カァン! カァン! カァン!

 ……そんな、戛然かつぜんとした音に脅かされて目を醒ますと、扉が外から少し開かれた。射し入った光に顔を顰めつつなんとか見返したところ、物理な意味でも印象の意味でも、眩しく、かつどこか苛立たしい本影の笑顔だった。翡翠色の双眸が逆光の中で、鉱坑に光る燐灰ウラン石オトゥーナイトのように映えている。

「お早う御座います。お約束のお時間で御座いましたので、お起こしに参りました。」

 ああ、そう言えば昨日の晩餐の後、申賀に、何時に起床したいか訊かれたな。いや、こんな粗っぽいと知っていたら断っていたが。

 ピントを合わすと、このメイド長は、両手にそれぞれお玉杓子と手鍋をばちのように立てていた。いやお前、確かまともにりょうらん筈だろ、まさか楽器にする為だけに厨房から持ってきたのかそれ、

 本影は壁スウィッチを操作して部屋を柔らかな光度に点燈させると、上体を起こしきっている私を見て(妖崎はまだもぞもぞしている)、二度寝の心配をしなくてよいと判じたらしく、

「適当なお時間に、降りて来て下さいませ。九時くらい迄で御座いましたら朝食を、それ以降ならお茶でも御用意致しますので。」

 とだけ莞然と言い残して去って行った。

 食事の御用意、ねえ。調理の心得無しでどうやって誤魔化すのだろうか、という方向に考えを走らせられれば良かったのだが、生憎、私の思索はもっと剣呑な方向へ転がされた。昨日の日中、申賀を叱り飛ばす本影の語っていた、清く激烈な吝嗇についてである。館の運営費で才覚した食糧や茶葉を我々へ割くのがあれ程只ならぬことだと聞かされると、もう、何を口にするのも素直には楽しめなさそうだ。昨晩は旨い事忘れられていたが、また本影の顔を見てしまった上に、ああも強烈な音と光とで印象づけられては、最早逃れられそうにない。

 実際に身支度を終えてから二人で降りてみると、彼女は、我々がどう降りてきても見逃さない、廊下のハブ地点で待ち構えていた。このこと自体は実に甲斐甲斐しいのだが、その遣り口はどこまでも怠惰で、つまり、足を放埒に伸ばしつつ小椅子へ座り、背を壁へ凭せ、右手で支えた本をその大きめな目で真剣に読み込んでいるのだ。無論昨夜も顧みたように、本影が澄まして立ってようがこうして満喫して居ようが私には関係ないのだが、しかしやはり虚礼を尊ぶ者、特に女中にそれを求める者は少なくない筈で、成る程、血原夫人の憎悪も幾らかはこの本影の余りな飄然から来ているのではないか? ここまであからさまだと、少しだけ、翔々子に同情してやりたくもなった。

 結局私へ振る舞われたのは、トーストと苺のジャム壜、それに一摑み程度の蔬菜そさいで、蔬菜の皿にはラップをずっと掛けていたかのような不自然な水分の分布が有った。成る程、申賀にサラダ皿を作らせて冷蔵庫か何かに突っ込んでおき、自分はパンをトースターに差し込むだけなのか。あの清らかな手は、やはりどうしても冒させないらしい。

 いつも通り色薬と水だけ啜っている妖崎の前でそれらを平らげると、この綺麗な手のは、皿の回収ついでに私へ珈琲の二杯目を注いでくれつつ、

「家裁の裁判官様、もう直にいらっしゃるらしいですわ。どう、致しましょう? 何か、検認の前にその方とお話されます? そして、されるとして、私か誰かが同席した方が宜しいでしょうか。」

