1-09『恋は人をダメにするが、元からダメだった可能性もある』2

 ――などということは無論なく。

 俺は廊下の途中ですぐさま引き返してドアに近づき、部屋の中へ聞き耳を立てた。


『え、えーと……あの。ど、どうしよっか……?』

『三人って人数的に結構微妙だよなー。待ってりゃ誰か来るかね?』

『あ、ど……どうだろ? あはは……』


 ――いや、それにしたってダメすぎるでしょこの女マジで……。


 愛想笑いしかできてねえ。

 阻止するも何もこのザマでよく告白できるとか断言したものですよ。

 別に俺が何もしなくても何もできないでしょ……。


『あ……あのさ、伊丹っ』

『ん?』

『え、と……それにしても今日はいい天気だねっ!?』


 しかも結局しちゃったしね、天気の話!

 ダメだよ。

 お天気ちゃんだった中学時代から何も進歩していないよ。

 むしろなまじっか自信をつけた分だけ悪化したとすら言えるよ。


『んー? ああ、そうだよな。こんな日は外で遊ぶのが健康なんだけど、はは。こういう晴れた日に、あえて部屋に閉じ籠もってボードゲームってのも、贅沢で乙なもんだよな』

『な、なぁるほどっ!』


 挙句の果てにはフォローされてやがるし。

 反省しろ、もう。

 天気の話題からここまで気楽に会話を発展させてくれるのは、相手が蒼汰だから持ってる特殊能力なんだよ。

 普通だったら話終わるんだよ。感謝しなさいよ。


 なぁるほどっ、じゃありません。


「……こりゃ、妻鹿に関しては安牌って感じかね……」


 小さく、誰にも聞こえない声で俺は呟く。

 ひとまずは安心だ。

 これで目的の三分の一は実質、達成したと言っていいくらい。


 俺は扉を離れ、足音を立てないように歩き出す。

 時間を潰すため、一応手洗いに行っておこうかという作戦だ。作戦とか言うほどのことじゃなさすぎる。


 ――ちょうど廊下の向こうから、階段を昇ってくる人影が見えたのはそのときだった。


「おや、萩枝先輩。お疲れ様です」

「……か、風道か?」


 たらり、俺は背中に冷や汗を感じた。

 嫌な予感がする――いや、嫌な予感という名の後輩男子が歩いている。


「何、してるんだ……こんなとこで?」

「……? もちろん、部活に向かうところですが……」

「だよね。そうだよね……そうなのか。そうじゃないほうがよかったなあ……」

「はい?」

「おおっとなんでもないこっちの話だぜオーケーそこで止まろうボーイ?」


 しれっと風道の前に立ち塞がり、部室への侵攻を阻止する俺。


「……?」


 微妙な言葉を口走る俺に、風道は首を傾げる。

 首を傾げたいのは俺のほうだった。いやもう傾げるわ今。はい。


「――なんで花束持ってんの?」


 そう。なぜか風道は、その両手にいっぱいの大きな花束を抱えて階段を上がってきた。


 俺はもう嫌な予感がしてならない。

 ただでさえ部室は今(風道の立場から見れば)初恋の相手と恋敵がふたりきり、という状況なのだ。

 ただ名前が《恋》なだけの俺に、どうこうできる領域じゃない。

 そんなしょうもないことを考えている場合でもない。


「はい」

 素直な後輩は、俺の問いにまっすぐこう答えた。

「二千円くらいでした」

「ありがとう」

 俺は笑顔を作り。

「でも別に値段を訊いたわけじゃなかったんだよね今」

「失敬」

「オーケイ構わなーい」

「この花束は、いわば俺の気持ちなんです」

「気持ち……なぁるほどっ? というと、つまり……、どういうことだろう?」

「はい」


 ひと息。

 間を空け、まるで武道の達人を思わせる佇まいで、風道は。


「この花束に愛を込め、椛先輩にお渡ししようかと」

「俺をこのタイミングに間に合わせてくれて本当にありがとう神様!」


 ある意味、予想通りっちゃ予想通りな風道の言葉に、思わず天へ愛を発する俺だった。


