16

 私が本影と居た間に、妖崎が何もかも皆へ伝えてくれていないかな、そうしたら楽だけどな、と少し期待していたのだが、彼は雪峰へ話していただけだった。申賀の姿も見えないので、仕方なしに、唯一曾遊そうゆうの地としている妖崎の乏しい記憶を頼りに、我々三人は半ば当てずっぽうで部屋部屋を練り歩き、血原家の者達を探す羽目となったのである(なにも、「お安い御用」ではなかった。)。幸いに、唯一まともに物を頼めるであろう秋禅の部屋が最初に見つかったので、母と妹の召喚は彼に任せることが出来た。

 そうして集合した主食堂では、矛先の候補が多過ぎて絞りきれないが、とにかく翔々子が何かに対して苛々しており、こんな空気に辟易していた私は、早く本影が来てくれないかなぁと願っていた。生きの良い彼女の卵は私の目の前に用意してあり、また、――奇跡的なことに翔々子が原本を破り棄てていなかったので――閣盛氏の遺書の複写も、卒なく三部取り直してある。その内の二部は、検認申立人の本影の署名を貰う用、残り一部は、彼女にくれてやる用だった。

 この空気、本当にやだなぁ、早く来ないかなぁ、と、あまりに盛り沢山な一日に疲れの募ってきていた私は、子供のような事を思い始めていたが、丁度その瞬間に、本影は主食堂へ現れた。申し合わせたように、我々六人が落ち着いた殆ど直後の登場だったので驚くが、恐らくは、鹿驚魔キキーモラを使ってこの部屋を監視していたのだろう。

 そして、その姿も衝撃的だった。彼女は我々の記憶像を完全に裏切って、竜胆色の柔らかな夜会服ソワレで粧し込んでいたのである。化粧もそれに応じて濃いめに整えており、上物のパーティバッグを瀟洒に抱えている彼女は、我々のぎょっとしている視線へ気が付くと、これだけは普段と同様に、空いている方の手で口許を隠しながら笑った。

「皆様御免遊ばせ、いつもの恰好は血塗まみれでどうしようも有りませんでしたので。」

 手首には、銀地に宝石を鏤めたブレスレットが巻かれており、その美し過ぎる手の、家事雑務からの隔たりを深めている。その慇懃無礼というか、時代掛かる程に衒っている口調も、つい先程までは、メイド役に酔っている女という属性にとても似合っていたのに、しかし今や、この、あてなる若夫人にしか見えぬ佇まいへこそぴたりと調和しているのであった。まるで、永年この姿で過ごして来た結果、その生活が舌にまで華美さを涵養したかのように。

 返す言葉に困る私達の前で、彼女は して自分の座るべき席を探し始めた。……まずったな。既に居た面々の椅子しか用意していなかったぞ。

 何か動くべきかと私が思い始めると、彼女は突然、例の壊れた笛のような音色を喉から殷々と発した。この命令に従ったらしい二頭の鹿驚魔キキーモラが、すぐにどこからか椅子を持って来て設えたのだが、我々元々部屋に居た六人が、古来の上座下座に倣った結果、血原家側と法曹人側に分かれて卓の長い辺をそれぞれ占めていたところに、短辺へ椅子が置かれて本影が腰掛ける事になったので、恰も彼女が議長であるかのような絵面が齎されている。

 卓に着いた本影は、まず、私の目の前の愛しい白亜の橢円体を見つけ、明らかに一瞬莞爾としかけたが、情況を弁えてすぐに平然を装った。

「さて、」

 見回しながら、

「申賀が、おりませんけども、」

 ああ、そうだった。

「ええ、どうしても見つかりませんので、」

「では、暫しお待ちを、」

 そう言うと、本影は椅子を運んで来た鹿驚魔キキーモラを近寄らせ、細々と指示を与え始めた。その間、飾り立てられた手が軽やかに、恐らく無為に動いており、立てられた食指の指揮棒のような跳躍のせいで、彼女が今の情況を心中では楽しんでいるかのように見える。

 と、以上のような調子で、登場以来すっかり本影へ見れていたのは私の不手際であっただろう。つまり、問題児の翔々子から、ずっと目を離してしまっていたのだ。この野蛮な癇癪は、信じられぬ程の浅ましさをみせ、具体的には、矢庭にテーブルへ跳び乗ると、そのままもう一跳びして本影へ摑みかからんと、

 馬鹿者が! と私が血相を変えつつ立ち上がる頃には、しかし、事態が収拾されていた。

 跳びかからんとした翔々子が、影を縫われたかのように卓上で静止している。膝から下はクロスへ貼り付けられているのに、上体は宙で水平に固定されたままで、また、二本の腕は病木の枝のように力無く前方へ投げ出され、酷く顫えているのにも拘らず、指一本動かせないらしい。

