「申賀を、他の連中も喚んでこい妖崎!」

 そう咄嗟に叫び、彼の駈ける跫音あしおとが遠ざかるのを聞きながら本影の手首を取る。脈は、無い。

「本影、……おい、本影!」

 頰を叩く。そこに密かに張らされていた、刈安色の硬い鱗が私の手を搔いた。口は呆けたように小さく、眼は驚愕したように大きく開かれた、生気無き相好は、私の打擲にまるで脅かされずに冷然さを保っている。私は、自分が白い息を吐いている事にふと気が付き、そして、本影の口からは何も吐き出されていない事を視覚で知ったのだった。

 摑みっぱなしであった手首が、氷のように冷たい。


 暫くして、妖崎、申賀、雪峰、そして叩き起こされたらしい秋禅に翔々子もやってきた。悲鳴を上げる程やわな者は一人も居なかったが、流石に動揺が凄まじい。

 私は、彼らに場所を譲りつつ、

「申賀さん、電話器の有る部屋を教えて下さい。」


 然るべき通報を終え、冷蔵倉庫まで戻ろうとすると、通りがけとなる例の部屋、朝食を出された部屋に阿古以外の全員が集まっていた。

 私に向けて切実に束ねられた視線へ、応えるべく、

「警察と、一応救急にも聯絡しましたが、現在本土は相当な嵐に見舞われているらしいです。船も、ヘリコプターもとても出せない、と。」

「ああ、」喚きだしたのは、乱れた髪のままの翔々子だった。「だから、もう、こんな島のお邸なんて本当に嫌! 人類一人死んでいると言うのに、パトカー一台持って来られない!」

 その脇に座る秋禅は、もう少し落ち着いた様子で、

「で、竜石堂さん、僕ら、どうすればいいですか? 本当なら、……実況見分、でしたっけ? 何やら警察の方達がするんでしょうけど、」

 私は、電話口の若かった警官との会話を思い返しながら、

「特段、指示は出ていないです。本来なら、館に居た者はそこを離れるな、とでもなるでしょうが、どうせ島から出られぬ以上、その心配も無いですからね。」

「そうですか。……なら、出来ますかね?」

「はい?」

 私が素直にそう問い返すと、寝起きの御曹司は、伏していた眼を私へ合わせて、

「ですから、予定通りにこの後、の検認をやってもらえますか、って話ですよ。」

 私は、俄に沸き立った苛立ちが顔に表れぬよう必死に努めながら、被告人へ今後を諭す時の調子で、

「秋禅さん。人類が一人、死んでいます。それどころではない、というのが普通ではないですか。」

「いや、俺だってそりゃ、普通の情況なら何もかも後回しにしたいですよ。しかし、僕らの事も考えて下さい。僕らは、の遺書を開けるのにもう何ヶ月も待たされているんですよ。これで、なんです? 不謹慎に思われる、なんて中身の有るような無いような曖昧な理由で、また期日が伸ばされるのですか? 家裁の方、その時こそさっさと来てくれるのですか? 何月何日に来る、という単純な約束すら守れない方々が?」

 私の居らぬ内に彼らの中で身分の紹介が終わっていたらしく、ここで秋禅の為した目配せが、雪峰をあからさまに居竦ませた。

「馬鹿にするのも大概にして頂きたい、というのが本音です。そりゃ、本影さんが亡くなったのもただならないですけど、こっちだってが死んでいるんですよ。数ヶ月も待たされているの死が、問答無用で別の死への気遣いに道を譲るべきと言うのは、理解し難いですね。……しかも、その気遣いとやらは、別段何にもならないと言うのに、」

 叩き起こされて身嗜みも何も無い状態となっている事と相俟って、私は、今話しているのが本当に、昨日諭した時の秋禅と同一であるとは、俄に信じられなかった――つい、耳許から垂れるピアスを、頼りとして探してしまったくらいに。鬱屈した、健気で、しかしあまり充実を覚えていない放蕩者と思われた彼が、今や、憤りと自己主張、そして論理をしっかり持った原告のようである。昨日は、感傷から無意識に猫を被っていたかと思われるが、良く考えると確かにあの時も、この蝙蝠人きゅうけつきは突然他者ひとにセックスを見せつける無法を犯していたのであった。