 ――いや予想できるか。


 段階をいくつもすっ飛ばしている。

 というか、なんならこの先どこまで行っても、その段階はないかもしれないというレベルの行動だろう。


「えーと……何? あの……、つまり風道は、今から妻鹿に告白しに行くと?」

「まさか。そんなはずありませんよ」

「……そっ、か? いや、それはそれでじゃあ逆に謎だけど……」

「俺は、まだ己が椛先輩に相応しい人間になれたか、確信がないのです」

「…………ああ、うん。はい」

「そんな俺が、自分のエゴを先輩に押しつけていいはずがありません。違いますか?」

「そこは、非常に……なんだ? 難しい……その、問題だね」


 ――断言を避ける玉虫色の回答というヤツがこれです。覚えておくといい。


 いや重い……。

 愛が重いというより、もう純粋に人間として重い。

 風道が持つ純粋さや真面目さ、真摯さといったものは美徳だと思うけれど、にしたって度が過ぎている。


 いや、それは風道が悪いわけではないのだ。

 ただ何ごとも一面的ではない。どんなことにも別の側面はある。

 たとえ風道の言葉が、態度が正しいのだとしても――だからこそ、それを受け止められる者は限られた。


 大袈裟な表現ではある。

 しかし同時に事実でもあるだろう。

 まっすぐすぎる風道にまっすぐぶつかってこられて、それを受け入れられない者がいたとしても、それもまた責められることではないと思うのだ。

 少なくとも、俺は。


「……まあ要するに、たぶん妻鹿は花束を貰っても困ると思うんだよね……」


 思わずいろいろと考えてしまったことを、雑に要約して俺は言った。


 まあ、うん。

 困るよ。

 どうしたらいいのってなるよ。

 高校生にそれは重たいって。


「なんと」


 風道は驚いたように目を見開いた。

 ごめんね。

 俺はその不器用なまっすぐさ、ホント嫌いじゃないんだよ。マジで。


「それは盲点でした。椛先輩は花がお嫌いでしょうか」

「んー……いや、別に嫌いじゃないと思うけど。かといって特別好きでもないだろうね」


 問題の焦点はそこではないのだが。


「なぁるほどっ」


 風道は言う。お前までもがか。

 ただまあ風道が(表面上だけでも)納得した素振りを見せるのなら、それで構わない。

 あとはいつも通り、適当並べてそれっぽい膏薬を、風道に塗り込むとしよう。


「いいかな、風道。風道が妻鹿に喜んでもらいたいと思って花束を買ってきたこと。それ自体はとても素晴らしい心がけだね。好きな相手を喜ばせたい気持ち、俺も共感するよ」

「ぶ、部長……っ!」


 何やら感動したらしい風道(別に何もいいことは言っていないけど)が、さっと懐からメモ帳を取り出した。

 え、書き留めるの? いいけど……いや、やっぱ嫌だな……。

 だがもう今さら止まれない。


「だけどね。風道が純粋に喜ばせるために選んだ行動でも、それで相手が本当に喜ぶか、ちゃんと調べたかい? そう、これは心の問題なんだ。俺はその在処を訊いているよ」


 大嘘だった。

 適当なことしか言っていなかった。


「心の、問題……!」


 だが風道は感動して、メモ帳に《心のもんだい》と書き留めている。


 風道は《人の心》という言葉に弱かった。

 それを学ぶためにアゴ部を選んだと公言している。

 完全に大失敗なので今からでも転部すべきだが、絶対に勧めないし辞めさせない。


「これは、風道が相手に贈り物をしたい――いや、もっと言えばそれをすることで妻鹿に気に入ってほしい、好きになってほしいという欲望、つまり下心から出ている行為だ」

「し、下心……そんな、俺は……ッ!」

「わかっている。わかっているさ、風道! 君にそんな気持ちがなかったことくらい!」


 俺はガシッと風道の両肩に手を乗せた。

 もう自分でも何をやっているのかさっぱりわからない。


