1-15『恋愛脳(NO)』3
「……………………、きっつー」
とうに、授業開始のチャイムは鳴っていた。
思えば高校に入ってから、無断で授業をサボったのは初めてのこと。
アゴ部の中でも、俺(と月見里)だけは教師ウケがいい生徒で通していたというのに。
俺はひとり、常温になった缶コーヒーで喉を濡らす。
妻鹿はとっくに教室に戻っていた。
蒼汰はクラスが違ったし、今すぐ告白できるほどの度胸は、さすがに妻鹿にはないだろう――あったらもうちょっとどうにかなっている。
だが《やる》と断言した以上、やる奴であることも俺は知っていた。
現に彼女は今、転入生でありながら、クラスに馴染んで受け入れられている。
いつかの俺が知っていた図書室の少女は、もうどこにもいないのだ。
猶予は、まあ……普通に考えて放課後がデッドラインだろう。
そこで運命が決まる。
――冷静に考えて、妻鹿に勝ちの目はあるまい。
もちろん俺は蒼汰の気持ちを知らない。おモテになられる一方、あれで蒼汰は、かなり相手を選ぶ男だ。遊びはするけどそれ以上はしないというか。
これまで蒼汰と明確に恋人関係を結んだ女子を、俺はひとりしか知らない。
というか、そもそもが妻鹿である。
蒼汰から見た妻鹿は、今年に入って転入してきたばかりの相手だ。学年と部活が同じという程度の接点しかない。
本当は同じ中学だった事実を、蒼汰は知らないのだから。あの地味でテンパり癖があって目元を隠した《お天気ちゃん》と、今の妻鹿椛は繋がらない。
時間が全てだとは言わないが、ただでさえロクに会話もできていない妻鹿だ。
告白されたとしても、蒼汰が受ける可能性は――ごく低いように思えた。
このままでは、今日中に妻鹿は失恋する。
それで――いいと言えるだろうか。俺はそれを言ってもいい立場なのだろうか。
こんな暴挙に妻鹿が出たのは、ほかでもない俺のせいだというのに。
「……本気だから、俺に頼んだんじゃなかったのかよ……妻鹿のバカ」
邪魔しておきながら言えた義理じゃないが。それこそ、グーでブン殴られたって文句は挟めない。
まあ殴られてやるつもりもないとはいえ、俺にも罪悪感というものがある。
「これでいいんですか?」
と、そのとき背後から声が聞こえた。
……いや、おいおいおい。お前、それは――マジかよ。
「いいわけないでしょ、普通に考えて」
俺は答える。
今は授業中で、ここに生徒がいるはずないのに、答えは普通に返ってきた。
「そうですかね?」
「そうだよ。今、何時だと思ってんだ。授業を抜け出してきたんなら頂けないな」
「しゃっ。すーん、ひゅんひゅんひゅん」
「……いや、何それ?」
「ブーメランの風切り音ですね。戻っていきますよー」
お前に言えた義理じゃないだろう、という指摘らしい。その通りではあった。
「どげしぐしゃっ」
「しかも当たっちゃったよ……いや効果音おかしくない? 攻撃力高くないブーメラン?」
相変わらず、力を抜かせてくる後輩だった。
俺は肩の力を抜いて、声の方向へと静かに振り返る。そして訊ねた。
「で? なんでここにいるんだ、蝶野?」
後輩――蝶野ぼたんは、相変わらずの無表情で、俺に答えた。
「それもブーメランですよ? サボりですか、せんぱい」
「俺はこれでも優等生で通ってるんでね」
「やや、優等生が授業サボってどうするんですか」
「優等生だからな。多少サボったくらいじゃ成績には響かないんだ」
「優等生の台詞じゃないでしょう、それこそ」
「そういうお前こそ、一年のうちからサボりとは太ぇ奴だ。先輩として悲しいね」
「棚上げが過ぎますが……ホントせんぱい、最低ですね」
わかりきったことを、なぜか愉快げに蝶野は言った。
そうと知って、それでも俺を見捨てなかったことのほうが不思議だろうが。
「てか、わたしはサボりじゃありません。今日はちょっと遅刻しちゃっただけです。別に抜け出してきたりしてませんよ」
などと蝶野は宣う。
昇降口からまっすぐ教室に向かうとき、このラウンジは通らないだろうに。
「……遅刻、ねえ?」
「はい。学校にはさっき着いたところなんです」
「……ん?」
何かが引っかかっていた。なんだろう、それがわからない。
言葉の通り、蝶野はまだ通学鞄を持っている。
教室に一度寄っているなら置いてくればいいだけの話だから、遅刻はたぶん本当だ。そもそも嘘をつく意味だってない。
ただ、この場所にいるのまで偶然――だとは思えなかった。
周りの目から隠れるためにこの場所にいるのだ。偶然通りかかる場所じゃない。
ならば蝶野は少なくとも、俺がここにいることは知った上で来ているはず。
……だとすればよりわからない。
俺が来たのはたまたまで、前もって決めていたことではないからだ。ここに俺が来ることを、蝶野が予測することはできなかったはず。
ならどうして知っている。
俺が引っかかっているのはそこか?
