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「ですから、もしも、もしもですよ。閣盛さんの遺言書の原本と複写分の全てから、二枚目の、遺産配分に言及した頁が紛失されて、そしてそれの存在を、ここに居る我々全員が忘れてしまったら、何もかも丸く収まるのになぁ、と。」

「おい!」その胸倉を摑もうとした手を苦労して抑え込みつつ、足はそのまま動かして詰め寄った、妖崎の目の前で、「貴様、もう一度言って見ろ、」

 彼の惚れ惚れする飄然は、しかしまるで崩れず、少なくとも見た目上は、何も脅かされていないかのように、

「取り敢えず、落ち着いて下さい竜石堂さん。暴力はいけませんと、貴女が諭したばかりでしょう?」

 この揚げ足取りに搏たれた私は言葉が一瞬詰まり、その隙を衝くかのように、目の前の蝶人フェアリーは私と言う庇から歩み出て、他の者へ姿を見せられる場所まで逃れ行ってから、

「確かに、普通の情況なら僕が言っている事はとんでもない事です、最低です。余りにも、弁護士倫理に背いています。しかし、実際、誰か困りますか? 遺言をそう変造したところで、誰か、困りますか? 本影さんは、いずれにせよ一銭も一瞬も遺産に触れられない。血原一家の皆様については、受け取る遺産額が倍になる、というよりは元に戻る。

 そして、閣盛さんに対しても、確かに形上は彼の御遺志を裏切ることになるかも知れませんが、しかし、閣盛さんは果たして夕景さんへ意地悪をしたくて、あんな御遺書を書いたのでしょうか? 恐らくは、違うでしょう。どちらかといえば、本影さんに出来る限りくれてやりたいが、まぁ息子一家にも最低限の額は渡してやらねばな、と思われていたと想像するのが普通です。何せ、もしも夕景さんが何らかの理由で閣盛さんの不興を酷く買っていて、閣盛さんが何か草葉の陰から一撃企もうとしたのなら、もっと凄まじいことが書ける筈なんですよ。例えば、一銭もやらんとか、相続から排除するとか。ここまで極端な事を遺書に書くと、その後裁判や侵害額請求でひっくり返される可能性も高いですが、とにかく、駄目元で一旦書いて見ることは完全に合法で出来ます。でも、そうはなさっていないのですから、やはり、敢えて夕景さんへ渡る金額を減らしたかったのだ、という意図を読み取るのは、とても難しいのです。

 ならば、御自身の遺産の半分が国庫に飛んで行くだなんて、そんな情況きっと望まれなかったと思うのです。例えばですよ、仮に死亡順が逆で、本影さんが先だったら、素直に夕景さんが全額そのまま相続されたんです。もしもこれを阻止したかったら、『但し本影ポコロコへの遺贈については、これが成立しない場合、その分を公共法人なんたらに寄附する。』とでも書けば良かったんです。でも、そうなっていないのです。と言うことは、閣盛さんはきっと、本影さんに何か有ったら夕景さんに気持ちよく全資産を継いで欲しいと、思っておられたのではないですか?」

 彼は、ここで大きく息を吸ってから、

「しかるに! ……相続制度の隙を衝くような形で死が連続してしまった今回は、それに起因する捩れにより、寧ろ閣盛さんの御遺志が踏み躙られようとしているのです。これは、不幸ではないですか? 悲劇ではないですか? 閣盛さんにとっても、そして勿論、御遺族の貴方方にとっても!

 ですから、僕は思うのです。法制度の、有るや無しやの隙間を撃ち抜いて、折角の故人の遺志にそぐわぬ結果を、よりにもよって、御遺書が齎そうとしているこの忌まわしい情況を、皆で協力して退治すべきではないですか? その、二枚目の便箋を、跡形も無く切り裂いてしまうことによって!」

 妙な汗が出てきた。変化へんげの後遺症、ではないだろう。自分の息の音が、大きく聞こえる。

「妖崎君、成る程な、君への軽蔑は撤回するよ。」

「御理解いただけて光栄です。」

「しかし、賛同まではとても致し難いぞ! 確かに君の言う通り、このままでは閣盛氏の遺志が反映されるとは思えないし、ならば、通常の法制度に準ぜない分割法をすべきだと言う、主張が生ずるのも分かる。だがな、妖崎君、それは法廷でけりを付けねばならない話だろう! 不利な証拠を提出しないなどの戦略は有ろうが、それを除けば、ありのままの真実を法理に晒して、そして裁判官の判決を待たねばならないだろう。それこそが、法であり、こんな、密室で勝手に結着させてしまうだなんて、野蛮人のやり方だ!」