 こんな、他者を押し退ける力と攻撃性は、母親の翔々子に似ているような気もしたが、しかし、彼の吐いてみせた怒れる言葉の中に錯誤や撞着はなく、それが理窟で裏打ちされていた辺りは、母と好対照であったように、後から思い返すと感ぜられる。つまり、母親の方はそういった天稟てんぴんを、理智ではなく、主に癇癪を憚らない胆力によって支えているようだった。

「良く言った、秋禅さん! そう、その通り、これ以上待たされるだなんて、そんな、馬鹿な話が御座いますか!」

 そう叫ぶ翔々子の振り上げた拳が卓上へ叩き付けられると、十人は余裕で囲める壮大なテーブルが、戯れに折り畳んだ箸袋が弾けるかのごとく軽薄に跳ね上がった。その打撃音で一度、そして着地音でもう一度、耳が劈かれる。クロスが掛かっているせいで、その破れ目から垣間見るしかないが、恐らく盛大な罅が天板に走っていた。

「雪峰さん! どうしても、検認は行っていただきます。お義父様の御遺志、いい加減に開けさせていただきましょう。我々も、これ以上馬鹿にされては溜まりません!」

 槍玉に揚げられた家裁判事は、身を護る為に作っていた丸い姿勢を解きつつ、

「はい、ええっと、……昨日は本当に申し訳御座いませんでした。それで、ですが、勿論死人が出ようが検認を行う事自体は、やろうと思えば出来ますが、……その死人が、検認の申立人であるのが問題でして、」

「ああ、」

 私は、ついそう、間抜けに呻いてしまった。

 収まらぬ翔々子は、寝起きに奔放なままにされた髪を更に振り乱しつつ、

「モウシタテニン!? なんですかそれは、それがどうしたと言うのです!」

「ええ、ですから、少なくとも手続き上は、閣盛さんの遺言書を検認して欲しいと申請したのが、本影さんとなっているのです。検認は、その申請した本人の出席が不可欠となっておりまして、」

「なんですかそれ、」秋禅が、「いや、もしも、『検認すれば相続税が得になりますー、』とか言われて僕達が頭下げてお願いしているとかなら、分からなくもないですけど、違いますよね? とにかく人類が死んで遺書らしき物体が見つかったら必ず検認を申し出て、その日まで開けるなと、法制度の方が要求してきているんですよね? ただ開けるだけに、二ヶ月も待たせて、挙句に『出来ません』ですか? 僕らや申立人に何か不手際が有ったのならともかく、……まさかですけど、腹を刺されるのは、何もかも奪われるべきだと?」

 硬軟織り交ぜる、という言葉があるが、この母子は、同じ「硬」でも性質が異なるものをそれぞれが持っていた。とにかく威迫を叩き付ける翔々子と、筋の通った憤然を突き付ける秋禅の組は、狙っている訳でもなかろうが、実に効果的で厄介な論敵であり、雪峰も、しどろもどろとしてしまう。

「ええ、……ですが、」

 秋禅が言い切らせない。

「ですがも何も、」

「ちょっといいですか。」

 片手を上げてそう発言した妖崎は、視線が集まったのを確認してから、

「遺言の封印についての話ですけど、確かに、検認を行うまで遺言を開封してはならないとはされていますが、……別段、開けたからってどうにかなる訳でもないですよね。」

「どういうことです?」と、眉を寄せた秋禅。

「ですから、開封した者は幾許かの過料が科されると、民法の、……ええっと、」

「一○○五条で、金額は――円。」

「流石です竜石堂先生。とにかく、そこの条文によって、検認前に遺言を開封した者はつまらない額の過料、平たくいえばしょぼい罰則金みたいなものを取られる訳ですが、特にそれ以上の事は起こりません。それで相続権を失う事は無いですし、また、遺言書の内容も依然として有効です――そうでなくば、無効化狙いで開封する輩が出て来てしまいますからね。

 なので、僕が言いたいのは、……もう、開けてしまっても良くないですか? 確かに相続人も申立人もこの場に居ませんが、しかし、相続人の配偶者と卑属は全員揃っていて、申立人と殆ど同じ立場の申賀さんも居て、そして、検認を執行すべきだった裁判官も居るのです。……何か、問題有りますか? 雪峰さん、」

