1-10『俺にとっては尊くない』1

 俺は思う。誰しも、おおむね自分の生活に、実は満足しているのではないかと。

 言うほど誰も、現状には不満を持っていない。少なくとも絶対値としては。

 それは、騒いだってどうにもならないという純然たる現実以前に、そもそも不満なんて相対的な比較から発生するものでしかないと思うからだ。

 上と比べるから劣っているよう感じるだけで、自分より下と――そう見做すものと比べるなら、話は別だ。


 優越感というよりは安心感か。

 上がらないことと下がらないことの価値を等価と見做すなら、そのとき現状にはそれだけで絶対的な価値が生まれる。現状を保つことの価値が。

 上がるにせよ下がるにせよ逸脱であることに違いはない。

 なら、現状をそのまま保てることには、ただそれだけで意味がある。

 そのとき、自分の相対的なポジションがどこだろうと、現状維持そのものの価値は誰にも等しいのだから。


 変わることを選ぶのは酷く恐ろしいことだ。

 だから、恐るべき姉君が卒業していなくなっても、それで自由を取り戻しても――俺は別段、今を変えたいというふうには考えていなかったりする。そうではない。

 今を維持すること。

 それを、自分の力でできることに意味を見出しているだけなのだ。


 その意味で俺は、ほかの連中とは違っている。

 月見里とも、風道とも、妻鹿とも。

 恋をすることを選んだ連中とは考えが違う。


 ――今が変わってしまうくらいだったら、俺は恋などしたくないのだから。



     ※



 下校のため昇降口まで行くと、ひとりの少女が腰に手を当てつつ待っていた。


「やはり出発ですか。わたしも同行しましょう。むふんっ」


 何やらノリノリの様子で、蝶野ぼたんがそう言った。――が。


「いや、むしろ蝶野に呼ばれてきたんだけど」

「もうちょっとノッてくれてもいいと思うんですけどね……せっかく用意してきたのに」

「なんで不服そうなんですかね……むくれるな、むくれるな」

「むぅ。お困りのせんぱいをお助けするために醸し出す後輩感がわかりませんかね」


 わからねえよ。


 ツッコミすらしない俺に、蝶野がふと腰に手をやる。

 正確には、そこに提げている植木鉢のデザインをした小さなポシェットに。

 どうもかなり気に入っているらしく、入学以来、外しているところを見たことがない。

 茶色の、まさに植木鉢といったデザインで、土を表現している上部の焦げ茶色部分が蓋になっている。そこが円形に開いて、中にものを出し入れできるわけだ。

 それ自体はかわいらしいと思う一方、果たして女子高生が常用するポシェットの意匠に植木鉢を選ぶものなのかどうか、その辺りはわからなかった。


「ちゃららら~」

 植木鉢のポシェットに手を差し入れながら蝶野は言う。

「取り出しますはこちら、ポイントカード~」

「……何それ?」

「これまで貯めた後輩ポイントが刻まれているのです」

「え、何? ここで使うの?」

「いえ、単に見せびらかそうと思っただけですね」

「今すぐ仕舞え」

「……えっへへー」


 ツッコまれるだけで上機嫌になる後輩は、実は安いのかもしれない。嬉しくないが。


「やっぱり、せんぱいとお話しするのがいちばん楽しいですね」

「……その心は?」

「後輩ポイントをいちばん貯めやすいから、ですかね。どうですか嬉しいですか?」

「観点が独特すぎて喜び方がわからないかな……」


