19

 申賀を然るべく監禁するのに手間取ったらしい本影は、大分時間が経ってから私を部屋まで喚びに来た。もしかすると鹿驚魔キキーモラが遣わされてくるかもな、と思っていた私の予想は裏切られ、ちゃんと彼女自身が、しかも元通りの女中服で現れたのである。

 二人で廊下を進みながら、

「分かってはいましたが、……やはり、メイド服の予備は有った訳ですよね。」

 向こうが先行している以上私からは見えないのに、それでも本影は口許を隠してから笑った。

「ええ、当然で御座います。……いえ、ちょっと恰好をつけねばならない情況になると思っておりましたから、あんなお粧しを致しましたが、やはり普段はこういう姿の方が落ち着きますわね。……ああ、今後は、そうも言っていられないのかも知れませんけれども、」

「女主人として然るべき振舞いを身に付けねば、という意味ですか?」

「正しく、で御座いますわ。いえ、皆様の前でも申し上げましたように、そういう勉強は少しずつしてきたつもりで御座いますけれども、しかし、座学と実践ではまた違いましょうから、」

 つまり、彼女は今日、身分的な羽化を遂げ始めようとしていたのである。すると先程の、己にとって好もしい方向へ事態を突破させた、あの大暴れは、余りにも長い間籠もり過ぎた蛹の殻を破るという、重大な儀礼をも兼ねていたのかも知れない。即ち、生意気で怠惰な婢から、煌めく装身具を鱗粉のように纏う貴婦人と化す為に、灼熱の儀仗を振るいて見えない障壁を打ち破り、またその脱化の勢いのまま、今後彼女の足掛かりとなる杭を血原家との間に確乎と打ち込むという、兇悪な戴冠式である。

 

 本影は再び私を部屋へ通すと、衣裳の話で思い出していたのか、いの一番に私のジャケットを返してくれた。礼儀として一応検めたが、きちんと修繕されている。

「大したもので御座いましょう? 鹿驚魔キキーモラ達の器用さも、

 ……ああ、シャツですが、是非そのまま着てお持ち帰り下さい。寸々ずたずたになった方は、適当に処分しておきますので。」

「有り難う御座います。」

「何を仰います竜石堂様、情熱的なファースト・エイドも含めて何もかもお世話になりっぱなしなのですから、これくらい真にお安い御用ですわ。」

 そう言いつつ相好を崩した彼女は、緩い拳で口許を半ば隠しながらも、やはり美しかった。最初この部屋に来た時の、殆ど裸な彼女の白い肢体の美しさも本当に比類なきものだったが、しかし、着慣れている女中服こそ彼女と最も調和し、完全な額縁となるらしい。すると、普段着を豪奢なものへ転換する必要の有る、彼女の羽化は、意外と梃子摺ることになるだろう。

 未だ亢奮止まぬところがあるのか、彼女の顴骨の辺りが上気するように色を得ており、それもまた美の増大に寄与していた。

 そんな本影は、何かとても言い辛いことを抱えた素振りを見せつつ暫し猶予いざよっていたが、突然、

「実は竜石堂様に、内密に御相談したいことが御座いまして。」

 ……まぁ、妖崎を伴わせなかった以上、そんなことかもなとは思っていたが。

 という訳で、私はスムーズに返答出来た。

「本当は、血原家の顧問の妖崎に伴っている以上、最早私は利益相反で貴女をお助けは出来ないのです。ですので、余り本格的なことはお答え出来ませんが、」

「ああ、いえ、そんな難しい話では御座いませんの。」

 そう言うと本影は、悩ましげな視線を、遠くのベッドの上に寝かされている彼女の卵へと送った。

 仮住まいだった食器に代わって枕の窪みを寝床にさせられたことで、誤食の危機を免れて安穏としているその卵を見て、本影は、莞爾と「明日くらいには、顔が見られるかしら。」と独りごちてから、

