15

 その後元気になり、冷静にもなった本影は、私と分離した後、鳶座りのまま、

「竜石堂様も、大胆ですのね。」

と道化て、何も無い胸部を両腕で隠して見せた。その全身の紅潮と、引き裂かれた服を眺めれば、婦女暴行の直後にしか見えないだろう。但し、顔だけは本当に柔らかに緩んでおり、言葉に反して彼女が感謝してくれているのが見て取れる。いつもの彼女は気取って口許を隠してから笑んでいたので、その犬歯が効果的に笑顔の中で煌めくのを私は初めて知った。残りの歯列は、仰角が悪い上に薄暗くて良く見えない。

「哺乳類の愛は、情熱的なんですよ。」

と私も諧謔かいぎゃくを返しながら、シャツ(の残骸)と、ジャケットを拾ったが、あーあ、シャツは期待していなかったが、ジャケットの釦まで飛んでいる。

 裸で出る訳にも行かないので、下着と共にそれぞれ一応羽織ったが、毛布をポンチョの様に巻いて立ち上がった本影が、私の体格を見定めつつ、

「おシャツ、竜石堂様がお召しになれるのが御用意出来るかも知れません。上着の方の釦も直させていただきたいですし、わたくしの部屋へ来ていただけますか? すぐ、近くですので。」

「ああ、お言葉に甘えましょう。」

 

 奇妙な傘が歩いているような姿となった、彼女を追いつつ、

「しかし、……良く生きていましたね。」

「ああ、……細かいことは後でお話致しますけど、そもそも我々蜥蜴人リザードマンは寒冷に対して本当に弱いんですの。つまり、わたくしは死に掛けていたと言うより、ずっと冷蔵され続けて動けなかったのですわ。……いえ、あまりに長く低温下に置かれましたから、直に本当に死んでいたかも知れませんが。」

 そう言えば、寒さが苦手とか言っていたなぁ。てっきり、好みくらいの軽い話と思っていたが、その実、気をつけねばならぬ重要事項ではないか(そうだとはっきり言っていてくれれば、私も、発見時に冷蔵倉庫から引っ張り出してやったのに、)。

「つまり、貴女は巨大な蜥蜴と言うことですね。……本当の蜥蜴ならまだしも、人体らしい大きさの隅々まで、脈拍も呼吸もロクに機能しないまま酸素が供給されていたのは不思議ですけど。」

 私のこの感想に対し、本影は振り返って小首を傾げてしまう。巻いている毛布と相俟って、面妖な玩具のような動きだが、つまり、蜥蜴人リザードマンや爬虫類の生態に明るい訳ではないらしかった。

 

 本影の部屋に通されると、そこは、全くもって使用人の部屋らしからなかった。まず、馬鹿のように広い、妖崎の事務所より広い。ホテルで言うならスウィートで、つまり、寝室が別の部屋として用意されて続いているのだ。手前側の此方は、物の多さにごちゃついてはいるものの、いずれもアンティーク調の小テーブルにソファーや小棚、簞笥に鏡台、ランプ、古書の犇々ひしひしと並んだ本棚と、彼女の趣味らしい逸品が目一杯に詰め込まれている。天井の低いことだけがうらみだが、それ以外は恐らく、思い通りのねぐらなのだろう。

 本影は今、その中の立派な、窓際の洋簞笥をごそごそと漁っている。やはり、胸部が準女性器と言う感覚が無いらしく、彼女は毛布を脱いだまま、つまり下半身の下着や頭部の装飾具(鬘を含む)以外には一糸纏わぬ状態でそうしてくれているのだが、ガーターと、吊られたストッキングが、それぞれ純白である上に精緻なレースを織り込ませているので、やや暗い電燈によって立ち姿が明晰を失いつつあることと相俟って、本影の色白な肌の中へ、巧みな紋様が溶け込んで行っているように見える。その、部品を欠いた爬虫類の平板な胸部も、彼女が高い抽斗を無理に覗く時には張るように反ることで、茹でた卵の如くつるりと美しくなった。その少し下では肋骨が浮いていて、何か邪悪な霊が彼女の臓器を摑む為に手を差し込んで、その悪意ある指を皮膚の下で浮かしているように見える。死霊をも、惹き付ける妖艶。この様な、均整の取れた美が、その持ち主が意識せずに晒されていることで、てらいや羞じらいと言う不可視の贅肉をも淘汰して輝かしく映えており、まともな性別を持たぬ私ですらをも魅了した。

