目醒めると、妖崎が戸口で申賀と話していた。ええっと? ……ああ、そうか。血原秋禅の紊乱ぶんらんした兄妹愛を聞かされた挙句に、彼を真剣に慰めてやった結果、睡眠の足りていなかった私は参ってしまったのだった。軟弱と思われるかも知れないが、私は、判事たることに生涯を費やしてきたのであり、ならば、判事然と振る舞う事は、私にとって最も真剣な行為である。そんな時ですら困憊出来ぬ、つまり全身全霊を注げぬとすれば、それはこの上ない不誠実でなかろうか?

 人間は加齢で睡眠が短くなると聞くが、そうやって便利な形で老化の度合いを毎朝突き付けられるのは一体どういう気分なのだろうな、と、どうでも良いことを思いながら上体を起こしてそのまま伸びをした。肩の辺りが、心地よく痛む。この間に戸口で、何か思い詰めたような顔で申賀が去って行ったようも見えたが、何分寝起きなので気のせいだったかも知れない。

 目を擦っていると、戻って来た妖崎が、

「ああ、丁度良くお目醒めの御様子で。半時間後くらいに血原家の方々がお食事を摂るので、御一緒して下さいとの事でした。」

 本当は起床後まもなくにでも、私から秋禅へ語った事についての反省を、そして彼から聞いた事に対する熟慮を行いたかったのだが、どうやらそんな暇も無さそうである。あの長い語らいの間、彼がずっと射るように此方をしっかり見据えてきてくれていたのが、快い印象として思い返された。

 私は、首を鳴らしながら、

「承知したよ。……ええっと、『方々』と言っても、本影曰く、血原夕景氏は今日居ないのだったか?」

「その筈、ですね。遥か遠く、紅国の音楽祭で演奏をなさるそうですから。今日明日の内にこの島へ現れる事は絶対に無いですよ。」

「紅国? ……ああ、あそこか。優雅な事だが、あの国って、本邦から電話網とか通っているのだろうか。」

「怪しいですねえ。もしも不通なら、僕らは明日、完全に相続人抜きで遺言のを行う訳です。」

「ああ、」

 ……ん?

「ちょっと待て妖崎先生、申立人は誰だ?」

「え、なんのです?」

「検認だよ、遺言書の検認の申立。もしも素直に相続人の夕景氏がそうだったのなら大変だぞ、申立人の出席無しでは検認は行えずに、また日程決め直しからとなるのだから。」

「え? ……それは実際大変ですね、本当に熟慮期間が終わってしまいかねません。」

「別に夕景氏も相続抛棄はしないだろうが、それにしても、話を片付ける前に期間が切れるとなったら、決まりがつかん。」

「熟慮期間って、延長出来ますよね?」

「『延長』というか『伸長』だが、」

「……何か違うんですか? それ、」

「知らん。とにかく、期間の伸長について請求する事は確かに出来るよ。だが、認めるかどうかは家裁の判断だし、『孤島まで喚びつけておいてなんですが、当日申立人が居なかったんですー、』なんて勝手な話で伸長を認めるかどうかは、微妙な気もする。向こうの不手際で検認が一日伸びていることとは、何も関係ないしな。」

「ああ、……しかし、咎が血原家側に有るにせよ、遺言書を開封するなと言われたまま熟慮期間が終わってしまうのも、随分な話で、」

「ま、全てが杞憂で済む事を祈るよ。」

 法律論に疲れ果てて眠りこけたくせに、その起き抜けから早速、答えを出した所で特に益の無い議論(何せ結局祈るしかできないのだから)をしてしまう辺り、私は何処までも法曹人であるようだった。

 

 その後、私達は食卓へ招かれた。昼前本影にあしらわれた洋間よりも二回り程度立派な部屋で、私と妖崎の向かいに血原家の面々は座している。面々、とは言ってみたものの二人しかおらず、私の前に阿古、そして、妖崎の前に、夕景の妻である翔々子だった。秋禅は、蝙蝠人きゅうけつきにしては妙な時間に出歩いていたせいで寝ているらしい。

 目の前の阿古の押し出しは、基本的には卒なき令嬢であった。やや古風な趣味なれど上品な衣装、つまり親が賢明にったものをそのまま纏ったらしい体の頂点では、艶の有る銀髪へ、野菊の群生を象った幼げな金の髪飾りが刺さり、単独では珍妙に見えるであろうそれが、蝙蝠人きゅうけつきらしい美貌と威に支えられる事で危うく全体を破綻させずに済んでおり、その危うさ儚さが、微妙な婉麗を全貌へ齎していたのだ。しかし、秋禅による荒療治も、彼女の身分に期待される水準の理智を恢復させるには至っていないのか、客前を憚って――或いは憚らされて――阿古は殆ど口を利かなかった。淑女然たろうと気をつけているようではあるのだが、油断したらしい時に、明後日の方を見やりつつ自分の顔の何処かを退屈げに弄ってしまう悪癖が時々見られる。