「妻鹿に喜んでもらいたかった。ああ、その気持ちもきっと嘘じゃない。俺は信じるさ。お前はただ、やり方を少し間違えてしまっただけなんだ!」

「やり方を……なら俺は、いったいどうすればよかったんですか!?」


 じゃあアドリブ長台詞行きまーす。


「簡単なことだよ。喜んでもらいたいんだろう? それは喜ばせたいという感情と、似ているようで少し違う。何がって、発露の仕方がさ。自分がしてあげたいことをするんじゃなく、相手がしてもらいたいと思っていることを考えるようにすればいい。妻鹿のことを想うなら、考えるべきは当然、妻鹿の気持ちだ。単純だろ? そう、単純なんだよ。世の中のことは大抵、意外と単純にできてるものなんだ。そこに感情が絡むから複雑に見えてしまうだけなんだよ。まずはその糸を解いて、いちばん単純な理屈の形に戻すところから始めてみよう――そうすれば、風道。いいかい? 変えるのは感情じゃなくていい。その表現方法でいいんだよ。風道が間違って発露してしまった下心。その形をきちんと整えたものを、俺たちがなんて呼ぶか知ってるかい? そう――真心と呼ぶのさ。それが恋ではなく、きちんと相手にも伝わる、愛ってものなんだよ。そのメモ帳に書いてみるといい。そう、《恋》と《愛》だ。恋は下に心があるが、愛は真ん中にあるだろう? 書き方を知るだけでいいんだ。妻鹿のことを考えよう。大丈夫。微力だが、俺が力になるからさ……」


 遥か太古から使い回されている、恋と愛の違いについての論を――よりにもよって部室棟の廊下で打つ、控えめに言ってめちゃくちゃ恥ずかしい高校二年生男子がそこにいた。


 ――ご清聴ありがとうございました。

 萩枝恋と申します。殺してくれ。


 俺はもう前を見ることができない。なぜなら、考えて喋っていないからだ。

 自分が何を言っていたのか、すでに八割を忘れている。

 とりあえず恥ずかしいことを言っていたことだけは間違いないが、その行為そのものが間違いなので、なんかもう、何?


 たすけて。


 せめて風道の顔だけは見ないよう、俺は肩を押さえたまま視線を床に向け続ける。

 もし頭を上げたときに、風道が『部長はついに壊れたのかな』って顔してたら、正直しばらく立ち直れる自信がない。

 しばらく立ち直れない自信ならある。


「……部長」


 と、そのとき風道の声が降ってきた。


 審判のときか。

 捲し立てれば風道ならあるいは誤魔化せるのでは、と考えていた俺だが、今はもうその自信が完全に消え去っている。

 切れ目を作らず喋り続けるためには、何を話すか頭で思案する時間を捨てる必要があった。何を言ったのか覚えていない、とはそのためである。


 どうする。呼ばれたし顔を上げるか。

 いや、せめて何かしら踏ん切りが欲しい!

 目をガンガンに見開いて廊下の模様を眺め続けること以外、何もできない。

 そんな俺に向けて、風道は。


「顔を。顔を……上げて、ください」

「風道……っ」

「お……俺っ、おれっ、俺は……かっ、と、とても、感動……しまし、くぅ……っ!!」

「……風道ぃ?」


 明らかに様子がおかしい風道の声に顔を上げる。

 すると目の前に、瞳から滂沱の涙を流して嗚咽する後輩男子の姿があった。

 え?


「す……すみません! 部長の、恋先輩の器に触れて、つい感極まってしまい……っ!」

「器って……いや、だからって何も泣かなくても――」

「これで……っ、これで泣けない男がこの世にいるでしょうか……!?」


 地球上の総男性人口とほぼ同数レベルでいると思うが……いや、ではなくて。


 そっか。

 もちろん初めから、それを狙って話したんだけど。

 それでも……そっか。


 ――今ので泣くほど感動するのか、お前は。

 なぁるほどっ!(←クセになってきた)


 涙を堪えるようにして、風道は袖口で目元を拭う。

 泣くことは、決して恥ではない。だが、どうだろう?