 随分と早いお出ましだなと驚いたが、家裁も昨日の不手際を反省したのか。まぁ確かに、今日も来られないとか言い出したらいい加減私も怒るぞ。

「どうする? 妖崎先生、」

 弁護士として一日の長の有る彼へ、完全に委ねるつもりだったが、

「どうします、竜石堂先生?」

 この鸚鵡返しに一瞬困ったが、裁判所というものに詳しい私が決めてしまえ、という意味か。ふむ。

 苦く熱い珈琲を一口含んで、考えてみる。そもそも、法律で喧嘩する訳でもなく、ただ開封して終わりの検認という作業に普通弁護士は立ち会わんのだから、今回は異常なんだよな。ええっと、なんだっけ、……ああそうだ、確か、妖崎でなければ閣盛氏の金庫を開けられないとかなんとか(もっと早く、情況を整理しておけば良かったな)。すると、うむ、何か失敗しないよう、向こうとは前もって顔を合わせておいた方が良さそうだし、その際には、本影、というか、被相続人の半身内が居ると邪魔になるかも知れない。もしもこの女に頼みたい事が何か出来たら、後からそれだけ伝えれば良いのだ。

「では、私共と、その裁判官さんだけで。その際、どこかもう少し密室なお部屋をお借り出来ますか?」

 これを聞いた本影は、一瞬面白くなさそうに眉を動かしてから、「あらあら、承知致しましたが、それは残念で御座いますわ。」と、見た目は豁達かったつに、その不満が冗談である事を装うて去って行った。

 私がつい、

「そもそも彼奴が居たら、進む話も進まないよな。」

と呟くと、妖崎は笑った。

 

 海の気紛れに付き合わされたらしく、結局家裁の者の到着は半時間ほど遅れた。外を見張っていたらしい鹿驚魔キキーモラに教えられ、玄関の方へ小走りして行った本影が、何故か、まるで尿意を堪える童のようにどこか落ち着かぬ様子で連れ戻って来たのは、一人の霜熊人ジャックフロストで、束子たわしのように白く毛深い姿からは性別が判断し辛いが、そのスーツの誂えを見るに女性のようだ。

「裁判官の雪峰ゆきみねと申します。本日は、」

 そこまで名乗った所で、彼女は固まってしまう。なんだどうしたと不思議がっていると、ずんぐりした霜熊人ジャックフロストは私を見やりつつ、

「竜石堂さん、ですよね?」

 ああ、流石に判事相手に猫は被りきれぬか。

「そうですが、」

「お覚えにならないですか? もう何十年も前になりますが、」

 ……ん?

「ああ、あの雪峰か!」

 妖崎が、

「おや、……お二人、お知り合いで?」

「いや、うん、まあな。」

 本影の居るせいで、私の歯切れが悪かった。

 とにかくその後、要求通りに、三人きりとなれる部屋へ通されてから、

「いやはや、久しいなぁ雪峰、」

「ええ、本当で御座います。」

 こんな私達二人を見て、妖崎が、

「で、お二人はお知り合いですか?」

「まぁ、お前、――じゃなかった、妖崎先生も昔経験しただろうが、司法修習生の刑事裁判修習で、私が雪峰を教えたのだよ。」

「ああ、……そんなもの有りましたねえ、懐かしい。

 しかし、……竜石堂先生が、教育係ですか?」

 私は、鼻で笑ってしまってから、

「随分、素直じゃないか妖崎先生。まぁ実際あまり評判は良くなくてな、その年限りで解任されて、二度とお鉢は回ってこなかったよ。だからこそ、数少ない教え子は印象に残る訳だ。三ヶ月ばかりの課程と言ってもな。」

 雪峰は、否定を示す為に手を、しかし鷹揚な周期で振った。

「そんな、竜石堂さんには、本当に良く教えて頂きましたよ。」

 ゆったりとした動作で体を動かすのは、霜熊人ジャックフロストなりの処世術らしかった。つまり、その程度ですら彼女が身じろぐ度に、涼やかな、霊気のような心地よい空気が此方を襲うのである。本気で手を振ったりしたら、その寒気かんきに腰を抜かしてしまう者も居るだろう。

