22

 本影ポコロコ。あの奇矯な女に、私は明らかに魅されていた。あの強慾さと、直情と、強さ、そして母親としての、或いは女としての能力。見た目の器量や若さは共通項としていながらも、しかしそれ以外は実像の如く逆様に、こちらが持ち合わせていないものを誇示していた彼女に、私は心から魅かれていたのだ。とある学説曰く、少なくない種の動物が、生存競争の為に、己に無い形質を持った者を嗅ぎ分けてつがいに選ぶのだと言う。性淘汰の落第生である私にも、その様な本能の欠片が虚しく備わっているのだろうか。

 もしもそうだとすれば、私はどうすれば良いのだろう。今後の応援を約束してくれたことも相俟って、永くに渡り附き合うことになるかもなと思っていた彼女の人格が、全くの虚像であったと思い知らされ、つまり、幻に恋い焦がれていたのだと判明してしまった私は、

 ………………

 そんなことを考えつつ、絹を織るように規矩正しい律で揺れる船の、ともの右舷側で、白く塗装された柵を摑みながら月夜の海風に当たり続けていると、船室からやってきた妖崎が勝手に横へ並んだ。

「いやはや、本当にお疲れさまでした。あと一時間半くらいで本土に着くらしいです。僕らがそれぞれ帰宅出来るのは一体何時になるのかと言う話ですが、まぁ明日は適当に寝坊していただいて構いませんよ。……というか、僕もしたいですし、事務所開けるの午後からとかで良いですか?」

 私は、彼の方を見向きもせずに、

「妖崎先生、話したいことが有るのだがね、」

 

 本影や秋禅の話を――私の懊悩は伏しつつ、客観的事実を――ありたけ彼に伝えると、

「成る程、……中々、無残でやるせない話ですね。まぁ、秋禅さんの言う通りだったとすれば、僕らの介入は遥か手遅れで、最早どうすることも出来なかった訳ですが。流石に、二十年前からの関わりは無いですからねぇ。」

「ああ、」

「しかし、……一体何故秋禅さんも、最後に貴女へ明かしたのでしょう。まさか、竜石堂先生、今回の事件に関して何かほだされた訳でも無いですよね?」

「最後あの男を張り飛ばしてやったが、それは『絆された』に入るかな。」

 私の咄嗟の誤魔化しが通じてくれた妖崎は、身を顫わせて笑っていた。半ば隠れた月の僅かな明かりしかないので、彼の彫り深な男っぽい顔の部品がますます見え辛くなっている。視界が覚束ない中で、船の動揺と執拗な潮の香りが強烈だった。

「で、その話を聞かせて下さったと言うことは、何か僕からの意見が欲しいと言うことですかね。例えば、秋禅さんを通報した方が良いのか、ですとか、」

「ああ、その点については、……黙っているつもりだよ。あの男が勝手に明かしてこなければ、まるで気が付けなかった話だしな。」

「賢明でしょう。今からどこかへ曝露しても、最早誰かを救うことは出来なさそうですし、そして何より、顧問弁護士への内密な法律相談のつもりだった、と訳の分からないことを彼に言い出されたら、僕らの方の倫理が問われてしまいますから。」

「そこまで、計算尽くだったのだろうなぁ。……賢しげで、恐ろしい男だったよ。」

「しかし、そういう保険が有るにせよ、結局なんだってわざわざ竜石堂先生に明かしたのでしょうね。」

「分からん。私を騙くらかしたことへの詫びかも知れないし、或いは、子供っぽいプライドなのかもな。あんたからは馬鹿のように見えていたのかも知れないが、実際の一番の勝者は、この俺だったのだぞ、と。」

 そう口にしてみて、嫌になった。正統たる、夕景の血筋でもなく、激烈なる、本影の献身でもなく、秋禅の賢しらな胴慾どうよくが殆ど全てを浚って行ったようなものなのだから。

