目を閉じた彼女は、一瞬その緑の目を開いて私の手鞄を睨んでから、再び瞑目して静かになった。恐らく、遺書の内容を顧みたのだろう。あの、「愛する」という一言。短い遺書の中で燦然と、陽の様に輝いていたあの半句が、本影をこれ以上もなく喜ばせたであろうあの言葉が、今や彼女を破滅させかねない呪いとなっている。あれが単に、「永年身近で仕えてくれた」くらいであったら、彼女を今、「蓮葉」という誹りの下に捉えようと延びてくる疑義の触手は、どれだけ虚ろになってくれたであろう。

 つまり私は、この「愛する」という言葉の皮肉な効果によって彼女が打ちひしがれ、そのまま静かになっているのだと思っていたのだが、しかし、実態はそれよりも遥かに激烈だった。本影は寧ろ、この、「愛する」という言葉の宿弊としての魅力に酔い、そして今度は自分でそれを振るう為の準備を、虎視眈々と進めていたのである。

 その目が、鋭く開かれて、

「本当に、若奥様方がそうなさるというのでしたら、わたくしにも考えが御座いますわよ。……ねえ、申賀?」

 ……申賀?

 何故申賀に関する何かをあげつらうのだ? と私達が疑問に思っている中、呼ばれた彼は苦々しく、

「何の、話だよ、」

 とだけ返したが、そこへ向かって、元気になってきた本影は、

「いえ、貴方が今、どきりと思い泛かべたであろう、わたくしは慈悲深いから口外しなくても宜しいのですわよ、と。それだけだわ。……ええ、わたくしは貴方と違って、節度が有るから。

 それと、……秋禅様?」

「は? 何です?」

「ああいえ、何と申しますか、……聡明な貴方様なら分かっていただけると思うのですが、つまり、わたくしはこの館での出来事を、実は鹿驚魔キキーモラを通じとにかく把握していたのだということと、そして、わたくしが無理にお願いして阿古様にまだ御同席いただき、そしてその上で、特に貴方様へ話し掛けていること、これらを一度、良く思い返していただきたいのです。」

 彼は、すぐに本影を睨みつけた。

「なんですか、その当て擦り、」

「そんな、滅相もない。わたくしなりのお気遣いですわ。わたくしとしては、皆様全員の前で高々と申しあげても宜しいので御座いますけど、しかし、秋禅様がそれでは困るでしょう、と。」

 眉根を寄せる秋禅の様子を見て、母親は心配げになりつつ、

「なんです秋禅さん、何か、本影に対して負い目でも?」

「ああ、いや、……別に、」

 本影は、はち切れんばかりに毒瓦斯ガスが充満した護謨ゴム風船のような、いとも危殆な話題を放りこんで来ていた。自分は館の全てを知っているのだが、ところで、阿古と秋禅に関する口憚られる話をしたいのだ、と来れば、彼らの近親相姦しかないだろう。秋禅自身は、何も後ろめたいことは無い、と昨日私へ息巻いてはいたものの、しかしそれは、彼の誇りを裏切る行為ではないという主張であって、恐らく、名誉の話となると少し違ってくるのだ――事実、母親にも明かしてないようなのだから。敢えて、そんな翔々子や他に雪峰も同席している中で、本影がこの禁忌を持ち出して狙った効果は絶妙で、つまり、こんな秘密、私がその気になれば風船のように容易く弾けてしまうのだぞ、という脅迫が、巧みに言外のまま空気へ瀰漫して、放蕩の御曹子を襲うているのである。そして、このタイミングで脅迫を為してきたということは、その狙いも明白であり、即ち、下らん訴訟を起こすな、大人しく本影わたしへの遺贈を完遂させろ、という要求だ。

 ……だが、

 ここで、秋禅が、

「……ところでさ、何故申賀さんが今の話に関係して、」

と、私の疑問を代弁するかのように呟いたが、すぐに、何かを察したように立ち上がった。

「おい申賀さん、……まさかあんた、」

 そう言って申賀を睨みつける彼と、居竦む申賀と、そして流石に赧然と目を伏している阿古とを、本影は代わる代わる見やり、そして、笑った。上品振る事を完全に抛棄した、腹の底からの哄笑である。