 そうこうしている内に、本影が一旦部屋に入って来たのだが、しかし、グラスと水差しを焦るように置いて行くと、そのままそそくさと去って行ってしまう。確かに同席するなとは言ったものの、それにしても突然水臭くなったものだなと私は不思議に思った。あの女なら、茶を注ぐのを口実に暫し留まり、薄っぺらい言葉を浴びせかけてきそうなものだが、実際には随分無愛想にただの水を、それも自分で注げとばかりに置いて行ったのである。

 妖崎が、少し笑いながら、

「ちょっと、露骨ですねえ。」

 この言葉に応ずるように、雪峰が「まぁ、時折有りますので慣れております。」と零した事で、漸く私は気が付いた。霜熊人ジャックフロストへの差別意識、最近は随分マシになったと思っていたが、未だ抱いている者が居たらしい。確かに思い返すと、雪峰を連れてきた時の本影は、何処かぎくしゃくしていた。

 人類らしからぬ、獣の様な毛深さと、纏う冷気の不気味さ、或いは実害が、古く、霜熊人ジャックフロストへの蔑みを喚起したのは想像に難くない。しかし、知性と社会を持つ人類であれば、そんな下らぬ直観に支配されるべきでないのは明らかであり、己を律し、愚かな原始の規律から逃れようとすべきであろうに。苦い薬は口に入れない、食慾や性慾の貪婪どんらんぶりに逆らわない、激情を抑制しない。そんな生き方が、破滅以外に帰着出来ないのと同じだ。

 雪峰は、どうやら、困ったような顔を作りつつ、

「いやはや、……実際、無難な種族に生まれたのがそんなに偉いのかと、どうしても時には思ってしまいますよ。余計な、そういう陰りが、判事としての責務へ要らぬ影響を与えないようにとは、気をつけておりますが、」

「雪峰、」私は、つい、余り準備せぬままに、「そういう情感、つまり、『こんなことは間違っているではないか、』という憤りは、判事として生きて行く上で、とても重要な礎と出来る筈なんだ。無論扱いを誤れば、お前自身も周囲も破壊してしまうだろうが、そこを御すこと、きっとお前なら出来る筈なのだ。どうか、日々励んで欲しい。」

 彼女は、逞しく白毛に覆われた顔からは分かりにくいが、恐らく頰を綻ばせて、

「お懐かしい、ですね。正に、当時貴女から学ばせていただいた事です。」

「……そう、か。そうだな、うん、確かに、そう言った筈だったな。」

「そうですとも。そして、遥かな当時、貴女がもう一つ私へ教えて下さったことは、今年に入っても、再び私の心をったのですよ。」

「今年?」

 横から、妖崎が、

「もしかしてアレですか、大法廷の、同性婚審判!」

 ああ、

「あれ、か。」

 確かに、雪峰が私の動向を窺えたのは、あれ位だったろう。

「そうですとも。いえ勿論、竜石堂先生の読み上げ自体を拝聴出来た訳ではないですが、しかし、判決文で意見内容は知れましたから、貴女がどのように朗々と読誦されたかは、目に、いえ、耳に泛かぶようでした。私は心搏たれたんですよ、多数意見にはならなかったとは言え、貴女はかって私に教えて下さったように、正に模範として、貴女にしか出せぬ『意見』をしかと叩き付けて見せたのですから!」

 確かに、あれは、餞として特別に読み上げを許された事も含めて、私の判事生活を締めくくるに相応しい、会心の物だったが、……面と向かってそうも言われると気恥ずかしい。

「ええっと、竜石堂先生。話について行く為に、僕にも聞かせてもらって良いですか? その、当時雪峰さんに授けたという、教えについて、」

「あー、……訊くかね、それを、」

 ええい、恥ずかしついでか!