「竜石堂様、あの子にも、相続を行わせることは出来ないでしょうか。」

 ……成る程な。

 敢えてだったのかそれとも無意識だったのかは自分でも分からないが、とにかく、私がすっかり触れ損ねていた領域の話だった。

「確認しますが、貴女と閣盛さんの間に、書類上の婚姻関係は無かったのですよね。」

「はい。……だからこそ、遺贈に頼っておるのですし。」

 私は、本影の要所を捉え過ぎている返事に嫌な予感を覚えつつ、

「ならば、その子と閣盛さんは、少なくとも法律上は全くの他人です。ですので、当然相続を受ける権利は有りません。」

「成る程。……しかし、強制認知という手が御座いますわよね?」

 悪い予感の的中に一瞬戦いた私の隙を、衝くかのように、

「逝去の三年以内に争議を起こし、あの子が確かに閣盛様の子だと裁判場で証明出来れば、戸籍上も閣盛様の息子乃至娘となり、そして当然に、遡及の遺留分が生ずる筈です。確か、今回の場合だと四分の一だったでしょうか?」

「……ええ、その分は、貴女と夕景さんとで折半して持ち出すことになり、」

「違いますわよね?」私の地に足着かぬ方便は、綽々と掬われた。「閣盛様の遺されたお言葉は、『遺留分として最低限認められる分を夕景へ、』で御座いました。つまり、今わたくしが問題にしたいのは、我が子ではなく、寧ろ夕景様の遺留分なのです。」

 名手のチェス駒の運びのように、事件の中から然るべき要素を摘み上げ、そしてそれを、法理の升目の何処に排置すべきかを、知悉して決して過たない迫力が、本影の縷々とした語りに現れていた。

「現状、夕景様へ認められる遺留分は、被相続人の配偶者の残っていない上での、唯一の世継ぎということで、全体の五割となっております。しかし、実際にはあのも居るのですから、認知さえ行われれば、……その五割を更に夕景様とわたくしで分かつことになり、結局それぞれ四半分となるでしょう。」

 迂闊、だった。この本影は、明らかに家事に関する知識を蒐集しているが、そもそも、あの遺書の、『遺留分で認められるだけの』などという法理な文面を見せられて何も説明を求めてこないばかりか、その後の野蛮な調停でも自然に語り、挙句「減刑嘆願書」などと言う言葉をさらりと吐いていた彼女が、正真正銘の素人の筈がなかったのだ。遺書の内容に何か期待して、今日へ向け、歯抜けながらも武装を整えていたのだろう。

「つまり、わたくしがこの島に居ずっぱりであった事は日誌や納品記録で証明出来ますから難しくないと思っておりますが、それを蹈まえた争議の末、無事にあの子が閣盛様の子と認定されれば、夕景様の――即ち血原家の――取り分は四分の一まで減ぜられるので御座います。……正しいでしょうか。」

「ええ、はい、……そうですね、うっかりしておりました。」

 これを聞いた本影は、目を細めて、涼しげな瞳を此方へ向けた。とにかく弁護士としての返事をした私への感謝も籠もっていたが、しかし、隠しきれぬ憐憫も確かにそこに存在していたのである。お年の割に、嘘が下手で御座いますのね、という、なみすような憐れみだった。

「有り難う御座います、竜石堂様。……しかし、裁判で認知を勝ち取るにはそれなりに年月を要するようですし、そこでご相談なのですが、竜石堂様、皆様を説得して頂くことはお願い出来ませんでしょうか?」

「……説得、と言いますと?」

「ですから、『どうせ認知が為されて遺留分が減るのだから、最初から七割五分を本影親子に渡してしまえ。』と、説いては頂けないでしょうか。」

 馬鹿な、

「いや、それは無茶苦茶です。貴女自身が試しにそう持ちかけてみるのは一応自由ですが、『どうせお前は敗訴するのだ。』と脅迫紛いに持ちかけるのは、全くお勧め出来ませんし、ましてや弁護士徽章をつけて、しかも血原家の顧問である妖崎側の私などが行う訳には、絶対に行きません。そもそも、強制認知は複雑な話であり、貴女の言う程に勝算が有るかどうかは甚だ怪しい、というのが正直な感想です。」

