13

 私は、気が付くと元の通路に立っていた。ただし、両腕でしっかりと、冷えた卵を抱え込んでいる。蜥蜴の卵は覆してはならぬという半端な知識を持っていた私は、それが直立二足歩行にまで進化した蜥蜴人リザードマンにも通用するのかは知らねども、とにかく向きに気をつけて拾い上げ、こうして抱き始めた、……のだったと思う。余りの衝撃に、記憶があやふやなのだ。しかし、ここに立ち尽くしていても仕方有るまいと思った私は、一度振り返り、断熱扉をきちんと閉めた自分を褒めてやりながら、一歩一歩、金庫の部屋へ向けて戻り始めた。

 進む内に、人類の中では高めである私の体温で卵が温められ、凍てついていた表面が解けつつ卵殻自体も柔らかになり、なにか、弱い粘つきを示すようになった。本影の、膣液である。人並みに嫌悪を覚えた私は、そこらの布で拭き取ろうと辺りを見回したが、しかし、すぐにこれが、本影の最後に残した、その生涯の果実である白卵を送り出す為に、彼女の臓器が最期に懸命に分泌した雫であるのだと思い当たり、何か荘厳さをそこに錯覚し、結局、ぬめるまま持ち運ぶことにした。

 しかし、どうなのだろう。本影のことは暫く放っておいてしまっていたが、そんなに長い事寒冷下に放置された卵が、生きているものなのだろうか。一応は、その間ずっと体外で冷やされていたと言う訳ではないだろう、何せ、発見直後に離れた私はともかく、私に続いて本影の骸を眺めた連中の誰しも、この卵を見なかったようであるのだから。もしも、扉を開けた阿古が喚いて、その時の弾みで産卵されたのならば、長くは直接冷却されていなかったことになるが、しかし、

 

 こつん、

 

 何か、胸許、と言うかその少し下で、違和感を感じた。首を傾げつつ、まさかとおもって目線を沈めると、再び、こつん、という小さな衝撃が走り、そして、確かに同時に、卵が顫えたのである。

 生きている! 私は、訳の分からぬよろこびに支配された。別段本影と大した縁が有った訳でも、いやなんなら疎ましいとすら思っていたのに、そんな私は、この生命の兆候に感激してしまったのである。そうか、蜥蜴人リザードマンは卵胎生に近いのか。つまり、卵を産み出す頃には、既に中身が殆ど成熟しているのであろう。

 私は、身へ充溢する歓喜に、足を止めてしまった。性交や姙娠、嫡出といった、他の人類が当たり前に謳歌する幸せに関して、自分には関係ないと切り離し、そしてその独立を己が正義の強みとすらして、私は審判を行ってきたのだ。そんな、強制された禁欲主義者であった私が、このような、生命の芽吹く瞬間に突如立ち合わされると、完膚なきまでに搏ちのめされてしまう。こう、なのか。他者の子ですら、その命の発生というのは、ここまで尊く、ここまで心を揺さぶるのか。私は、自分の心の中で生来凍てついていた場所の歯車が解凍され、動き出し、それによって生じた、何かこれまで堰き止められていた感懐の奔流に逆らえず、小さな歔欷すすりなきまで起こし始めてしまった。

 誰も居ない廊下で、必死にそれを噛み殺し、卵を抱えながら苦労して取り出した手巾ハンカチで涙を拭いつつ、金庫室へと向かう。何か赧然を指摘されたら、さっきまで寒いところに居たからな、といえば良かろう。

 そして、私の中に、もう一つ喜ばしい感情が生じていた。逃避かも知れないが、少なくとも今日の内は、あんな息苦しい懊悩を結着させなくとも良くなったのである。

 

 進入時、意図的に扉を派手に開け放った。「随分と遅かった、」と、軽口を叩き始めようとした妖崎が絶句したのを一瞥しつつ、元々私の居た辺り、部屋の奥の方へ、出来る限り堂々と歩み進む。