 妖崎は、雪峰の返事を持たぬままに、誰へともなく、

「制度上、今から封印を解く行為を、検認とは見做せないかも知れませんが、しかし、検認それ自体は後日でも良いでしょう。実際普段の家裁でも、不法に開封されてしまった遺言書に対して――遺族の誰かが叱り飛ばされるかも知れませんが――検認そのものは普通に行われているのでしょうから。」

 妖崎は、果敢な試みをしている。確かに、法機関というものは、柄にもない柔軟性を時折示すもので、明らかに条項の設置理念に反する事案であれば、当事者に好もしい方向に論を捩じ曲げる事が有る(本邦初の角膜移植術に伴った〝死体損壊〟は、当時の最高検察庁が不問と断じた。)。が、それは例外中の例外であり、法機関にとっては凄まじい「大儀」であり、大いに社会的意義の有る判決に於いて漸く稀に見られるものだ。こんな検認一つには、全く望むべくもない。

 雪峰は、少し考えさせてくれとでも言いたげに、手を皆へ翳して、そして実際に黙り込んだ。相変わらず表情の分かりにくい彼女だが、流石に、真剣に思索へ耽りている様が見て取れる。此方へ助けを求めるような視線は、一切投げてこない。ならば、私も、何もせずに彼女を見守ろうではないか。

 この部屋へ戻って来ると同時に話し始めたので、私一人だけが立ち尽くしている絵面だった。つまり、使用人の申賀すら、椅子の一つを占めていたのである。別段疲れなどしないが、気を遣わせるのもなんだと思った私は、適当に空いている席、その申賀の横の椅子に掛けてしまった。

 するとすぐに、彼が小声で、

「先生、お体の方は大丈夫でしたか?」

 体格同様に声まで痩せている彼がそれをより潜めたので、解釈に手間取り、更には咄嗟に慇懃な口調を演ずる必要にも駆られた私は、その曖昧な言葉の意味を探る余裕が無く、

「え? ……健勝ですが、」

と、訳の分からぬ返事をするので精一杯だった。

 そんな事を演じている内に、霜熊人ジャックフロストの判事は決意を固めたようで、

「申賀さん、……いえ、妖崎さんにお訊きした方が良いですかね。その、被相続人の御遺書が封ぜられた金庫って、何処に有りますか。」

「二階のお部屋、閣盛さんの書斎の一つ隣です、……よね? 申賀さん、」

「はい、動かせるものではありませんで。」

「ならば、……開封してしまいましょう。どうせ、既に例外だらけの検認なのです。厄介な形で封ぜられた遺言書を、取り扱い易い形、つまり普通の封筒に移してしまう、……これ位の処置、今更問題にならないでしょう。」

 いの一番に立ち上がったのは、妖崎だった。

「では、早速今から致しませんか? いえ、もっと遅い時間の予定だったのは、奥様方の生活に合わせる為でそれ以上の理由は無かったでしょうから、折角皆様お起きになっているなら、早く済ませてしまった方が、」

 妖崎ボスが行くということは、護衛の私もだよな、と席から立つと、これが他の者を煽る結果となったか、皆ぞろぞろと立ち上がったのだが、その中の申賀のみは壁の方へ進み、「では、行ってらっしゃいませ。」とでも言いたげな態度で行儀良く佇立していた。

 しかし、秋禅がこれを許さない。

「何やってんのさ申賀さん、一緒に来てよ。」

「……私、もですか?」

「そうそう。まず、良く分からないけど本影さんが検認に立ち合うべきだったのなら、せめてあんたが来てよ。あんたも、の同居者、かつ、金庫の近くで生活していた者ではあった訳で、居ないよりは多分良いでしょ。

 それと、……悪いけど、阿古が寝ているのに、あんたから、というか誰からも目を離したくない。」

「……はい?」

「だってさ、……この館に居る誰かが、本影さんを刺したんでしょ?」

 秋禅の、不遜な声音で強く吐かれた言葉は、我々が検認手続に拘泥する事で忘れていられた凶々しい情況を、腐敗物を鼻先へ突き付けるように逃げ場無く再認識させた。

「絶対に、誰と誰も二人きりになるべきじゃない。だって、他者ひとの腹を切り裂くような奴が、この中に一人居るんだからさ!」

 部屋内の者共の目が、それぞれ右往左往した。ある者はただ戸惑って、ある者は自衛の為に敵を探して、またある者は、頼るべき者へ縋るようにして。

 船は、恐らく翌朝まで来ない。

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