 本影は、美しい微笑のまま、しかし礼も返事も寄越さず、まるで紙芝居を一枚送るかの如く無造作に話頭を転じ、

「竜石堂様。実は、もう一つ御相談が有るのです。なんとかして、わたくしを配偶者であったとする訳には参りませんでしょうか?」

「……はい?」

「ですから、わたくしが戸籍上も閣盛様の後妻であったのならば、わたくしへも当然遺留分が生じ、すると、夕景様の遺留分が更に目減りすることになるではないですか。あのへの認知も同時に成立すれば、もはや八分の一にまで。そうすれば、私とあの子が殆ど全部、八分の七までを相続することになるのです。」

 ……何を、言い出したんだこの女は、

「馬鹿なことを言わないで下さい。死者と結婚出来る訳が無いでしょう。」

「ええ。ですから、他ならぬ貴女様に御相談申しあげているのです。どうにか、なりませんか? 竜石堂様の人脈やお力と、そして、私からお出し出来るであろう、殆ど無限の資金によって。」

「無理なものは、無理です。弁護士や判事は、王でも魔法遣いでもありません。」

「でも、私は、実質に閣盛様の妻であったのに?」

「何がどうであろうが、無理です。……どうしたんですか本影さん、突然駄々を捏ねるような、」

 本影は、こちらをじっと見つめたまま押し黙った。毳立つジュートを裸の上へ掛けられたかのように逃げ場無く脅かしてくる、不気味な静寂。

「……駄々、ですか。」

 そんな呟きの後、突然本影の顔に、あの黒い紋様が呼び起こされた。しかし、顔へ泛かんでいるのは憤然ではなく危殆なうそ笑みで、つまり、その黒白判明な変化は、怒りではなく害意と連動していたらしい。

わたくしの価値観から忌憚なく申し上げれば、……駄々を捏ねているのは貴女様の方で御座います、竜石堂様。」

 本影と挟んでいた小さなローテーブルの中央から、魁偉な熊の腕が油然ゆうぜんと発生し、その巨大な爪を私へまっすぐ突き付けた。思わず後ずさると、何かにぶつかる。見渡すと、私は四方八方を、軽く三メートルはある鹿驚魔キキーモラの群れにいつしか囲まれていたのだった。余りの体格で電燈が隠されたことで、殆ど闇の壁となった彼らの、しかし仄見える不気味な嘴や知性を感ぜさせない瞳は、まるで物理的な切れ味を持っているかのように、私の戦意を刻々と刮ぎ落として行く。

の生殺与奪を握っているわたくしの言葉に肯んぜないなど、とてもおかしく、道理の通らない話です。……今一度お訊き致しますが、竜石堂様、どうかお力を貸して頂けないでしょうか?」

 薄暗い中、本影の口角が更に吊り上がり、刃のような形状となる。

「この密室な島の中、他の者共を脅し上げて捩じ伏せれば、如何な真実でも創造出来ると思うので御座いますが。」

 『皆様』という言葉に置かれた強勢は、恐らく本影の狙った通り、私の脳裡に、こうしている間にすら妖崎や雪峰も幻獣によって脅かされ得るという事実を擦過させたが、しかし、その効果の程は、寧ろ彼女の期待を裏切ることとなった。私は、それによって恐れ竦むのではなく、呼気が自然に焔となる程の忿怒を得たのだ。

「巫山戯るのも大概にしろ、本影。」

 露と乱れぬ、その冷笑へ、

「確かに、お前の方が強いだろう。その気になれば、私の首はすぐにでも捩じ切れるのだろう。だがな本影、そんなことをしても何にもならんぞ! 自惚れるな、貴様は帝王かも知れないが、この島の帝王に過ぎぬのだ! 今日ここで人類を殺めた後、その罪から遁れようと籠城してみても、本土からの物資やユーティリティを断絶されれば、半月、いや数日と持たないだろう。貴様の大嫌いな冷蔵倉庫も、つまり食糧の保存設備すらも、通電を断たれれば使い物にならなくなるのだぞ! ……別段これは、お前が島嶼の主に過ぎぬからというではない、たとい一国の主であろうとも、人類は一人では生きて行けぬのだ! だから、法が有るのだ、だから、司法が有るのだ、人々の関係や生活を護る為に、そして更には、貴様のような身勝手な馬鹿者を可能な限り生じさせず、そして生じてしまった場合には、然るべき誅を以て人間じんかんの平和を保護する為に!