 私は、ずっと眺めていた海原に背を向け、柵へりつつ、

「でだ妖崎先生。私が話したかったのは、そこじゃないんだよ。この秋禅の供述によって、見えて来たことが有ると思うのだ。」

「見えて来たこと、ですか? 本影さんの不遇の他に?」

「ああ、……そもそもだが、この事件に於いて私が不思議に思っていたことは、他にも沢山有ったんだ。」

 何処から話したものか、と私は悩んだが、時系列に沿ってみることにした。

「まず不審だったのは、秋禅に渡されたヴィデオテープだよ。」

「あの、近親相姦の映像ですか? ……お恥ずかしながら、あまり直視しておりませんでしたが、」

「違う、良く聞いてくれ。あんな下らん内容なんざどうでも良い、あのテープ自体が問題なのだ。つまり、『ヴィデオテープ』というだよ。」

 薄暗いので不明瞭だが、妖崎の眉が一瞬持ち上がった気がした。

「あのヴィデオテープのラベル、お前も見ただろう。不細工に太い字で、丸で囲った数字が大書きされているだけだった。秋禅が、つまりあれ程恰好を気にする伊達者が、他者に見せるものではないとは言え、あんな不様な物品を所有することを、訳も無く自分に許すものだろうかね。

 少し気になっていたのだが、しかし、この問題は良く良く考えると解決出来てしまった。……鍵は、人の、有るや無しやの視力だ。」

 返事をしない妖崎へ、私は勝手に続けた。

「義父の遺書を読もうとした時にかじりつかんとする勢いだった翔々子を見て私は漸く気が付けたんだが、そう、まともに文字が読めない蝙蝠人きゅうけつきが、まともな文字を書く訳が無いのだ。これは、書くのが難しいと言うだけでなく、自分でも読めないのだから不便千万だろうと言う意味もでな。だから、秋禅が自身で書き込んだのであろうあのラベルも、彼にとって書きやすく読みやすいようにした結果、我々の感覚からするとあれ程不様だった訳だ。蝙蝠人きゅうけつきにとっての、自然体として。

 しかしそれに対し、祖父の閣盛の記したと言う筆記、封印や遺言だけは、私達の美的センスからしても悪くなかった。捏造も疑ったが、しかし、それが真正であることは申賀が――渋々――保証していたし、本影も特に何も言わなかったのだよな。蜥蜴人リザードマンの視力は知らないが、熱を上げて洋書を買い蒐めていた位なのだから、何かに書かれた文字が見慣れた筆跡かどうかくらいは余裕で判別出来ただろう。つまり、やはりあの遺言は真正であり、――或いは、真正と見紛うほどの出来栄えで、ならば、生前の閣盛氏は実際それなりに筆記が出来た筈なのだ。恐らく、特別に訓練するなどしてな。」

 ふと、高い波が起こり、私達の足許を冷たく洗った。叫んだり文句を喚いたりしても良かっただろうが、とてもそんな雰囲気でなかった我々は、そのまま話を続行し、

「さて、妖崎先生。一旦話を変えるが、実はまだもう一つ不審なことが有ったのだ。申賀は、なぜ本影を襲ったのだろうな。」

「え? それは、本影さんへの怨嗟が、」

「それだけだったとしたら、タイミングがおかし過ぎる。もっと人が居ない時、阿古とあいつと本影しか居ない時に刺し殺し、海に捨ててしまえばいいだろうに。誰かへ罪を着せる狙いが有ったとしても、縁もゆかりも無い上に素行良好な人生を送って来た――何せ法曹資格を欠格していないのだから――私やお前や雪峰を疑わせるのは難しいのだから、居るだけ邪魔なだけだったろう。ならば、血原家の面々のみが居る時の決行で良かったではないか。……しかし、彼はそうしなかった。敢えて、昨日を選んだのだ。

 これを説明するには、何か、彼が焦らなければならぬ理由が有ったと想定するしかなかろう。」

 暫くの沈黙を差し向けることで発言を強いると、妖崎は漸く、

「ちょっと、考えすぎな気もしますね。数理パズルじゃないんですから、そんな現実の誰しもが論理的に動く訳ではないでしょう。」

「かもしれんがな、まぁもう少し聞いてくれよ。さて、どうしても申賀が昨日の内に本影を刺さねばならない理由が有ったとしたら、それは何だっただろうか。二つ、私には仮説が思い泛かぶんだ。まず、彼は、どうしても検認の前に本影を消そうとしたのではないか、と。」