「ああ、御座いましたわ。」

 その声に呼ばれ、寄ってシャツを受け取ろうとすると、まるで代価でも要求するかのように空手をも差し出してきたので一瞬動揺したが、上着を寄越せと言う意味だとすぐ理解出来た。

 彼女は、私からジャケットを受けとって、婆娑ばさと一回はためかせてから、

わたくし自身は裁縫も出来ませんで、鹿驚魔キキーモラ達にやらせてしまいますが宜しいですか?」

「……そんな、細かい作業も家獣に可能で?」

「手前味噌になりますが、わたくし伎倆ぎりょう有ってこそですわ。……それで、させて宜しいですか?」

「どうせ、ベッドもあの幻獣らにメイクさせているのですよね? なら、今更でしょう。特に、アレルギー等も起こりませんでしたし、」

「ああ、過敏症の心配はしなくても大丈夫ですわ。あの子達は、そう言う存在ではないですもの。

 過敏症と言えば、寧ろ、……雪峰様、と仰いましたか? あの霜熊人ジャックフロストの方の体毛を、私が倒れている間掃除出来ていないのが気になりますが、」

 ……ああ、

「今気が付いたんですけど、もしかして本影さん、貴女が彼女を、雪峰を疎んじていたのは、」

「……そうしているのが、察せられてしまわれましたか? ええ、我々に寒さが苦手なので、申し訳ないですけど霜熊人ジャックフロストの方にはあまり近寄れないんです。と言うより、最早恐怖の対象でして、……わたくし越度おちどですわね、日中の庶務の責任を負っておいて、応対もロクに出来ぬお客様が存在してしまうのですから。とは言え家裁へ、送ってくる員の種族を指定するようでは、それも霜熊人ジャックフロストを避けるようでは、今日日レイシストと評され、怒られてしまいますし、」

 成る程なぁ。……よりにもよって、雪峰が本影の(生きている)骸を世話してしまったのも不幸だったか。他の者、特に体温高い私がそうしていれば、その時点で本影は身動ぐ位出来たかもしれなかったのに。

 そもそもなんで本影が死んだだなんて騒ぎに、全く人騒がせな、と一瞬だけ思ったが、良く考えなくとも早とちりした私のせいなので赤面しそうになった。いや、だってお前、ほら、人類が血を流して倒れていて、脈も息も分からなかったら、死体だと思うではないか。

 そんな彼女は、首を傾げながら私の預けたジャケットをあらためつつ、

「ずっと思っておりましたけど、やはり、貴女様の体にサイズがまるで合ってないようですが、何故こんな、……おや?」

 何かを見つけたような声が聞こえたので、久々に着る丁度良いサイズのシャツを窮屈に感じながら、

「どうかしましたか?」

「内ポケットに何か入っておりますが、今の内にお返しした方が宜しいですか?」

 ……ああ、

 私は、ここで真面目な顔をして暫く黙り込んでしまったらしかった。これを、毒の無い表情でぽかんと見つめつつ待っていてくれた、本影へ、

「それ、封筒です。お開けして、是非貴女も中身を一度御覧下さい。」

 

