秋禅は、私の作ろうとした、ピリついた雰囲気に同調してくれた。想い返すに、目の利かない彼は、此方の見た目の若さや頼りなさに騙されず済む分、私のことを高く買ってくれたのかも知れない。

 彼は頭を前方へかしいで、上目遣いな目がその銀髪に隠れるような姿勢で、

「では、まず、……俺の妹、阿古が、余り正気でないということは、既に御存知のようですけど、」

「はい。それが、私の知ることの過不足無き所です。つまり、阿古さんの病態の委細は全く存じません。――『病態』という言葉が、適当なのかどうかすら。」

 妖崎は何か知っているかもしれなかったが、ひとまず蚊帳の外にしておいた。

「なら、最初から話しますよ。阿古は、生まれた時から尋常でなかったんです。なんと言うか、……常に猜疑と妄想の中に生きている様で、人類らしい真心も、愛情も、殆ど受け容れてもらえませんでした。」

 彼は、私に言葉を噛みしめて貰いたいかのように、深刻な間を少し置いてから、

「あらゆる手を、僕達は使ったんですよ。俺だけでなく、親父も、お袋も、も、何も受け容れてくれない阿古を、彼女を、なんとか助けようとずっと頑張ったのです。……いいですか、竜石堂さん、手です。本当に、文字通り、僕ら家族はあらゆる手を用いたんですよ。それこそ、正道に悖るような手段、……投薬や打擲ちょうちゃくすらも。……でも、まるで駄目で、

 そうやって僕らが、様々な角度からの摩耗によって、正に擦り切れるように疲弊し切った中で、阿古が、侮蔑的な言葉を投げ掛けて来る訳ですよ。……いいですか、を、僕らは、しかも真摯な愛情への報恩として言われる訳です。それも、何百回、何千回と。そんな中で、……何処までも参ってしまった僕がとうとう、かっとなって、阿古のことを押し倒したりして、それは、そんな大きな罪になるのでしょうか?」

 私は、無言で先を促した。

「無論、単純にかっとなった訳ではないですよ。阿古が、僕の、男子としての尊厳を大いに傷つけるような、侮辱的なことを吐いてきた訳です、……言っては何ですが、僕らに何を与えてくれるでもなく、生来、ただごくを潰し、心を磨り減らせるようなことしかしてくれていない、妹がですよ? それで、つい、二人きりの時にベッドの方へ――純に禁欲的な意図で――押し倒したら、……押し黙った、訳ですよ、あの阿古が。あの、何も無い所から勝手に幻の悪意を見出し、勝手に傷ついて、勝手に全てへ復讐してくる、あの阿古が、押し黙って、……そして、じっとしている訳ですよ。

 何を、ただ黙っているのだと、こう、互いの鼻と鼻が触れそうなくらい、目交いまで顔を近づけてやると、……何か、瞳が潤んでいて、頰が赧然たんぜんとしているわけです。僕は、この時に『顔』というものを、初めてまじまじとました。それで、僕は打ちのめされた訳です。あの、全てを傷つけようとしてくる阿古が、こんな美しい姿をしていたのかと。そして、当然そんな間近ですから、彼奴の吐息が僕へ掛かります。その中の、甘い香りが――後から思い返すと、真相は単純に、食事に出されていたベリー残り香だったような気もしますが、とにかくその甘い香りが――僕の、最後の抑制を殆ど吹き飛ばし、僕は、彼女の小生意気にも可憐で洒落た服の襟首に、こう、手を掛けてしまいました。そして、そうしたら、……阿古が、『兄さんなら、』とか言う訳です、幽かな、ふるえるような声で。もう、その後は、そのまま服を引き裂いて、……少なくとも僕の方は、それで童貞を失いました。」

 私は、出来る限り真摯な態度で身構え、頷いていたが、霞む目しか持たぬ蝙蝠へこれが伝わるかが不安であったので、声音にもそれを託した。

「続きを、」

「ええ、……そうしたら、終わった後で――つまり、彼奴の中で弾けてから相当な努力を費やしてした後で――、笑った訳ですよ、阿古が。そりゃ、僕ら家族の中に目の利く者は有りませんでしたけど、でも、きっとアレは、彼奴の生まれてから初めての笑顔だった筈なんです。だって、……あれだけ、常に誰も何も信ぜず、誰からの愛情も受け容れず、当然誰に対しても暖かい感情を差し向けたことの無かった彼女が、一時ひとときでも、あんな、柔和な顔をしていた訳が無いんです。

