1-02『告白をしなければ失恋をすることもない(論理)』2

 六月の後半、二十五日。火曜日。

 昨日までの雨がやみ、空に晴れ模様が見えたその日の放課後、俺は新体制となって初の部内会議ミーティングを行う――と部員たちに招集をかけていた。


 アゴ部、もといアナログゲーム部は、基本的には自由参加のユルい部活だ。

 来たいときに来て、たまたま居合わせた相手と、そのとき目についたゲームで遊ぶのが主な活動内容。

 もちろん部員同士で示し合わせて来てもいいし、なんなら部外から友達を誘ってきても構わないが、出席率は悪くないため『誰かしらいるだろ』が基本スタンス。

 なんとなく行けば、だいたい数人は集まっている。そんなものだった。


 あとは月一程度で部内大会を開いたり、あるいは大々的に参加者を募ってのゲーム会も不定期に開催していた。

 学外で、有志や公式のゲーム大会に参加することもある。

 こちらの活動が、アゴ部の《活動実績》として学校側に報告されるわけだ。


 そんな事情も相まって、およそ月一でミーティングを行っていた。

 次のゲーム会のテーマはどうするかとか、どこそこで大会があるらしいから出場しようとか。

 まあおおむね、部員たちのスケジュールを管理する程度の意味合いである。


 加えて今回は、俺が部長として仕切る初の定例ミーティングでもある。

 今年一年のおおまかな予定や、部としての目標なんかも決める大事な会議。萩枝体制の行く先を占うスタートダッシュである。是非とも成功させたい。

 そんなことを考えながら昇降口をくぐる俺に、正面からかけられる声があった。


「おいす、恋。おはようさん」


 ちょうど下駄箱から上靴を取り出していた男子Aが、空いていた手を軽く上げる。

 嫌味なく爽やかな笑顔。細身ながら引き締まったスポーツマン体型で、まさかこいつが悪名高きアゴ部員であることなど、外見からは想像できないだろう。

 進級でクラスこそ別になってしまったが、この男――伊丹いたみ蒼汰そうたは俺にとって特に親しい友人である。

 蒼汰に負けないよう、可能な限り爽やかな挨拶を心がけて俺は笑った。


「ああ、おはよう。いい朝だね」

「なんだそりゃ、どした急に珍妙な顔して」


 俺はイケメンが嫌いになった。

 いや出会い頭に人の顔を珍妙とか言う?

 何? 俺には爽やかに挨拶する権利もないってのかい。

 それともないのは能力かな?