 妖崎は、なおも乱れぬまま、

「勿論、竜石堂先生の仰る、教科書的なことも分かりますが、……でも、戦うのは貴方ではないんですよ? 血原家の方々なのです。」

 私が、眉を寄せて黙ってしまう間に、

「竜石堂さんの事件であれば、大いにそうなされば宜しいと思うのです。莫大な費用と時間を投じて、是非――お懐かしの――上告審まで行って下さい。どのような判決が出るのかは非常に興味深いですし、稀少な事例とはいえ、最高裁判例が与えられるのは実際有意義でしょう。応援させていただきますし、報酬を頂ければ是非手伝いたいですよ。

 しかしこの相続事件は、実際には血原家のものなのです。そりゃ、僕らもお呼びが掛かれば全力で関わりますが、それは、然るべき報酬を頂いての仕事、つまり業務です。糧に出来るものであり、つまり僕らは、事件に千時間投じたならば、他の仕事を千時間減らしても良い訳です。それに対して血原家の方々は、他に完全に日々の生活が存在している中から、労力を割いて戦う事になるのですよ。血を流すのも金を投じるのも、弁護士ではありません、原告、血原家です。竜石堂さん、貴女に、若しくは我々に、そんな苦行を血原家の皆様へ強要する権利が有るとでも?」

 こいつは相変わらず弁が立つなぁ、と、訳の分からぬことを私は思っていた。妖崎の言葉にしたたか搏ちのめされた結果、ちょっとした離人感が生じたのである。

 そうやって固まっている私を差し置き、秋禅が、

「妖崎さん、仮にそういう訴訟を起こすとして、どうですか、勝率、って言葉が適当なのかは知りませんけど、それはどういう感じになります?」

「そう、ですね。……正直申しあげれば、全く分かりません。本土に戻って判例を一生懸命漁れば、少しは推量出来るようになるかも知れませんが、恐らく、一番良くても『50:50、……かなぁ?』くらいでしょう。」

「今後、確実に勝てる、と思いながら提訴出来るようになる可能性は?」

「非常に考えにくいですね。」

「なら、申し訳ないですけど、竜石堂さんの話にはとても乗れないですね。……いえ、『乗る・乗らない』という言い方はおかしいですかね、何せ、妖崎さんの言うことに皆揃って共謀せねば、自動的にそうなるのでしょうから。でもとにかく、俺は今、そのの遺産配分指定を破棄してしまいたいと願っていますよ。」

 この語りの末尾へ、翔々子が被さるように、

「当然で御座いますわ! 誰にも、何の得もない愚かな選択、する訳がないでしょう!」

 振り返って申賀の方を見やると、彼はただ目立たぬように畏まっていた。この申賀も口裏を合わさねば、妖崎の言い出したはかりごとは成功しないのであり、つまり拒否権のような権限を彼も持っている筈なのだが、どうも、特に主張せず場に従おうと言う魂胆らしい。そう一旦従ってくれたところで、生涯に渡り、今日のことを本当に黙っていてくれるのかは問題となるが、翔々子の振りまく恐怖によって、案外旨く達成される見込みも有るだろう。

 さて、最後の一人だが、

「雪峰は、どう思う?」

 彼女も、申賀と同じ様に、出来る事なら関わらず、勝手な結論に従いたいという雰囲気を滲ませていたが、

「……竜石堂さんは、どう思われます?」

「いや、まず、お前の意見を聞かせてくれ。」

 駄目なのだ。申賀と、この雪峰では余りにも立場が違い過ぎる。判事としての、この検認を司る責務。毅然として不幸と不便を血原家へ振り下ろすのか、それとも、俗界の商売人のように己を曲げて謀議にうべなってしまうのか、選択しなければならないのだ。

 雪峰は、漸く途絶え途絶え、

「私も、遺産の半分が国庫へ行ってしまうと言うのは、余りに馬鹿げていると思うのです。元々莫大な額の相続税を納めるのに、更にその上、残った分も半減させられるだなんて、富の再配分の理念を蹈まえても尚、余りに理不尽でしょう。

