部屋へ通される道中、妖崎は、男女で訪れたのに一部屋しか要求しなかったことについて、「皆さんを疑う訳ではないですが、しかし一人きりにさせては何かと物騒ですからね、一応の用心でして、」と申賀に言い訳して納得させていた。まぁ、うん。嘘では、ないな。実際に護られるのは私ではなく、貴様なのであるが。弁護士諸君は皆こうも、ぎりぎり嘘を用いぬ詐術に長けるのか?

 部屋へ入ると、頭に血を昇らせた本影が何か失態を演じたのか、二三の鹿驚魔キキーモラがまだ残ってせっせと掃除をしていた。

「おっと、お恥ずかしい。すぐに、彼女に言って引き上げさせますので、」

 私が、扉を塞ぐようにして、

「あ、いえ、別に構いませんよ。少し、興味深いですし。」

 私は、概ねには、怒鳴りつけられたばかりの本影へ頼みごとをしにいくことになる申賀が気の毒で彼を止めたのだが、言った言葉通りの、動物園の様な楽しみを見出したい気持ちも、実際に少し有った。幻獣らの一頭は、手前のベッドの辺りを細々と弄っていたが、そんな場所も任されるからには、その夥しい体毛を残さずに済む仕組みが何か有るのだろうかと、不思議に思えてくる。或いは、そもそも幻獣というのは、毛を落とすとか餓えて死ぬとか、そう言う存在ではないのかも知れないが。戸籍や登記簿に載る存在ばかり裁いてきた私は、こういう、あやふやなものに疎かった。幽霊ゴーストの被告人が脱税の容疑で引かれて来たことは有ったが、当然彼ですら、戸籍台帳に名前が有ったのだから(そう言えば、あの手の不死体アンデッドが死刑になったら、執行吏はどうするのだろう?)。

 更には、退官後ある意味で欲張りになっていた私は、そんなことを思うと同時に、この痩せぎすの使用人へ何か話し掛けてみようかとも企んでいたのだ。これは、本影のせいであり、つまり、半ば強制的に行われた彼女との会話が、存外に今回の相続事案について見透させたことが、成功経験として私に味を占めさせたのである。判事として、勝手に集まってきた証拠を却下したり受け入れたりしていた頃には無縁だった、生きた生の人格から何か事件に関わるものを穿鑿してくるという体験の喜びに、私は既に魅されはじめていたのだ。

 そうなると当然、あんな騒ぎの直後であるのだから、本影について何か申賀に訊ねてみたいものなのだが、しかし、盗み聞いて――正確には盗み聞かされて――いたことを明らかにする訳にも行かぬし、

 と、私はとつおいつしてしまっていたのだが、これに比して、妖崎は流石だった。

「そう言えば申賀さん、本影さんって結局何者なんですか?」

 私が目を剝かぬように努力していると、申賀も、動揺を懸命に抑えようとしている様子から、なんとか、

「……と、仰いますと?」

「いえ、以前から不思議に思っていたんですけど、本影さんって――ああ、僕の蜥蜴人リザードマンに対する感覚が未熟なのかも知れませんが――お若く見えますのに貴方と対等そうに話されますし、貴方や彼女がこのお邸で、或いは血原家で、どういう立場なのか、差し支えなければ少しお聞きさせていただければなぁと。場合によっては、今後について何か貴方をお助け出来るかも知れませんしね。……一人の、法律家として。」

 本影と同じ様な、相続執行による破滅への恐怖に――仮にそれが言いすぎだとしても、少なくとも不安くらいには――駆られているに決まっている申賀へ、妖崎が最後に付け足した絶妙な殺し文句は、果たして効果覿面だったのである。これによって彼が、前向きにはなりつつも最後の躊躇をするような素振りを見せると、とどめに妖崎は、この部屋に設えられていた椅子の片割れに座ってみせた。私も、家獣を退かしつつベッドヘ腰掛け、人間を着座へ誘う。

