11

 数秒間の、余りの衝撃による麻痺が解けた途端に、血原の翔々子はその腕を暴力的に伸ばしてきたが、私は遺書を背の方へ避難させつつ右の掌を突き出した。

「ストップです! ……まだ、お渡し出来ません。確認と、複写を行わねば、」

 不満と業腹を湛えた目で睨みつけてくる翔々子に対し、尋常な者なら折れてしまったかも知れないが、私は、例の誇負によって露と乱れずに済んでいた。

「妖崎先生。血原家の顧問として、遺言書を確認して下さい。内容と、そして、筆跡が被相続人本人のものらしいかについても。」

 私は便箋を手放さず、突き付けるだけでそう要求した。

「……はい、確かに、少なくともこの紙葉はその様な内容ですし、そして、閣盛さんが書かれたもののようですね。」

「では、申賀さん。貴方も内容と筆跡の確認を、」

 近くまで来た申賀は、まだ近眼が老眼に勝っているのか、目を搾って必死に見つめた挙句、

「ええっと、内容はその通りですね。しかし、こう、だったでしょうか? 旦那様の筆跡は、なんと言いますか、もっとこう、」

「申賀さん?」言い切らせない。「貴方は確かに、雪峰判事が金庫のを解く直前、そこに記された閣盛氏の筆跡について、何も言いませんでした。つまり、真性らしいと暗黙裡に認めました。この遺書の筆跡と、そこでまだ閃いている封印の残骸に記された筆跡、何処がどう違うか説明出来ますか?」

 無論、私からは同一の筆跡にしか見えなかったことを蹈まえ、この糺弾は行った。遺言がこんな内容なら、本影を好もしく思わない申賀が、虚辞を以てその無効化を狙うことは有り得そうな話だ。下らぬ企みは、早々に潰しておいた方が互いの為である。

 申賀は暫し押し黙った後、漸く、

「いえ、」

とだけ漏らした。

 彼から視線を切り、雪峰へ便箋を預ける。

「複写を。」

 彼女は準備が出来ていなかったのか、小型プリンターとスキャナーを鞄から取り出すところから始めた。

 時間が掛かりそうだ、と思った私は、翔々子等の居る方へ向き直ってしまう。そこには、血走った眼を並べつつ、身を戦慄かせる二人の吸血鬼が居た。

 翔々子の、殆ど叫び声となっている怒声。

「どういう、ことです、……どういうことです! あの女が、なに、お義父様の財産の殆ど全てを!?」

 その、先程テーブルを破壊したばかりの握り拳が、不穏に持ち上げられて顫えている。

 ここで、ちらと雪峰の様子を窺ったが、ワザとなのか自然なのか、延々機器の操作に手間取っているようだった。

 ………………

 うむ。ならば、

「そう、ですね、」

 そんな、無意味な一言を呟いた。数瞬の時間を稼ぎ、戦いの為の精神を調えたのである。

 さて、血原翔々子よ。そちらが、暴力を仄めかすという反則を犯すならば、此方も相応に何でもさせてもらおう。不肖の弟子に代わり、特別にこの私が、大上段で構えてやる。

「まず、機械的に整理しましょう。今ここで行っている手続きが『検認』に相当するのかは、まだ難しいところですが、そうであろうとなかろうと、遺言が有効かどうかは一応決まっておりません。検認とは、そういう性格の物です。

 ですが、ほぼ間違いなく、結局有効扱いとなるでしょう。一応、裁判を起こしても良いのですが、そんなことをするのが馬鹿馬鹿しいくらい、この遺言書は余りにも完全です。」

 日付署名押印、いずれも末尾たる三枚目に揃っており、書き損じも無く、また徹頭徹尾肉筆である。

 黙っていられぬという調子で、秋禅が、

「なんです、つまり、その『愛する』とかいう言葉からすると――死者を悪く言いたくはないですが――あの蜥蜴人リザードマンの妾か何かだったと?」

 その、自分の を棚に上げる厚顔に惚れ惚れしながら、

「そう、かもしれません。と言いますか、実際そういうことなのでしょう。ですが、閣盛さんが独り身であった以上、そんな事実関係に裁判所は関心を持ちませんし、関係有りません。秋禅さん、貴方なら知っている筈です、誰と誰が関係を持とうが、誰が誰を愛そうが、法は関知しないのだと、」