 良かろう、私を殺したければ殺すが良い。だが、その時は貴様も終わりだぞ本影。その覚悟を以て、その爪を突き立てると良い!」

 全霊に収まりきらず肉体に及ぶほどの亢奮によって僅かな変化へんげが勝手に走り、その結果、視覚器官が半端に歪んだのだろう。徐々に霞み始める視界の中で、本影の顔に引かれた黒き平行垂線だけが確かだった。

「私は、憲法の、法の番人だ。その竜石堂緋桐が、恐怖や命惜しさに正義を売るとでも思ったのか! 恥を知れ本影、そして、……ぐずぐずするな、やるなら早く殺せ!」

 本影の氷のような片笑みと、私の、文字通り高熱な言葉とが、衝突して音高く軋んでいる。そんな空気を私は読み取っていたのだが、しかし、様子がすぐにおかしくなった。本影の身が顫え始め、そして、その女中服のエプロン調の白地が、斑に染まり始めたのである。色味は秘色色ひそくいろと異なれど、しかしその疎らな花びらは、彼女の目の回りに飛んだ畏怖の鱗に良く似ていた。そして、そのか黒き鱗といえば、いつの間にか軒並み大人しい支子色くちなしいろに戻って肌へ溶け込んでいるのである。

 毒気を抜かれた私の変化へんげは、徐々に打ち消されて行き、そうして完全に戻った視界の中では、もう何度目になるだろうか、顔を顰めた本影が号泣していた。零れ続ける涙が、ますますエプロンを濡らしている。

 彼女はすぐに家獣の群れを引っ込めると、指矩さしがねの様に腰を曲げた。

「申し訳有りません、竜石堂様、」

 何かが、おかしい。確かに私も、説教に関する職業的鍛練を永年積んだ上での、思い返すと恥ずかしくなるような本気の言葉を、本気で彼女へ述べたとは言え、しかし、あれ程の邪悪と意気が、こんな瞬く間に、これほどまで完膚なく取り浚われる訳が無いのだ。そんな根無しの被告人は、見たことが無い。……すると、もしや、

 とにかく尋常でない彼女をソファーに腰掛けさせ、私もすぐ横に座った。すんすんと鼻を鳴らす本影は何か弁解しようとしていたのだが、そもそもの滑舌が完全でないことも相俟って、何を言っているのかまるで分からず、私は彼女が落ち着くまで待つことになったのである。

 暫く経ってから、漸く、

「本当に申し訳有りません、竜石堂様、」

「なんだ本影、一体どうしたんだ、」

 先程荒らげた舌の弾みで、私の口調は砕けていた。

「いえ、なんと申し上げますか、……わたくし、本気であんな不遜なお願いを申し上げた訳ではなかったので御座いますが、」

 やはり、か。

「それは、何となく分かったよ。」

「ええ、ですが、……確かに、本気で『申しあげた』訳ではないのですが、しかし、少なくとも今朝までは、本気で『思っていた』のです。」

「……なんだって?」

「つまり、今朝までは、お力と弱さを兼ね備えた貴女を、……即ち、定年を迎えたとは言え法曹界で名高く、しかしその天賦の屈強さのせいで、寧ろ上回られた威力への耐性はまるで得られていないであろう貴女様を、まんまと捩じ伏せて言うことを聞かせれば、なんでも叶えられると本気で考えていたのです。閣盛様から、出来る限りお前に財産を残してやりたいものだ、とは――正しく寝物語でしたが、『妾』ではなく『妻』ヘのものとして――言われておりましたから、遺言もその様にしたためて下さっているのではないかと思われまして、そしてならば、どうすれば夕景様への遺留分を減らせるのか、わたくし必死に考えておったのです。つまり、その計画に、貴女様を手軽な奥の手として利用出来るだろうと、わたくしは浅ましく期待しておったので御座いました。