 振り返り、これ見よがしに卵を撫でた。指へ、本影の体液が少しまとわりつく。

 皆の注目が、そこへ集まったのを確認してから、

「本影さんの体から、産まれておりました。間違いなく、有精卵です。」

 結局、私よりも先にここへ戻ってきていた秋禅が、妹を送るついでに少し整えたらしい、銀髪の下の顔を歪めつつ、

「あの女、……本当にとやってたのかよ!」

 私は、また少し卵殻を撫でながら、

「それは、まだ分かりません。閣盛さんではない、他の男性と関係を持ったのかも知れませんから。

 しかし、そんな事はどうでも良いのです。……民法、八八六条の第一項、『胎児及び胎内外の種卵は、相続については、既に生まれたものとみなす。』!」

 この私の宣告に対して第一に反応を示したのは、雪峰でも妖崎でもなく、流石の敏と言うべきか、秋禅だった。

「なんだって? ……じゃあ何ですか先生、本影に行く筈だった分の、の遺産は、」

「はい、」私は、先程この部屋を去る直前の窮状とは全く異なり、今や、胸と声を高らかに張ることが出来た。「遺贈によって亡き本影ポコロコが受遺すべきだった、亡き血原閣盛の資産の五割分は、全て、この、私が抱えている子へ相続されます。」

 また翔々子が何か喚き出そうとするのを声で押し留めるように、私は続けた。

「もう、少なくとも私は迷いません。無為に国庫へ行ったりしないと言うのであれば、閣盛氏の遺言通りに全てを履行し、御遺産の半分をこの子へ相続させるべきです。もしもその執行を妨げる者が有るならば、私は、この襟に留めた金の天秤の徽章に誓って、命に代えても抗います。」

 こんな茹だった台詞を、果たして、一人前の弁護士連中が言うのかは知らなかったが、私はこの瞬間、当初空々しいと思っていた絢爛たる天秤の意匠に、真剣な意味を見出していたのである。正当で公平な権利を、この孤児みなしごへ与える為に、私は今胸を張っているのだ。

 続いて私は、妖崎を見やった。言葉で問いかけるまでもなく、彼は、

「いえ、先ほど言ったように、あれだけ特殊な情況だったから、僕はあんなことを言い出したんですよ。本影さんの相続先が居るなら、ええ、そうしましょう。馬鹿なことは避けるべきです。」

 私は、頷いてから、訊くまでも無かろうが、一応、

「雪峰、お前は?」

「はい。勿論、御遺書はこの三枚のまま検認させていただきます。」

 彼女へも頷いてから、正面、血原の親子が居る方へ直り、

「と言う訳です、奥様。先程の妖崎の戯れ言、申し訳ないですがお忘れ下さい。」

 翔々子は、あからさまな激情を目の色に籠めたが、しかし、いつも通り威迫で己が要求を達成する為には、この私を、生きの良い竜処女ドラゴンメイドを圧倒せねばならぬわけで、その困難さの前にすぐ挫けた。

「ええ、ええ、承知致しましたとも。……あの女、本当に、」

「まぁ、しょうがない。行こうぜ母さん、……雪峰さん、もう、解散しても良いでしょう?」

「えっと、そう、ですね。検認自体は終わりましたから。」

「じゃあ、申賀さん、僕ら、夕食までまた寝ているから、先生方のお世話してあげてね。皆さん、昼食も食べ損ねたみたいだし。」

 母子が去り、部屋の中が四人となった。「はぁ、」と息を吐いて脱力したくなるが、腕の中の脆い命が最低限の緊張を要求してくる。

 妖崎が、おずおずと指を伸ばして来ながら、

「これが、ですか。……蜥蜴にしては固いですね、鶏のよりは柔らかそうですが。」

 あー、本影の体液付いているんだが、と思ったが、まあいいや面倒臭いと思ったので特に伝えず、

「普通の蜥蜴のそれより巨大な分、頑丈なんじゃないか? まぁ詳しいことは知らないが、」

「ええっと、」申賀が、おずおずと、「皆様、この後はどう致しましょうか。……食事のお世話ですが、勿論致そうと思えば出来ますが、本影が冷蔵倉庫に残っている以上、余りあそこから食物を取り出してくる気にならない、というのが正直なところでして、」