 秋禅は、顔を歪めて黙った。この私の論撃は、正確にはやや卑怯で、刑法と民法の区別を敢えて誤っている。しかし、この場はとにかく一旦彼を挫けさせたかった。

 だが、結局この陋劣ろうれつな攻撃は、秋禅の近親相姦の負い目のみを責める、つまり彼だけの足を掬うような行為で、そんなことと無縁の翔々子はまだまだ元気である。

 盛んな怒気を纏いつつ、

「つまり、こういうことですか? あの本影がお義父様をたぶらかし、遺産を全て持って行こうというのに、私共は何も出来ないと?」

「二点、有ります。まず、、本影さんが財産目当てで閣盛さんに近付いて『関係』を持ち、結果この様な遺書を書かせたのだとしても、特に遺言の有効性をこぼつものではありません。無論、事前に前後不覚になる毒を盛っただとか、耄碌したところを狙っただとか、或いはその『関係』成立によって公序良俗に反することとなったのならば、話は別ですが、そんな事実は全く証明されていない筈です。

 次に、

「仮にとは仰いますけども!」翔々子の叫び声に遮られる。「まず間違い有りません。やはり、そうだったのです。あの女、あの生意気なはしためは、やはり何かお義父様を誘惑して、その資産を僭窃せんせつしようと、……ああ、ああ、なんと嘆かわしい、」

「翔々子さん、ですから、仮にそうだとしても関係ない、」

「本当ですか? 本当に、そうですか?」存外に、秋禅の立ち直りは早かった。「本当にそうなりますか? 今、『公序良俗』なんて言葉を聞いたので思い出しましたけど、そうですよね、公序良俗に反する法行為は、一般に無効になりますよね? そんな本影の行いが、本当にそれに反しないとでも?」

 ……なんだ、この男は? 何故、ここまで詳しい?

 仕方なく、私は省略した部分を述べねばならなくなった。

「秋禅さん、確かにその通りです。公序良俗に反すれ、遺贈も無効になります。ですが、相続における『公序良俗に反する』とは、言ってしまえば、『不倫』に当たる場合です。しかも、例えば、不倫状態を維持する為に多額の遺贈を約束した場合、或いは、その結果遺族が日銭に窮してしまう場合など、明らかに非道な場合です。

 正確には、調停や民事裁判で結着させることになりますが、……今回は、そういう事実の証拠もなく、そもそも不倫ですらないのですから、極めて旗色は悪いでしょう。」

 目を剝いた翔々子が、抑えきれぬ忿怒を幾らかでも慰めるかのように、持ち上げられた両手で空気を慄々わなわなと揉みながら、

「裁判? ……『裁判』と言いましたか!? そんな事になったら、本当にどれだけの期間が、ただでさえ、(こう言いながら、翔々子は床を高く踏みつけた。)金食い虫へ、巨費が縷々と消えて行っていると言うのに、」

「あの、」

 私達は、号令でも掛かったかのように、その声の方向を一斉に見やった。それほど、この、申賀が発言したことが意外で驚かされたのである。

「済みません、勘違いしていたらお恥ずかしいですけど、……この議論って、意味有るのでしょうか。つまり、……もう本影の奴が死んでいるならば、彼奴に相続の権利が有ろうと無かろうと、結局、全て夕景様が御相続することになるのでは?」

 この言葉を聞いて、血原親子は露骨に安堵したが、……しかし、

 私は、妖崎に向かって、

「……そう、ならんよなぁ?」

 彼は、苦く笑いながら、

「ええ、……ならないでしょうね。」

 私は、元の方向へ直ってから、「確かに、民法九九四条第一項には、『遺贈は、遺言者の死亡以前に受遺者が死亡したときは、その効力を生じない。』と有ります。遺贈とは、簡単に言えば、自然な相続先の決め方に則らないで、敢えて特殊な相続形態を指定することで、今回は正に、血縁外の本影さんがその対象に当たっています。

 しかし、もう一度諳んじますが、『、』です。相続や遺贈は、被相続人、つまり財産を配る側の者が死亡した瞬間に『開始』します。ですので、閣盛さんの逝去時に確かに生存していた本影さんは、遺贈を受ける権利を失いません。検認や実際の遺産分割を行うまで生存している必要は、全く無いのです。」

 秋禅が、素早く、

「本影さんが、……何でしたっけ、イゾウ?」

「聞きなれなければ、『相続』、で構いません。今回は殆ど同じですから。」

「なら、本影さんが相続権を失っていないのだとして、……実際、どうするんですか? 本影さん、貰うもの貰う前に亡くなっていますけど、」

「それは、比較的単純です。本日を以て、つまり彼女の死亡を以て、本影さんからの相続が開始し、その処理は、税の減免やその他瑣末な点を除けば、普通の相続と何ら変わりません。即ち、本影さんが受け取る筈だった閣盛さんの財産割合を、彼女の遺族がそのまま相続します。」