 もしやこいつは、俺のことを玩具か何かだと思っているのだろうか。

 だとしたら悲しすぎるが、それを笑って流してやってこそ先輩なのかもしれない。


「おほんっ。というわけでですね、せんぱいっ」


 ぴん、と指を一本立てて蝶野は言う。

 全てはさきほど、彼女から届けられたLINEに端を発していた。


「――いっしょにデートに行きましょう!」

「そうだね」

 俺は頷いた。

「いっしょに、月見里と風道のデートにね」

「……いけずです」


 つまりはそういうことだった。


『お困りですか、せんぱい?』


 さきほどそんな内容で届いた蝶野からのLINE。

 いったいどこから俺のことを覗いていたのか、割と恐怖を感じるタイミングだったことはともかく――続けてのメッセージ。


『実はわたしもお呼ばれしているんです。せんぱいもいっしょにどうですか?』


 月見里と風道が遊びに行くという情報を、蝶野は掴んでいたらしい。

 へにゃへにゃしているようで意外と抜け目ない奴だ。


「ほらほら。一華先輩も柳くんも先に待ってるんですから。早く行きましょうよ」


 ぐいぐいと背中を押して、俺を下駄箱のほうに向かわせようとする蝶野。

 彼女と同盟を結んでから一週間。

 今さらのように、俺は当初から気になっていた問いを蝶野に投げ込んでみる。


「……お前、これでいいのか?」

「はい? 何がです?」

「いや、ほら。言ってみれば俺たち、今から月見里を邪魔しに行こうとしてるわけで」

「それはホントに今さらな気がしますけど……」


 まあ確かにそうだけど。


 流れで、ほかに選択肢もなかったとはいえ、入学したばかりの一年生を、こんな面倒な人間関係の中に巻き込んでしまうのは申し訳ない気分だ。

 部長、らしからざると言うか。


「いやでも、やっぱ失望したんじゃないのか……?」

「失望って……何にですか?」

「いや、まあほら。俺があんまり性格よくないことに、とか……」

「そんなことに失望なんてしませんよ」


 それなりに意を決しての問いに、けれど蝶野はあっさりそう答えた。

 俺は目を見開く。

 これでもそれなりに《優しい先輩》を演じていたつもりだったのに。


「え、そうなのか……?」

「はい」

「なんで……だって俺、自分で言うのもなんだけど、結構あくどいこと言った気が……」


 人の恋路を邪魔するとはなんて奴だ、とドン引きされてもおかしくなかった。

 なのに蝶野は、うっすらとした微笑を湛えた表情で言うのだ。


「いえ、だって――せんぱいの性格が悪いことくらい、最初から知ってましたし」

「…………あ、そういう……ああ。へえ」


 衝撃の事実――別に最初からそんな尊敬とかされていなかった。


 そうだね。

 人望がなければ失望されることはないからね。

 まったく正しいわ。うん。


「第一、せんぱいがやってること――そんなに悪いことだとも思いませんし」


 さらに重ねてそんなことを言う蝶野。

 そうかな……それはさすがにおかしいと思うんだけど……。

 いや、でも、そう思っているからこそ、こうして手伝ってくれているのだろうか。

 俺が何を言わずとも、蝶野のほうから《月見里と風道が出かける》と教えたことは事実だ。

 普通なら、ふたりを邪魔しないであげようと考えるほうが自然な気がする。


 ――正直な話、蝶野が何を考えているのかがわからない。


「そんなこと話してる場合じゃないですよ。急がないと一華先輩が、柳くんに振られてるかもしれません」

