14
晩餐の後、申賀に暇をやってから、翔々子は場所を変えぬまま良く喋った。妖崎には今後のこと、雪峰には家事関係の手続きについてを、それぞれ熱心に相談したのである。私は疎まれていると知っていたので基本的に黙り込み、妖崎が時たま明らかに誤った際に容喙するのみに留めた。そしてどちらかといえば、ややもすれば癇癪を起こす翔々子を上手く
そしてそうしながら、私は秋禅の様子もチラチラと観察していた。昼間の、叩き起こされての
「しかし、難しいものですね。実際、俺個人としては、そこまで無法な結末でもないと思っているんですよ。何せ、ここ数年の、末期のおじいに対して、僕達が何か出来ていたか、何か施せていたか、と訊かれると、まぁあまり出来ていなかった様な気もするので。
そりゃ、親父もおじいの期待に良く応えて、世界的な評判を得る程にはなりましたけど、でも、その結果、こうして大事な検認の日にも来られない、また、おじいの大切な邸で死者が出ているのに飛んで来られない。そんな無沙汰を演じているようでは、まぁ、愛想の割合が、半ば程、日頃身の周りや館の世話を良くしていてくれた本影へ持って行かれてしまっても、詮も無いのかなと、」
「何を、言うのです秋禅さん。大体貴方、未だロクに働きもしないで、」
「今の話、俺の勤勉さは関係ないでしょ。いや、寧ろ親父の場合、
その『会いに』という文節には、知る者にしか聞かれぬような微妙なアクセントが乗っていた。
「でも、確かに親父がそんなに忙しくなったのは、おじいやおばあの穎才教育の賜でもあった訳で、何もかも皮肉ですね。いえ、そもそも以前からちょっと考えていたんですよ。この館についても、本土から遠く離れて人類の手が及びにくくなったこんな地にわざわざ豪奢な建屋を誂えたのは、まるで、寿蔵のようではないかと。海が好きだったおじいが、こんな潮風に蝕まれ続ける場所で眠りたがったのではないかと。だって、自分の生きている間だけの為には、こんなものあまりに遣り過ぎで金の掛け過ぎで、豪華過ぎるんですよ。なら、今後半永久的に残る墓標を穿ちたかったと、おじいが心の何処かで思っていたというのが自然ではないかと、……勿論おじいの体は本土の墓所に埋めておりますし、最早今では、ここは墓地と言うより癲狂院のような様相になっておりますが。」
「テンキョウイン」という強烈な言葉を解さなかったのか、阿古は
「そんな訳で、俺個人の我儘としては、この臨潮館を永代維持したいとまで思っていたんですよね。勿論家に金も入れていない俺がそんなところへ口を容れるわけにもいかないので黙っていましたけど、でもこうして、臨潮館が良きにつけ悪しきにつけ僕達の手元を離れてしまうとなると、僕達が何を言おうと戯れ言になる訳ですから、こうして伸び伸びと放言出来る訳です。
で、何でしたっけ。……ああ、そうそう。と言う訳で、おじいが前代からの余慶を資産高として受け継ぎ、真摯に膨らませてきて、その結果『これ位の金額は遊んでも良かろう、』と思われる分、本当の意味で漸くおじいの金となった分を大いに投じて築いた、潮目を臨む邸が、つまりおじいの人生の果体が、ああも厄介物として扱われつつ、その寿蔵の役目も果たせず、また家の威勢を護る為に教育を施した最愛の息子が、結果疎遠の不孝を働いているのですから、僕はこれらを総じて、『皮肉』、と思う訳です。」
その論の見事さを受けて感心した私は、放蕩息子の彼は、こういう空疎な言葉を繫げられるだけの感性を育むだけの暇がさぞかし有るのだろうな、と単に思った。例えば判事や最高裁調査官が、奇怪な癖――「蓋し」を誤用するとか――を持った判決文体をさらさらと書けるようになる修練や経験の代わりに、この息子は無益な知性を涵養してきた訳だ。妹に因って齎されたと彼が訴える、かつての不幸は、このような人格形成に於いてどのように働き掛けたのだろう。自分は生来苦労し続けていた上に、そこから家族を救ったのだから、多少のんびりしていても良いではないか、という論理を形成せしめたのは想像に難くないが。
そういえば、しかし、この秋禅はそこそこの法知識を持っていたようだったが、あれは何処から来ていたのだろう。話題に丁度良いかも知れないし、堂々と訊いてみようかとタイミングを図り始めた私であったが、横に座る妖崎に
潜め声で、
「なんだ?」
「いや済みません、……ちょっと、トイレ行きたいんですけどね、」
なんだよさっさと行ってこいよ童女かよ、と返事しようと思ったが、また私に護衛の役割を期待しているのだとすぐに気が付かされた。女々しさ千万だが、しかし、この半非常事態では仕方ないか。
私は、すぐに立ち上がって、適当な言い訳を吐きつつ彼と共に部屋を出た。
が、最初の一歩で、妖崎と違う方向に歩み進んでしまう。
「あれ、竜石堂先生、確かこっちにもトイレが有って、近くて済むと思いますけど、」
「ん、そうなのか? ……しかし、護衛を要する情況下で、あまり知らぬところへ出歩きたくないなぁ。」
「ああ、成る程、」
「遠いのかも知れないが、例の、使用人用の厠まで行こうではないか。」
「貴女が良ければ、それでお願いします。」