「つまり、」秋禅の怒声。「の資産が、そっちに流れると? 本影さんの親族に?」

「馬鹿な!」そして、翔々子の罵声。「あの蜥蜴女当人へなら、お義父様に仕えることはとにかく致したので御座いましょうから、まだ、幾らかならくれてやろうという気にもなりますが、その、家族ですって? 我々となんら、あるいはお義父様となんら関係の無い爬虫類連中に、……しかも、遺産の殆ど一切合切を!? そんな、絶対に有り得てはならないでしょう!」

「翔々子さん!」いい加減に、言わねばならぬ。「先程言いそびれましたが、遺言に有った、貴女の旦那様へ宛てがわれる『遺留分として最低限認められる分』とは、全体の五割です。つまり、遺言通りに執行されても、貴方方家族に五割、本影さん側に五割です。そんな、概ね全てが持って行かれるという事態は、絶対に起こりません。」

 欠格条件云々は、明らかに話がややこしくなるので伏せておいた。

 この言葉の後、秋禅の方のボルテージが低くなったのが如実だった。つまり彼は恐らく、多くは、祖父の遺産を攫われることに対して焦り、憤っていたのだ。半分も残るのなら――それも実質負の遺産である臨潮館を他所よそに押し付けられるのなら――、そこまで不満でもないのだろう。厖大な額に五割を掛けても、まだ厖大だという理窟。

 しかし残念ながら、翔々子の方は全く熱を失わなかったのである。つまり彼女は、相続高の目減りはもとより、憎き本影側へ、莫大に、当然自分が手に入れる筈だった財が流れて行くのが、面白くなくて面白くなくて、そして、憎たらしくてしょうがないらしいのだった。

 その情感が、彼女を余りに愚かな行動へと駆った。未だにせっせと電子機器と戦っている雪峰を睨み付けると、突然、その方へ向け、尋常ならざる速力で、跳躍し、

 そして、私へぶつかった。心の準備をしていた私は、雪峰をいつでも庇えるように備えていたのである。

 真後ろからの雪峰の悲鳴が、車輌のごとく容赦無しに胸許へ突っ込んできた、女蝙蝠人きゅうけつきの慢罵に遮られる。

「退け小娘! その、遺言書、全て破り棄ててしまえば、」

 そのまま、私の両の上膊を握り、

「退かぬなら、この細腕、へし折って、」

「やって見ろ。」

「……あ?」

 目を血走らせつつ、低めの姿勢からやや見上げてくる翔々子へ、成る程、私はかなり大きめのサイズの服を着ているから、尚更腕が頼りなく見えるのだろうなぁと、どうでも良いことを思いながら、

「やって見ろ、血原翔々子。達者なのは耳と口先ばかりか?」

 この挑発に、顳顬の血管を癇走らせた翔々子は、全力を籠めて私の両腕を砕こうとした、らしい。布がやたら余っているからやりづらいだろうな、とだけ思いつつ私は待っていた。

 私の、軋みもせぬ骨と、揺るぎもせぬ顔を訝しみ始めたらしい翔々子が、その好戦の表情に疑懼ぎくのようなものを及ばせ始めた、つまり、やや眉を寄せた辺りで、

「気は済んだか? 小娘、」

 そう宣告してから、変化へんげを始めた。上膊が、翔々子の可愛らしい握力を綽々と押し退けつつ、案山子が着ているかのように空疎だった袖を、破れんばかりに充満させる。皮膚が、強張り、熱を持ち、赤く照り始めた。手が、顎が、爪が、とにかく何もかもがおおきく脹らみ、胸奥に喚び起こされた余分な熱い臓器が、肺臓へ只ならぬ、生命を維持する為ではない、破壊だけを目的とした灼熱の瓦斯を供給し始める。

 たじろいだ翔々子が退しりぞいて空間が空いたので、久々に炎を一噴きしてみる。そうして私の視界に一瞬立ち上った、金赤の火焔の帳の出現前後で、彼女の震悚しんしょうが露骨に深まったのが面白かった。

「どうした? ほら、もう粋がらないのか?」

 三割程度しか変化へんげを為していない私へ腰を抜かす翔々子の不様が愉快で愉快で、つい口角を持ち上げてしまったが、この自然な笑顔が何か好もしい効果を齎したらしく、視野の者は皆、絶句したまま動かない。