 憎悪で剝き出しにした歯を喰い縛りつつ、目許では困惑を泛かべている翔々子に対して、本影は、ただ恬然てんぜんと、

「若奥様、……テーブルが痛むでしょうが。」

 この不敵に対して、何か翔々子は喚こうとしたようだったが、下から顎を叩かれたかのように突如口を閉じ、そのままとしか出来ないでいる。

「このまま、その浅薄な頭、砕いてしまえば、」

「本影!」叫んだ。「何をしているのか分からんが、馬鹿な真似は止せ!」

 彼女は此方に一瞥寄越し、「失礼、」と呟くと、また鋭く喉を鳴らした。その直後、我々は悲鳴や呻き声を上げてしまう。突如翔々子が、無数の鹿驚魔キキーモラに隙間無く取り囲まれた、奇妙で巨大な内臓の様な姿となったのだ。余りにも瞬間的な出来事だったので、翔々子の体からその幻獣達が沸いてきたようにしか見えなかったが、幾らなんでも、そんな訳はあるまい。すると、……なんだ? 何が起こった。

 胡蜂すずめばちを圧殺する蜜蜂のように、そのキメラな家獣達は翔々子に纏わりながらも蠢き続け、そして本影はそれを、残忍な喜色を顔へ泛かべつつ見つめているのだった。

「そろそろ、良いでしょう。」

 この言葉に続いた号令によって鹿驚魔キキーモラは散開したのだが、その一頭々々はそれぞれ床や壁へ跳び込むと、笊に注いだ水の如く、なんら障碍なしに通過して消え失せた。その後卓上に残された、ぐったりとした翔々子は、一頭残っていた幻獣に蹴飛ばされて秋禅に受け止められる。

 彼は、母親の状態よりも、目にした事態の方が気になったらしく、

「なんだい、本影さん。……それが、あんたの本性?」

 蜥蜴の嘲笑が、部屋内に閃く。

「お戯れを。わたくしは、常にわたくしですわ。この臨潮館へ参って以来、特段何も装ったことは御座いません。常に、一人の、ただ閣盛様へ心酔する女で御座います。

 ……ところで、竜石堂様、」

 立ち上がっていた私の腰元へ、翔々子を蹴落としたばかりの鹿驚魔キキーモラが、鼻をすんすんと鳴らしつつ寄ってきた。

「早速ですが、例の物をお渡し頂けますか。……とても、わたくしにとって大事なものですから。」

 幻獣は、私の差し出した封筒を引っ取ると、主の元へすぐに届けた。立ち上がって数歩も歩けば直接私から受け取れただろうに、わざわざ遣いを介し、ずっと議長席に掛けたままついに中身を検め始めた本影の態度は、まるで傲岸な領主の様にも見える。

 彼女は、感の極まった顔で何度も便箋へ頷くと、再びそれを鹿驚魔キキーモラへ預けて何処かへ運ばせた。

「有り難う御座います、竜石堂様。お蔭様で閣盛様のお手紙も、そして……わたくしの子も無事で、」

 この語りの中の、「私の子」という言葉を聞いて翔々子は元気を取り戻したらしく、なんとか床へ立ち直ると、

「そうです、その話です本影さん! この、泥棒猫、……いえ、そんな言葉も勿体ない、最早売女か畜生だわ!」

 暴力では本影に敵わないと思い知ったらしく、つばきを飛ばしての涙ぐましい攻勢であったが、しかし、実際本影は覿面に穏やかでなくなった。この部屋に来て以降、濃度は変動しつつもずっと湛えられていた笑顔が初めて一掃され、鋼のような能面が表れている。

「若奥様、」目だけを見開いて、「……聞き違いだったことにしても、宜しいですが?」

「何度でも言いましょう、ロクに耳も利かぬ爬虫類! お前の様な女郎上がりの女に、やるべき血原家の財産は一銭も無いのです!」

 私は、一瞬惑わされた。とにかく止めねばならないのだが、翔々子の軽蔑されるべき言葉遣いか、それともあんな目に遭った直後で挑発を働く無謀か、或いは本影の狼藉か、どれから咎めたものかと迷ってしまったのである。処断には根拠を求めるという、判事としての癖が悪い方へ出たのだった。

 そして、この隙に事態が進行してしまう。まず、本影の顔が変わった。いや、無論、当然の憤怒がそこには表れたが、そう言う意味ではなく、本当に顔の造形が変わったのである。その、ぼんやりとした支子くちなし色の、注視せねば皮膚と見分けのつかぬ鱗に覆われていた顎下が、B重油を皮下へ注入されたかのように、一面漆黒へ豹変した。そしてその漆黒は、目許からも迸っており、両の瞳からそれぞれ殆ど垂直に下ろされた一本線が、彼女の顔を口と両頰の三箇所へ、書類の罫線のように瞭然と劃している。そうした明晰たる排置とは対照的に、怒りにまなじりを決した目の回りには斑に黒の鱗が飛んでおり、見る者を悪く酔わせる様な妖しさがそこには有った。威嚇で鱗の色を変える、爬虫類の野性が残されていたのである。

 これを見てたじろいだ翔々子へ、本影は容赦しなかった。彼女がまた何かを命ずると、天井から、巨大な、重機のシャベルのような熊の腕が生えてきたのである。その魁偉な腕は、翔々子を、腰を抜かすことも許さずに摑み上げてしまう。