 それから、まず、もう一度僕らは躰を交え、それで、……そうしている内にすっかりかわたれ時になっていましたので、日が暮れるまで一緒に寝たんです。先に寝ついたのは彼女の方だったので、――未だに耳から離れないのですが――僕は、彼奴の、阿古の、静やかな寝息を聞く事が出来ました。その日始めて見知った訳ですが、彼女の、その可憐な鼻筋を通って出てくる、密かな笛のような息のに、僕は、すっかり魅された訳です。

 で、ええっと、とにかく目醒めましたら、……月並みな表現ですが、他に思いつきませんので、そう、彼女は、まるで、それこそ、『憑き物が落ちたよう』に、穏やかになっていたんですよ。僕は、夢か、そうでも無ければ幻を見ているのかと思いましたが、でも、本当に、彼女は、人類らしい、一人の女の子らしい、態度で振る舞えるようになっていて。……そして、しかもこの幸せは、日付が過ぎても、裏切られなかったのです。つまり、……僕らは、或いは僕は、初めて、穏やかな世間一般の家族らしい日々を送れるように、……つまり、家中かちゅうに、嫌悪と侮蔑と疲弊が無限に沸き立つのではなく、安らぎこそが油然ゆうぜんとして、単純に油断しつつそれを期待出来る日々を、とうとう手に入れられたのです。

 …………………………」

「続きを、」

「……ええ、そう言う訳で、僕の使う『已むなく』という言葉は、こういう意味だった訳ですよ。僕は、これしか知らないんです。僕らが、阿古が、まともに過ごせる方法を。」

 秋禅はここで口を閉じたが、しかし、半世紀近く判事を務めていた事で私の中に涵養された職業的勘は、彼の告白がまるで終えられていないことを、その雰囲気から見抜き出していた。

「まだ何か有れば、続きを、」

「そう、ですね。……これは、僕の理解なんですが、阿古を最も蝕んでいたのは、不信だと思うんですよ。」

「『不信』?」私が、初めてさしはさまる。「その言葉について、説明を加えていただいて宜しいですか?」

「つまり、勿論、誰かを信じる事が出来ない、という状態のことですが、……阿古の場合は特に、家族を含めた他人からの、愛慕や、信頼を信ずる事が出来なかったと思うのですよ。この不信も、確かに一部は彼女を蝕む妄想に因る筈ですが、……正直な所を述べてしまえば、実は、全体的には殆ど妄想でもなかったように思えるのです。

 だって、そうじゃないですか。彼女がそういう、他人から愛されている事を自覚出来るようになった筈の年齢に育つまでに、僕ら家族は、……愛想を、とうに尽かしてしまっていたんですから。いえ、勿論、親父にお袋は、僕よりも泰然とした堪忍袋を親として持っていたでしょうけど、少なくとも僕は、幼少からずっと、毎日毎日自分の妹の事を呪っていたのですから、多分、親父達だって、どこからからは、

 …………………………

 そして、そんなでしたから、阿古は、その病的な、しかし無謬の不信により、僕らが一所懸命装った愛情を見事見破って跳ね退けてしまい、そうして達成された孤独が、彼女を更に蝕んで、……こういう、最悪の、無限の饋還きかんを、形成してしまっていたのです。……御質問の答えついでになってしまいましたが、以上ですかね、俺からは、」

 彼の話す内容からも窺われていただろうが、私の勝手な期待は完全に裏切られていた。私の前に座っていたのは、挑戦する者では無く、寧ろ誰かによる受容と理解を、そして、それらに基づく、とにかく何かしらの判決を願う者だったのだ。猛る弁護人ではなく、疲れ果てた挙句、全てを明かして刑法に救いを求める被告人だった。

 しかし、だからと言ってこの情況は私を冷めさせるものではない。目の前に居るのが弁士ではなく懺悔者であったのなら、それ相応に、然るべく聞き、問い、判じ、語るだけだ。

 そして、今求められる、然るべき問いとは、自分の興味を慰める為のものではなく、また、真実を見出す為のものですらなく、相手が吐露を望む被告人であるからには、ただその懸命を助くべく、見失いかける彼を導く為に、静かに訊ねるものだ。