「……どういう意味です?」

「相続が開始する前に本影が居なくなれば、閣盛氏の財産が、申賀にとって泥棒猫である彼女へ流れることが無くなるだろう、という理窟だ。……ああ、そうだよ、これは間違っている。『相続が開始』というのは、被相続人の死亡時点なのだから、検認直前に焦ったところで、今更何もかも手遅れだ。しかし、……現実の人類は、論理的とは限らないのだろう?」

 私の皮肉に、妖崎は、首を振りながら降参するように軽く手を挙げた。

「つまり、家事の素人の彼に於いて、それくらいの勘違い、有り得ないと言いきれまい。……と言うより、私の記憶が確かなら、実際申賀はこの誤った知見を検認の最中に口走っていなかったか?」

 手に留まった羽虫の気配を払ってから、

「さて、もう一つの仮説だが、……もしかすると彼は、本影の子の出生を、致死的な手段で禁じようとしたのではないか? 民法八八六条第一項により、胎児や胎卵に相続権は生ずるわけだが、しかし、同条第二項により、死産した場合にはその権利が消滅する。本影も自分の産卵が近いことは把握していたのだし、その話をあの喋々しい口から聞かされていたであろう申賀も、今日しかないと焦ることは充分出来たのではないか? この場合、腹を刺した刃物の狙いが、少々横にずれたと言うことになるが。

 つまり、申賀の、或いは申賀を焚きつけた者の、法律知識が半可通であろうと十全であろうと、という仮定に対して矛盾しないし、また、彼がどうしても昨日決行したからには、寧ろそうでなくてはならなかったと思えるのだよ。実際、申賀も本影の相続について、散々恨み言を述べていたのだしな。」

「……何か、奥歯に物の挟まったような言い方ですが、成る程、そこまでを認めたとしたら、その後は何か有るのですか?」

「ああ、有る。ここで新たに問題になってくるのは、どうやって申賀がそれを知ったかだ。」

「……って、なんです?」

「本影が、包括的遺贈の対象になっていたと言うことだよ。」

「それは、当然遺書によって、」

「馬鹿言え。昼前に本影が刺され、そして午後に検認だ。犯行時点では、申賀は、と言うか、誰もあの内容を知れなかった筈だろう。

 にも拘わらず、申賀は本影を刺さねばならぬと焦る為に、そこに本影への遺贈が言及されていることを知っていなければならなかったのだと、私は今語ったように確信しているし、そして、そうでなければ、縛り上げられた申賀が本影にいた悪態の説明がつきにくいのだ。」

「………………」

「さて、以上のように、と言うのが、論理だった上での私の主張だ。これを正しいとするなら、が、昼前までに申賀へ遺言の内容を伝えていなければならず、つまり当然、そのは、事前に遺言の内容を把握していなければならなかった。……分かるよな。」

「……ええ、」

「それは、果たして誰だったのか。

 まず、正気でない阿古にこんな真似は無理だろう。そして翔々子だが、目も理も聡くない彼女には難しい話だ。これに対し、強かな秋禅の場合、誰かを利用する、つまり何らかの手段で誰かに盗み見させるという方法が一応有り得そうなものだが、しかし、実際そうではないらしかった。彼は、本影が相続を受けることになっているなど、本当に知りもしなかったのだ。だからこそ、私に語ったように、焦りに焦ってなんとか彼なりに事態を収拾したのだからな。もしも知っていたのならば、もっとずっと前の日付に、さっさと本影を傀儡にして終わっていただろう。……そもそも寧ろ、彼女を刺させる訳には絶対に行かないよな。死者は、相続抛棄が出来ぬのだから。」

「……まぁ、筋は通ってますよね。」

「さて、少し話を戻そう妖崎先生。閣盛氏は、筆記が出来た。よって、自筆証書遺言を作成出来た。……しかし、書くのは良いが、内容の確認はどうするものだろう。まぁ正しかろうと、自分で見えぬまま字を書き進めることは、適当な用途なら可能かも知れないが、しかし、遺言と言う重大なものを運否天賦で書く訳には参るまい。しかも、書式違反で無効になる頻度で悪名高い、自筆証書遺言だ。必ず、封印前に誰かが内容を確認しただろう。いや、或いは、記述時に付き添ってすらいたかも知れぬ。当然、その者は遺言の内容を完全に把握出来た筈であり、つまり、……申賀を焚きつけられた、恐らく唯一の人類であった筈なのだ。」