 しかし、……竜石堂様、わたくしは、貴女様の生き様によって改悛させられたのです。……いえ、会って二日目で何が生き様だ、貴女様の何を知っているのだ、と怒られてしまうかも知れませぬが、しかし、わたくしは、こんな短い御逗留の間にも、貴女様の赫奕たる生き様を垣間見てしまったのです! 例えば、昼前にわたくしが雪峰様の冷気を忌憚してしまった時、貴女様が此方へ差し向けた、射るような軽蔑の目は、わたくしの心を酷く搏ち据えました!」

 私は、自分の表情の過敏さを恥じた。確かに心中で多少訝しみはしたが、別にあの場で何か批難する気はまでは無かったのである。

「あれは、わたくしがレイシズムを働いたと思われたことで、それをなみしたので御座いますよね? ああ、あの冷厳な軽蔑に、まずわたくしは、貴女様の確乎たる正義の幾らかを教わったので御座います。この方は、わたくしが首輪をつけて良いような方ではないのではないか、と、わたくしは感じ始めておりました。

 そして、その後、……お召し物が台無しになるのも憚らず、わたくしを助けて下さった貴女様!」

 本影が、再び、風を切るような音を出しつつ洟を啜った。

「貴女に暖められていた間、本当にとても心地良くて、……わたくし勿論卵の生まれで御座いますが、しかし、母胎の中はきっとこのようなのだろうと、馬鹿な想像をしてしまったほどで御座います。温かくて、優しくて、そして何よりも安らかなのだろうと。そんな至福のせいで、つい、意識がまともになってからも暫く、陶然と貴女様へ抱き縋ってしまった訳ですが……

 ああ、それでです。思考がそれなりに働くようになったわたくしは、まず、腹の軽さに戦きました。それで、素直にその不安を貴女様に述べた訳ですが、……実は、我が子との死別の恐怖の直後、殆ど同時に、物凄まじい慚愧をも覚えていたのです。わたくしは、これほどまで必死にわたくしを救おうとしてくれ、そして、これほど迄の慈愛と温かさを与えて下さる方を、犬のように遣ってやろうと企んでいたのだと! 本当に、消えてしまいたくなるような、そんな羞悪しゅうおを、……あの時のわたくしは狡猾にも、涙でさめざめと誤魔化したので御座います。」

 あの涙。私が決して到達出来ない地点である、という嫉妬も含み、この世で最も崇高なものに思えた、子を想う母親の涕泣が、存外汚いものであったのだという告白であった。

 しかし、

「そう、だろうか本影。」

 彼女は、化粧の滲んだ目をきょとんと瞠って、

「なにが、ですか?」

 私は、迂闊に発言してしまったことを悔いつつ、靄のように浮かんでいた情緒や論理を、なんとか形にしようと試みる羽目になった。

「えっとだ、お前は多分、浅ましさみたいなものを恥じているのだと、つまり、子への愛を装うて強慾を処理してしまったことを悔いているのだと思うのだが、しかし、本当にそうだったのだろうか。

 私にはどうも、その強慾が、不純なものだったようにしか思えんのだ。つまり、お前が今日昨日で私の性質を占ったように、私も、お前のことを見ていた訳だよ。お前は確かに、偸安とうあんや軽薄を装うていたが、しかし、その一皮を剝いた先では、寧ろ短気で真率な魂を抱えているように、私には見えたのだ。

 二十年近くも一つの館に住み込んでいる者を捕まえて短気とは、おかしなことを、と思われるかも知れないが、しかし、別にこれらは矛盾しない。つまり、その三百九十五日に二十年弱を乗じた日数の間、常に己の生き甲斐に喜び続けていれば良かったのだから。短気とは単に、我慢が利かないと言う性質であり、停滞した毎日であろうともそれが充実さえしていれば、何も問題は無いだろう。いや、何せ、この二日で仮借ない喜怒哀楽をありたけ見せてくれたお前が、その激情を慰め続けるには、そういういとまない満足が不可欠だったと思うのだよ。つまりそれほどまでに、愛する閣盛氏に仕えることが、お前にとって無上の幸せだったのだろう、と。