「ああ、分かっておりますわ竜石堂様。」此方へ見向きもせぬまま、「傷つけや、致しません。ただ、……ちょっと、身の程を教えてやらねばならぬでしょう。」

 その化け物の腕、――漸く正体に気が付いたが、巨大過ぎる、腕だけの鹿驚魔キキーモラは、握り締めたままの翔々子を主の眼前へと運んだ。

 まるで、磔にさせた罪人と戯れに会話するかのように、本影は哀れげに見上げながら、

「先程秋禅様にも丁度申しあげましたが、……やはり、わたくしわたくしでありますわ、若奥様。ただ、皆様へ誤解を与えていたことが何か有ったとすれば、この子達、鹿驚魔キキーモラについてで御座いましょう。つまり、鹿驚魔キキーモラとは、如何に身近で卑しく見えてもその実幻獣であり、我々肉を持つ俗物と比べるなど、――ましてや、まさか見下げるなど、とてもとても……

 即ち、この子達にとっては、姿を可視化することも不可視化するも同じ様に如意であり、また、現れることも消えることも、そして、現れるとしたらその大きさも、実に自在な訳で御座います。」

 私は、臨潮館への訪問時、玄関において鹿驚魔キキーモラから監視されていた筈だったのに、それに全く気が付けなかったのを思い出した。

「言い直せば、こういう事で御座いますわ若奥様。皆様御存知だったように、わたくしは臨潮館を守り、切り盛りする女に過ぎません。但し、その手段は、恐らく見縊られていたでしょう。つまりわたくしは、鹿驚魔キキーモラ達を、或いは、鹿驚魔キキーモラとして具現化する、強いて名付けるなら『魔力』とでも呼ぶしかない超科学的な力を、日々、この島とこの館に蓄え続けてきたので御座います。」

 ここまで語った、恐ろしい相好の本影は、一応は満足したらしく、翔々子を元の席へ配置しつつ顔を元に戻した。仕事を終えた巨大な黒い腕は、うつぼが巣へ戻るかのように天井へと消え入って行く。

「という訳でして、竜石堂様、……つまり、竜石堂、貴女の竜処女ドラゴンメイドらしい威勢は、わたくしの眼が黒い限り、この島では無意味で御座います。」

 二重に、心を乱された。私の来歴や正体を知られていたという動揺と、そして、私が覚え始めていた不安を、鍼師の様な正確さで撞かれた衝撃だ。

 つい、強言こわごとが洩れる。

「本影さん、……なんですか、まさか、この私を脅迫しようと?」

 蜥蜴の女帝は、口許を隠す手を悠々貫く程に、高らかと笑った。

「まさか、滅相も御座いませんわ。」翠緑の目は、笑っていない。「老婆心から参る、純に善なる心配で御座います。貴女様はきっと、人生の殆ど全ての時間を、自分がその場で最も強い者であるという保証の下に、安穏と一種の自恃じじを纏いて過ごして来られたでしょうから、こうやってその約束が破られた場では、身の振り方も多少変わりましょう、不慣れでしょうがお気をつけ下さい、……という、ただの御忠告で御座いますの。」

 少しは外れていてくれという願いはあっさり裏切られ、本影は、やはり私の懊悩を、金型図面のような精確さで刳り抜いていた。そう、敵わない。ドラゴンの血筋による直観が、本能的な恐怖を私に齎していた。私は、この場で、絶対に本影に敵わない。恐らく、赤子の如く捩じ伏せられるだろう。

「それに竜石堂様、わたくしは貴女様へとても返しきれぬような御恩を負っておりますので、感謝はすれど、何か乱暴や強迫だなんて、そんな、滅相もない事で御座います。」

 衣裳は変われど、相変わらず良く喋る女だった。しかし、今や、初対面での空疎な喋々しさとは全く異なり、一言いちげん々々に兇器のような重みが有り、しかも、それが止めどないのである。

「それで、なんでしたっけ、……ああ、若奥様に、身の程をお知り頂くという話でしたか。」

「身の程?」翔々子の折れぬ意気だけは、嫌みでなく本当に立派だった。「確かに本影さん、お前のその力は大したものでしょうが、だからと言ってお義父様に取り入っただけの女中風情に、血原家の資産を盗んで行く資格が有るとは、」

「ああ、そこで御座います若奥様。皆様が、酷く勘違いなさっているのは、」

 翔々子が眉を顰めた隙に、

「つまり、皆様、どうしてもわたくしを浅ましい女にしたいようですが、事実はまるで異なるので御座います。私と、閣盛様は、……真剣に愛しあっていたのです。いえ、愛しあっていたという言葉では足りませぬわ、実際、わたくしが閣盛様の子を授かったと分かった日から、式の準備まで進めていたので御座いますから。」

「式?」久々に、妖崎が口を開いた。「一応訊きますが、葬式のことではないですよね?」

「ええ、勿論ですとも。」

 本影はその倨傲な表情を、鮮やかに哀しみ一色へ塗り変えつつ、

わたくしは、閣盛様の婚約者、――或いは、内縁の妻で御座いました。」

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