16
私が本影と居た間に、妖崎が何もかも皆へ伝えてくれていないかな、そうしたら楽だけどな、と少し期待していたのだが、彼は雪峰へ話していただけだった。申賀の姿も見えないので、仕方なしに、唯一
そうして集合した主食堂では、矛先の候補が多過ぎて絞りきれないが、とにかく翔々子が何かに対して苛々しており、こんな空気に辟易していた私は、早く本影が来てくれないかなぁと願っていた。生きの良い彼女の卵は私の目の前に用意してあり、また、――奇跡的なことに翔々子が原本を破り棄てていなかったので――閣盛氏の遺書の複写も、卒なく三部取り直してある。その内の二部は、検認申立人の本影の署名を貰う用、残り一部は、彼女にくれてやる用だった。
この空気、本当に
そして、その姿も衝撃的だった。彼女は我々の記憶像を完全に裏切って、竜胆色の柔らかな
「皆様御免遊ばせ、いつもの恰好は
手首には、銀地に宝石を鏤めたブレスレットが巻かれており、その美し過ぎる手の、家事雑務からの隔たりを深めている。その慇懃無礼というか、時代掛かる程に衒っている口調も、つい先程までは、メイド役に酔っている女という属性にとても似合っていたのに、しかし今や、この、
返す言葉に困る私達の前で、彼女は とみこうみして自分の座るべき席を探し始めた。……まずったな。既に居た面々の椅子しか用意していなかったぞ。
何か動くべきかと私が思い始めると、彼女は突然、例の壊れた笛のような音色を喉から殷々と発した。この命令に従ったらしい二頭の
卓に着いた本影は、まず、私の目の前の愛しい白亜の橢円体を見つけ、明らかに一瞬莞爾としかけたが、情況を弁えてすぐに平然を装った。
「さて、」
見回しながら、
「申賀が、おりませんけども、」
ああ、そうだった。
「ええ、どうしても見つかりませんので、」
「では、暫しお待ちを、」
そう言うと、本影は椅子を運んで来た
と、以上のような調子で、登場以来すっかり本影へ見
馬鹿者が! と私が血相を変えつつ立ち上がる頃には、しかし、事態が収拾されていた。
跳びかからんとした翔々子が、影を縫われたかのように卓上で静止している。膝から下はクロスへ貼り付けられているのに、上体は宙で水平に固定されたままで、また、二本の腕は病木の枝のように力無く前方へ投げ出され、酷く顫えているのにも拘らず、指一本動かせないらしい。
憎悪で剝き出しにした歯を喰い縛りつつ、目許では困惑を泛かべている翔々子に対して、本影は、ただ
「若奥様、……テーブルが痛むでしょうが。」
この不敵に対して、何か翔々子は喚こうとしたようだったが、下から顎を叩かれたかのように突如口を閉じ、そのままもごもごとしか出来ないでいる。
「このまま、その浅薄な頭、砕いてしまえば、」
「本影!」叫んだ。「何をしているのか分からんが、馬鹿な真似は止せ!」
彼女は此方に一瞥寄越し、「失礼、」と呟くと、また鋭く喉を鳴らした。その直後、我々は悲鳴や呻き声を上げてしまう。突如翔々子が、無数の
「そろそろ、良いでしょう。」
この言葉に続いた号令によって
彼は、母親の状態よりも、目にした事態の方が気になったらしく、
「なんだい、本影さん。……それが、あんたの本性?」
蜥蜴の嘲笑が、部屋内に閃く。
「お戯れを。
……ところで、竜石堂様、」
立ち上がっていた私の腰元へ、翔々子を蹴落としたばかりの
「早速ですが、例の物をお渡し頂けますか。……とても、
幻獣は、私の差し出した封筒を引っ取ると、主の元へすぐに届けた。立ち上がって数歩も歩けば直接私から受け取れただろうに、わざわざ遣いを介し、ずっと議長席に掛けたままついに中身を検め始めた本影の態度は、まるで傲岸な領主の様にも見える。
彼女は、感の極まった顔で何度も便箋へ頷くと、再びそれを
「有り難う御座います、竜石堂様。お蔭様で閣盛様のお手紙も、そして……
この語りの中の、「私の子」という言葉を聞いて翔々子は元気を取り戻したらしく、なんとか床へ立ち直ると、
「そうです、その話です本影さん! この、泥棒猫、……いえ、そんな言葉も勿体ない、最早売女か畜生だわ!」