 彼は、これら無言の圧力に負けて、最後の椅子を占めてくれた。

「そうですね、私も彼女の実際の年齢は知りませんが、しかし恐らく私より年下でしょうし、少なくとも年次はずっと下ですよ。私が既に、閣盛様に信頼していただける一端いっぱしの者になり、部下も抱えるようであった頃、彼女はここへやって来たのですから。……ああ、あの頃が懐かしいですね。まだ奥様も御存命で、夕景様御夫妻や他のお客様も屡〻しばしばいらっしゃって、そして当然、もっと大勢の使用人共が居て、」

 私は、ベッドに触れたことで喚び起こされ始めた眠気を、懸命に噛み殺しながら、

「やはり、そうですよね。こんな大きな館のお世話を、幾ら居住者が少ないからって二人だけでだなんて、」

「当然です、出来る訳が有りません。お恥ずかしながら、末端までは仲間の名も憶え切れぬくらいだったのです。それが、……今やこんな寂寞としているのですからねえ。いえ、――先生方も体感なされましたでしょうが――本影が喋り始めれば喧しくもなりますが、しかし、……一等の新参であった彼女にそう賑やかされると、寧ろ逆に面白くないと思ってしまう私も居るのです。私が、遅い方の時刻で生活しているのもこれが少なからずの理由で、つまり、主様らの寝入った静寂か、さもなければ啼く鹿驚魔キキーモラの気配や本影の弁舌に支配される臨潮館に、どうも耐えられないというのも有るんですよ。かつては旦那様や、今となっては御遺族様の生活する気配や物音に満たされた、夜間の館の中に私は居たいのです。……片割れの彼女の方が、自然な、太陽に附き添う生活リズムを望んだというのも有りますが。」

 これはまた随分と拗れていそうだな、と私は感じた。「ポコロコ」という馴れ馴れしげな呼称が、「本影」という武骨なものにすげかわっているのは、無論客人の私達相手で言葉遣いを戒めているというので自然な筈なのだが、しかし、吐き棄てるような含みが響きに混じり入りつつある辺り、怨嗟と呼ぶには小さ過ぎるにしても、或いは曖昧過ぎるにしても、しかし確かに何かが存在していることを窺わせる。

「で、にも拘らず二人きりの使用人となったのは、当然、本影とその使い魔の仕業ですね。彼女らだけで余りになんでも出来るものですから、人手が余りがちになり、次第に皆が暇を出されるようになり、……最終的には、と。」

 妖崎は、ふんふんと頷いてから、

「成る程。ところで、本影さんが残されるのは当然としても、申賀さん、貴方が残んの一人となったのは、何故だったんですか? 貴方は貴方で、当時の閣盛さんから高く評価されていたと?」

 申賀は、起き抜けに油断したのかロクに身を嗜む暇も無いのか、顎下に剃り残した黴のような髭を搔きながら、

「そうだと、よかったんですが。……ああいえ、確かに少しはそんな要因も有ったとは思いますよ、私が肩を叩かれ始めたのは、それなりに後の方でしたし。しかし、それよりも大きかったのは、私が意固地だったということですね。」

「意固地?」と私。

「ええ、はい。旦那様もお優しい方でしたので、喜んで私共を馘首していったというわけではなかったのです。必ず、手厚い見舞金か或いは新しい勤め先を世話して下さいました。そして同時に皆、本影に敵わぬことは分かっておりましたから、口惜しさを感じながらもここを去って行くことを素直に選んだのです。しかし、私だけは肯んぜずに頑張っておりましたら、遂にはこうなっていた、と。」

「成る程。すると、貴方と本影さんは双璧という訳ではなく、残酷なことに、向こうの方がずっと上手であると、」と返す妖崎へ、

「ええ、そうなってしまいますね。ですが、彼奴に出来ぬことも多々有りますので、私が完全に不必要という訳でもないのです。例えば、りょうるのは専ら私の仕事でして。何せ、掃除まではともかく、調理となると鹿驚魔キキーモラでは衛生面が怪しいですからね。」

 愛撫の後にすぐさま手を洗いに行った本影を、私は思い出した。鹿驚魔キキーモラのことを知悉および信頼している本影ですらそうしたということは、幻獣とは言え、結局汚れだとか寄生生物だとか、そういう獣の宿命から逃れられぬということか。