「……成る程、」

「何が、成る程だ。」私は、自分の師を睨みつけた。「それは貴様じゃないのか、血原家の顧問弁護士、妖崎君よ。」


「顧問であったお前の他に、誰が居る。公証人や親族すらそれを許されなかった、閣盛氏の遺言作成への付き添いを果たした者など。或いは、今や扱える者の大して居ない呪術式の金庫、しかもお前しか番号を知らされていなかったそれに封ぜられていた遺言の内容を、盗み見られた者など。……あの時宣った、自分も内容を知らないのだというお前のげんは、体の良い方便だったんじゃないのか? 別にこれ自体は、中立らしく振る舞って欲しかった故人の遺志だったかも知れぬから、責めないがな。」

 隠れがちだった満月が、雲から顔を出した。そうして少しは明らかになった妖崎の表情は、いたって尋常なもので、

「困りますね、竜石堂先生。憶測でそんな誹謗を語られては、」

「二人きりでお前にしか言っていないのに、誰が名誉毀損で困るものか。……心を傷つけられたと民事訴訟を起こしてしてもらっても構わんが、私がこんなことを言ったと言う証拠は何処にもないから相手にされぬだろうし、仮に相手にされたら、内容を開陳されてお前が困るんじゃないのか?」

「ええ、それくらいは考えられていますよね。流石です。

 それはともかくとして、……申賀さんに本影さんを殺させて、僕に何の得が有ったと言うんです?」

「報酬だよ。」

「……ほう?」

「この相続事件に関する契約内容は聞いてないが、どうせ、相続額の何パーセントだかを血原家から貰うことになっているのだろう? ならば、本影の相続権が消滅すれば、元々馬鹿なような金額の報酬が、更に倍になるよな。

 そして、私は忘れていないぞ。本影が死んだと勘違いしての、閣盛氏の遺言を皆で握り潰そうとの共謀。あれを言い出したのは、……妖崎君、お前だったよな。」

 闇の中、じっと返事を寄越さない妖崎へ、畳みかけるように、

「それにだ、もしかするとそもそもあんな金庫を使用したことも、実際にはお前が閣盛氏に吹き込んだ結果だったんじゃないのか? 顧問のくせに、遺言書という、有る意味生涯で最も重要なものに口を出せなかったというのはやはり不自然だし、何より、あの共謀への煽動は、あのように、特異なを利用することで、検認の担当者を裁判所外の密室へ連れ込まねば、実行不能だった筈だよな?」

 妖崎は、暫く押し黙った後、欄干から離れながら、

「いやはや、何と言いますか、……もう、流石ですね、としか言えないんですよね。

 まあ、竜石堂先生の仰っていることはどこまでも状況証拠の積み重ねで、特に法的効力を持つことは無さそうですから、僕もケチらずに独り言を言ってしまいます。いや、別に僕は、一昨日の夜、竜石堂先生がベッドで参っていた隙に戸口で、『もしもこの上で、本影さんへの相続まで遺言で指定されていたら大変ですねえ。実際、非常に可能性が高いと思いますよ。』とだけ、ぽつりと、既に憤懣やる方なかった申賀さんへ、おまじないのように語っただけですよ。そんな、殺人教唆だなんて、とてもとても、」

 私は、声が船室の方へ届かぬように気をつけながら、

「漸く、最初の話の返事をしてやれるよ妖崎君。つまり、明日の出勤時刻についてだが、……巫山戯るな、二度と貴様の事務所の敷居なんぞ跨ぐものか。」

 妖崎は、ただ笑った。

「まぁ、当然でしょうね。ええ、幸い竜石堂さんの荷物はまだペン一本持ち込んでいなかった訳ですし、僕は構いませんよ。暫くは何となく籍だけ置いておき、切りの良いところでそれも解放しましょう。給与は、迷惑料と解雇予告も含めて二月ふたつき分振り込んでおきます。

 しかし、僕は構いませんけど、……貴女はどうするのですか? ただでさえどうしても弁護士会で悪目立つ貴女が、初の事務所を匆々辞めるなどとなったら、次が難しいでしょうに。」