 何ひとつ気持ちを込めていない妄言で、泣くほどに感動されてしまう側は――とりあえず恥ずかしかった。人として。

 ピュアな後輩男子を口八丁で泣かせる自分が、もうただただ恥ずかしかった。


「ま、まあ、なんだ? 一概に俺の言葉を鵜呑みにするのも、どうかと思うんだ?」


 そして最終的に日和る俺。

 どうすんだ。あまりに小物が過ぎる。

 でもこれ以上は耐えられない。


「風道が、それでも花を渡したいっていうなら、俺はそれを否定できないというか――」

「いいえ! 先輩の熱い気持ちを聞いて、これ以上のエゴは通せません」

「ま、うん。だよね。それは、そうなるよね流れ的にね。――ああ、じゃあさ!」


 ぽん、と手を打って、俺は言う。


「その花は、せっかくだし部室に飾ろっか! ね!? 妻鹿個人にじゃなく、アゴ部全体に対しての差し入れってことにすれば、妻鹿も喜ぶだろうし!? 落としどころとして!?」

「ああ、そうですね。せっかく買ってきた花ですし、せめてそうしましょうか」


 ようやく笑みを見せた風道。

 よかった、これでなんとかなりそうだ。


「花瓶は……あー、確か去年使ってたのが備品のどっかにあったかな。それ貸してもらうことにして、先生にはあとで報告しておこう。部室のどっかには転がってたはず」

「それなら部長、俺が顧問に伝えてきますので、花をお願いしていいですか」

「ああ、それは別にいいけど」

 風道から花束を受け取りつつ、問う。

「部室寄ってかなくていいの? 職員室まで行くなら、荷物を先に部室に置いてからでもいいんじゃない?」


 いや正直言って、妻鹿と蒼汰がいる空間に俺と風道で入るのは(俺限定で)ダメージが入るのでご免被りたいのだが。


「いえ」

 そう思って訊ねた俺に、けれど風道は首を振る。

「今日はこのあと予定がありますので、もともと花束を渡したらすぐ帰ろうと思っていたんです」


 でっかい花束を好きな女の子に渡して別に告白もせずそのまま帰ったらテロでは?


 いや、でも風道だしな。

 そして貰う側が妻鹿だしなあ……。

 意外と普通に、何も起こらず消化されるイベントだったのかもしれない。

 今になって、なんだかそんな気もしてきた。……まあいいや。


「そうなんだ。なんか、家の予定とか?」


 なんの気なしに訊ねる。

 風道もまた、なんでもないことのように答えた。


「今日は一華先輩にお呼ばれしていまして」

「……ん、ちょっと待って。何に、あの……なんて?」

「え。いえ、ですから一華先輩にお誘いいただいたんです。いっしょに出かけないかと」

「……………………」


 聞いてない。それは聞いてないよ俺。

 あいつ、さっそくアタックかけに行ったのかいっ!

 くそ、やっぱり月見里の奴は、そもそも俺に頼る気があんまりないな……!


「それでは俺は、これで」


 そのまま立ち去っていく風道を引き留める理由はなく、俺には見送るしかない。


 だが――どうする?

 なにせ相手は月見里一華だ。妻鹿椛あのポンコツとは比較にもならない女子力を持っている。

 それが上手く機能してくれるのなら、いっそ問題ないのだ。

 月見里が風道の心を奪い、ふたりが付き合ってくれるのなら、失恋者が出ないという意味で課題はクリアする。


 ――が。

 現状、俺にそんな未来は見えなかった。


 皮算用にすらなっていない。月見里にとって、風道ほどの強敵はいないだろう。

 よくも悪くも世間擦れしていない風道には、月見里の方法論が通じないと俺は知っている。

 だからこそ、その上で先走ってしまいかねないのが俺にとっての懸念事項だ。


 今、果たして俺が採るべき選択肢とは何か。

 こっそり月見里と風道を監視する?

 ストーカーかよという根本のツッコミを措いたとしても、部室には妻鹿と蒼汰を残すことになるのだ。いかに妻鹿がポンコツと言っても、監視の目そのものを切らすことは避けたかった。

 どちらを選ぶべきだろう?