 仕方なしに、身を元通りしぼませて、

「戯れは程々にな、蝙蝠の貴婦人よ。」

 秋禅が、あの時のように私を指差し、

「あ、あんた、やっぱり人間じゃなかったな?」

「その節は、失礼。しかし、私が何者であろうとも、法理の話には関係なかっただろうからな。」

 そう、法とは、力無き者を護るものであり、故にそれが正しく執行されたる時には、全ての暴力は無力と化し、ならばそう、全ての種族間の差異は、残さず捨象されて消滅するのだ。血原翔々子、これまでは幾度も、貴様の蝙蝠人きゅうけつきらしい膂力を以て放埒を働けたかも知れぬが、しかし、少なくとも今日は諦めろ。

 私は、体の伸縮でずれた襟を直しつつ、翔々子のことをもう一度良く見据えてやりながら、元の社会的属性へと戻った。

「まあ端的に述べれば、奥様、馬鹿な真似はおよし下さい、無駄です。」

 立ち直っていたらしい雪峰が、後ろから、

「りゅ、竜石堂さん、なんと言うか、……と、とにかく、無事複写は終わりました。」

「ご苦労。……そろそろ、お前に座長権を返した方が良いだろうか。」

「ええ、流石に甘えられませんので、いい加減頑張らせていただきます。」

 腰が抜けそうになっていて心配だったが、彼女はとにかく、複写と原本の間に相違の無いことについて、妖崎と申賀の署名捺印を抜かりなく取得した。その後、漸く遺言書を手に出来た血原母子は、なんとかその弱い目で文字を読もうと、喰い入るように顔を便箋へ近づけている。

 ………………

「さて、ではこの複写ですが、」

「と、」余計なことを考えてしまい、雪峰への反応が遅れた。「私が預かるのが安全だろうが、しかし、裁判所外の者に委ねるのもな。」

「そこで、二セット分複写し、いずれへも署名を頂きました。竜石堂さん、片方お持ち頂けますか。」

「素晴らしいね。」

 そうして不肖の愛弟子から封筒を受けとり、上着の内にしまっていると、血原の翔々子が素晴らしい逞しさを見せており、具体的には、早速妖崎へ噛みつくように、

「妖崎さん! どうにか、ならないのですか!?」

 妖崎は、私の狼藉による呆れとわずらいにやられた顔のまま、

「ええっと、残念ながら、相続に関して竜石堂先生の述べていたことは、基本的には正しいと思います。参考までに、雪峰さんはどう思われます?」

「まぁ、はい。そうですね、私も、特に何か誤っていたようには、」

「と言う訳でして、奥様、もしも今後血原家が頑張るとなったらやっぱり、遺言の有効性や、遺贈が公序良俗に本当に反していないのかを、本影さんの相続人側と争うことになる訳です。しかし、竜石堂先生も言ったように、これが中々勝算の厳しい戦いでして、一応裁判では何が起こるか分からないとはいえ、余りにもお奨め出来ないのです、……が、」

 妖崎は、項の辺りを搔きながら続けた。

「実はですね、ここでそもそもの問題が有りまして。」

「問題?」

「ええ、奥様。つまり、遺言や遺贈について本影さんの相続人と戦いたい訳なんですけど、……実は、確か、本影ポコロコさんって天涯孤独なんですよね。」

 ……は?

「ああ、確かそうです。」申賀が、「そうです。長年働いている内に嫌と言う程聞かされました――何せあのお喋り好きですから――が、彼奴は孤児院上がりで養親も無いらしく、また、結婚だとか子供だとかも無い筈です。」

 『確かか!?』と、問い糺そうとして辺りを見回したが、適当な、本影に詳しそうな顔は他に見つからなかった。

 妖崎が続けるに、

「勿論、厳密には、戸籍を良く良く確認したり、相続財産管理人による捜索を行ったりした後でしか断言は出来ませんが、やはり十中八九、本影さんには相続人が存在しない筈です。

 さあ、こうなると困ったものです。まず、これまた困ったことに、本来の指命先であった本影さんが逝去したことによって、最早、遺言執行者が実質指定されていないんですよね。ということは、閣盛さんからの相続に於いては、夕景さん以外の相続人も、遺言執行者も居ないのです。……すると、僕らは誰と戦ったら良いのでしょう? 誰相手に、遺言の無効確認を提訴すれば良いのでしょう。これは――残念ながら――反語や皮肉ではなく、本当にちょっと良く分かってないんですが、例えば竜石堂先生、どうなるか分かりますか?」