 当然私は、あんな短い遺言書、すぐに本影が読み終わってくれると思い、立ったままで待っていたのだが、しかし、ソファーに掛けた彼女は、その内容を何度も何度も何度も読み返し、そしてその度に、歔欷を深めた。顴骨の辺りから桜花のように赧らみ、その少し上では、汪々とした緑色の目から、頻りに涙が零れている。描かれた偽物の眉は酷く歪みつつ寄せられ、日頃の美貌に似合わぬ、不様で執拗な皺をその間に刻んでいた。そして、忙しなくはなを啜るような音まで立てている。便箋を摑みながら慄えているその両手は、突如、彼女の胸へと束ねられた。つまり、ロザリオに縋る耶蘇やそのように、複写を、裸のままの胸許へ抱き込んだのである。その、殆どストッキングだけを纏った白い全身が、更に、膝と首も曲げつつ丸く縮み込んだので、極地の巨大な氷塊が財物を飲み込んでしまったかのようだった。白く耀いて光を反射し、時折身を顫わせながら永年夢を見続ける浮游質量。

 待ちかねた私が近付いて行くと、気配を察した彼女が、

「すみません、ちょっと、落ち着くのに掛かりそうです。」

 読点と濁点を無数に打たねばならぬような、しどろなだみ声だった。

「本影さん。本当に申し訳ないんですが、その複写、そのまま貴女の物には出来ないんです。出来る限り早くもう一部用意しますから、一旦お返し頂けますか。」

 本影は、頑固な貝の様に微動だにしない。暫くすると漸くしぶしぶと体勢を解き、ひしゃげた複写紙を返してくれたが、その顔の状態は本当に酷かった。溢れる激情、歓喜と追悼が、目茶苦茶に顔の均整を破壊し、洟だか涙だか分からぬ液体でそこら中を汚していたのである。

 ロクに物も見定められぬ情態らしい彼女が、ちり紙を取ろうとしてし損ねるので、見かねた私が二三枚抜いて渡してやった。

「ああ、有り難う御座います、」

 顔中を拭き、洟をかむと、少しは落ち着いたようだった。

「ああ、ああ、本当にお見苦しいところを、……ええっと、」

 暫く時間を掛けて気を鎮めて下さい、私はどこかへ行っておりますから、と言い掛けたが、この精神状態の彼女、しかも瀕死から蘇生したばかりの彼女を放っておく気にはなれず、私は近くに腰掛けてしまった。

「本影さん、焦らなくとも大丈夫です。しかし、……申し訳ないのですが貴女が死亡したと思っていた我々は、その前提で色々相続についての相談を始めてしまいました。ですので、他の皆様、特に血原家の方へは、貴女の生存を出来る限り早く伝えねばなりません。」

 『焦るな』と『出来る限り早く』が混じっており、不様な宣告だと私自身が思ったが、これ以外に言いようが見つけられなかった。

 本影は、明らかに気丈を装って、

「竜石堂様、有り難う御座います。でも、大丈夫です。と言いますか、無理してでも、わたくし早く皆様の元へ参じたいのです。顔を洗ったり、服を着たりしたら、すぐお参り致しますわ。」

「そう、ですか。」

「ですので竜石堂様、……わたくしからなど、本当に不躾なのですが、しかし、一つお願い出来ますでしょうか。若奥様方を何処かの部屋、……そうですわね、『主食堂』、晩餐を取るのに使う部屋へ、集めて下さいますか? すぐに、私も参りますので。」

「お安い御用ですが、……本当に、大丈夫ですか?」

「ええ。お陰様で、もうすっかり平気で御座いますとも。」

 そういうと彼女は、両足を揃えて立ち上がり、何度かその場で跳ねてみせた。成る程、少なくとも傷の方は大丈夫なつもりらしい、が、

 私は急いで立ち上がって彼女の肩を押さえた。

「あまり馬鹿なことは、よして下さい。貴女、数時間前に腹を貫かれたのですよ?」

「ああ、それですけれども、」

 彼女の目が、露骨に惑った。何か、秘していることが瞭然だが、

「皆様の前で、何もかもお話致しますわ。とにかく、大丈夫で御座いますから。」

 その本影の、思いきり、しかも繰り返し感涙を流した後で、屈託が完全に祓われた筈の微笑みは、しかし、何故か私の心を嫌な予感でざわめかせた。

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