「お前も結構なこと言うよな……さすがにそんないきなり、フラれたりしないでしょ」

「え?」


 俺の言葉に、蝶野はきょとんと目を見開いた。


「え……何その不穏なリアクション。嘘だよね?」

「嘘っていうか……一華先輩、ひと月以内に速攻でぶつかるとか言ってましたよ。たぶん少しでもいい雰囲気になったら即、行きますね。――だって一華先輩ですよ?」

「――――うそぉ」

「恋愛なんてそもそも速攻勝負ですからね。うだうだやってると、あっという間に横からかっ攫われるのが常ってものです。何か月もかけるものじゃありませんって」


 急に正論を吐く蝶野だった。

 その言葉、俺じゃなくて妻鹿にでも言ってやってくれ。


「さあ。さあさあ、早く止めにいきましょう。ほら靴を履き替えてください。せんぱいがこの部活を守れるかどうか、その瀬戸際がやってきたんですよっ!」


 ぼやぼやしている間に、俺の下駄箱から蝶野が外履きを出してきた。

 異性の先輩の靴を躊躇なく準備できるの、本当にわかんねえなコイツ……。


「下駄箱で温めておきましたよ」

「秀吉に謝れ、お前は」

「ごめんちょ藤吉郎」

「距離感」

「歴史を身近に感じる姿勢ですよ」

「物は言いようだよな……」

「それこそ、身近にいいお手本がいたからだと思いますけど」

「……悪い先輩に掴まらないようにしろよ」

「手遅れですねー」


 やり取りを挟みながら履き替えている間に、止める隙もなく上靴を仕舞いにいく蝶野であった。



     ※



 集合場所は最寄りの駅近くにある一軒の喫茶店だった。

 去年一年間、アゴ部の窓口として渉外役を果たし続けた後遺症として、俺を見るだけで話しかけてくる大人がこの辺りには多い。

 静かに過ごせる店は割合、貴重なのだ。


 喫茶《ほのか屋》は、学校近辺では数少ない俺にとっての憩いの場だった。

 静かで落ち着いた雰囲気のある、お気に入りの店なのだ。

 だからこそアゴ部の連中には絶対に教えないと決めていたのだが、ただひとり月見里だけはこの店を知っていた。


「いらっしゃい。――おや、萩枝くんが女の子連れとは珍しいね」


 ドアを開けると、馴染みになったマスターがそう言って俺たちを出迎えてくれた。


「どうも、マスター。ご無沙汰です」

「デートかな。萩枝くんもなかなか隅に置けないね」


 高い身長で朗らかに微笑むマスター。余裕のある大人の態度が実に格好いい。からかうような言葉でさえ、聞いていてまったく不快にならないのだから人徳だ。

 ぜひ見習いたい技術である。

 やはり人間、いかに相手に不快感を与えず話せるかが人生を豊かにする秘訣だと思う。


「おや、店主さんですか。さすが眼力がありますね」


 間違っても蝶野のように思いついたこと全て口にする人間になってはならない。

 もちろん、初対面でぐいぐいキャラを出してくる蝶野にも、マスターは大人の対応だ。


「本当に正解? へえ、あの萩枝くんが恋人を連れて来る店に選んでもらえるとは。僕も嬉しいよ」


 ここらで俺も誤解を糺そうと口を挟む。

 妙な勘違いされて堪るか。


「違いますよ、マスター。こいつは恋人じゃありません」

「そう……ですよね。わたし、なんて……所詮は、ただの、体だけの関係です、もんね」


 お前のアドリブ力を少しは妻鹿に分けてやってくれ。

 つーかどうして余計なことばっか言うかな!


「は、萩枝くん……?」


 ほらマスターが引いてるじゃん!