 口許を隠しつつ、しかし欣然と吃りながら、

「もしかして秋禅様、御存知なかったのですか? 貴方の妹様が、貴方だけでなく申賀とも数知れず媾合していたことを!」

 背へ浴びせかかる蜥蜴の姦しい笑い声を無視しつつ、秋禅は摑みかからんとする勢いで申賀の方へ向かっていたが、叶わなかった。母親が彼の襟首を背後から引き摑み、無理に振り返らせると、思い切りその頰をはたいたのである。

 蝙蝠人きゅうけつきの頑強さは、彼を馘首や首骨折から護ったようではあったが、しかし別段慣性が増大している訳ではないので、驚異的な膂力で打たれた秋禅はしたたかな勢いで床へ叩き付けられ、一度跳ね上がった。

「秋禅!」怒声。「貴方、まさか、そんな、」

 その先は声にならないらしい母親へ、秋禅は、心配して纏わってきた妹を振り払いながら立ち上がりつつ、

「ああ、そうだよ、」

 張られた方の頰が、もともとが蒼白であるので、そこだけ桃が熟れたように赧らんでいる。

「俺と阿古は、愛しあって来たよ。数知れず、何度も何度も。……申賀のおっさんとも寝られていたのは、全然知らなかったけど、」

「貴方、何をそんないけしゃあしゃあと悪怯れずに! そんな、畜生のような、」

 こんな罵倒は、胸倉を摑み上げた秋禅によって中断させられた。

「じゃあなんだい母さん、あんたが何か出来たのかよ。……阿古を救う為に、家族を救う為に、あんたが何か一つでも為せたのかよ!」

 この秋禅の、子から親に向けるには殆ど最悪な誹謗に対し、翔々子は、らしからず、純に当惑したようだった。近親相姦という瑕瑾かきんなき道徳罪を窘めた返しに、こんな泣き言のような反抗を喰らうとは、夢にも思わなかったのだろう。

 とにかく私は止めに入ろうとしたが、本影に先んぜられた。逞しい鹿驚魔キキーモラが三頭ほど出現し、彼らを引き剥がしたのである。

「いけませんわ若奥様方。この臨潮館で、暴力は許しません。」

 そう言いながらも、未だ笑いを殺しきれないらしい彼女は、痛みが響き出したらしい脇腹を押さえつつ、

「さて、そう言う訳で御座いますの。確かに、私はかつて閣盛様と姦通を働いたかも知れませんし、それは、法理の上では只ならぬことなのでしょう。しかし、世間的にはそこまで角が立つ事でもないので御座いませんか? 遥かな当時に妾の一人や二人抱えること、古く臭くはあるかも知れませんが、しかし甚だしく道徳に悖るとは見做されないでしょう。

 ところが、正しく世に憚られるロマンスもこの臨潮館では演ぜられていたのです! 最早、娼館のような様相で御座いますが、とにかく阿古様の華やかなる御活動と情熱に、わたくし心を搏たれていたものですわ!

 ……竜石堂様、貴女も仰った通り、哺乳類の皆様は本当お盛んで御座いますわね!」

 突然飛んできた諧謔の鉄砲に、私は顔を顰めてしまいつつ、

「本影さん、……それで、なんでしょう。そんな話をここで開陳して、」

「ああ、そうでしたそうでした。勿論、無意味に曝露した訳では御座いませんの。

 ええ、ですから、若奥様とそのお子様たち、そして申賀、皆で取引なさりませんか? わたくしは、貴方方の恥部をどこにも話しませんので、貴方方も、そのかつてのわたくしの不貞とやらを明かさないで、つまり、追求しないで頂きたいのです。

 そして、これだけだと申賀に於いては別段面白くないでしょう――何せ失う名誉も大してなく、しかも今後の評判はどうせ他者ひと殺しなのですから――から、貴方の刑事裁判の為に、減刑嘆願書をしたためて差し上げても宜しくてよ?」

 懐疑的な様子の、申賀へ対して、

「いえね、あんたのことは本当にはらわたが煮えくり返るほど憤ろしいけど、でも、どうせ数年しか懲らしめて貰えないなら、別段そんな小さい復讐よりも、遺産相続での争議を避けることの方が、余程私にとって重大だからね。」