「秋禅さん、恐らくは意図せずでなく、誤ってだと思うのですが、貴方は少なくとも一つ、話そびれてしまってはいないでしょうか。つまり、……その、阿古さんの中に形成された『最悪の饋還』について、わざわざ私へ述べて下さった、理由は何か無かったのですか?」

 秋禅の返事は、素早かった。

「そう、ですね。有り難う御座います。そうです、言い損ねていました。ですから、僕は、或いは僕らは、その悲し過ぎる饋還を断ち切る方法として、しか見つけ出せていないのです。何せ、言葉や物品に託される、形無き情慕は、知性によって幾らでも偽る事が出来てしまうが為に、仮に実際には真性なものだったとしても、阿古がそれを信ずる事が出来ないのに対して、肉と潤滑な摩擦に拠る、物理的生物的な愛情表現は、猜疑な妄想に蝕まれ続けてしまった彼女の鈍感過ぎる心の感受器官を、唯一、直截に、叩いて、そしてそこへ到達する事が出来るんです。……貴女は、そう思いませんか? 結局、物質的なものしか証拠にはならないのだと!」

 その偶然に生じた皮肉によって私が少し瞠目するのに、彼は気が付かぬまま、

「少なくとも僕は、そう信じ、そう、縋って、……毎夜毎夜と言う訳では決してなく、時折ですけど、彼女に愛情を、きたんです。そうやって、僕は、他の人類並みの、生活を、生涯を日々を、どうにか手に入れたのです。」

 私は、もう一度振り返ってモニターの方を見やった。最早誰も眺めていなかったのに、鹿爪らしく蝙蝠の兄妹の媾合を再現し続けていたその液晶の上で、確かでない妹は半ば身を起こしつつ兄を引きつけ、その男らしくない白い華奢な背へ、回した腕を箍のように引き締めている。

 私は再び、彼の方へ向き直り、

「有り難う御座います、秋禅さん。……何か、今の内に私へお訊ねしたい事は御座いますか?」

「幾つか、有ります。……どう、なんでしょうね。阿古は、少なくとも僕を受け入れるまでは、片時も正気でなかった筈なのです。確かに、正気でないのですから、そんな彼女と関係を持つ事は、貴女や法律が、その『準』どうたらという名の下に指弾する、忌まわしき行為なのかも知れません。しかし、……片時も、正気でなかった彼女が、あの一朝いっちょうを経て漸く人類並みの知性と言葉を見せるようになったのに、……つまり、あの朝より前は人格らしいものも十全でなかったのに、そんな彼女へ何か非道な事を施した所で、それは、本当に、一つの人類権を侵した事になるのでしょうか。また、あの朝によって彼女はずっと健やかになったのに、それでも、僕の行為は罪となるのでしょうか。そして、……僕を、または僕ら家族を、この世の誰かでも、責める事など出来るのでしょうか。」

 私は、まるでそうすることに具体的効果でも期待しているかのように、こちらへの視線をじっと外さない、彼の悲愴と覚悟を湛えた表情を目に焼き付けながら、真剣に論理を頭の中で整理して、それから、ゆっくりと語り始めた。

「本来は、この場で即興で、しかも貴方からの話だけでそうすべきではないのかも知れませんが、一つずつ、私なりに答えさせていただきます。」

「まず、人類権ですが、これは、その者の責任能力や理性の存否には全く影響されません。例を挙げれば、脳死者から器官を提供させる場合、生前に為された本人の明示的な提供意志が有ろうと、遺族が拒否すれば行えないとされていますが、これについて、死者の自己決定権を侵しているのではないかという議論が繰り返し行われて来ています。これはつまり、自身の体を病人へ献じたいという死者と、家族の体を切り刻まれたくないという遺族の権利の衝突な訳ですが……そう、なのです。死者すら、その尊厳や権利は充分に考慮されるのです、分かりますか? ……また、阿古さんは成年被後見人であると聞いておりましたが、これこそ、責任無能力者の人類権を護る制度の好例です。痴呆を起こしたり、或いはそもそも全一な知性を一度も獲得する事が出来なかった者からは幾らでも詐取して良い、等という事は決してないのですから、我々はわざわざ後見人を立てて彼ら彼女らの権利を護るのです。……分かりますか?」

