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その後幾日かを経、明日からとうとう妖崎の事務所で世話になるということで、私は寝巻き姿で
ふと、何と無く筆入れの上に積んでいた弁護士徽章が、卓上へ転げ落ちた。余った勢いで、悩ましげにちかちかと首を振っている。この、比較的落ち着いていた判事の徽章とは余りに趣の異なる、天秤から絢爛たる黄金の光線を全方位へ放射しているようにも見える意匠を、私はいつか気に入ることが出来るのだろうか。それとも、金
そんな思い巡らしの最中、矢庭に電話器が鳴動した。一瞬、こんな時間に何事かと不思議にも感じたが、長年の習慣で迷うよりも先に体が動いて受話器を上げてしまう。
「はい、竜石堂。」
「ああ、御在宅のようで良かったです。」
電話を介しての声に聞きなれず戸惑ったが、良く聞いてみると妖崎だった。
「なんだ妖崎先生、突然、」
「ええっとですね、明日から竜石堂先生に来てもらうことになっていたんですけど、実は、」
「どうした? 何か滞ってビル主から追い出されでもしたか?」
「そんなことになったら、法律事務所として色々な意味で名折れでしょう。幸いなことに、商売としては左団扇ですよ。」
「あまりに優雅な法曹人というのが、道義的に望ましいのかは疑問だがな。……それで、用件は?」
「ああ、そうです。ええっと、明日からウチの事務所に来てもらう事になってましたが、ちょっと事情が変わりました。集合場所など、メールを送ったので見ておいて下さい。」
それでは、と、半ば勝手に妖崎が電話を切った。仕方ないので私は、電子メールボックスの更新を掛け、四度目に漸く取得された妖崎からのメールを、眉を顰めながら読み進めることになったのである。
翌日、私は船に揺られていた。定期便にも使われる船だそうだが、日帰り漁船を一回り大きくして屋根を付けたという程度で、嵐が来れば一溜まりも無いだろう。当然に動揺も凄まじく、本来、こうして寝惚けた頭では瞬く間に船酔いの憂き目に遭うのだろうが、
その襟元を目で探り、確かにそこに弁護士徽章が留まっていないのを苦々しく確認していると――港に来るまでの電車で「え、わざわざバッジしてきたんですか?」と此奴から呆れられたのだ―――妖崎が、
「到着まで、後一時間くらいの筈です。つまり、向こうで落ち着けるのは、なんだかんだで十時半くらいになりますかね。」
私は、始めていた欠伸を終えてから、
「そろそろ、教えてくれないかな妖崎先生? 事務所入り初日から、孤島くんだりに呼びつけられた理由を。ここなら、誰にも聞かれないだろう?」
妖崎は、無意味に少し見回してから、
「そう、ですね。まぁ、端的に述べてしまえば、今回のは相続事案ですよ。」
「相続、か。」
相続。無論、民法が扱う、れっきとした法理の範疇の話題なのだが、しかし子を持つことのない自分には関係が無いとこれまで遠巻きにしていたので、力なく鸚鵡返ししてしまった。刑事屋判事・民事屋判事という棲み分けの無くなった最高裁時代にも、相続事件についてまともに――つまり持ち回り棄却でなく――審理を担当したことは無かったのだ。
しかし、
「奇妙、だな。相続人等を本土へ喚び寄せずに、我々から出向くのか? 日当や交通費など、互いに面倒だろうに。」
「ああ。それが、随分訳有りでしてねえ。」
「と、言うと?」
「実は今回、遺産分割協議やらをしに行くわけではないんです。もっと、前の段階でして、」
「前?」
「遺言書の、封を開けに行くんですよ。」
「ああ、」
生返事をしてしまったが、すぐに気が付いた。
「ちょっとまて、開封だと?」
「ええ、」
「何を言っているんだ妖崎く、……先生。確か家裁でなければ、遺言の開封は出来ないだろう。」
「流石、お詳しい。」
妖崎は、一度、気取りげな仕草で腕時計を読んでから、
「その通りです、竜石堂先生。確かに民法の、……ええっと、」
「一○○四条。」
「お見事。それにより、家庭裁判所においてでないと、封のされた遺言書は開けられないことになっていますね。しかしです、仮に、……仮に、ですよ先生? もしも、もしも遺言の『封』が、とても裁判所まで持ち運べないものだったら、どうします?」
私は、この言葉に虚を衝かれたが、得意げな妖崎が何となく気に入らなかったのでさっさと促した。
「何の話だ?」
「ですから、今回の被相続人、生前に何をどう思ったのか知りませんが、金庫に叩き込んでしまったらしいんですよ、裸の状態の遺言状を。で、その金庫の留め金には書状が貼られており、『遺言書在中、触れるな。』という旨の肉筆と、御叮嚀に署名と押印まで為されているんです。それも、日付入りで。」
私は、額に手をやりつつのけ反ってしまった。
「何だそれは、……つまり、金庫が巨大な『封筒』を演じているのか?」
「そういうことですねぇ。しかも、屋敷に備え付けられた、最早一つの『部屋』みたいな巨大金庫なんです。当然そんなもの提出なんか出来っこないので、弱った僕はまず家裁に問い合わせたんですよ。そうしたら、まず額を訊かれまして。」
「額?」
