21

 漸く私達が乗る分の船が来たということで、私は妖崎と、そして同乗することになっていた雪峰と共に玄関をくぐりつつある。玄関の内側までは、当然に見送りへ来た本影も一緒に居たのだが、夜半の津波に呑まれた民家のように、一夜の内にその内的魅力を全て削ぎ落とされた彼女の姿を見るのが辛く、そこでせめて目を向けた、母親の腕の中でほしいままに安穏とした眠りへ耽りている尾付きの赤子の姿が、私にとって、臨潮館の最後の記憶となった。

 外の景色は既に夕刻で、船のエンジンから零された焼玉がその赤熱を海水で慰めているかのような夕陽が、近くの空を赭く染め上げつつ、しかし水平線の部分だけは殆ど照らさないでいるので、重油のように暗い一線が、日頃彼方で接触して離れない空と海とを今の瞬間だけ残酷に劃していた。それが最も美しくなる時刻の、夕映えの空から切り離された紺の海原は、その不機嫌を隠さずに荒く波立っている。見ていると、我々人類の懊悩など些事に過ぎぬのだと思わされる、余りに壮大な苛立ちだった。

 それに打ちのめされる前に視線を切って周囲を見渡すと、彼女に指揮された鹿驚魔キキーモラが世話していると言う木々や草花が長い影を伸ばしており、恐らくこうしている今すらも、不可視化された家獣が私達を監視しているのだと思わされ、ぞっとしない気持が背筋を走った。

「いやはや、……すっかり夕方ですか。朝帰りどころか、三日目もまるまる終わってしまいましたねぇ。」

 と、妖崎が下らないことを呟いてくれたのは、私にとって快かった。

 一方、「ええ。……そもそも、私が予定通りに参上し損ねたことも、原因として有った訳ですが、」と始められた雪峰の謝罪の方はあまり聞きたくないな、と感じていた私は、しかし、運良く救われた。突然、我々の背後で扉が音高く開けられたのである。

 振り返ると、着衣を乱しつつ息も切らした秋禅が、玄関扉に手を掛けて立っていた。まるで幾山も越えてきた伝令子のようだが、日頃の無精が、いざちょっと駈けってみた時にあだとなっているだけなのだろう。例の大振りな金のピアスが、見るも不様に揺れている。

「ああ、追いつけて良かったです竜石堂さん。……ちょっとだけ、二人で話せませんか?」

 ……うん?

 妖崎の言う通り、今日という一日はどうせ台無しになっているのだと思った私は、特に時間を惜しまぬこととし、妖崎と雪峰だけを先に船の方へ向かわせた。

「有り難うございます、先生。」

「あんまり長いとあいつらや船長に恨まれますのでね、手短にお願いします。」

「法律相談とかじゃないので、大丈夫です。……と言うより、実は俺がどうこうと言うよりも、先生の為に、礼儀として明かしておきたいことが有ると思い当たったんですよ。」

「……はい?」

「先生、今朝の本影の様子には気が付いていましたか?」

 動揺して、たじろいでしまった。そうして図らずも広げてしまった彼との距離を、意図的に一歩踏み出して詰めると、彼は手を前に出しつつ、

「落ち着いて下さい。ええ、話しますとも。

 ……そもそも、不思議に思われませんでしたか? 本影の来歴、特に、この島に来た初日の様子について、」

 余りに頻りな騒動のせいで取り合えずに心奥で眠らせていた疑問を、見事釣り上げられた私は、のめり込むように、

「はい、その点は実に奇妙だったのです。いえ、本影さんと閣盛さんが如何に愛しあおうが――不貞と言う問題は有れども――自由ですが、しかし、初日からと言うのは、年齢差も有りますしちょっと尋常でありません。万一、仮に閣盛さんが立場を利用して彼女を手籠めにしたと言うのならばともかく、どうやらそうではなく、純に愛しあっていたようなのですし、」

「そうです。つまり、が本影さんをそんな初対面から射止めたのには、実は、秘訣が有ったんですよ。」

 そう言うと秋禅は、夕陽を浴びて白甲のように耀いている前髪を伊達な仕草で搔き上げた。左目が銀髪な疎林の奥に見え隠れしているままなのと対蹠的に、右目が遺憾なく晒される。

 放蕩息子として真剣に男を磨いている彼がそうしている様は、確かにちょっとした見物だったが、それが一体どうしたのだと私が問おうとした瞬間に、異変が起こった。当然に同じ色合いを示していた金の双眸の内、明かされている右瞳の方だけが、暗く変色して行くのである。それは漆黒を経て妖しい菫色と化し、その右目の周囲だけが、陽炎のようによろぼうていた。