 その様に隙が多い娘に対して、血原翔々子は流石であった。名高いチェリストである夫の夕景と同じ様に、音楽家としての名声をほしいままにしている――らしい――この貴婦人は、日頃鍵盤を精密に叩く事で鍛えられた指捌きの流麗さを誇るかのように、文字通り血の滴る牛のブルーステーキを綽々とナイフで切り裂いて口へ運ぶのである。流麗さを誇るように、というのは、その手捌きの一々に衒気の籠もっているような気がした為だが、殆ど生の肉を平然と食べ進めて行く様からは、どちらかといえば洗煉よりも、その手先や顎の筋力の女性らしからぬ素晴らしさが良く窺われた。

 蜥蜴の女中ほどではないにせよ、この翔々子もなかなか良く喋る。

「と言う訳でして、世界的な舞台に招ぜられて何かしらでも演ずるというのは、素晴らしいことなのです。あの人も、今回の旅はさぞかし楽しんでいる事でしょう。何せ、そもそも職業楽人がくじんを名乗るだけでも、自身の才覚と鍛練と、そして法外な修練費用を支えきれた富貴な家柄と、更には恐らく多少の運まで必要ですのに、そこを単なる出発点として、名高く己を売り続けねば到達出来ぬ舞台なので御座いますから。我々蝙蝠は耳の性能が良い分他の人類より有利とは言われますが、しかし、それでも大いに険しい道です。」

 妖崎は、いつものように何も食べ物は口にせず、一人だけ色水を啜りながら、

「すると、奥様。貴女も現在に至るまでに、数多くの、同志というか、夢を同じくする友なり仇なりが力尽きて行くのを、見られてきた訳でしょうか。」

 話頭、音楽祭から転じてしまうのか。夕景が申立人かどうかを訊いておくには絶好の流れだと思ったのだが、しかしこのような場面での器用さにおいては妖崎の方がずっと秀でるだろうと思い、私は特に抗わなかった。

 ずっとそんな調子で言葉少なになっている私のはす向かいで、翔々子は妖崎の言葉に、半生を遠く顧みる様な顔つきとなって、

「そう、ですね。……確かに、身を立てるまでも中々峻厳な道のりで御座いましたが、寧ろ苦しかったのは、あの人と結ばれて以降になりましょうか。そう、一方の秋禅は健やかに育ってくれていた、あの頃、」

 おいおいおい、と私がどぎまぎしていると、幸い翔々子はすんでの所で噤み、肉を一欠片口へ運んで誤魔化した。そりゃ、あんたが人生の労苦を語ろうとすれば、自然その山場は狂した娘に関わる艱難になるだろうが、少なくとも阿古当人、そして親しからぬ私についても、同席している食卓で話すべき事では無いだろう。

 そんなピアニストは、辛うじて抑え込んだ話題の影響を免れきれなかったようで、娘の代わりに、息子の方について語り始めた。

「しかし本当、秋禅にも弱ります。確かに子供の頃は――――、あの子にも色々苦労させてしまいましたが、しかし、それを言い訳にして、いつまでもぶらぶら遊んでいられてもしょうがないではないですか。幾ら我々が比較的長命な人類だからといって、いえ、或いはだからこそ、早く何かしら職について貰わないと。……確かに、お義父様までに受け継がれてきた資産は御座いますが、しかし、あの子の代で喰い潰す為に綿々と遺されてきた訳でもないのですから、」

 ここで、翔々子は耳をそばだてて辺りを窺うような顔をし、実際に、手を両耳へ添えるまでして見せた。恐らくそうして、他者、つまり申賀が近くに来ていない事を確かめてから、

「そう、近頃世相も税金も手厳しいですし、無駄に使ってしまえるお金など、我々には無いのです。」

 半ば睨まれた妖崎は、いけしゃあしゃあと、ただ物静かに、

「倹約は、遍く渡る美徳で御座いますからね。」

 この露骨な空惚けを喰らった貴婦人は、仕方なく、自ずから話題を切った。

「つまり妖崎さん、私共、こんなつまらない屋敷の維持費なんて出している場合ではないんですよ。特に人件費、……中でもあの蜥蜴女! 妖崎さん、あのはしためにお義父様が幾らお支払い遊ばしていたか、御存知ですか!?」