「つまり、小規模な相続事件なら、面倒だから金庫を開けて中身の遺言だけ持ってこいとでも言うつもりだったんじゃないですか? 分かりませんが、」
「それで?」
「――円くらいですかねぇ、と正直に答えたら、電話先の職員さんが参ってしまって。」
妖崎が述べた高は、ちょっとした市の年間予算規模の桁数だった。
「その規模だと、……確かに、御座なりには出来ぬだろうなぁ。遺言を勝手に改変されたり差し換えられたりしたら、とんでもないことになる。」
「と言う訳で、仕方ないので現地で遺言の開封と検認を行うことになりました。その為の家裁の方も、別途来ることになっています。まぁ、納める相続税も相当な額になるでしょうから、お上には労力と費用を甘受して頂きましょう。」
「全く、迷惑な死に方も有るものだな。」
ふと、景色を見やると、遠くの高い空で緑竜の影が優雅に行きつ戻りつしていた。
「ところで妖崎先生よ、随分ととんでもない額だよな。被相続人は、これから行く島の権利でも持っていたのか?」
「ええっと、当然のように持っていますが、島嶼って意外と安いらしいんですよ。他にも様々な資産が重なってその金額、という感じですね。」
「何者だ? 一体、」
「
知らん、と即答しようとしたが、ふと思い出した。チハラなんとかという高名そうな名前を、いつだか付き合いで赴いたコンサートで聞いたような気がしたのだ。
「もしかして、チェリストの、」
「おっと、殆ど正解です。今先生が仰ったのは、血原
「ああ、そうだそうだ。確かそういう名前だった。なんだこの名前は、と思ったから良く憶えているよ。」
「
で、この度亡くなった被相続人が、血原
「すると、相続人は単純に子供だけか?」
「はい。
「ふむ、」
私は、最近凝りの気になっている左肩を自分で揉みながら、
「言うべきではないのだろうが、……何も有ってくれるな、というのが本音になってしまうなぁ。」
「それは、判事時代からの癖ですか?」
この、突如な妖崎の寸鉄は、気を緩めていた私を
目を
「噂に、聞いておりますからね。無風かつ迅速、つまり少ない開廷数で事件をとにかくちゃっちゃと片付けた方が、判事として行儀が宜しいとされて、出世も出来るらしいではないですか。ましてや、最高裁判事まで昇り詰めた貴女なのです。さぞかし、従順であったのでしょう? きっと、個々の事件の事情や背景に一々鑑みることなく、とにかく少しでも早く結審、あわよくば示談を成立させることに、毎度毎度腐心して、」
これを聞きながら、私は、とても妖崎に感心した。何故なら、その語りの半ばから、私の躰は変形を始めていたのにも拘らず、彼は表情一つ揺るがせずに、最後までこの無礼を滞りなく吐き終えたのである。
全身が、軋んだ。両手は指の長さが倍にもなり、全ての爪が烏の嘴のように
「言ってくれるじゃないか、妖崎の倅。」
一つ息を大きく吐くと、偶〻(たまたま)私の前を通りかかった不幸な羽虫が、瞬く間に灼け尽きて地に墜ちた。
「貴様に、何が分かる? 己を殺さねば何も言えず、何も為せぬ世界を、変えんとする為の苦悩について、何か分かるのか?
ここで私は一つ気が付いて、また妖崎に感心させられた。その羽を展開していたのは、いつでも海上へ逃げられる様にという備えだったのだろう。
妖崎は、少なくとも表面上は飄然を露と損なわぬまま、
「いえ、一度貴女と、このことについてお話しておかねばと思っていたんですよ。つまり、竜石堂さんはどういう心積もりで、あの地位まで昇り詰める為の無私と阿諛を働いてきたのか、ちゃんと聞いておかねばと。つまり、僕はどういう人物と共に働こうとしているのか、知っておかねば、と。ですが、……良かったです。そうやって、憤っていただけて。貴女は決して、心から望んでそうなさっていた訳ではなかったということでしょうから。そういう行為に嫌悪を感じることが出来る方だった、ということでしょうから。
それでまあ、僕に何が分かるかという話ですが、……まぁ、余り分かりませんよね。何せ僕は、法曹人としては弁護人・代理人しか演じてこなかったのですから。つまり、今後は安心して下さい、竜石堂先生。もう弁護士となった貴女は、今後は僕と同様、その手の、つまらぬ屈折を殆ど経験しなくとも良くなるのです。いえ、望むなら、弁護士会で地位を得る為に何かしら
私は、じっと聞き入らされた、この、思いも寄らなかった程の出来栄えの妖崎の語りを重々反芻すると、力を抜いて全身を元通り凋ませた。
これを見た妖崎は、私が何か謝ろうとするのに先んじて、
「御無礼を。ですが、早い内にせねばならぬ話でしたので、」
その判然とした安堵からするに、やはり、彼なりに気を張っていたらしかった。
「ところで竜石堂先生、今の『
妖崎が矢継ぎ早に言葉を発してくるので、敢えてこちらに謝罪させまいとしているのだろうと理解し、私はもう普通に返事をしてしまった。
「二割、かな。後で困らない、つまり服を弾け飛ばさない程度となると、結局それくらいが限界だが。」
羽を
「それは、心強いですね。いえ、今回の案件へ急遽貴女を巻き込んだのは、実は、その腕っぷしを買ってだったんですよ。」
……腕っぷし?