「確かに、ちょっとぞっとしないですね。」と雪峰。

「ならばまぁ、少なくとも私は別に喰わないで良いかな。検認擬きはなんとか済ませたが、食事となるとまだ気が進まないよ。雪峰は?」

「私も、別に、」

「というわけで申賀さん。昼の世話は気にしないでもらわないで結構です。」

「かたじけないです。」

「ただ、身が持たないと行けないですから夕食は欲しいですし、そもそも血原親子も要求して来る筈ですよね。と言う訳で、結局本影さんは食糧庫から退かしてやらねばならないでしょう。……申賀さん、もしも今の内にそうしたら、夕刻には冷蔵倉庫の中身を使えるでしょうか。」

「不気味ではありますが、まぁ、彼女は床に転がされておりましたから、棚に収めた食品の衛生面については特に問題ないでしょう。本影には気の毒ですが、我々も喰わねばなりませんし。」

「では、……早速、参りましょうか。」

 

 皆で冷蔵倉庫へ戻り、扉を開けると、雪峰が申し出て彼女の骸を抱え上げた。そしてそのまま、申賀の案内で近くの部屋へと運び込む。こぢんまりとした、使用人向けの控え室のようだった。

「彼女の為にも警察の為にも、躰が崩れないように冷やしておいた方が良いでしょう。冷蔵まではいきませんが、せめて、最大強度にしておきます。」

 そう言いながら、申賀は壁つきの空調パネルを操作し、見るだけで身震いしそうな低温を定めた。

 

 その後は、近かった例の場所、朝食を振る舞われた部屋に皆で戻った。私は、爬虫類ならば余り暖めすぎるのも良くなさそうだと、本影の卵をサラダ鉢の中に収め、手放してしまっている。この木製の鉢は、申賀が厨房から持ってきてくれたのだった。

 四人でひしゃげたテーブルへ掛けて、少しだけボンヤリしてしまった後に、申賀が立ち上がって、

「お茶と菓子でも、御用意いたしましょうか。」

 私が、疲れを隠しきれぬ声音で、

「そう、ですね。その方が良いです。なにせ、私達、せめてこの部屋から厨房までくらいの領域から出るべきでないでしょうから。……秋禅さんの、一人になるなと言う忠告を蹈まえまして。」

 申賀が、少しの間の後に神妙に頷き、出て行くと、私の目の前のサラダ鉢から、ぼん、と音が一つ鳴った。また、中の子が蹴ったらしい。

 妖崎は、気疲れによってか、流石に少し不自然になってきた快活さで、

「あはは、……元気ですね。」

 自分の冷気による影響を憚ったらしく、卵から少し離れて掛けている雪峰が、

「不思議ですね。こんな小さい楕円体から、本影さんのような、普通の身長を持った人類がいつか育つんですから。」

「いや、どうなんだろうなぁ。……父親が何処かの爬虫類ならそうなりそうだが、本当に閣盛氏だったら、どんな人類が生まれるのだろう。」

 私のような、半端な不能になるのだろうか。……爬虫類と哺乳類の合の子となると、そんな予感もしてしまう。まぁ、この子の場合は女系が爬虫類で、私とは逆だからまた何か違うのかも知れないが。

 まるで美食家が何か前衛的な料理の喫食へ臨んでいるかのように、食器の中へつるりと寝かされた本影の卵は、母親の体液が拭われたり流れたりで失われてしまったので、今や完全に無垢な、白い丘となっていた。これを前にしていると、先程漸く良く良く見られた、本影の骸の様子が脳裡に泛かんでくる。