「ちょっと、存じ上げませんが、」

「――円ですよ! ……年毎では御座いませんよ、月にです!」

 ぎょっとした。私も相当な高給取りだったが、軽く上をいかれている。規定により、私は最高裁判事として国務大臣と同額だったわけで、つまり、本影は一国の大臣よりも高い給与を受けとっていたというのだ。それも、別途衣食住は宛てがわれた上で。

 不器用な私が晒した驚愕は、好都合なことに、実に小娘らしく映ったようで、

「呆れるでしょう、竜石堂さんも。とにかくおかしいではないですか、あんなおちゃっぴい一人に、」

「ええっと、」妖崎は、被相続人を庇う事を選んだようで、「本影さんは、鹿驚魔キキーモラを扱うことで何十人分も働いてらっしゃいますからね。住み込み家政婦の給与の相場は知りませんが、仮に二十人分払われていたとしても、まぁ法外でもないのではないでしょうか。寧ろ、お買い得なのかも知れません。」

「ええ。その理窟は、一応分かります。やる方ない憤懣を慰める為に、私も利用して参りましたから。しかし、ならば妖崎先生、つまり、この邸を維持する為には、そんな『お買い得』の人材を用いて節約してなお、馬鹿のような資金が毎年掛かるという訳ではないですか! 本質的に、あまりにも不経済過ぎる不動産なのですよ。」

「確かに、それは全く否めませんね。」

「そうで、しょう。あんな、家獣遣いという、お義父様がどこから見付けて来たのか分からない珍妙な人材をぴたりと用いてもなおこれだけ掛かるという事は、仮にあの女が怪しいものを食べて身を崩したりしたら、或いは罷り間違って身重になったとしたら、その時こそ一体どれだけのお金が掛かってしまうのやら。その、代わりとなる分の何十人を新たに雇い直して、そもそも求人なり教育なりの費用だって、……ああ、」

 つまり、この女は、面倒な感情を抱いているのだった。恨めしい維持費を減じてくれている本影には頭が上がらぬし、その身も大事にして欲しいものだが、しかし同時に、とにかく閣盛の資産から少なくない額を受領し続けている彼女が憎くて仕方ないようだ。殆ど逆恨みのような気もするが、しかし、それこそ秋禅ばりにまるで働かず豪奢な邸で飄々と紅茶を啜って過ごしている――単に『五月蝿い女』ではなく『お茶挽きおちゃっぴい』とは、素晴らしい罵詈を選んだものだと感心した――彼女が、夕景が受けとる遺産の額、つまり翔々子の自由にもなるであろう金の高を、月々怒濤のように減らして来ていたとなると、恨みがましく思ってしまうのも、分からなくはない。無論、仮に、同じ成果を挙げる為に本影が毎日額に汗して身を粉にしていようが、翔々子には知った事ではない筈なのだが、人類の心は屡〻非論理的に苦役を尊び安楽を――それも専ら他人の安楽を――憎たらしく思ってしまうということも、私は嫌というほど理解していた。「最近の判事は、判決を毛筆で清書しなくて良いから、楽で腑抜けだな。」と、つまらぬ嫌みをぶつけてきた昔の先輩を思い出す。彼への軽蔑について、その後特に後悔した事は無い。

 愛憎、と言っていいのだろうか? とにかく翔々子から本影への感情は簡単でなさそうで、こういう、純然たる憎悪よりも寧ろ面倒になりがちな複構造の情動が、遺産整理の際に、何か訳の分からぬ非論理的な決定を招かねば良いのだが。「彼奴をX円損させられるなら、私はY円損しても良い」という、ゲーム理論の埒を外れる馬鹿げた行動を、心情に支配された者は時折取ってしまうものである。その時、妖崎はちゃんと諭せる能力を持っているのだろうか。

 そんな妖崎は、このタイミングで自分の色つき水を飲み干していた。これを見咎めた翔々子は、水差しを持って来させる為に申賀を喚ばねばならぬ不如意に、素直に眉を顰めかけたが、この青い蝶人フェアリーは無言でカップの上へ手を翳してみせたのである。

 この、「彼に聞かれては困る話を続けましょう」、という親身で陰湿な手話に、翔々子は乗じて、

「と言う訳で、勿論細かい事は明日のお義父様の御遺志の開封後ですが、とにかく大筋では、出来る限り小さな痛手で、この邸を速やかに引き払ってしまいたいのですよ。お願い出来ますよね、妖崎さん、」