 なので、竜石堂さんも仰る通り、その理不尽を誰かへ、……国でしょうか? とにかくそこへ訴えて正義の名の下に償還を勝ち取るのが最良だと思うのです。仮にそれが失敗するのでしたら、我々の信じた、本影さんの受遺分が国庫へ向かうのは理不尽であると言う結論は、誤っていたと言うことになるのですから。つまり、このような、誤っていたと結論される機会、敗北の可能性を経ねば、それは、我々の自分勝手な、裏打ちの無い妄想に過ぎず、真実とはなりえない訳です。……この様な、勝手な思想を普遍な真実へ昇華させる為の挑戦こそが、正しく『審理トライアル』というものでしょう。

 しかし、……妖崎さんの仰ることも、分かってしまう自分も居るのです。別段血原家の方々は悪事を働いた訳でも御座いませんのに、そんな、勝つか負けるかも分からない過酷な法廷戦に挑まねばならないなんて、それこそ、本当に理不尽では御座いませんか。」

 雪峰が最後に漏らしたのは、実際、私も長年気を揉んでいたところだった。代理人や弁護人の腕に影響されてしまうと言う問題は有れども、基本的には、あらゆる係争やあらゆる問題は法廷でけりをつければ良いではないか、そうすれば、万事は公平な正義の元に裁量され、全ての理不尽が解決されるではないか、という法曹の論理は、明らかに、裁判を経るということの負担を無視している。それも、己が道を切り拓かんとして争いを提起した者や、明らかに罪を犯してその審判を受ける者については、自己責任で済ませられようが、そうでない者ら、降って来た火の粉を払わんとしているだけの市民や無辜な容疑者が負わねばならない負担に対して、どう言い訳を付ければ良いのか、少なくとも私の知る限り、法は殆どそこへ応えられていなかった。

 そして、「応えられていない」というのであれば、つまり、この種の悲劇は法制度の欠陥であると言うならば、そこへ落ちんとしている者達を救わず、黙って法廷へ見送ることは、それはそれで正義に反するのではないか? 私は、そんな疑懼にまで襲われていた。

 しかし、とにかくこの場を進めねばなるまい。

「それで雪峰、どうなんだ? お前の結論は、」

「そう、ですね。」彼女は、その毛深い頰へ手を宛てがい、大いに躊躇ってから、「私は、案外、妖崎さんの言うようなことをしてしまっても、良いような気がしているんです。勿論、この場全員の賛同が有っての上ですが。」

 私は、二三度頷いた。

「そう、か。」

「……それで、竜石堂さんは、どう思われます?」

「ああ、」

 まだ、私の中で固まりきっていなかった気もする。しかし、線型方程式などと違い、絶対の解とそこへ至った道筋を瑕瑾なく提示出来る問題ではない以上、寒天調理のように凝固するまで待ち続ける訳にも行かなかった。

「私は」

 突然、耳が劈かれた。若い女の、金切り声。それが、矢庭に館の何処かから響いてきたのである。なんだ、誰だ。見渡す。なんだよ、ここには全員

 私と、秋禅の叫び声が重なった。

「「阿古!」」

 駈け出そうとした秋禅へ急いで追いつき、その肩を摑む。心配と当惑と、邪魔するなという怒りを見せつつ、振り返ってくる彼へ、

「何処からか聞こえたか分かるか? お前達の耳なら、」

「あ? ……多分、厨房の方、」

「でかした。」

 そう礼を言ってから、私は彼を置き去りにして駈け出した。扉を突き飛ばすように開き、鹿驚魔キキーモラの軍勢を薙ぎ払うようにして、廊下を駈け抜ける。突き当たった階段は、手摺りを足掛かりに跳び越え、全段省略して一挙に一階へ舞い降りた。流石に着地で両足が痺れるが、知れたことではない。駈ける。扉を開く。部屋の中、翔々子の癇癪でひしゃげたテーブルを横目に見つつ、最後の扉を開けた。

 息を荒らげながら、延びる通路の一番奥を見やると、寝巻きのような寛々ゆるゆるとした服を着た阿古が腰を抜かしている。そのまま駈け寄り、抱き上げるように背を支えてやった。