 本影は、気を遣った雪峰が、床へ下ろした後に姿勢や着衣の乱れを直してやり、開かれたままだった翠緑色の目を閉じてやった結果、赤インクを脇腹に溢された人形のように凛然と横になっていた。最早微動だにしない肢体は、良く引き締まった上で、装飾の多い女中服で手首や足首まで覆われ、更に今や赤く広い脇腹の非対称なアクセントが加わったことで、幽艶なまでの趣を為しており、品良く整った顔立ちを卒無く受け止める土台として良く働いていたのだ。定めし、その口からは玲瓏な囀りが聞こえてきそうなものだが、実際には「か行」の発音もままならない只管ひたすらに喋々しい口であったのであり、そして、今は何も語らない。彼女らしくなく静かにしていると現れてくる、その見た目上の極まった美しさは、宗教的な崇高さをも見出させる程であり、何処かの聖典で聞いた、処女懐妊のエピソードを私はふと思い出した。つまり、産卵の経験の無いまま生涯を終えた彼女が、こうして子を残しているという、時間差の不思議の味わいである。丁度、既に死亡している彼女が、しかし閣盛氏からの遺産相続を保証されたのだと言う、法律上の時間差の不思議と相俟って。……そう、保証されたのだ。先程は危うくなってしまったが、この卵が、この本影の忘れ形見が、私を私らしくさせてくれ、私は毅然と、私らしく法の正義を主張することが出来たのだ。本当に、救われた。

 無論、あの問題については、解決したのではなく、ひとまず情況によって回避されたに過ぎぬのだが、……いつか、逃げずに直面せねばならない時が来るのだろうか?

 そんな感じのことをつらつら省察していた私は、目の前の卵が再びガタンと動揺したことで、現実へ引き戻された。古希を迎えている私が、こんな小さな生命によって、夢へ現へと手玉に取られている。

 

 その後皆で茶(妖崎だけは水)を啜り始めた頃、雪峰が、家事の専門家らしい心配を漏らし始めた。

「しかしこの子、今後どうなりますかね。」

 反対側の妖崎が、

「まずは、父親をはっきりさせたいですね。塩基排列でも調べますか?」

「塩基排列って、妖崎君、まず閣盛氏の標本はどうするんだって話と、氏が父親でなかった場合、それこそどうするんだ。指紋みたいに簡単に検査出来るものじゃないんだから、結局、その男がよっぽど父親らしいと事前に確信出来ていないと調べられまい。」

 こんな私の言葉の後で、申賀が、その節榑立った指でカップを皿へ戻しながら、

「その話ですが、……本影の奴、やって来て以来この島から離れたことが殆ど無い筈なんです。色々な意味で憎い奴でしたが仕事への責任感は有りましたので、というか実際一日でも居なくなられると困りますので、島を離れるのは、それこそ千日に一日とかだったと思います。」

「それは、なんというか、使用人気質かたぎですね。」と私。

「ええ、そこは見上げたものでした。まぁ、孤児上がりで会いに行く親族も無いと言うのも御座いましょうが。

 ああ、それでです、彼奴はそんな調子でしたから、多分本土に男なんて作っていなかったと思うんですよね。」

 重ねて、使用人気質だなぁ、と私は一瞬思ったが、良く考えればあんなに図々しい使用人見た事無いから気のせいだった。

 申賀が続けるに、

「仮に作っていたとしても、実にプラトニックなものだったでしょう。何せここ一年も本影はずっと島におったのですし、胡乱な来客も一切無かったのですから。つまり、この卵と辻褄の合うタイミングで、なんか出来なかった筈なんです。」

 妖崎が、身を乗り出してまた卵へ触れながら、

「すると、最早殆ど確実に閣盛さんの隠し子となる訳ですか。先程竜石堂先生には否定されてしまいましたけど、しかし、塩基排列を調べれば少なくとも蝙蝠系なのかは分かるでしょう。」

「ああ、そういう用途なら私も文句無いよ。

 しかし、そうなるとこの子も孤児か。余り覚えていないが、未成年後見人、だとかなんとか有ったよな? 雪峰、」

「ええ、そうですね。後見人が得られない孤児も沢山居ますが、この子の場合は莫大な財産を保全せねばなりませんから、必ず用意すべきでしょう。」

「……ん? おいおいおい、未成年後見人って孤児みなしご全員に宛てがわれなければならないんじゃないのか?」

「ええ、本来の理念はそうなんですが、……いえ、施設に入られるような孤児の方は、当然ですが大抵経済的に窮しておりますのでなかなか報酬が捻出出来ませんし、無報酬では受け手の負担が大きいですので、」