「ん……?」


 スマホのLINEにメッセージが届いたのがちょうどこの瞬間で。




『お困りですか、せんぱい?』




「……だから、なんでこいつは見てきたかのように状況を掴んでるんだろうな……?」


 小さく俺は呟いた。

 ああ、そうだった忘れていた。


 俺にはひとり、心強い協力者がいるのだということを。



     ※



 ――二分後。

 部室の扉を開いた俺は、ちょうど出てこようとした妻鹿と遭遇した。


「わ……あっ、ちょっと萩枝! もう、遅かったから探しに行くとこ――なんで花束?」

「……………………」


 この女、蒼汰とのふたりきりがいたたまれなくなって、逃げ出そうとしたな。


 こいつは放っておいて構うまい。

 たとえふたりきりで無人島に遭難しても告白できるか怪しいわ……。

 恋を告白する地球上で最後の人類が、お前だよ、妻鹿。たぶんな。


「……な、何よその顔」


 思わずじとっとした視線で見てしまった。

 意味に気づいたのだろう、ちょっと狼狽えたように妻鹿が後ずさる。

 ……さて。


「ごめんごめん、ちょっと用事を思い出しちゃってさ。はい、これ」


 有無を言わさず妻鹿に花束を手渡す。


「え、え? 何これ……?」


 混乱する妻鹿。それを尻目に俺は蒼汰へ視線を投げて。


「蒼汰。確かどっかに、使ってない花瓶あったよね。去年まで使ってたやつ」

「ああ……確か《聖夜の血みどろ爺さんブラッディサンタクロース》事件の前まで出してたっけ」


 アゴ部では定期的に事件が起きる。

 たぶん、どこかに探偵でもいるのだろう。小学生の姿をした死神みてえのが。

 ブラッディサンタクロース事件もそのひとつだ。

 去年のクリスマス、部室で血まみれになったサンタが発見されたくらいのことで、正直よくある話だ。あって堪るかバーロー。


「悪いけど、蒼汰。この花、花瓶に入れといてもらえる?」

「いいけど……えっと、水入れて挿しときゃいいもんなのか、こういうのは?」

「その辺はきっと妻鹿が詳しいよ」


 いきなり水を向けられて「ええっ!?」と狼狽える妻鹿をスルー。

 お前はもう少しくらいまともに蒼汰と話せるようになりなさいな。


「さっき、そこで風道に会ってさ。風道が持ってきた花だから、よろしく」

「な、なんで花……?」


 不思議そうに首を傾げる妻鹿。

 まさか自分にプレゼントされる予定だったとは思わないらしい。そりゃそうだわ。


「それじゃ、悪いけど俺は用事ができたから、もう行くね」

「なんだよ急用って。まさか女じゃないだろうな」


 快活に笑う蒼汰。

 冗談で言っているのだろうが、正直あまり笑えない気分だ。


「似たようなものかもしれないね。とにかく、三人でのゲームは持ち越しで」

「おう。また明日なー」

「また明日。帰りはちゃんと妻鹿を送ってってやってくれよ? ――妻鹿、ちょっと」


 鞄を取ってから、視線で妻鹿を廊下に促す。

 扉を閉めて、俺はついてきた妻鹿に冷めた視線を送りながら言った。


「……その分だとまだ何も話せてないな?」

「うぐ!? だ、だって、伊丹みたいなタイプと話すの、まだ緊張しちゃって……」

「別に、今さらそんなこと気にしなくたっていいだろうに」


 ――妻鹿椛は変わったのだから。

 中学時代とは、似ても似つかない人間に。

 きちんと、彼女は成長した。


「……今日中に、好きな女子がいるかどうかくらい訊いとけよ。答え云々以上に、それを訊くことでお前を女子として意識させることも重要なんだからな。ちゃんとやること」

「そ、そんな短い制限時間で!」

「喧しいよ。まったく短くないよ、ひと言訊くだけだろ」


 小さく息をつく。

 ああもう――俺はいったい何をやっているんだ。


「……そんくらいがんばれ。できたら、また


 それは中学時代の取るに足らない思い出。

 毎日、放課後に作戦を失敗しては、行きつけの喫茶店で反省会をした。

 俺にとっても、楽しい日々だったことを覚えている――果たして、妻鹿にとってはどうだっただろう。


 あの頃の俺たちは、ほとんど毎日のように顔を合わせていたけれど。

 それは、今も別に変わってはいないはずだけれど――。


「――わかった」

 妻鹿はそう、呟いた。

「じゃ、それ約束ね。ちゃんと覚えとくから」

「おう、そうしとけ。お前ががんばってる間は協力してやるからよ」


 いつかの放課後の日々のような、隠している口の悪さを露わにした言葉に。


「……ん。ね、――


 いつかのような呼び方をして、妻鹿は俺にこう言った。


「ありがとね」


 俺は答えずに、肩を竦めて廊下を歩く。


 ――自分が、感謝の言葉に相応しい存在ではないことくらい、知っていたから。

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