「ええっとだ。つまり、私は語ってきたんだよ。私や、雪峰のような、生来解決されぬ何かを持った者は、その者だからこそ法廷で出来ることが有る筈だと。例えば、私があそこで読み上げた意見は、生まれてから一瞬も生殖能力を持たず、またその可能性すら芽生えなかった人類だったからこそ、あそこまで躊躇も何も無く、振り下ろすかのように叩き付けられたのだ。尋常な者だったら、惑いやおもねりが筆先に、そうでなくとも舌先に必ずや現れたろう。」

 妖崎が何か半畳を入れてくれると期待していたのだが、珍しく黙って聞いていやがるので、仕方なくそのまま続けた。

「この、誰それにしか下せぬ物が有るというのは、矛盾或いは禁忌だと思われるかもしれない。つまり、本国の判例主義、どの裁判所どの判事に当たっても不公平になるべきでない、という原理と相反しそうに見えるからな。

 しかし、実は、そうではないと私は信ずるのだ。理想では、判事は、完全に乾燥した法理と証拠と、そして己が良心の純な水気によってのみ判決や決定を下すべきで――『べき』というよりそう有らねばならないのだが――、……しかし、実際には、余計な縛めが多すぎるよ。妖崎君、貴様も船で私を散々揶揄からかった様にな。」

 この仕返しを涼しく受け流す妖崎に、感心しながら、

「誠に口惜しい事に、世間は我々判事を、象牙の塔の住人のままにすらさせてくれないのだ。下らぬ、浅ましい、どうしようもない圧力が、……塔の内外から降って来る! 例えば妖崎君、連続殺人犯やらの弁護人が、脅迫状を送り付けるなどの余りに愚かな攻撃を市民から受けた例は枚挙に暇が無く、住みの弁護士であった君もきっと、一つくらい身近に聞いているだろう。それと同じ様な、いや、場合によっては権力と利己を伴う分、より悍ましい圧力が掛かって来るんだよ。あの、私の『意見』を、尋常な生まれの判事が発していたら――私の場合ですら一ト月程度はニュース番組や茶の間を好悪交々こもごもで騒がしたのだから――、果たしてその者はまともに、撤回無しに生き延びられただろうかね? 街を、歩けただろうかね?

 つまり、こういうことだよ妖崎君。判事が導きだす素直な結論自体は、精々でその担当者の未熟さで多少歪む程度で、基本的に同一である事を目指さねばならぬが、しかし、この『素直な結論』と、余計なしがらみに冒された後の『実際に法廷で下す結論』に差が出てしまう以上、後者に於いては、が有り得ても良い筈なのだ。即ち、他の俗人では絡め取られてしまう『柵』を、己が生来の呪いや逸脱によって突破出来ることもあるだろう、と私は信ずるのだよ。……私に於ける最後のそれは、あの、大法廷だった訳だが。」

 ここまで述べた私は、矢庭に水差しとグラス一つを引っ摑み、雫を卓上へ鏤めつつ、注いだ冷水を一気に呷った。これ見よがしな照れ隠しを行う為にそうしたのだが、代償として、口内のそこかしこに金属質な痛みが走る。

 妖崎は、私から水差しを奪い、残り二つのグラスも満たしつつ、

「つまり、貴女方判事は――ああ、竜石堂先生はもう違いますけど――、存外、忌憚に苛まれつつ日々の職務をこなしている、というわけですか。」

 この男は、特に私の言葉が響かなかったか或いはそう装ったのか、いたって尋常な様子のまま、

「そう言えば雪峰さん、『職務』と言う言葉で思い出しましたけど、幾つか確認して宜しいですか。」

 呼ばれた家裁判事は、小さく頭を下げてグラスを受け取りながら、

「はい。なんでしょう、」

「竜石堂先生が酷く気にしていたんですけど、検認の申

「おう、そうだそうだ。雪峰、申立人は誰になっている? もしも血原夕景氏だと、面倒極まりないのだが、」

「ええっと、違いますよ、血原家の方ではないです。確か、……ホンカゲさん、でしたかね、」

本影もとかげか? 本影ポコロコ、」

「ああ、そんなお名前でした。」

 私は、いつの間にか作っていた前傾の姿勢を解いて、

「それは良かった、最悪の事態は避けられそうだ。何せ、わざわざお前にも来てもらって、」

 ん?