「いやいや、親権者無しでどうやって子の人類権を守るんだ、」

「そこは、福祉施設の施設長が親権を代行出来るようになっていますので、」

「ああ、……いやそれだと、施設を出てから、成人するまでが埋まらないではないか! 十八歳で出されるんだろ? 確か、」

「……博識ですね、流石です。確かにそういう問題も有りますし、親権代行でも実際限界が有りますので、法改正が有ったんですよ。」

「どんなだ?」

「民法の第八四二条が、削除されました。」

「……あー、あれか!」

「つまり、個人ではなく法人も未成年後見人に就任出来るようになりまして、その他、未成年後見人への就職に関わる障壁や負担を減らすような試みが、幾つか為されております。これらによって、少しずつでも現状が改善されれば、と、」

「そうなると……」

 

 そのまま雪峰と取り留めなく法律の話を続けてしまい、はっとなって男連中の方を見ると、案の定と言うか、そろそろ見慣れてきた妖崎の苦笑いが有った。

「なんと言うか、……本当に修習の三ヶ月の間だけの師弟だったんですか? 余りにも、睦まじ過ぎません?」

「いやぁ、馬が合ってなぁ昔から。」

 気恥ずかしさを感じたのと、丁度、尿意を覚えたこととで私は席を立った。

「申賀さん、手洗いをお借りしますよ。」

「ああ、場所は、」

「厨房の近くに一つ有った気がしますが、そこで構いませんか?」

 初老の使用人は、少し考えてから、

「構いま、せん。本来は使用人用ですが、別に何か特別、設備が粗末な訳でも御座いませんし、こんな情況でしたら、あまり遠くまで行かれない方が宜しいのでしょうから。」

「有り難う御座います。」

 私の居ぬ間に何か有ったら悲鳴を上げろよ、妖崎、……と揶揄からかってやろうかとも思ったが、気の毒かと思って止めておいた。

 私の心が、こんな浮ついた無邪気を働いたのは、惨劇の起こった冷蔵倉庫や本影の眠る控え室に直結している、あの廊下へ再び赴かねばならないことに先んじて、自らを奮い立たせようと試みたからだったかもしれない。

 いざその通路へ踏み入れると、半ばくらいに、脚高蜘蛛の死骸が転がっていた。こんな孤島にもこいつが居るのか、客か物資に紛れ込んで来るのだろうか、と思いながら拾い上げてみる。その足先を摘んだまま、糸を撚るように捻ると、蜘蛛は遠心力によって足を破滅的に放り出しつつ回転し、酩酊者の宮廷舞踊バレエのようになった。更に速度を上げつつ、指を激しく往復させると、つまり両方向の回転を素早く繰り返すと、無秩序となった足の動きは残像で鞠状の影をなし、くすんだ色のプラズマが空中に結ばれる。

 一応目で探して見たが、やはり屑籠の類いは見当たらなかったので、私はその死骸を適当に放り出してしまった。一顧だにする気もないが、元通り床に転がっただろう。本影の統制無き今、いつまでもそのままに。果たして、申賀はこの邸をいつまで一人で維持出来るだろうか。そして、あの卵の後見人となった者は、然るべき人員を用意して臨潮館を維持してくれるのだろうか。……無論、後見人が単純に邸を処分してしまう可能性も有るのだが。

 後見人、か。

 ………………

 私は、かぶりを振った。今後、未成年後見人乃至ないし里親として、あの本影の遺児引き取って、世話することになった自分について妄想してしまったのである。やめろ。やめておけ。確かに、あの白卵の振動が私に教えてくれた、産の紐を解くこと、或いは生命が誕生することの素晴らしさと欣びは、私の心の銹びた部品を激烈に撞いたまま、まだそこを痺れさせてやまないが、しかしだからこそ、それを手に入れることを勝手に期待した結果もしも叶わなかったら、果たして、その絶望の大きさに耐えられるか、まるで自信が無いのだ。完全に、私の生涯で未経験の領域だった。

 さっさと忘れる為に、手洗いへと急いだ。途中、通り過ぎることになる控え室の、扉の円窓から中を少し覗いて見ると、廊下の電燈だけを頼りとしているあおぐろい薄闇の中で、眠る本影の腹の、赤い筈の血糊が、文書の不開示箇所のようにか黒く見えた。

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