「大丈夫、ですか?」

 血原の阿古は、その霞む瞳を完全に、痛ましいほどに見開いて、冷蔵倉庫の開け放たれた防熱扉の奥を、慄える指で指し示している。彼女が淡い桃色の衣裳に袖を通しているので、その腕の様子は、しるく耀く爪の鋭さと相俟って、死に際の紅鶴が懸命に首を伸ばしているかのようだった。

「ポコロコちゃんが、……血が、」

 そう、茫然と呟く阿古へ、しかし彼女が尋常な精神を持っていない以上どのような対処が正しいのか判別出来ぬ私は、そのまま拾い上げるように彼女を抱きかかえてしまった。とにかく、ここから離さねばなるまい。

「大丈夫ですから、……大丈夫、」

 そう呟きながら通路を半ばまで戻ると、漸く追いついてきた、その石膏のような肌色を人並みに紅潮させた秋禅が、此方へと飛び込んできた。

 私が阿古を下ろしてやると、二人はどちらからともなく固く抱き合い始める。

 阿古に覆われながら息を切らしている秋禅へ、私から、

「怪我をした、とかではなく、冷蔵倉庫の、(私はここで、『死骸』という言葉の代替を探したが、諦めて、)……を、見てしまったらしいです。」

 秋禅は、妹の背やら首やらを撫でてやりながら、

「それは、良かったです。……いや良くないですけど、とにかく阿古の躰に何か有った訳でないのなら。何にせよ、ちょっと迂闊でしたね。何も説明せずに、すっかりこの子を一人きりにさせてしまっていたんですから。」

 その言葉と、私への礼とを述べると、秋禅は、何処かへ、恐らく彼或いは彼女に宛てがわれた部屋――それらが別個なのかは知らないが――へ、阿古を連れて行き始める。その去り際に耳をそばだてていると、狂気の妹がまるで意味を為さぬ譫言うわごとを繰りつづけ、そこへ秋禅が良く応えてやっているという、甲斐甲斐しい応酬が聞こえて来た。

 私もすぐに、例の金庫部屋へ戻ろうとした。何せ、この二人が何処かへ去ってしまうのなら、彼奴らへ阿古の無事を伝える者は、私しか居なかったのだろうから。

 しかし、少し進んでから再び、熱い蛇口を閉めた時のような、所帯じみた気遣いが私の裡に起こったのである。阿古が開け放ってしまった冷蔵倉庫、流石に閉じてやらねば気の毒だろう。まぁ、皆、一分位余計に遅れるが許してくれよと、私はそびらを返して再びそちらへ向かい始めた。

 倉庫の前に、立つ。意図的に前方の暗い光景から目を逸らしているので、防熱扉の内側の分厚い断熱材が、その冷気に負けずに柔らかそうな質感を維持しつつ、疎らな霜化粧を纏っているのが目に入る。それをそぞろに少し搔き取ると、赤くなった指先にそのままわだかまり、降誕祭の戯画の、白髭が豊かな赭ら顔の老爺に見えた。この浮ついた聯想は、すぐに、霜が解け去っていくことで覚めさせられ、私は、今の情況を、つまり、本影へ弔いの一瞥をくれてやるかどうかの瀬戸際を、思い出したのである。遺骸への敬意と死体への嫌悪が争っている訳だが、いやそもそも、そういったきよい感情の前に、即物的な話として、私は本影がどう死んだのかまるで分かっていない。腹部に血を纏ってたおれていたのは知っているが、具体的にどう死に至ったのか、まるで知らないままなのだ。下手人がまだ同じ館の中に居る以上、そういう情報の欠落は、今後何か防衛上、不利益となるかも知れない。犯人当てなんかは警察に任せておけば良いが、市民として、自衛の努力はすべきだろう。

 彼女の信奉するザナクルド教については何も知らないが、私なりの誠意として両手でも合わせようと、その準備をしつつ意を決して前方の床へ視線を動かしたのだが、結局、私の両手は重ならなかった。視界の中で見つけたものに、驚いてしまったのである。

 股座またぐらの少し先、彼女の冷えきったメイドスカートの中に、場所柄、屹立した男性器を髣髴とさせる不自然な膨らみが有った。しかし、そんなものが有る訳も無く、女性の、それも、爬虫類の女性の股の先に転がっている、何かとなれば、

 私は、恐々屈み、冷気で強張ったスカートを捲り上げた。そこには、片手では持て余す程度の大きさの、純白な卵が、寒さの中巨大な雪玉の様に転がっていたのである。

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