「ちょっと待ってくれ雪峰、何でお前一人なんだ?」

「……はい? どういう意味でしょう、」

「遺言書の検認、判事だけでは出来まいよ。家裁書記官も必要だったと思うが、どうするんだ?」

 グラスに口を付けていた雪峰は、それを下ろしつつ白く夥しい顔毛(髭?)の向こうで困った顔をした。腕をそう動かした弾みで、また冷気が私の手許や膝許に掛かる。

「流石、お詳しいですね。そうです、検認と言ったら本来、その場で書記官が遺言書の複写を取り、せっせと調書を書記室で書き始めます。しかし、……中々、理想通りには参りませんで、つまり人手が確保出来なかったんですよ。」

「ああ、……うん、分かるとも。職員二人を孤島へ、しかも日帰り出来ずに飛ばして来いなんて厳しいよな。帰りの船も、まともに来るのか分からんし。」

「御理解いただけて、何よりです。」

「で、実際どうするんだ? まさか、閣盛氏の遺言書を没収してしまうのか?」

「いえ、流石にそれは出来ないので、遺言書の複写をこのお邸で取ってから、『原本と相違無いですね!』と念を押し、そのまま申立人の署名と押印をもらう事にしました。」

 申立人の、か。本影の奴、その時こそはちゃんと雪峰へ応対しろよな。

 等と考えていると、

「成る程、……ところで雪峰さん、複写と言っても、この古式床しい臨潮館に複合機なんて存在していない様な気も、」

「ああ、妖崎さんその通りなんです。ここでコピー機が使えればまだ何もかも簡単だと、一応確認を取っていたのですが、……当然そんな物は無いと言われましたので、我々色々と苦心したのです。結論としては、携帯式のスキャナーとプリンターと、あとは、予備として即席写真機を調達して参りました。」

 私は、額に手をやってしまった。

「それは、本当に何処までも御苦労な事で、……おい妖崎君! 一体全体なんで遺言状にこんなややこしい〝封印〟なんかさせてしまったんだ。血原閣盛氏の顧問弁護士だったのだろう、君は、」

「いや、待って下さいよ、確かに僕はそうでしたけど、ある時ここ臨潮館へ参りましたら、既に閣盛さんが勝手に金庫やら封印やらをそうしていて、しかも、僕から色々為した勧奨も全く聞き入れて下さらなかったのですよ。つまり、いやいやこんなの尋常でないですからもっと他の方法にしましょう、とか、公証人を使ってずっと確実に御遺志を遺す方法が有ります、とか申しあげた訳ですが、残念ながら、」

「おいおい、……そもそも顧問って、そんなに無力で信頼されないのか?」

「いえ、普段は閣盛さんも大体僕の言う通りになさってくれたんですが、御遺書に関してだけ、妙に頑固でして。……まぁ、自分が死ぬ事に対してどうしても向きあわねばならぬ話題ですので、あまり踏み込まれたくないという気持ちも、理解出来るのですが、」

 私は、気遣おうとする雪峰を制して自分で水を注ぎながら、

「……と言うことはなんだ妖崎君、もしかして遺言状の内容、本当に誰も知らないのか? ああ、つまり、……遺言として、成立しているかどうかすら、」

「ええ、じつはそうなんです。……堪らないですよね、こうして家裁にも多大なお手数をお掛けしておいて、『あらら、日付が有りませんねえ、』、みたいな結末だったら、」

 雪峰が、今度は分かりやすく、つまり、声にも少し出して笑った。

「遺言書がまるで形式を満たしていない、という状態をきちんと確認することも、正しい検認の『結果』ですからね。そこは、お気にならさずに大丈夫ですよ。それで遺族の余計な混乱を避けられれば、充分な成果です。