確かに向かってみると面倒なくらい遠く、少し後悔した。とにかく、何度目か分からぬ、例の厨房に繫がっている廊下へと辿り着く。昼過ぎに
ふと、
「なあ妖崎君、こうして虫の死骸を見て、
「別に、他の人類と同じだと思いますけど。『邪魔だなぁ、』とか、『気色悪いなぁ、』とか。例えば、猿を馬鹿にされたからって、人間も多分怒らないでしょう。」
「まぁ、それもそうだな。」
「そもそも、蜘蛛は昆虫ですらないですからね。」
「ああ、そうか。……『昆虫』って分類、何の意味が有るのだ?」
「さあ? 生物学屋ではありませんで、なんとも、」
そんな取り留めのない話をしながら通路を進んでいると、例の、使用人の休憩室の前に及んだ。つい、扉の円窓を覗いてしまう。そこから窺える薄暗い光景の中で、本影の緑色の瞳が二つ、妖しく輝き映えていた。
そのまま通り過ぎようとして、ふと、足を止め、後ろから妖崎にぶつかられる。
「っと、なんですか竜石堂先生、」
「いや、……ちょっと待てよ、」
引き返して、もう一度喰い入るように円窓を覗き込む。……間違い、ない。
「どうしたんですか、本当に。」
「いや、妖崎君よ、……なんで、本影の奴、目を開いているんだ?」
「……え?」
ノブを、恐々捻る。……申賀が鹿爪らしく施錠していたらしく、回らない。
「先生、もしも開けたいなら
確かにそうだが、しかし、私の直観が、そんな迂遠な真似を働いている場合ではないと叫び掛けてくる。結果、私は、ノブを回すのではなく引き始め、強引に扉を丸ごと引き剥がした。
ああ、ああ、と、呆れのような怖れのような妖崎の呻きを背に聞きながら、破れた密室から逃れ出てくる、骨まで凍むような冷気を浴びつつ、休憩室の中を良く見据える。強過ぎる空調で何もかも冷えきった狭い部屋の中、本影が端然と横になっているが、やはり、確かに雪峰が閉じてやった筈のその双眸は、毅然と見開かれていた。
その、首許を触ろうとした。思わず、手を引いてしまったほど冷たかったが、覚悟を決めてからもう一度手を宛てがう。凍りついたような頚動脈から、
「本影?」
思わず、呼び掛けてしまう。人形のように閉じていた
「おい、本影! 本影!」
肩を摑んで、揺すぶりかける。そうして彼女の頭が持ち上がったので、廊下からの光が顔へ差すようになり、目に生気の耀きが宿ったように見えた。そして、そこが、ゆっくりと瞬かれる。
蚊の啼くような、声で、
「さむい、……おふろ、」
「妖崎! 煖房全開にしろ!」
彼は、壁に寄って操作してくれつつ、
「な、何ですか、まさか生きていたんですか?」
「ああ、死ぬほど寒がってる。」
「では、なんですか、湯にでも浸からせた方が、」
「馬鹿言え! 腹を裂かれたばかりの人類に、そんなことさせられるか!」
そう言いながら、私はジャケットを脱ぎ捨てていた。続けて、シャツも釦を弾き飛ばしつつ脱ぎ、
「毛布か何か持ってこい、妖崎!」
彼の、駈け去る跫音を聞きながら、私は下着を外して上半身を露にした。
「……恨むなよ本影、どうせ血
そうして彼女のメイド服を、喉許から両手で引き裂こうとする。相当に頑張った結果なんとか両断されてくれると、彼女の、乳首も膨らみもない、完全な平板の爬虫類の胸部が露となった。都合がいい、ブラジャーの類いを引き剝がす手間が省ける。
そのまま、
戻ってくる跫音。
「持ってきまし、……って、おわ!」
「喧しい。私と、本影を包むように掛けてくれ。」
文字通り手を離す暇すら惜しかったのでそう妖崎へ命じたが、毛布を掛けてくれる手は辿々しくてもどかしかった。
そのまま数分抱き締め続けていると、彼女の肌の血色が戻って来たような気がしたので、
「本影、さん?」
彼女は、少し身
「御免、なさい。貴女の体が、余りに心地よくて、……溶けてしまいそう、」
力無く垂らされていた彼女の両腕が、毛布の中で私の背へ回された。
「ああ、……本当に、気持ち良い。」
意識が有る。話せている。動けている。ああ、良かった。
怖じけたのかそれとも気を遣ったのか、妖崎がどこかへ去って行く気配を背後に聞きながら、彼女を抱き続けていると、本影は、その、密着している私へなんとか聞こえるような声を、更に、何かを怖れるかのように細めて、
「竜石堂さん、……お腹が、軽いんです。」
「お腹?」
「はい、……私、そろそろ大事な産卵日だったんですけど、気が付いてみたら、お腹の中が、ぽっこり軽くなっていて、」
「ああ、」ひとつ、頷いてから、「御安心下さい、お子さんは卵の中で元気にしてますよ。貴女が恢復したら、すぐにでもお会いさせましょう。」
私の肩に、熱い雫が滴った。頭部をすれ違えている私からは、彼女の小麦色の鬘しか見えないが、その慄えと呻き声から、本影が号泣しているのが容易に知れる。
「良かった、本当に良かった、」
彼女の譫言を聞きつつ、裸の肩がしとどに濡れて行くのを感じながら、私は思った。あの白卵への出過ぎた愛着を振り払っておいて、本当に良かった、こんな甲斐甲斐しい母親を、妙な嫉妬を起こさずに素直に応援出来るのだから。
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