 やめてくれ。アゴ部員以外の真人間たちに引かれるのは嫌なんだ。本当にマジで。


「違います誤解です、違うんです。そいつは日本語覚えたてなので変なこと言っても全てスルーしてあげてください」

「外国の子には見えないけど……」

「外宇宙の子なんです」

「誰がエイリアンですか、せんぱい!?」

「どっちかと言うならむしろプレデターだよ、お前は」


 俺の日常を侵略してくる辺りが。

 とは言わず、そのままなあなあで話を誤魔化すようマスターに言った。


「というわけで、アゴ部の後輩の蝶野です」

「そうかい。よろしくね、蝶野さん」


 不服そうにしていた蝶野も、大人にそう言われては「あ、はい。よろしくお願いします」と言うほかない模様。

 マスターならこいつを大人しくさせてくれるのか。いい知見だ。


「月見里、来てますよね?」

「ああ、待ち合わせだったんだね。奥にいるよ、どうぞごゆっくり」


 マスターの案内に従って、奥の席へと蝶野を連れていく。

 当然、月見里と風道はすでに待っていた。


「おっす」


 と俺は声をかける。

 四人掛けのテーブル席で向かい合うように座る月見里と風道。

 奥側に座った月見里が、顔を上げて俺を見るなり「うへぇ」とばかりに表情を歪めて。


「……なんでいんの?」

「なんで、って」


 ちょっと不思議な反応だった。そりゃ邪魔ではあるだろうが、来ることは知っているのだから、理由を訊いてくることはあるまい。

 答えようとした俺。それを横合いから、遮るように声を出す者がひとり。


「どうもー、これは奇遇ですね、一華先輩に柳くん! ここで会うとは予想外です!!」


 月見里は口を閉ざしたし、俺もまた言葉を失っていた。

 ただひとり、風道だけがごく普通に答える。


「おぉ、蝶野さんに萩枝部長。さきほど振りです」

「はいはい。いやあ、今日はせんぱいがオススメの喫茶店を教えてくれるということで、ノリノリでデートに来たのですよ」

「デート」

 ハッとした表情を見せる風道。

「なるほど……それは知らなかった。おめでとうございますと言わせてください。気の回らない後輩で、実に申し訳ありません」


 マスターと違い、こっちの男は本気で誤解している可能性が高い。

 俺もようやく再起動。風道の勘違いを訂正すべく、そこで慌てて口を挟んだ。


「風道、それ勘違い。ていうか俺は、ここにお前らがいると聞いたから来たんだけど?」

「……そういうことか」


 小さく呟いたのは月見里だった。さすが、理解が早い。

 彼女はちら、と一瞬だけ蝶野を見る。

 蝶野は何を答えることもせず、代わりに月見里が小さく溜息を漏らし、それをなかったことにするかのように急な笑顔を作った。


「そっかそっか。偶然なら仕っ方ないよねー、なぁるほどっ!」


 明らかに含みのある口調。風道はともかく蝶野が気づかないはずがない。

 しかも、さり気なく『なぁるほどっ』が伝染している。

 いや、そこはどうでもいい。


「それならせっかくだし、同じ部員同士、交流を深めよっか! そろそろ一年生たちも、アゴ部に慣れてきたみたいだしねー?」


 朗らかに言う月見里の姿が、なぜか恐ろしい。

 なぜだろう。彼女の言葉を素直に受け取れず裏の真意を勘繰ってしまうのは、月見里の素を俺が知っているせい……だけでは、ないような気がしてならない。


 ていうかこれ蝶野の奴、どう考えても月見里に話を通していないですよね……?

 しれっと嘘をついていたということになるのだが、どういうことだろう。


「そうですねー」

 何も言えない俺とは違い、蝶野はブレなかった。

「なにせアゴ部の部長と副部長が、ここには揃っていますので。せっかくですし、いろいろお話聞きたいです」

「あっはは。話すことって、でもそんなにないけどなー? 逆に何を聞きたいの?」

「それはもちろん、わたしたちが入部する前のこととか超興味ありますね。去年のことはちょっとしか聞いてないんですけど、ずいぶんヤンチャだったとか」

「それは恋くんくらいだよー。わたしなんか、この部じゃ大人しいほうなんだから」

「ほう、せんぱいが……気になりますね」

「えーでも、恋くんもかわいがってる後輩には聞かれたくないんじゃないかなー?」

「……、……」

「それよりもほら、ふたりとも早く座りなよ。先に注文しなくちゃね」

「……それでは、失礼しますね」


 笑顔の月見里の隣に、笑顔の蝶野が腰を下ろす。俺は空気と同化し、存在感を無に薄めながら、風道の隣に座った。

 なんだろう。なんでこんな、意味のわからない緊張感があるんだろうか?

 別に修羅場でもなければ恋敵同士でもないのに、なぜお互いに牽制し合うような会話をするのか。


 このふたりは仲がいいの? 悪いの? どっちなの。

 誰か助けて。

 そう祈る俺の耳に、横合いから生真面目な声。


「部長」

「……おう、どうした?」


 小声で話しかけてきた風道に、俺もまた小声で応じる。

 いくら風道でも、さすがにこの空間に流れる謎の緊張感には気がついたか。

 彼は、こう言った。


「コーヒーって、とても美味しいものですね。俺は初めて飲みました」

「そうだね。うん。俺はそんな風道のことが大好きだよ」

「……? ありがとうございます」

「どういたしまして」


 いつまでも、まっすぐ素直な風道でいてほしい。

 俺は、心からそう願うのだった。


 ――なお結果として、蝶野が嘘をついていた事実はうやむやになった。

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