 ……ところで、妖崎さん。貴方が、その、呪術式だとか言う金庫を開封されるのですよね?」

「ええ、そういうまじないの心得が有りますので、」

「呪い? 妖崎さんって、何かそう言う来歴で、」

「いや、……違ったよな妖崎君? いやな雪峰よ、こいつの母親、あの妖崎判事なんだよ。」

「え? ……成る程、青い肌が良く似て、」

「と言う訳で、親の方針で、普通に大学受験から法曹人一直線の筈だった、……が?」

「ええっと、確かにそうでしたけど、……いやぁ僕、結構やんちゃでしてね。親に逆らうのが娯しい、みたいなどうしようもない時期が結構有りまして、その時に良からぬ事を色々憶えたんですよ。」

「良からぬって、妖崎君、君、まさか犯罪歴とか、」

「罰金で済む交通違反を犯罪に含めるなら、前科四犯くらいですね。」

「……また、微妙な数を、」

「ハハハ、……しかし珍しいですね妖崎さん、運転をなさるのですか?」

「……珍しい、とは?」

「ああ雪峰、車輌運転を憚るのは判事や一部の検事くらいで、弁護士は普通にするらしいぞ。」

「え、なんだって裁判官先生達、そんな遠慮をするんですか?」

「いや妖崎君、それがな、」

 この調子で、大分どうでもよい世間話を続けてしまった。余りに盛り上がったので、途中で一旦雪峰が手洗いで暫く中座したのに、戻ってきてから話を再開したくらいだ。何せ来た判事がまさかの彼女だったもので、一挙に私の緊張が、職業的に必要な分まで吹き飛ばされてしまったのである。なんともな体たらくだが、まぁ、うん、大丈夫だろ。検認なんて、全く大した話ではないのだから。

 私は、グラスを置いた拍子にふと、話し続けた事による疲労を実感し、直後、身が痺れるような違和感を覚えた。疲労の度合いからして、相当な時間が経過しているような気がしたのである。

「妖崎君、時計有るか?」

「え? ……ああ、僕も置いてきちゃいましたね。」

「あ、私有りますよ。」と雪峰。「ええっと、……十二時四十分ですね。」

 やはり、正午を回っているか。

「どうしたんだろう、本影は。」

「どうしたって、……どうしたんですか、竜石堂先生、」

「いや妖崎君、今朝、本影が『九時までに起きてきたら朝食を出してやるが、その後なら茶だ。』と言っていたよな。」

「そうでしたっけ?」

「……そうなんだよ! とにかく、この言葉を受ければ、昼飯が出てくるのを期待するだろう。」

「ああ。折角の中食の直前に麺麭パンなんか齧らせませんよ、という意味だったろうと。確かに、それらしいですね。」

「だから、昼頃になったら勝手に呼ばれると思って油断していたのだが、」

「……不気味ですね。まさか、この部屋でお茶も出さなかったのを同じ様に、雪峰さんの事が嫌過ぎて?」

「分からんが、……もしもそうなら、妖崎君、悪いが私も年齢やらを明かして本影を叱り飛ばすぞ。」

「ええ、是非。流石に、僕としてもそういうレイシズムはぞっとしないですからね。」

 

 飯はとにかく、検認の段取りの相談は少しくらいしておいた方が良いだろうと、私達は本影を、或いは起きているなら申賀でも良いが、探す為に部屋を出た。人気の無い廊下を進みつつ、ふと、

「そういえば雪峰、お前の食事はどうなっているんだ? 手弁当か、それとも、」

「ああ、私も、血原家の方々にお世話になってしまう事にしておりました。島には商店も無いし、足労を掛けるのだからその分は、とのことでしたので、甘えてしまいまして、」

「ふむ、……ところで、検認が一日遅延した事に対して、何か、家裁から血原家へ具体的な補償は有るのか?」

「え? いえ、正直考えてもおりませんでしたが、」

 本当に心底考えていなかったらしく、「ホショウ」という響きの解釈に苦労したのが露骨だった。

「まあ、そうだよなぁ。」

 私は歩きながら、『財布から幾らか雪峰に預けて、家裁からの迷惑料と偽って本影に渡させようか?』とも真剣に考えたが、困る雪峰と窘める妖崎の姿がまざまざと予想されたので、丁度廊下の角に当たった所で諦めた。