いや……何かが違う。
確かに疑問だが、それよりもっと根本的に――そうだ。
「お前、は……」
「はい?」
首を傾げる蝶野。純粋に疑問するような様子から、内心を窺い知ることはできない。
――だが、俺は蝶野からと思しきラブレターを持っているのだ。
俺の下駄箱に手紙を仕込むには当然、俺より先に登校してこなければならない。
そうでなければ、俺が手紙に気づくのが放課後になってしまうからだ。
蝶野が遅刻して学校に着いたばかりなら、俺の下駄箱に手紙を入れられるはずがない。
わからなかった。
ラブコメだと思っていた小説がいきなりミステリを始めたみたいな気分になる。
思惑が交錯しすぎなんだよなあ、この部活。どうなってんの。
「……ったく。どいつもこいつも勝手しやがって」
ぼやくような俺の呟きに、後輩は言う。
「それは、せんぱいには言われたくないことじゃないですかね。誰にとっても」
「そういう正論、今は聞きたくないんだよな」
「それも後輩の役目かと思いましたもので」
「いや、どういうこと? 本当、お前がいちばん何考えてんのかわかんねえんだよ……」
あのラブレターの差出人は蝶野ではなかった、ということか?
確かに蝶野が名前を書き忘れるとは正直、考えにくい。
逆に蝶野なら、意図的に名前を書かずに出す、ということをしそうな気もするのだ。なんとなく、ではあるのだが。
「わたしはただ、せんぱいのお役に立ちたいだけなんですよ?」
こくりと首を傾げて言う蝶野は、いっそ小悪魔的だ。
むしろ純粋に悪魔か。
「役にって……なんで? 俺はそこまで、お前に入れ込まれることした覚えがない」
「後輩ですからね。理由なんてそれ以上にはいらないじゃないですか」
「…………」
「むしろわたしには、せんぱいの目的のほうがわかりにくいですけど。もっとちゃんと、言葉にして言ってほしいところです。そうすれば、もう少しお役に立てますので」
「俺の、って……それは、だから言っただろ。どこから見てたのか知らないけど、かなり追い込まれてるんだよ萩枝先輩は。これでも」
手札が尽きている、と言ったところか。
俺にはもう、どうすれば妻鹿による
直接やめろと言える義理はないのだ。あくまで表沙汰にせず、ふんわり立ち回ることが前提だった。
「そうですかね?」
だというのに蝶野は、首を傾げた。
てっきりさっきのやり取りも覗いてたと思ったのだが、違ったのだろうか。
「そうですかね、って……お前なあ」
困惑して言い淀む俺。そこで、
「だって別に、椛先輩がフラれたところで――せんぱいは何も困らないじゃないですか」
前提を覆すようなことを、蝶野は言った。
「いや……お前は何? 俺がここ半月弱、なんのために行動してきたか、もしやホントに忘れたわけ?」
「それはもちろん、理解していますよ。お手伝いしてきたじゃないですか」
「……だよな。だから、もしこのまま妻鹿がフラれたら――」
「別に、何も変わらないのでは」
そんな言葉が返ってきて。
俺は――思わず呆然と蝶野の顔を見つめた。
「椛先輩が、それで部活を辞めると決まってるわけじゃありませんし」
「……それはそうだが」
「仮にフラれたとしても、風道くんがそれを知るかどうかも別の話ですし」
「まあ、わざわざ言わなきゃそうだけど」
「よしんば風道くんがそれを知って、自分が失恋したとわかっても、そこで諦めるとすら別に限らないじゃないですか? 風道くん、そんな意気地なしでもないと思いますが」
「や……まあ、それは考え方っつーか……」
「むしろチャンスだと捉えるほうが普通なのでは? 傷心につけ込む、って言うと表現が悪いかもですけど、そういうときこそ男を見せる絶好の機会、的な」
「……、いや……だから」
「こうなると、せんぱいが言っていた《部活を崩壊させたくないから、誰も告白できないようにする》という作戦が、そもそも疑わしくなってきますね?」
「待て、待ってくれ。蝶野お前、何が言いたいんだ?」
矢継ぎ早に繰り出された蝶野の言葉に、ことのほか俺は大きく狼狽えた。
だって、それは前提だろう。
俺はアゴ部の部長で、姉貴や先代部長からこの部を託されている。
だからこうして部内恋愛が拗れ、破綻してしまわないように行動してきた。
――そこを疑われるとは思っていなかった。
「いいじゃないですか、別に」
さらに蝶野は言う。
「誰が誰と付き合おうと、誰が誰に失恋しようと、そんなの関係ないじゃないですか。それで部活がなくなるわけでもなし、なんならより結束が深くなる可能性もあります。雨降って地固まる、ってやつですよ」
「それは……だから、わからないだろ。そうでない可能性のほうが高いんだ」
「そうでしょうか?」
「……何が言いたいんだ」
苛立ちを感じた、わけではない。
ただ純粋にわからなかった。
蝶野は、まるで俺が嘘をついていると弾劾しているかのようだ。
「いえ――単純な話」
そこでひと息、呼吸を止めて。
けれどすぐ続けて、蝶野は言った。
「――せんぱい、そもそも別にみんなの邪魔とか、まったくしてませんよね」
「な――」
「ていうか、なんなら手伝ってますよね? むしろ。逆に。みんなが失恋しないように」
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