 そうやって、毎日々々、完全な幸福を得てきたお前が、……今更純に金銭の為に叮嚀な打算を行い、粛々と遂行するなど、私にはとても信じられぬのだ。そんな気長さや俗欲を持っていたならば、例えばもっと頻繁に本土へ通って資産を運用してみるとか、……いや、お前ほど稼いでいたのならば、寧ろ幇間のような信託屋を銀行からここへ喚びつけることすら出来ただろう。とにかく、そういう知恵を働かせることもなく、ただ只管に満足な日々を高踏的に送って来たと言う事実は、お前の、清貧を尊ぶ性癖の証跡ではないか? ……この部屋にも見られる豪勢さとは逆説的に聞こえるかも知れないが、しかし、恥ずかしくない女主人たろうことを夫の為に目指していたのならば、それは紛れもなく『清』であり、即ち、『清貧』と矛盾しないだろう。

 ならば、何故、今朝までのお前は強慾を働こうとしたのだろうか。これを理解する為には、やはり、お前の生き様が鍵となるのだ。閣盛氏への崇敬や彼の遺志に殉ずること、つまり、遺された館と子息を彼に代わって護り続けるためには、少しでも金は多い方が良い。……こう謂った論理でしか、私は、お前の中に見出される気位きぐらいと強慾の撞着を、解決出来ないのだよ。

 すると、お前の纏った強慾は、崇高なものに裏打ちされた実になもので、世へ開陳することこそ憚られようが、お前の中で恥じることなどないのではないか、と。そして、何かが、私の肩を濡らしたお前の涙に寄与したと言うならば、それは、邪悪を計画したことへの後悔では無く、不本意なそれを実行せずに済んだと言う、安堵だったのではないかと、私は、……思うのだ。」

 本影の泣いたり喚いたりで揺さぶれて、精神のどこかがすっかり酔ってしまっていた私は、千鳥足のまま訳も分からず駈け抜けたわけだが、彼女は、顔を引き締めて聞き入った挙句に、最後にはとしてくれた。

「流石の炯眼で御座いますわね、竜石堂様。……わたくし自身が言うのもおかしな話で御座いますが、恐らく、本影ポコロコと言う人類を見事に説明して下さった気が致します。」

 私は、何故か少し慌ててしまいながら、口調を他人行儀に戻しつつ、

「勿論、無法な真似への企み自体は、とても良くないことでした。ですので、私の存在がとにかくそういう宜しくない意気を砕くことが出来たと言うなら、……私は、とても幸せです。」

「ええ、その点についても感謝申しあげますが、」本影はぼんやりと、穫り入れるかのように指先で涙を拭いながら、「……そうで、御座いますわよね。貴女様が生涯を掛け、法廷へ引かれてきた悪党をほぼ全員――或いは全員――裁いてきたのは、別に嗜虐の為ではなかったのでしょうから、寧ろそういう未然な悪の抑止こそが、貴女様の本懐だったのでしょう。正直申せば、貴女様も暢気な方には見えませんでしたが、しかし、少なくともそう言った分は、わたくしよりも気の長かったという訳ですね。

 ……確かに、わたくしには致しかねる生き方です。そんな、この目の前の小悪党を刈れば、回り回って畏れが小市民へ行き届いて、少しは世の平和に寄与するだろう、などという、祈りのように迂遠な遣り口で生涯の仕事をこなして行くなどとは。……竜石堂様、貴女様はわたくしの、直截に燃え続ける生き方を好もしく思って下さっているようですが、しかし、そんな、くつを隔ててかかとを搔くような事態にも、七十年腐らずにいられた情熱こそ、わたくしには眩しく思えます。何と言いますか、……貴女様にお会い出来て、本当に良かった。」