 そこを曲がった辺りで、久々に、一頭の鹿驚魔キキーモラに遭遇する。

「おや、家獣ですか。妙に身綺麗ですが。」と雪峰。

「ああ。この邸では本影に実質飼われていて、掃除やらの雑務を神妙にこなしている、……筈なのだが、」

 私の言葉尻が惑ったのは、この鹿驚魔キキーモラが、何らかの作業を遂行しているようにはとても思えず、廊下の短い範囲を所在なさげに行きつ戻りつしている為だった。とても、手懐けられた労働力には見えず、まるで蒙昧で奔放な幻獣の野性そのものである――邸宅にしか発生しない鹿驚魔キキーモラに、野性と言う言葉が正しいのかは分からないが。

「妙、だな。こんな、どうしようもなくなっている鹿驚魔キキーモラ、この臨潮館で初めて見るぞ。」

「と言いますか、」妖崎も訝しげに、「僕の場合そもそも、今日昨日だけでなくこれまでの訪問でもずっと、鹿驚魔キキーモラの姿を見る事すら余り無かったんですよね。例えば昨日この邸にやって来た時も、玄関を見張っていた鹿驚魔キキーモラのことを、僕らは全く意識出来なかったくらいなんですから。いつもあんな感じで、つまり、本影さんは鹿驚魔キキーモラを客前に晒さないよう、かなり気をつけているようだったのですが、」

 そう話しながら階段を下りようとすると、踊り場に三頭の鹿驚魔キキーモラが固まっていて、まるで泥酔者が踊っているかのように、しかし恐らく実際には、ただ無目的に右往左往していた。

 仕方なく叱々しっしっと追い立てて通ったが、

「……妖崎君、本影はこんな、客の邪魔になるような不手際を犯すのか?」

「たまたま昨日はそれらしい事が一度有りましたが、でも、やっぱり基本的には巧みに管理している筈ですよ。確かに普段の態度はですけど、その実、他の使用人を追い出してしまう程度には、仕事だけはしっかりしていた筈ですし、」

「それもそう、だよな。……あの女、居眠りでもしているのか?」

 私がこんな陰口を叩いたのは、何か、嫌な予感を打ち消そうとした為だった。

 一階へ降りてみたものの、見かけるのは彷徨うろつく幻獣ばかりで、あの蜥蜴の女中の姿は全く見えない。申賀はともかく、血原家の者らもまだ寝ている以上大声で呼びかけてみる気にもなれず、仕方なしに鹿驚魔キキーモラ達の黒い影を避けたり退かしたりしながら進み、今朝トーストを振る舞われた部屋へと入った。ここに湯気の立った昼食でも並んでいてくれれば事態は簡単だったのだが、まるで始業前の診察室のように、完全に掃除された蛻けの殻である。今朝私の座っていた辺りへ行ってみるが、少々はクロスへ撒いてしまった筈の麺麭屑すら見つからない。