「ところでで御座いますが、……妖崎様、少しだけお訊きしても宜しいでしょうか。この館やこの島は、閣盛様の御遺書が開かれた後、一体どうなってしまうのでしょう。」

 妖崎は、自分を切り替える為の間を少し置いてから、威を示すように背を椅子へ委ねつつ、

「僕がそういう話をする場合、本来はそれなりにお代を頂戴せねばなりませんが、しかし、どうせ血原家の方に対しても似た様な話をするのでしょうから、今回はサーヴィス致しましょう。

 勿論、厳密には遺言の中身を見ないと何も言えませんが、基本的には閣盛さんの御資産は全て、御子息の夕景さんに贈られることになります――相続税はたっぷり要求されるでしょうが。その後は当然に、夕景さんのお気持ち次第で全てが決定されますが、……正直、余りこの館のことを有り難く思ってないようでしたね。夕景さんというよりも、その奥様が特にですが、維持費ばかり掛かってしょうがないだろうと、常々僕へ垂れていらっしゃいまして、」

 申賀は、これを聞きながら渋い顔で頷いていた。

「というわけで申賀さん、恐らくこのお館は処分され、使用人を含め現状のまま住居として使いたいという買い手が、それも速やかに付くなどという奇蹟が起こらない限り、残念ながら貴方や本影さんは職を失うことになるでしょう。

 ……で、一つ確認したいのですが、申賀さん、閣盛さんかどなたかと労働契約はされていましたか?」

「いえ。そう謂った書面を交わしたことは、別段、」

「すると、……立場の主張が厳しいですね。何ら補償もなく、放り出されてしまいかねません。……しかし、労働契約法に頼れなくとも、労働基準法によれば解雇予告手当てくらいはなんとか、」

「おいおい、待て妖崎、……先生、」私が溜まらずさしはさまった。「契約法はともかく、労働基準法の類いは関係ないだろう。」

「え、何ででしたっけ?」

「船員と家事使用人は、適用外だ。」

「ああ、……そうでしたっけ。」

「『家事使用人』とはなんぞや、我々は当たらないのではないか、という筋で争った民事の例は有るし、実際それで某かを勝ち取った者も居るが、……今回は、無理だろう。誰がどう見たって該当する。なにせ、館から飲食や居住スペースを得ているのだろうからな。」

「すると、法的な庇護は殆ど期待出来ない、と。……申賀さん、生前の閣盛さんは賃金を渋るような方に見えませんでしたし、また、貴方や本影さんはお金の使い道があまり無かったと想像するのですが、実際どうですか、蓄えは幾らか有りますか?」

「そう、ですね。申しあげてしまうと、――円くらいは、」

「ああ。幸い、悪くないですね。その貯金を宛にして、次の職を探していただくのが現実的でしょうか。夕景さん達相手に頑張ろうと思えば頑張れるかも知れませんが、手間やコストも大きいですからね。」

「そう、ですね。私も、若旦那様相手と争いたくは御座いませんし、」

「ならば、是非そうなさっていただければ、と。」

 これを聞いて、申賀が顔をより深刻そうにした。それは、話がやや暗めの結論に至った為だと見えたのだが、しかしその実、実際の原因は彼の同僚だったのである。

「私の場合は、今申し上げた通りですが、……本影については、良く分かりませんね。何せ、色々買い込んでいたようですから。」

 私が、

「買い込む、ですか? こんな孤島で生活していて?」

「はい。当然、館の運営上、食糧品その他を購入して船で持って来させる必要が有るのですが、そのついでに私物を多々購あがなっているようなのです。洋書ですとか、美容や装飾品ですとか、」

 私は、何となく自分のうなじの辺りへ手をやりながら、

「それはまた、……面倒なラインナップですね。安いものは安いでしょうが、高いものはきりが無い。」

「ええ。ですので、本影の奴がきちんと蓄えを為しているのか、少し怪しいのです。」

 どこまでも、面倒な女だな。

「ところで、お金の話で思い出しましたが、」妖崎が口を開いた。「貴方や本影さんへの賃金って、閣盛さんの死後はどうなっていますか?」

「頂いて、おりませんね。そもそも、旦那様から手渡しされていましたし、」

「それだと、平穏に済みそうですね。ああいえ、閣盛さんの死後に臨潮館で使われたお金で、相続時に拗れる可能性を気にしていたのですが、まず、貴方方の賃金については、受け取っていないので問題ない訳です。そしてその他の雑費ですが、阿古さんのお世話も続けていたのでしょうし、ならば館の『保全費』の様な形で充分認められるでしょう。貴方や本影さんが何か責められることは、恐らく無い筈です。」