 すっかり落ち着ききった様子の本影は、小麦色の艶やかな鬘の、後れ毛に当たる部位を捩りながら、

「……少しだけ、本当の御相談をしても宜しいでしょうか。わたくし実際は、今の相続配分で充分だと思っておりますの。これ以上私わたくしが持って行ったら、血原家の方々に今度こそ途轍もなく恨まれて何もかも差し支えるでしょうし、そもそも、あの方達もいい加減気の毒で御座いますから。」

「賢明、だと思います。恐らく閣盛さんも、遺言を記す際に、夕景さんに弟が出来るようなシナリオを想定してなかったでしょうから。」

「弟、……そうか、そうですわね。夕景様とはそうなる訳で御座いますが、何だか浮世離れた様な話で、まるで考えも及びませんでしたわ。」

 そう、少し笑んでから、

「しかしわたくし、あのの認知について、求めて行きたい気持ちも本気で有るのです。だって、実際の父と子が、ほんの二ヶ月すれ違っただけで他人になってしまうだなんて、あんまりでは御座いませんか。ええ、わたくしザナクルドの前で誓っても構いません、本当に、それだけの気持ちなのですが、……強制認知の訴えを行うと、まるで、『我々に遺産をもっと寄越せ!』と世や血原家へ宣伝してしまうようで、どうも躊躇われるのです。竜石堂様、いかが致したものでしょうか。」

「成る程。……参考までにお聞きしますが、認知を得た後、本当に何も為さらないおつもりですか?」

「ええっと、そうですわね。叶うならば、わたくしめやあのが、『血原』の苗字を名乗れないかと、期待してはおりますが、」

「ああ、」

 さて、どこから説明したものだろうか。相続が開始してしまっているから、遺留分の抛棄は積極的に出来ないんだよな。消極的な抛棄、つまりついぞ行使しないということは出来るが、しかしそれだと血原家も安心出来ないだろうし。……ああそもそも、子の方は「血原」の姓を授かれる公算がそれなりに有るが、お前はかなり難しいぞ、母子で苗字をたがえるつもりか?

 などという私の思索は、矢庭に、本影が立ち上がったことで中断せしめられた。なんだ、と問う隙も許さず、彼女は「あらあら、」と零しながら、繫がったベッドルームの方へ向かって行く。見やると、寝床の純白なシーツの上で、枕に載せられた姿が二重の神輿胼胝のようにも見える、これまた純白な卵の表面に、精緻な罅が走り始めていた。無垢な殻の一片が、噴火のように跳ね上がる。

 私も、つい半ば駈け寄ってしまう。金目当てな蓮葉女はすはおんなの子から、真率な婢の子となり、そして紅蓮地獄で九死に一生を得て、最後にはこうして名家と女帝の寵児となるという、生前から大冒険を経た子が、とうとう産声を上げようとしている。最初に大きく殻がられた場所から、芥子色の鋭い尾が利鎌とがまの如く飛び出てきた。

「あら、わたしよりもずっと濃い黄色。……わたしの母さんに似たかしら。」

 私は、驚きながら、

「尾が、生えているのですか?」

「ええ。赤子の内だけで、直に消えるけど。……少なくとも、純血の蜥蜴人リザードマンの常識では。」

 欣然と言葉遣いが崩壊している本影の様子も見物だったが、流石に目の前の奇跡とは比べるべくも無かった。私は、貪るような注視を再開する。その、尾の突き出ている空孔が広がって、とうとう足が飛び出て来た。外形は人間の赤子に近いのだけれども、明らかな鱗がびっしりと表面を覆っている所だけは違っている。本影の状態から占うに、尾と同じく鱗も加齢によって失われて行くのだろうが、例えば人間が成長と共に体毛を得て行くような、次第に先祖へ帰って行くという他の種族に広く見られる様子と、逆行するような性質は、人類の中では比較的珍しいように思えた。爬虫類系統であるが故の、特徴なのだろうか。

