20
翌朝は忙しなかった。ようようやって来た刑事らが、さぁ殺人現場だとの気合いを籠めつつ、「それで、被害者の方は何処に、」と訊ねたのに対して、本影が「ああ、
私の番も回って来たが、例の、妖崎や雪峰と話し込んだ部屋を借りての聴取は、非常に寛然たるものだった。何せ被害者が生きてその証言が取れており、かつ彼女を恨むことの出来る口実が実際有るのだから、最早答えの分かっているドリル帳を埋めるかのように退屈な作業なのである。少なくない刑事が、こういう事前なシナリオに乗ずることを、戒めるどころか寧ろ酷く好むのを私は知っていた。
そういう事情に加え、私と対面した
「いやはや。貴女程の方がこんなつまらない騒動に巻き込まれるとは、災難ですな。」
あれだけの苛烈な鍔迫り合いを、つまらない、と一蹴した彼を軽蔑しかけたが、私を気遣ってのことなのだろうと思い直した。
正直大してお訊きすることも無いのですが、と切り出した彼に対して、この島に来てからの行動歴とか、死体を発見した時の様子などを私は答えた。「現場に行って説明した方が?」という気遣いも、「いやぁ本当はそうすべきでしょうが、最早そこまで及びませんよ。」と袖にされる始末である。
私も特に憤らず、
「はぁ、そうですか、」
と怠惰に返すと、
「被害者と加害者のどちらもとても大人しい方だった上に、何も証言が矛盾していないのですのでね。正直この貴女への聴取も、一応お訊ねしているまででして。」
はぁそうですか、と繰り言を返しそうになったが、ちょっと待て、「大人しい」だと? 申賀の方は、牙を抜かれた上に拘束状態で一晩過ごして参ってもいるのだろうが、あの本影が大人しい訳ないだろう。
別段口には出さなかったが、こんな盲な警官の判断で職務質問される市民は堪らないだろうな、と思いつつ私は部屋を辞した。
実際の聴取は斯様にあっさりとしたものだったが、まともに進行した場合を想定して帰路船が予約されていたので、まだまだ私達は島を離れられない。それまで、どうしたものか。一旦部屋に戻ったものだろうか。
などとぼんやりしていた私は、廊下の向かいから本影が歩いて来ていることに気が付けなかった。
「竜石堂様、」
ぎょっとしてしまってから、
「ああ、……済みません、つまらないことを考えておりまして、」
何か、湿った間が一つ置かれてから、
「この度は、本当に御面倒をお掛けしておりまして、……お疲れでしょうから、お茶でも御淹れ致したいと思うのですが、少しそこら辺の部屋でいかがでしょうか。」
行間が芳醇な
何もかも彼女らしからなかった。私しかおらぬのにそんな迂遠な手を使うことも、そして、まるで流産した直後の女かのように、なんら自信や希望を知らぬような、か細い声と態度で、おずおずと話し掛けてくることも。
少し待たせた後に、熱い紅茶の入ったティーポットと温められたカップを運んで来た彼女は、その注ぐ遣り口すら鬱屈していた。あの、
漸く渡されたカップへ口を付けると、しおらしく膝に手を置き、視線を伏したままの彼女が、
「実は、度々で本当にお恥ずかしいのですが、……竜石堂様に相談差し上げたいことが御座いまして、」
まぁ、だろうな。
「見るからに尋常じゃないですが、どうしましたか? お体の調子でも、」
「ああ、いえ。私もあの子も元気なのですが、……竜石堂様、今から、相続を抛棄することは出来るでしょうか?」
茶が気管に入った。
噎せ続け、わざわざ寄って来た本影に背を暫く
「ええっと、……確認しても、良いですか? 相続を、抛棄したいと、仰いましたか?」
「はい。」
私は、目をぱちくりさせてしまった。向かいの席に戻った蜥蜴女が、本当にあの本影なのか信じがたくなってきたのである。
「そうですね、……結論を申せば、とても簡単に出来ます。相続に於いては一般的な手続きですから、少し調べていただければ、弁護士なんか使わずとも滞りなく行えるでしょう。昨日から数えて三ヶ月以内に済まさねばならないと言う制限が有りますので、そこだけは御注意を。
……ですが、この制度は基本的に、総額が負となる相続を回避する為のものです。本影さんの場合何のメリットも無いですし、別に、今後の遺産分割協議でささやかな取り分のみを主張するという形でも、」
「いえ、……そんなあやふやではなく、私の意志として明確に示したいので御座います。」
ありありとした悲哀の頑固を以て、彼女は盾突いてきていた。
「どう、したんですか本影さん。昨夜とまるで言っている事が違うではないですか。」
「ええ、……色々、思い直したので御座います。」
巫山戯るな。どうしたのだ。お前の、輝かしい激情はどうしたのだ。こんな、涙も顫えも叫びも伴わぬ、
そう、問いたかった。そう叫びたかったのだが、しかし、目の前の本影の静かさには、全てを拒絶する力が有ったのである。描かれた偽物の眉を些かばかり顰めて、私から決して目を逸らさない彼女は、恰も、此方の言葉を、彼女の顔へ到達する前に叩き落としてやるぞと構えているかのように、口許を僅か緩ませていた。自然な形の脣だが、それは、居合の達人の自然であったのだ。飛瀑のように止めどなく言葉を浴びせると言う平和な手口、幻獣を喚び出して突き付けると言う兇悪な手口、と、相手を圧倒する手法を既に複数見せていた、練達の弁士であった彼女は、何も言わずともこちらを挫けさせると言う、玄妙な箝口術をも擁していたのだった。
私は、口の中が火傷しかけるのも憚らず、さっさと紅茶を飲み干して部屋を出た。去り際の、彼女の申し訳なさげな微笑が、廊下へ出てからも脳裡でべたついている。
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