「それは、幸いで御座いますが、」

 痩せた使用人は、一旦、真剣そうに居住まいを引き締めて続けた。

「そうです、私や本影だけの話ではないのです。阿古様の事が御座います。」

「阿古さん、ですか?」妖崎は、意外そうに、「正直余り心配しておりませんでしたが、……いえ何せ、この館が処分されてしまえば、適当に夕景さんの御家へ引き取られるでしょう。或いは何かしらの養護施設が使われるかも知れませんが、とにかく、相続に関わったのとはまた別の法理や社会正義が及んで、悪くない結末がもたらされる筈ですが、」

「そう、なのでしょうが。……それでも、私には不安でならないのですよ、あの方が具体的に今後どうなってしまうのか、」

 申賀の声音と雰囲気が、自身の命運が話題であった時よりもずっと切実そうになっていた。阿古、か。気が狂れているとまでは聞いているが、実際、血原家においてどのような状態なのだろうか。養護や介護をせねばならぬ家族員の存在が諍いを生んでしまった事例は、枚挙に暇が無いし、かつて若かりし私が判ずることとなった、……つまり、刑事な沙汰に発展してしまった家庭も多々有ったのであり、少し気になってくる。

「そう、ですねえ。貴方が経験を買われて、改めて夕景さんに雇われれば何もかも解決するのでしょうが、……残念ながら、正直、余り可能性が無さそうなんですよね。夕景さん達は、閣盛さんと違って一般的な住居にお住みですし、仮に使用人を必要としているなら既に充分数雇っているでしょうし、」

 このままもう少し掘り下げれば、申賀の人となりも見えてくるかと私が思い始めた所で、突然、部屋の扉がノックされた。消去法で本影の訪問なのだが、場所が場所だけに、我々と申賀のどちらが出るべきなのか分からず躊躇っていると、彼の方が素早く腰を浮かして向かってしまう。

「しかし、流石ですねえ竜石堂先生。僕は労働事件を余りやった経験が無かったので、うっかりしてしまいましたよ。」

などとどうでもいい事を言ってくる妖崎に気を取られて油断していた私は、次の瞬間に驚かされた。外から入って来たのは、本影の尖ったそれではなく、男の太さを持つ声だったのだ。

「御無沙汰です。妖崎さん、……と?」

 そう言いながら入って来た彼の姿は、彫刻のようだった。つまり、本影の白さとはまた趣の異なる、彩度の乏しい、血の気を感ぜさせない程の肌と、無駄な要素を伴わず目鼻の均整のとれた顔、そしてすらりとした細身だ。但し、目許だけは余り怜悧に見えず、どこか焦点を失っているようにぼんやりしている。何か巧みなスタイルに切り揃えられた銀髪が頂点から立ち姿を統制しており、貴なる生まれを想像させる力が有った。

 腰の引けた申賀が、

「これは、秋禅しゅうぜん様。どう致しましたか?」

「いや別に、早く起きちゃったからとぶらついていたら、もう妖崎さんが来ているっていうからさ、折角だから御挨拶でもと、」

 秋禅と呼ばれた彼が入ってくると同時に、仕事もせずに過ごしていてばつの悪かったのであろう申賀は、部屋をさりげなに去って行こうとしたが、その背へ「ああ、別にお茶の世話とか良いからね。」と、この洒脱な男は声掛けた。確かに実際、振る舞われたばかりで喉も渇いていないが、しかし、それはお前が決めることなのだろうか。

 とにかく、立ち上がって彼を出迎える。私が、妖崎に続いて握手を結びつつ名乗ると、

「ええ、お話は聞いてました。貴女が、妖崎さんの言っていた、応援の弁護士なわけですよね。

 で、俺は、血原秋禅と申します。平たく申せば、閣盛じいさんの孫ですね。」

 この言葉の後、彼は元々申賀の占めていた椅子に陣取ってしまう。どうやら、まだ暫く私は、休むことも叶わず話し込むことになりそうである。

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