 私は、自身の知識の中から喚び起こされたものを叫んでしまう。

「……〝魅了術〟!」

 秋禅は、神妙に一つ頷いてから、

「正解です。ええ、から俺も隔世遺伝で受け継いでいるんですけどね。これで、女性はころりとぞっこんにさせられる訳なんですよ。大方も、腕の立つ幻獣遣いを逃さない為に、本影へこれを振るったのでしょう。……その目的は、今も尚、余りにも完璧に達成され続けている訳ですが。」

 昔、暴漢にハンマーで側頭部を殴られたことが有ったが、その時以上の衝撃が私を襲っていた。あの、私を魅した、本影の純粋にして毅然たる生涯が、実際には、身勝手な蝙蝠人きゅうけつきによる糸繰り人形に過ぎなかったと言うのである。

「相手が女でさえあれば、多少なり効く筈なんです。どうやら、本影さんは特にばっちり嵌まってしまうたちだったようですけど、とにかくあそこまででなくとも、それなりに効果が出る筈である、と。

 だからこそ、凄く驚いたんですよ。あれだけ時間を稼いで先生に対面していたのに、俺の魅了術がちっとも効かなかったんですから。」

 まず、怒りが湧き、そしてその後ぞっとした。無論、他者ひとに向けてそんな、自己を崩壊させる兇器を向けて来ていたことも許すまじいが……

 私の恐怖は、秋禅の口から説明されてしまった。

「いや、狡いですよね。人間の女性だと聞いていたのに、実際の貴女は半人の合の子で、……しかも、女性と呼んで良いのかどうか甚だ怪しいじゃないですか。まぁ、効果の無さに鑑みるに、少なくともある意味では、実際女性でなかったのでしょうけど。」

 突然の、「女ならざる者」という、折り紙付きの烙印。

 私は――恐らく一種の防禦機構として――苛立ちながら、

「なんですか。もしかして、貴方がわざわざ妹との性行為を見せつけて来たのは、私の性的興奮を惹起しようと企んでだったのですか? ……魅了術への感受性を、増幅させる為に、」

 秋禅は、髪と瞳を元の様子に戻してから、

「勘違いして頂きたくないのは、俺があそこで先生に持ちかけた話自体は、本気の懊悩だったということです。嘘の話よりも、真摯なものの方が眩惑の武器として望ましかろうという理窟なだけでしたけど、でも図らずも俺は本当に救われてしまって、結果的には、先生に心から感謝しているんですよ。ですので、真剣に話へ付き合ってくれた貴女の法律家としての矜恃を、無下にしたつもりは無いです。……、ですけど。」

 別段そんなことを言われても苛立ちは癒えなかったが、文句よりも、もっとぶつけてやりたいことが有った。……あの、気のれているという割に、ずっと静かだった彼女、

「その話ですが、つまりそもそも、貴方の妹さんの狂気をと言うのも、」

「ええ、そうですね。……一昨日にも申し上げましたけど、これについて僕は何か恥じる気は有りませんよ。あんな、目茶苦茶に崩壊したままの生涯を送り続けるくらいなら、方が、ずっとマシでした。何故、彼奴に僕ら家族全てを目茶苦茶にし続ける権利が有り、そして、それに対して抗う権利が僕に無いというのです?」

「その問題については、……今、論ずる程の時間はとても無いですね。」

 想像上に、危険な男だった。確かに同情の余地は有れど、己が為に実の妹の不具な精神を崩壊、或いは少なくとも多大に侵掠することを厭わない厚顔さは、放蕩息子という危うい立場を維持する過程で培われたのだろうか。或いは、そんな強かさを天賦で持ち合わせていたからこそ、洒脱な無生産者という繊細な立ち位置に居続けられたのかも知れないが。いずれにせよ、彼の、男にしては長めの髪は、私が気付けなかったように、その魅了術の行使における瞳色の変化を隠す為に計算されたものだったのだろう。すると、ぶらぶらと目立っている金錐の耳飾りすら、獲物の注意を逸らさんと計られたり、更に言えば、その動きで何か催眠的な効果を齎さんとしていたりするのかも知れない。……この男の深みは、何処まで有るのだ?