「そう、だよな。」秋禅が、「つまりそういう意味ですよね、本影さん。あんたの、が生きていた時のを忘れてくれと言う要求は、つまり、遺産争議を起こすなって意味ですよね。」

「その通りで御座います。……妖崎様曰く、もともとそちらに不利な裁判となるようで御座いますし、ならば、互いに名誉を毀たれつつ何年も戦って消耗するよりも、仲良く平和裡に済ませてしまいませんか? 如何にも、――ふふ――この国らしいやり方では御座いませんか。」

 これを聞いた秋禅は、少しの間悩ましげにした後、降参するかのように元通り着座した。

「確かに算盤を弾くと、その話にうべなった方が賢いようですけど、……何を、間違えたのかな。俺は、誠実に生きてきただけだったのに。」

 翔々子の方は、口惜しげに顔を歪めながらも、

「秋禅さん、今夜良く事情を聞かせて頂きますからね。」

 と吠えると、息子の横の席に着き、そして阿古も、赧い当惑顔のまま従った。

 この様子を見た本影が、遠い申賀の方を露骨に見やり、眉を持ち上げるだけで彼を促すと、

「……ああ。俺としても、その話で満足だよ。」

 本影は、半端に開いた両手を顔の高さまで上げて安堵を示しつつ、

「よし、これで皆様安心、……と、いうことで宜しいでしょうか? 妖崎様、」

 指名された妖崎は、その傾げられた小首へ向けて、困ったように笑いながら、

「ええっと、……どうなんですかね。嘆願書って、そんな取引に使って良いんですか?」

 私が、

「まぁ、……ちゃんと補償したかどうかで減刑や厳罰の嘆願書を書くのは余りに一般的だから、その延長のような気もしなくもないが、」

「でもそういうのって、『こうやって本件の示談金も払ってくれたし反省もしているので、御容赦お願いしますー、』って内容を書くからですよね。こんな、事件に何も関係ないことを持ち出して、恫喝紛いにやって良いんですか?」

「あー、……雪峰はどう思う?」

「……はい?」

「どうせ私と妖崎は、守秘義務で何も言えんのだ。逆に、公務員の告発義務に従わねばならないお前は、この館で見た非合法なことは全て検察官か誰かに報告せねばならない訳だが、そんなお前は、何か今の話で見出したか?」

 本影や血原母子からの、真剣で突然な視線が、この家裁判事へ注がれた。何となく、私や妖崎と同じ様に全てを秘密にしてくれると、勝手に期待していたのだろう。しかし、実際には全く逆の義務を負っており、ならば、彼らの命運を握っているのは、ある意味彼女なのである。

「ええっと、まず、姦通関係については、犯罪ではないのですから私も黙っております。つまり、その、皆様の共謀と言いますか、野生な示談を邪魔する気は御座いません。そしてそれ以外についてもまぁ、……特に宣伝せずにいたいと思っております。勿論申賀さんの犯行自体は見逃せませんから、翌朝来る警官らにはよく協力しますが、しかし、それ以外の、この部屋で目撃した騒動については、今後何も語るつもりは御座いません。」

 本影は、矢庭に立ち上がると彼女の元へ駈け寄り、その手を、覆うように両手で取った。

 おい、と私が叫ぶ中、

「有り難う御座います、雪峰様。」

 その顔は露骨に冷気で引き攣っており、私はすぐに本影の両手を没収して、逆に私の手で掩ってやった。

 また、僅かな変化へんげで暖めてやりつつ、

「馬鹿なことを、」

 と軽く叱ると、

「いえ、わたくしどうしても、何か誠意の有る言葉を雪峰様にお送りしたかったのですの。何せ今朝、大いに不愉快な思いをさせてしまったかも知れませんでしたから。

 ……それに、」

 本影は、その孔雀緑の双眸を私の目交いから逃しつつ、悩ましげに何かを躊躇った後、潜めきった低声こごえで、

「竜石堂様。後でまた、わたくしのお部屋へ来て頂けませんか? 事態を収拾しましたら、すぐお迎えに上がりますので、」

 私は、ふと、他愛ない心配を覚えた。私達の、実年齢に似合わぬ若々しい顔と、睦まじく手を重ねている様子は、この本影の潜め声とその内容の効果を拡張して、禁ぜられた逢引を図る女学生のように我々を見せていたりしないか、と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る