暴力では本影に敵わないと思い知ったらしく、
「若奥様、」目だけを見開いて、「……聞き違いだったことにしても、宜しいですが?」
「何度でも言いましょう、ロクに耳も利かぬ爬虫類! お前の様な女郎上がりの女に、やるべき血原家の財産は一銭も無いのです!」
私は、一瞬惑わされた。とにかく止めねばならないのだが、翔々子の軽蔑されるべき言葉遣いか、それともあんな目に遭った直後で挑発を働く無謀か、或いは本影の狼藉か、どれから咎めたものかと迷ってしまったのである。処断には根拠を求めるという、判事としての癖が悪い方へ出たのだった。
そして、この隙に事態が進行してしまう。まず、本影の顔が変わった。いや、無論、当然の憤怒がそこには表れたが、そう言う意味ではなく、本当に顔の造形が変わったのである。その、ぼんやりとした
これを見てたじろいだ翔々子へ、本影は容赦しなかった。彼女がまた何かを命ずると、天井から、巨大な、重機のシャベルのような熊の腕が生えてきたのである。その魁偉な腕は、翔々子を、腰を抜かすことも許さずに摑み上げてしまう。
「ああ、分かっておりますわ竜石堂様。」此方へ見向きもせぬまま、「傷つけや、致しません。ただ、……ちょっと、身の程を教えてやらねばならぬでしょう。」
その化け物の腕、――漸く正体に気が付いたが、巨大過ぎる、腕だけの
まるで、磔にさせた罪人と戯れに会話するかのように、本影は哀れげに見上げながら、
「先程秋禅様にも丁度申しあげましたが、……やはり、
即ち、この子達にとっては、姿を可視化することも不可視化するも同じ様に如意であり、また、現れることも消えることも、そして、現れるとしたらその大きさも、実に自在な訳で御座います。」
私は、臨潮館への訪問時、玄関において
「言い直せば、こういう事で御座いますわ若奥様。皆様御存知だったように、
ここまで語った、恐ろしい相好の本影は、一応は満足したらしく、翔々子を元の席へ配置しつつ顔色を元に戻した。仕事を終えた巨大な黒い腕は、
「という訳でして、竜石堂様、……つまり、竜石堂緋桐元最高裁判事、貴女の
二重に、心を乱された。私の来歴や正体を知られていたという動揺と、そして、私が覚え始めていた不安を、鍼師の様な正確さで撞かれた衝撃だ。
つい、
「本影さん、……なんですか、まさか、この私を脅迫しようと?」
蜥蜴の女帝は、口許を隠す手を悠々貫く程に、高らかと笑った。
「まさか、滅相も御座いませんわ。」翠緑の目は、笑っていない。「老婆心から参る、純に善なる心配で御座います。貴女様はきっと、人生の殆ど全ての時間を、自分がその場で最も強い者であるという保証の下に、安穏と一種の
少しは外れていてくれという願いはあっさり裏切られ、本影は、やはり私の懊悩を、金型図面のような精確さで刳り抜いていた。そう、敵わない。ドラゴンの血筋による直観が、本能的な恐怖を私に齎していた。私は、この場で、絶対に本影に敵わない。恐らく、赤子の如く捩じ伏せられるだろう。
「それに竜石堂様、
衣裳は変われど、相変わらず良く喋る女だった。しかし、今や、初対面での空疎な喋々しさとは全く異なり、
「それで、なんでしたっけ、……ああ、若奥様に、身の程をお知り頂くという話でしたか。」
「身の程?」翔々子の折れぬ意気だけは、嫌みでなく本当に立派だった。「確かに本影さん、お前のその力は大したものでしょうが、だからと言ってお義父様に取り入っただけの女中風情に、血原家の資産を盗んで行く資格が有るとは、」
「ああ、そこで御座います若奥様。皆様が、酷く勘違いなさっているのは、」
翔々子が眉を顰めた隙に、
「つまり、皆様、どうしても
「式?」久々に、妖崎が口を開いた。「一応訊きますが、葬式のことではないですよね?」
「ええ、勿論ですとも。」
本影はその倨傲な表情を、鮮やかに哀しみ一色へ塗り変えつつ、
「
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