「続いて、彼女を救った、妹さんへのが罪に当たるのか、ということについてですが、……貴方が特段、精神医療やその他に関して知識や免許や経験を持たず、独断で行ったという事が大きな問題となるでしょう。つまり、外科医は屡〻盲腸か何かを切除する為に病者の腹を捌いて搔き弄りますが、こんな途轍もない『傷害』は、理論と技術と、それを是認する免許や法律に依って許されるのです。『違法性阻却』と呼びますが、つまり、とにかく他人ひとの腹を裂けば『傷害』だが、然るべき理由付けが有ったのだからその違法性は阻却されるべきである、と。しかし、貴方の場合は、……結果的にはその姦通が貴方や阿古さんを救ったかも知れませんが、しかし、裏打ちと勇気をもって、その目的の上に狙い澄まして行われたのではなかった以上、医者のように違法性を免れる事は決して無いでしょう。よって、せいぜいでも、『送検するのは忍びない』、『実刑を下すには忍びない』という判断、つまり、『疑わしけれど判ぜず』、『罪有れど罰せず』ならば――寧ろ妹さんよりも貴方側の精神の耗弱を慮って――可能性は有りますが、罪無き事、無罪が積極的に示される事は無いでしょう。」

「そして、最後の問いですが、……申し訳ないですが、我々法曹に生きる者は、その質問に対して無力です。ですので、法曹家ではなく、竜石堂りゅうせきどう緋桐ひぎり個人としての言葉になってしまいますが、……貴方を罵倒する気持ちは、どうしても起こりません。」

「『確かに違法性は有れど、その罪、強く責められるべきでない。』。これが、私のです。……このような形で、宜しいでしょうか。」

 この、「意見」という言葉が最高裁判事から発せられる場合、それはただならぬものであるという事を、秋禅はまず間違いなく知らないだろうが、しかし、私はもう判事ですらないのだから、余計な事は付さないでおくことにした。

 流石に悄然とした秋禅へ、私や妖崎の守秘義務についてと、そちらも私の話を他言しないで欲しいことと、またそもそも、その兄妹での睦みに関しては決して言い触れない方が良いということを、法律家として良く言い聞かせてから、私達は彼を見送った。

「有り難う御座います、……ええっと、」

「竜石堂です。」

「そう、竜石堂さん。本当に、有り難う御座いました。俺、漸く助けられた気がします。」

 彼がそうして出ていってしまった後、私はすぐに、さっきまで自分が腰掛けていたベッドへ俯せに飛び込んだ。いつの間にか、鹿驚魔キキーモラ達は居なくなっている。スプリングの震動が静まってから、息苦しさに首を曲げると、未だにあられも無い肢体が二つ、遠くのモニターの上で絡み合い続けていた。余りに遠くで、余りに白いのが気怠げに蠢いているので、蛞蝓の交尾に見えなくもない。

「あー、……それ消してくれ、妖崎。」

 言葉遣いを演ずる余裕は無かった。

 彼は、引っこ抜いたテープをためめつすがめつしながら、

「お疲れ様です。そして、流石ですね本当に。感銘を受けましたよ、冗談でなく、」

 ぐったりした心身の状態を隠さずに、

「一応訊くが、……普通、こうじゃないよな? 弁護士の仕事なんて、」

「はは。御安心下さい、勿論、今日は異常ですとも。」

「全く、……顧客に会ってすらいないのに、我々今日どれだけ法律を論じた?」

「いやはや、ボスということになっている僕の方がすっかり、色んな意味で勉強させて頂きました。法律の話でいえば、強姦罪の改正なんてすっかり忘れていましたよ。

 ところで竜石堂先生、もう、休まれますか? 着替えてからベッドへ入った方が、寝床を汚さず本影さんに恨まれないでしょうけど。」

「ああ、そうだな。」

 そう返事しながら、私は布へ沈んだまま微動だにせずいた。眠気と疲労が、私の体を、引き潮で打ち上がった漁船のように重くしていたのだ。寝返りすらうちたくない。

 妖崎は諦めた様に、部屋のスイッチを操作して減光してくれてから、

「せめて、ふすまの中へ潜り込んだらどうですか?」

「ああ、」

 私は、この生返事を最後の記憶として意識を失った。

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