「……ええっと、ちょっと待てよ、」

 何、ええっと、本来は本影と喧嘩せねばならないが、本影が死亡しているからその相続人と喧嘩したい、しかしそこも全滅しているから、そもそも(閣盛の、ではなく)本影の相続財産管理人が選ばれるべきなのか? しかし確か、相続財産管理人って、自動的に選ばれるものではないよな(やたら選出費用高いし)。ええっと、この選出申し立てが出来るのは、利害関係者と、なんだっけ、……ああ、検察官だ検察官。……検察官? なんで検察が出て来るんだ、そもそも可能だとしてやるのか彼奴ら。ええっと、で、利害関係者といえば血原家、……いや関係ないっての、閣盛じゃなくて本影の話しているんだから。あー、でも特別縁故者を申賀が狙うとか、……いや、同居者ってそう言う意味じゃないだろ、本影が老婆で手助けされていたとかならともかく、申賀より若々しいくらいだったんだから。すると、申し立てるのは、……国とか、都なのか? あれだけの遺産の五割とくれば、貰えるものなら貰って国庫に入れたいだろうから、利害関係と言えば利害関係か、すると、申し立てがされて、相続財産管理人が選ばれて、……あれ? なんで本影からの相続のことを考えているんだっけ?

 ああ、良く分からなくなってきた。

「遺言執行者を選任させるなら、その者、意地でも選び直さないなら、……国、か? 或いは、そもそも国が遺言執行者の選任を申し立ててしまうのか? いずれにせよ余り自信はないが、……雪峰はどう思う?」

「えっと済みません、地裁に居たのは随分昔で、最近のそういう方面は詳しくなく、」

「まぁ、だよなぁ。」

 妖崎は、ひとつ、何かに対して頷いてから、

「奥様、このような調子なのです。先程まで縷々と法理を述べていた竜石堂先生がこうもあやふやとなるほど、ややこしい事態となっております。無論、五割で良い、残りは国庫に納める、と潔くなれれば簡単なのですが、全て受け取ろうとなるといとも面倒な事になって参ります。」

「国庫?」訝しげな翔々子が、「本影が死に、その相続先も居ないとなって、何故国庫が出てくるのですか? それこそ、私の夫が全て、息子として、唯一の相続人として、お義父様の資産を受けとれば良いだけでは?」

「いえ、残念ながら、先程竜石堂先生が述べたように、本影さんは相続人としてほぼ確定しています。一応『ほぼ』とは付けましたが、遺言書が無効ですとか、実は本影さんが閣盛さんより前に死んでいて、僕らが最近会っていたのは双子の姉だったことを証明する、とかの、とんでもない逆転ホームランを打たない限り、くらいの『ほぼ』です。無きも同然の可能性です。

 なのでやはり、彼女への相続を確定させた上で話が進んでしまいます。すると、本影さんが書類上は多額の資産を抱えたまま亡くなったのにも拘らず、相続先が無いので、まぁ、間を飛ばしますと、なんやかんやの後に国庫へその遺産が納められます。行くべき先の無い財産は税金として活用しよう、という理念ですね。」

 翔々子は、当然のように憤然と、

「『行くべき先の無い』!? 今、行くべき先の無いと仰いましたか? お義父様の御遺産が!?」

「ええ、分かります。物凄く分かります、なら血原家に返せよと、僕も言いたくなります。しかし、相続の正当な処理方法に則り、本影さんの相続だけを、それが真空に浮いているかのように眺めると、どうしてもそうなってしまうんです。死亡者がどうやって得てきた資産かというのは、相続上頓着致しませんので。」

 久々に口を開いた秋禅が、落ち着いたのか諦めたのか、とにかく尋常な様子で、

「つまり処理上、の死と、本影さんの死が全く関係ないことになっているのが、諸悪の根源なんですね。……皮肉だなぁ、あの人がからの相続で幾らかでも贅沢を味わったのなら、まだ諦めも付くけど、実際は、誰も得しないまま遺産の半分が天に昇るんだから。」

 本影の幸福を呪っていた翔々子とは、対蹠的な呟きだった。

 妖崎は、軽く手を動かして再び注目を集めてから、

「一応、そうやって国に持って行かれる前に、本影さんと親族同然だった方へ遺産の一部を分配する、という制度は有りますが、皆様の場合それに乗ずることは難しいでしょう。よって、本当に国庫へ納められてしまう見込みなのですが、」

 彼は、一旦息を呑んでから、

「良いですか、皆さん。僕は今から大きな独り言を言います。……もしも、もしもあんな遺言書が無ければ、或いは、その二枚目だけでも無ければ、八方旨く収まるのになぁ。」

 私は、耳を疑った。妖崎を睨みつけるが、彼はただ、その青い、顎の逞しい顔を歪めて、挑発的に笑んでいるのである。

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