「と、言うと?」
「他に民家もない孤島の、
私は、一つ笑っておいた。
「成る程。この私を、危険地帯の用心棒に使う訳か。」
「勿論、『ボス弁』としての現地教育も普通に施させていただくつもりですから、そこは、一石二鳥という所でしょう。」
「まぁ、そういう話なのだろうな。」
「それに、……実際、面白いと思うんですよね。僕は、何かと手先が器用な弁護士として知られており、今回もその能力を買われている訳です。対して竜石堂先生が、実力行使なら絶対に負けない腕っぷしの弁護士として知られ、好対照な僕と同じ事務所で組んでいると言う話になったら、ちょっと面白そうじゃないですか。」
この妖崎の、何処まで本気で言っているのか分からぬ浮ついた言葉は、しかし奇蹟的なまでに、私の本質を
「しかし、妖崎――ええっと――先生、実際問題、嫡子一人しかいない相続事件がそう拗れるものかね。」
「仰る所も分かりたいですが、無視出来ぬ不安材料が、例の異常な遺言書なんですよね。いえ、そもそもこれしか相続へ効果を起こしえないので、勿論自動的に最大の不安はここになるのですが、しかしそれにしても、何だって閣盛氏はそんな訳の分からない『封印』をしてしまったのかが、とても不穏なんです。」
「成る程、……『皆、仲良く健やかに生きるように』のような、毒にも薬にもならぬ訓示を垂れる為なら、そんな大仰な金庫なんて用いない気もするよな。」
「ええ、ですから、何が飛び出てくるのか不安なんですよ。」
「しかしせいぜいでも、息子の夕景氏から先にも相続分を振り分けるくらいではないのか? 他の親族は、全滅しているのだろう?」
「ええっと、その点は、その通りですね。」
「一応、夕景氏から見た卑属やらも聞いて良いか?」
「単純ですよ。まず、配偶者、つまり妻が居りまして、再婚や離婚歴はどちらにも有りません。この夫婦の間に、息子一人と娘が一人。これで、終わりです。亡くなった閣盛氏の親族は、この四人一家以外に何処にも有りません。」
「それらの間の、関係は? ……つまり、良好かとか、独り立ちしているか、という質問だが。場合によっては、家族内の誰が幾ら貰おうと殆ど関係なくなるよな。」
「ええっとですね、」妖崎は少し躊躇った後、複雑な顔で、「御夫婦の方は、普通、というか社会的にとても御立派な方々なんですが、御子族のほうがちょっと訳有りでして、なんというか、……まぁ、とにかく御家族の中で財布は一つみたいなものですよ。つまり、仰る通り、そこで諍いは起こらない筈です。」
妖崎の良く分からない歯切れの悪さに、急に何かきな臭くなったな、と感じながらも、
「なら、やはり特に問題は、」
「しかし遺言書の怖い所は、遺贈などの他に、そこで『認知』が出来てしまう事なんですよね。」
ちょっと黙ってしまってから、
「認知、って、子の認知か?」
私は、その辺りの条文を、そこはかとない嫌な予感と共に思い出し始めていた。
「ええ、そうです。死後に爆弾を残して行くような遣り口ですが、遺言内で子を認知することは制度上認められていますよね。もしも、これをされると大変な訳です。……例えば今回の事件ならば、夕景氏一家の取り分が突如半分になり、減った分は名も知らぬ庶子に持って行かれたりするというわけですから。もしもそんな事になったら、血原一家の方々、特に、血の気の早い事で悪名高い奥様が
「そこで、私の『腕っぷし』が欲しい訳だよな。」
「そういうことです。まぁ勿論、万一の為の保険ですけどもね。実際にはそんな話にならない筈、ではありますが。」
私は、また小さく笑ってから、妖崎を置いて船の縁の方へ歩み進んだ。木目も棘も残されたまま、御座なりに空色の塗料を塗られた、屋根を支える武骨な角柱へ、既にすっかり尋常な人間のそれに戻った手を掛けつつ海風へ相対する。
「全く、……初日から、随分と粗っぽく使われるものだ。」
水平線の上に聳え立っている魁偉な白雲が、この小さな船を高みから見下ろしている。緩過ぎる袖を巻くって私も腕の時計を確認すると、もう、到着はそれほど遠くないようだった。
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