 手を挿し入れられる程の穴になってから、本影は我慢ならぬと言う勢いで子を抱き上げた。卵白の余りで艶やかに濡れている赤子を躊躇わずにそうしたので、服の前面へ容赦無く粘液が飛び散り、彼女の涙の鱗を塗り潰している。

 胎生の赤子に比べるとずっと小さい体躯が、本影によって正に被うように抱え込まれてしまっていた。両親譲りの白い肌に、芥子色の鱗が末端部を覆っていたが、胸部やそこから上は鱗の無い只管の皮膚の平野で、この辺りは父に似たのだろうか。

「貴女も、誤ることが御座いますのね。竜石堂様。」

「……何がです?」

「いえ、弟とか子息とか申されていましたけど、……ほら、御覧下さい。女の子で御座いますわ。」

 自然と開かれた股では、確かに、鳳仙花の蕾が生えている代わりに、クレバスのような一本線が刻まれていた。

 ……の子、か。

 私は、自身のついぞ使われていない女性器のことを思い出していた。竜を父、人間を母とする私のように、蝙蝠と蜥蜴の間に生まれたこの娘も、恐らく不妊だろう。ただ純粋に、己が子の、実際には女権を、そしてもしも男らしく生まれていたら逆に男権を、とにかく喜んでいる本影は、そういう宿命を負わせることの覚悟をまだ余り整理していないに違いない。彼女は自らのことを後妻であったと主張していたが、不良品の後継ぎしか生めぬ女は、果たして妻と呼べたのだろうか。私が大法廷で宣ったことに、何か、牴触していないだろうか。

 しかし、そんな暗い宿命の話をするには、雰囲気があまりに清らかで輝かし過ぎた。

「撫でてやっても、良いですか?」

「ええ。……寧ろ是非、賢く真面目な子になってくれるよう、御利益を下さいませ。」

 この発言は、彼女の法悦をよく示していた。普段の理智や激しさをまるで感ぜさせない、また彼女の信仰も恐らく裏切っている、盲目な慈愛である。

 頰を撫でてやると、顰めきって不細工な膨れ顔が、少しだけ綻んだような気がした。

 そうやって暫く触れている内に、此方は間違いなく綻びきった本影が、

「竜石堂様、……わたくし本当にお世話になりましたから、何かお礼をしたいのです。とはいえ、金品を直接差し上げるのは露骨な上にその利益相反とやらで面倒なようですから、竜石堂様、今後貴女様が何か業でも起こされますなら、私幾らでも出資させていただきますわ。」

 私は、突拍子の無さに笑ってしまった。

「そんな、裁判官から弁護士に住み替わったばかりで、過激な真似なんかしませんよ。」

「いえ、分かりませんわよ、」本影は、娘へ注いでいた目を此方へ向けながら、「だって貴女、……弁護屋なんて、到底板につかなそうですもの。」

 どきりとした私へ、害も仮借も無い追撃が飛んでくる。

「そんな、正しさや世の利益ではなく、目の前に来た者を、殆ど選り好まずにとにかく味方してやると謂う商売など、とてもとても……」

 私が堪らずに苦く笑うと、呼応するのみでなく増幅までさせて、本影が笑い声を挙げた。綺麗すぎる両手が、これ以上もなく幸せな理由で両手の塞がっているた彼女は、いつものように口許を隠すことが能わずに、その、醜い、使い古した櫛のように頼りない歯列を、初めて私へ露にしたのである。私は、これによって一つ安心を得た。手腕と実力と美貌と強かさに長け、不審なほどに完全であった彼女の、人類らしい欠点を漸く見出した気がしたのだ。

 

 部屋への戻りさ、秋禅とすれ違った。優雅な放蕩者である筈の彼も、流石に疲労の色が顔に著しい。

「お袋と随分話しましたよ。……あの人もあんまり理性を働かす方ではないですが、まぁ、は示してくれました。」

 その「理解」とやらの委細を根掘り葉掘り訊き下したい衝動にも駆られたが、あまりに深い時刻による眠気に負けた私は、単に、

「それは、何よりですね。」

とだけ返して通り過ぎた。

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