 宛ての無さから、その椅子を引いて座り込んでしまうと、妖崎が、

「生憎、申賀さんの姿も見えませんしねえ、」

 雪峰が、意外そうな顔で、

「おや、他に使用人さんが居るのですか? なら、頼った方が、」

「可能なら当然そうしたいが、……妖崎君、申賀が寝ている部屋って、」

「いやぁ、流石に知りません。」

「ああ、その方はお休み中なのですか。」

「飯の準備がされていないと言う事は、多分、そうなのだが、……さて、どうしようか。知らぬ顔して待っているという手も、無くはないが、」

 妖崎が、部屋を見渡しつつ、

「いやあ、不気味ですよね。……願わくは、船でも漕いでいる本影さんを見つけて安心したいものです。」

「……そうだよな。それが、願わしいが、」

 私は、立ち上がった。

「彼奴の一応の仕事場、つまり、厨房の辺りの様子でも見てこようと思うんだが、」

「ああ、悪くなさそうですね。当然僕も行きますが、雪峰さんは、」

「そうですね、……私は、ここでお待ちしています。」

「では、行くか妖崎君。厨房はどっちだ?」

「いや、僕だって流石に知りませんよ。……でも、」

 彼は、扉を指し示しつつ、

「こっちじゃないですか?」

「何故?」

「本影さん、毎度この方向からお茶とか食べ物とか運んで来たじゃないですか。」

 私は、つい眉を持ち上げてしまってから、

「成る程、見直したぞ妖崎先生。」

「……僕への期待、低くありません?」

 無視してその扉へ向かい、開く。まっすぐな廊下へ出てしまったが、目的の厨房の位置はすぐに見当ついた。左右に並んでいる扉の中で、一枚だけ、扉が無いのである。……訳の分からぬ言い方になってしまったが、ようは、この廊下から繫がっている部屋々々への入り口の中に、一つだけ、扉が張られていないものが有るのだ。一番奥、どん詰まりの右手に位置するそれへ近付いてみると、涼やかな水の音が聞こえてくる。覗き込んだところ、思った通り、本国らしからぬ洋式な雰囲気のくりやが広がっていた。何台か並んでいる銀色のキッチンワゴンの一つに、今朝の本影が玩具にしていた手鍋と杓子がいい加減に放り出されており、また流しでは、水音の原因として、湯が延々と寸胴鍋へ無駄に掛け流されている。その昇り立つ盛んな湯気に、気の毒になった私はつい駈け寄って蛇口を締めてしまったが、ハンドルや湯気はぎょっとするほど熱く、私が人間であったら何か怪我したかも知れない。緩過ぎる袖口が、鍋の湯を少々掬って濡れた。

 手首の熱く湿った不快さについ眉を顰めつつ、落ち着いてから眺め回すと、昔の名残か、不気味なくらいに広い場所だった。基本的には非常にすっきりと整理された厨房であったが、上品な皿やナイフなどの食器がそれぞれ幾つか――いずれも3の倍数だ――調理台の上へ出されており、流しっぱなしであった湯の様子と合わせて、まるで、何かの式次の最中に、執行者が突然神隠されたかのような印象を与える。

 追いついてきた妖崎が、

「竜石堂さん、……嫌な予感、しますよね。」

「ああ。」

 私は一応もう一度慎重に見回したが、やはり本影の姿は無かった。湯を止めもしていなかった時点で居る訳が無いのだが、それに加え、人類一人が隠れられそうな物陰も見当たらない。有るのは、ワゴン、瓦斯ガス焜炉こんろ、オーブン、食器棚、調理台、流し、食洗機、ゴミ箱、電子レンジ、電子釜……

 私は、首を傾げた。

「何か、設備が足りない気がするが、」

「冷蔵庫、ですか?」

 つい、指を鳴らしてから、

「それだ。今朝もサラダを供されたし、そもそも、食糧を船に運ばせているこんな孤島なんだ、絶対に冷蔵庫が、それも途轍もなく巨大なのが必要だ!」

「ということは、……巨大過ぎて、最早部屋として設えられた、とか? つまり、冷蔵庫ではなく、」

「冷蔵室!」

 そう、声を張ってから、入ってきた通路の方を見やると、そこから覗ける扉、つまり向かいの扉には、概ね期待通りに「冷蔵倉庫」の文字が有った。そうだ、実際私は想像していたのだ。自ら料らぬ本影は、申賀に作らせておいた料理を、冷蔵庫から引っ張り出してくるだけなのだろうと。

 一点の瑕瑾も見えない、荘厳な白銀の断熱扉の把手を、その特異な形状に戸惑いながら摑んだ。

 縋るように、

「本影?」

 返事は無い。分厚い扉に遮られ、呼び掛けが届かないのだろう。……そう、であってくれ。

 扉を引く。まず目に入ったのは、翠緑の瞳だった。霜を掃除しきれていない黒褐色の床に転がった、脇腹から血を流す本影の、

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