「知ったことか。とにかく、犯罪の臭いを嗅ぎつけておいて、止めるでも無く、寧ろ焚きつけるような愚か者とくつわを並べる訳には行かんのだ!」

 私がこう言ってのけると、妖崎は、噛みしめるように此方を見つめた後、

「丁度行きの船で語って下さった、貴女が七十歳になんなんとするまでは誇られていた筈の、何十年も自分を殺すことを可能にしたあの素晴らしい忍耐を、もう、お忘れになりましたか? それとも、やはり、本影さんに何か当てられましたかね。」

 彼はそう言いきると、広くない甲板を横断し、反対側の欄干へ突然手を掛け、身軽に踏み登った。Aの字のような背後の影を見せる、波一つで転落して浚われそうな彼を、窘める為に私が駈け寄ろうとする。

 しかし、彼は器用に欄干の上で翻り、こちらへ右手を突き付けた。

「まぁ、察せられてしまうかもな、とは思っておりましたよ。」

 妖崎は、その美しい羽を展開した。月夜に泛かぶ妖艶なシルエットは、正しく蝶人フェアリーのものだ。

「もう本土も近いですしね。僕はここでお暇します。……さらば先生、もうお会いしないことを願いますよ!」

 彼は、いとも軽やかに飛翔して去って行った。おい、と私が叫ぶが、みるみるその姿が小さくなって行く。今から私が変化へんげしても、とても追いつかない。この瞬間まで特に気にしていなかったが、去り際によく見たところ、妖崎の手にはしっかりと鞄が握られていた。

 私の怒声を聞きつけたのか、雪峰がのっそりと船室から出て来て、

「何か、有りましたか竜石堂さん。」

「ああ、……たっぷり有ったよ。後で話す。」

「まさか、誰か船から落ちたとか、」

「いや、寧ろ逆と言うか、……なぁ、雪峰。もしかして妖崎って、もう血原家から報酬を貰っていたのだろうかな。」

「ええっと、報酬だったのかどうかは分かりませんが、今日竜石堂先生が聴取で居なかった時に、派手な大きさの包みを翔々子さんや秋禅さんから受領してはいましたね。……言われてみれば、法外な額の紙幣だったような気も、」

 私は、つい腰が砕けて船板に座してしまった。

「おいおい、……すると、もしかして、このまま雲隠れしたりする彼奴の方が、私よりも先に弁護士廃業か?」

 多くのことを学ぶ為に、弁護士となり、そしてやはり物事の実態を見知る為に今回の事件に私は連れて来られた訳だが、想像の何倍もの事象を一挙に学ばされてしまったような気がする。人類の強さ、恐ろしさについてもそうだが、中でも、実際の事件の残酷さについて心底思い知らされた。つまり、妖崎や秋禅の悪徳や、本影の悲劇について、我々人類は何も知らないままこの先の歴史を刻んで行くのだ、という残酷である。あんな、反吐が出るようなものや、或いは悲哀の極みのような出来事について、社会は何も知らされないまま明日からも、しかし、なんら滞りなく進んで行くのだ。漁船が、網から洩れた鰯の一匹を気にせぬように。全てが、些事として取り落とされて行く。このことを思い知らされたという経験は、裁判所で物証や調査書を受けとって事件の委細を知ったつもりになっていた私にとって、これ以上もなく有り難い劇薬となっただろう。一つの事件には、無数の事象と、無限の歴史が、透明に、しかし血塗られて裏打たれているのだ。

 さて、明日から本当にどうしたものだろうか。本来は早く考えねばならぬのだろうが、しかし、あらゆる意味で疲労しきった私は、ただ暫く、かつての教え子と一緒に甲板から星空を眺めることにしてしまった。

 揺れる船の上、不夜な本土の日常が近付いて来たことで、星々はぼやけ始めている。私はとにかく、あの夢のように眩かった経験から、慣れ親しんだ社会へと帰還するのだ。


 名も知れぬ赤い星の姿が消えた頃、海水に侵された靴の中の言いようもない気持ち悪さに、私は漸く気が付いた。

 

(了)

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無私の蜥蜴女 敗綱 喑嘩 @Iridescent_Null

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