「ええっと、……正直申しあげれば、僕に出来ることは大分限られています。例えば、島の買い手を探してくれというような、法律屋の仕事でない事は致しかねますので。しかし、可能な範囲の事は、勿論一所懸命やらせて頂きますよ、税金対策の事ですとかね。弁護士って、実は、税理士やその他多くの法律関係の士業の業務をも行えてしまうんです。」

 資格上は精神科医でも心臓手術が出来るんですよ(医者の免許は一種類しかないので)、みたいな話だよなぁ、出来るものなら、例えば海難審判の代弁人をこなしてみろ、と私は横で呆れていたが、翔々子は手玉に取られたようで、

「それは、本当に助かります。何せ少しでも早く、節約の為に手を打たねばなりませんので。実際ここ数ヶ月の間も、どんどん維持費が、」

「ああ。それですけど、もしかして御存知無かったですか? 閣盛さんの死後、本影さんと申賀さん、給金を受けとってないようですよ。」

 蝙蝠の貴婦人は明らかに、一旦顔の上で喜びを弾けさせたが、雅を演ずる為にかそれをすぐ引き締めて、

「当然、で御座います! お義父様が亡くなってその遺志も定かでないのに、彼らは勝手に今日まで働き続けていたのですから、」

「しかし僕から率直に申しあげますと、掃除などの、純然たる館の維持作業はともかく、奥様達にとっても確かに助けとなった筈の、阿古さんの身のお世話まで二人でしてくれていたのですから、そこは責めないであげて欲しいですね。……これについては、僕の良心の問題だけでなく、余計な争議を回避する為の、顧問弁護士の勧奨という側面も有りますが、」

 こう言われた翔々子は、少し身を卓上へ乗り出して、無意味に声を潜めつつ、

「妖崎さん、……お伺いしたいのですけど、出来る限り速やかにこの邸を引き払うとして、具体的にあの二人の処遇はどうしたものでしょう。」

 おっと、妖崎大先生のお手並み拝見か、と思いながら、私は、私へ振る舞われた血の滴らない肉料理の最後の一片を口へ放りこんでいた。

 暢気に構えている私の横で、妖崎は、困ったような顔で、

「正直当初は、退職金ではないですが、最後にケチらず良く支払ってやって下さいとお奨めする予定だったんですよ。どうせ給金の半年分くらいくれてやっても大した額じゃないでしょうし、と。しかし、……その本影さんの月俸の話を聞くと、気分が変わりますね。」

「そう、で御座いましょう? ……私とて、下女へ吝嗇など働きたくなんか御座いませんが、幾らなんでも、」

「一応、初め僕がそうお奨めしようとしたのは、あの二人に恨まれるのを避けるとか、血原家さんの体面を保つとか、そういう贅沢なことを考えてでしたので、本当に法的な義務だけの話なら、全く話は変わります。」

「と、仰いますと、」

「あのお二人、労働契約もしていないですし、また別の理由で労働基準法も全く関係ないんですよ。なので法的には、小遣いをもらう居候、くらいになるのです。」

 私からの入れ知恵を早速いけしゃあしゃあと振るう胆力は流石だな、と、皮肉四割本気六割で私は横で思った。

「と言う訳で、せめて私物を本土へ運び出す為の資金くらいを出せば、法的には一応充分となるかと。」

「成る程、」

「勿論これは最低限ですので、そんな、本影さんの破格の給金数ヶ月分とまではいかなくとも、それなりに纏まった金額を見舞ってやった方が宜しいとは思います。遅れ払いの給金、と名付けると額が抑えられませんから、何か別の名前を考えた方が良いでしょうね。」

 成る程狡猾だな、と私は咀嚼しながら感心した。申賀らには、何も受けとらぬのが良いと諭し、翔々子には、何かしら心付けをくれてやれと吹き込むのである。使用人らは、ゼロの筈が幾らかになって喜ぶだろうし、翔々子の方は、凄まじい金を払わねばいけない所が、適当な額に落ち着いて喜ぶだろう。しかも、どちらへも嘘は言っていないのだ。申賀には法の結論を強調し、翔々子には名誉や保身の為に賢明になる方策を強調しただけで、譎詐きっさや秘匿はいずれへも犯していない。とにかく法律論の結論ばかり求める癖の付いている私は、この手のバランス感覚を見倣って行かねばなるまい。