 私は、畏怖やら呆れやら軽蔑やら、とかく油然と生じた、この場を離れたくなる感情群へ素直に従ってそびらを向けたが、すぐに、再び踵を返した。そうやって殆ど一回転した私は、余程間抜けな顔をしていたのだろう。秋禅は、露骨に蔑む視線でこちらを見つめて来ていた。

 向こうがそのまま黙っているので、仕方なく私から、

「ちょっと待ってくれ、秋禅。そもそも、お前さっき出鼻にこう言っていたよな。……『本影の様子がおかしいのに、気が付いたか?』、と。そんな、二十年前のことなんかのことではなく、……今日昨日の本影について、お前はさっき問うて来ていたよな!」

 あれ程熱く情的に私と語り合ったばかりだったのに、いとも余所々々よそよそしく女々しかった、今朝の本影。まるで、一夜にして、……

 目の前の蝙蝠人きゅうけつきは邪悪に口角を吊り上げ、その右目を再び怪しく耀かせた。

「そうです。つまり俺はから、魅了術のみでなく、出来の良い傀儡まで隔世相続した訳ですよ。受領手続として、この目の力を、遺憾なく使うことによってね。いやはや、無価むげ大宝と言ったものでしょうか。あの蜥蜴女の手腕は実に替え難いですし、器量やも悪くない、」

「なんですか、もしかして、昨夜私とすれ違った後で、」

「ええ、あそこで貴女と出会したのは奇遇でしたね。あの後まっすぐ、向かっていた彼女の部屋まで行きまして、俺のものになって頂きました。……面白かったですよ。録画はし損ねましたがね、行為の最中、俺のことで胸が一杯になってしまっているのに、閣盛様閣盛様、申し訳御座いません、なんて、閉じた目から涙を零して呻いているあの女の様子は。ま、あんな平板な胸では、詰まるものの量も高が知れるでしょうが。」

 怒りで絶句する私の前で、彼は悠々と続けた。

「つまり、こう言う事ですよ。元々の計画ではですね、妖崎先生に付いてくると言う女助手を良いように操ることで、この相続事件を少しでも上手く運ばせようとしていたのです。親父やお袋ではなく、この俺が、自由に出来る高を幾らかでも作ろうとね。別段今日昨日役立ってくれなくても、今後の遺産処理とかで俺へ利益してくれるかも知れなかった訳ですし。……でも実際は、どうにも貴女に魅了が効かないばかりか、なんだか本影さんへ相続分が出るだとか、全く訳の分からない話になって来たではないですか。一旦は皆で誤魔化そうって話になってくれましたけど、結局その後、卵が出て来たりして、

 で、俺は已むなく臨機応変に作戦を変更したんですよね。まず、その卵に死してもらおうと思ったのですが、貴女がずっとまもっているので叶いませんでした。それでどうしようか焦っていたら、なんと、本影が蘇生したと言うじゃないですか。ええ、昨夜先生方が、わざわざ彷徨ってまで俺にそう教えて下さった時の、嬉しさと言ったら無かったですよ。つまり俺はそれを聞いて、本影さんを手駒にすることを思いついたのですよね。それも、出来る限り早く、……具体的には、貴女が彼女の部屋を去る気配が、後に。」

 私は、騒動の最中の、翔々子に比べると何かと聞き分けの良かった秋禅の姿を思い出していた。あれは別に、この男が母親よりも理智的であったと言う訳でなく、彼の方が狡猾で抜かりなく、つまり、本影に行く分の財産を取り戻せる期待が持てていたというだけだったのだろう。母の業突く張りを受け継いでいない男、というのは、完全に誤った評価であった。あの翔々子に負けず劣らず、いや恐らくそれ以上の貪慾さを持っているばかりか、それを理性で上手く糊塗し、制禦し、そして不可視に耀かせる能力を持った、最悪の邪悪である。

 そして、秋禅が妙に法律知識を備えていたのは、……当然の事前準備だった訳だ。何せ、相続人でない自分がどうにかして資産を取得するつもりだったと言うのだから、それなりの努力の必要を、前もって覚悟していたのだろう。無理を通す為に真摯な段取りを怠らない、執拗な慾深。

「いやはや、本当に終始冷や冷やしっぱなしでしたが、最後には何とかなって安心しましたよ。彼女はいとも素直に、相続の抛棄を〝決断〟してくれました。

 で、そもそもですけど、本影さんの人格はずっと、殆どによって支配されて来ていたんですよね。ならば、その所有権を俺へ上書きしたところで、何か道徳に背くでしょうか。別に、この屋敷も彼女の管理下にしてやるつもりですしね。俺に言わせれば、寧ろ、手綱を失った獣をそのままにしておく方が、悪徳」

 秋禅は、言いきれずに地に伏した。我慢ならなくなった私が、全力で頰をはたいたのである。

 舌迅したどに、

「有り難う御座います、色々勉強になりました。左様なら。」

 砂にまみれ、溺れるように喘いでいる彼へ一瞥をくれてから、まぁ死にはしないだろうと私は船の方へ向かった。

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