 しかし、

 ………………

「どうしましたか、竜石堂さん、」

 突然、翔々子が斜め向こうから話し掛けてきた。恐らく、黙りこくっている私に何か思ったのだろう。それが、苛立ちなのか見縊りなのか気遣いなのかは、娘と違い良く制禦された翔々子の顔からは窺えなかったが、見縊られるのを狙っているにしてもいい加減度が過ぎるかと思った私は、一旦口を開く事にした――どうせ、秋禅相手には半ば本性を開陳してしまったしな、とも思いつつ。

「いえ。そもそもの原因であった、本影さんの給与額が不思議だな、とふと思いまして。」

 翔々子は、これを聞いて好もしそうな興味を相好へ滲ませた。

「と、仰いますと、」

「そもそも、優れた者に高い給与を払わねばならぬという摂理は、そうせねば他の者が腐ってしまうとか、或いはその当人が他所よそへ逃げてしまうとか、そういう必要に因るのだと思うのです。しかし、……本影さんの場合は、いずれも当たらないのですよね。まず、同僚は最早申賀さんしかおらず、彼一人を励ましても面白くないというか、或いは逆効果ですらあったかも知れません。鹿驚魔キキーモラを操れる同僚がしこたま高く買われていたからといって、普通は、別に奮起しないというか、逆に萎えてしまう事すら有り得るでしょう。『畜生、彼奴ばかり良く分からない術で、』、と、」

 ここまでだけで、私を見直したらしい翔々子は(どれだけ低く見られていたのだ?)、愉しそうに、

「成る程成る程、……して、もう一つについては?」

「此方もやはり鹿驚魔キキーモラの話になるのですが、本影さんの比類なき能力は、この場所、臨潮館だからこそ活かせる筈なのですよ。ここの館、あるいは高々この島に土着している幻獣を使えるだけの能力なんて、少なくとも世間ではまるで意味の無い筈なんです。これだけの数の鹿驚魔キキーモラが住んでいる邸宅なんて聞いた事が無い、というか、そもそも邸宅と呼ぶべき物の数すら、世から激減して久しいのですから。

 ならば別段、彼女を莫大な金額で引き止める必要など特に無かったでしょう、と、私にはどうも思われるのです。」

 翔々子は、子供らと異なって濃い茶色の、自身の後れ毛を搔いやりながら、

「ちょっと、そこまで考えが及んでおりませんでしたね。確かに、少々奇妙で御座います。」

「更に言ってしまえば、……そこまで高い給金は、寧ろあだになりそうなものです。余程仕事に愛着が無ければ、小金も貯まったし今後は投資か何かでやり過ごす事にして引退してしまおう、とでも思われかねません。そんな事がこのお邸と本影さんの間で起こったら、先程翔々子さんも仰ったように、破滅も良い所だったでしょうが、」

 この私の言葉を、翔々子は、何故だか、何かの感懐を堪えるような表情へ変わりつつ聞いていた。

 その後彼女は、暫く押し黙ってから、食べ終えた皿の上よりフォークを拾いつつ、

「全く、お義父様にも困ったものです。本当に優しいお方でしたから、恐らくは、そう謂った事を良く考えぬままにしてしまったのでしょう。」

 この直後、私はぎょっとした。その、軽やかに弄ばれていたフォークが、まるで藁のように、翔々子の指先だけで事も無げにへし折られたのだ。

 顎の上下のようにピタリと両端が合わさった、哀れな食器の残骸を放り棄てながら、

「本当に、苛立たしい。そんな、好々爺の善意に付け込むような真似をして、……あの女、もしかすれば、竜石堂さんも仰った『破滅』を材料にして、お義父様を脅迫したのでは、」

 私は、つい妖崎の方を横目で見てしまった。そこに泛かんでいる、我が師の苦い笑顔は、私の話術へありありと落第点を与えている。いや、だって、しかし、うん、あんな話題を出したからって、こんな怒り出すとは思わないではないか。

 このちょっとした騒動の脇で、血原の阿古はむっつりと、空疎な凛然を保ったままだった。これが、彼女の狂気によるのかは微妙で、つまり、もしかするとこれ位の癇癪は蝙蝠人きゅうけつきにとっては茶飯事なのかも知れない。

 とにかく彼女は、何か乱れるような事もなく静かにしていた訳で、特につきっきりの気遣いが必要な状態には全く見えない。申賀の心配は、虚しいものなのだろう。するとやはり、彼の今後の身分は非常に危うい訳だ。……本影の方は、もっと手っ取り早い危機に襲われかねない勢いだが。

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