「いや、悪い悪い」


 不満が伝わってしまったのか、蒼汰は軽く肩を竦める。


 おっと、いけない。

 俺はこれでも、外面は優等生として通っているのだ。軽く笑われた程度で機嫌を損ねては、イメージというものが崩れてしまう。明るく優しい萩枝くんだ。

 急いで取り繕おうとした俺に、蒼汰は続けて。


「こっちに歩いて来るときは、すげえ不景気な顔してたからさ。何かあったのか?」

「ん、ああ……」


 どうやら俺の表情がいきなり変わったこと自体を不審に思ったようだ。

 よかったよ。ならまだ俺が爽やかである可能性は、箱の中の猫の生存率くらいある。


「いや、別に機嫌が悪かったわけじゃないんだ。ちょっと考えごとしてて」


 これは嘘ではないため、軽く答えた。

 今日はミーティングなわけだが、その前にひとつ懸案事項が飛び込んできたのだ。


「考えごと?」

「というか、蒼汰こそいつもよりなんか……顔色が悪くないか? なんか寝不足っぽい」


 俺は気になっていたことを訊ねてみる。

 伊丹蒼汰はいつだって爽やかな笑みを崩さない美丈夫だが、今日はなんだか、少しだけ目元が暗い気がする。

 徹夜をした、と言われれば納得できそうな程度には。


「っと――顔に出てたか? そりゃよくない」


 明るめの茶色に染めた髪を、わずかに揺らす蒼汰。

 悟られるとは思っていなかったらしい。ちょっと驚いたようだった。


「どうしたのさ。蒼汰のことだから、徹夜で勉強してた、なんてことはないよね?」

「そりゃオレが普段から勉強してねえって意味か?」


 軽く肩を小突いてきた蒼汰に、俺は首を振る。


「蒼汰なら、徹夜なんてしなくてもそれなりの点は取れるって意味だよ」

「相変わらず口が回る……中間も終わったばっかで、徹夜なんてする奴いねえだろ」

「まあ、かもね」


 あくまで友人を心配しての言葉である、というスタンスを俺は貫く。

 視線を逸らさずにいると、蒼汰は「まあいいか」と呟き、それから続けてこう言った。


「ちょっと朝帰りでな」

「…………」


 なるほど聞かなきゃよかった。心配して損したわ。

 思わずジト目を向けてしまった俺に、天賦のリア充はからからと笑う。


「冗談だっつの。朝からガッコあんのにそんな馬鹿しねえよ」

「……蒼汰が言うと真実味が強いんだよね。ほら、どこから見てもチャラいから」

「恋って、オレのこと妙に遊び人だと信じ込んでる節あるよな……」


 信じるも何もない。

 アゴ部、なんて部活に所属していることのほうが不思議なくらい、伊丹蒼汰という男は女子にモテるのだ。

 人生の中で、彼女がいなかった期間のほうが短いと言われても、俺は一切疑ったりしないだろう。


 いや、別にいいんだけどね。

 モテる男が女の子と遊んでいて、悪いことなどない。

 別に俺がモテないから言っているわけではない。

 ない。


「――恋は本当に相変わらずみたいだな」


 だがそんな俺を見て、蒼汰は呆れ混じりに肩を竦めてみせるのだ。

 朝の間だけで二度も《相変わらず》と言われるのは、なかなか稀有な経験だ。


「なんの話だよ……」

「いや。ただ、二年になってもまだ恋愛嫌いなのかと思って」

「……別に嫌いってわけじゃないけど」


 少しだけ素の口調が漏れてしまった気がする。

 だがこれは言っておきたい。


「単に俺は、中庸主義的ってだけのことだよ。バランサーなんだよ、姉貴のせいでさ」


 世の中、過不足なくちょうどよく、バランスを取って生きる――それが結局、いちばん自分の得になるのだから。高望みなんてするものではない。

 もっとも、そんな俺の価値観の表明は、蒼汰にはまったく響かなかったようで。


「《恋》って名前なんだし、恋のひとつくらい楽しんでもいいんじゃねえの? 枯れたこと言うもんじゃないだろ、高校生がさ」

「そうやって名前でからかわれるから嫌になるんだろ……」


 恋という自分の名前自体が、俺はあまり好きではなかった。

 いや、別に文句はない。

 ただ自分には合っていないと思えてしまうだけなのだ。


 どうやら蒼汰は、そうは思わないらしいが。


「似合ってる名前だと思うけどな。お前、割と童顔だし。かわいらしいだろ」

「……それがコンプレックスなんだよ。小さい頃、女男ってからかわれたトラウマがね。姉貴のお下がりを着用させられる原体験は、俺の人格形成に多大な影響を与えてるよ」

「もったいないよなあ」

 蒼汰は肩を揺らした。

「お前なら、恋。ちょっとその気になりゃ、彼女くらい作れると思うんだよ。なんならオレよりモテるんじゃねえの?」

「またずいぶんと褒めてくれるね。そりゃありがとう」


 俺は流すように答えた。お世辞でも、美男子に持ち上げられれば悪い気はしない。

 ああなるほど、だから蒼汰はモテるのだろうか――ちょっと秘密を覗いた気分だ。なるほど。


「まあいいけどな……そんで?」


 蒼汰のほうも、俺がまともに受け取らなかったことには気づいたらしい。

 小さく溜息を零すと、話題を変えるように言った。


「恋のほうはなんでまた、朝から不景気な顔で歩いてたんだよ?」

「ああ。いや、別に大したことじゃないんだけど――」


 答えながら靴を脱ぐ。今朝は早めに家を出たお陰か、まだ昇降口に俺たち以外の人影はない。

 とはいえ、そろそろ登校ラッシュが始まるだろうから、話し込んでもいられない。

 教室へと向かうべく、下駄箱の上靴を取り出そうとしたところで。


「ん?」


 手が止まる。下駄箱の中に、靴以外のものを見つけたからだ。

 怪訝そうな蒼汰の視線を横に感じる。

 あまりに想定外の代物を見つけてしまったせいで思わず変な声が出た。


 ――下駄箱の中に見つけたものは、一通の封筒だった。


「――――」


 学校。下駄箱。手紙。

 そして『萩枝恋先輩へ』と丁寧に記された黒い文字。

 これらの要素から導き出される答えなど、決して多くはない。


 そのとき蒼汰が短く言った。


「どした?」

「いやぉおぉん、なんでもぉ?」


 言いながら俺は、ドミノが倒れるみたいな挙動で咄嗟に下駄箱にもたれかかる。

 ごん、と頭が下駄箱にぶつかって、固い音を立てた。

 その勢いで手紙ごと下駄箱の蓋を封印することに成功した俺だが、代償として完璧に挙動不審だった。


「いや本当にどうした……?」


 あからさまに不審そうな蒼汰の声が鼓膜を揺さぶる。

 咄嗟に、ラブレターを蒼汰の視界から隠そうとしてしまった。これはしまった。


 ……ラブレター。

 そう、ラブレターである。

 日本語で言えば恋文だ。

 日本語で言う意味ないけども。


 古来よりこの国において、学校の下駄箱に置かれている手紙は高確率でラブレターだと相場が決まっている。

 これは俺にとって、少しまずい展開だった。


 ――だって今し方、さも恋愛には興味ありませんムーヴをかましたその直後に、まさかラブレターを貰うとは思わないじゃないですか。


 その上、ちょっと喜んでるだなんて絶対に悟られるわけにはいかないじゃないですか。

 恥ずかしすぎるじゃないですか。


 でも男の子だもの。

 そうなっちゃっても仕方ないじゃないですか。ねえ?


「……なんで急に下駄箱に頭突きしたんだ……?」


 ものすごい変人を見る目で蒼汰が言った。

 やめて。

 そんな目で見ないで。


 もはや誤魔化しきるしかなかった。

 約80度くらいの角度で壁に寄りかかっている俺は、せめていい声で言った。


「うん。ちょっと、自分が生まれた意味を考えようと思ってね?」

「おっと? 恋が変なこと言い始めたな?」


 何か引っかかる言い回しだが、それどころじゃない。俺は続ける。


「いや。人はいつも、誰かに助けられて生きているだろ? そうは思わない?」

「そうだな。それはお前の言う通りだろうさ。で?」

「だから俺は、常に俺を支えてくれている……そんな人たちの気持ちを感じたいんだ」

「それは下駄箱に頭突きすると感じられることなのか?」


 絶対に感じられないと俺も思う。が、それをどうにか言い繕う必要があった。

 大丈夫。理屈とナントカはどこにでもつく、と昔の人も言っていた。

 俺は笑みを作る。


「――俺は今、《人》なんだよ」

「すごいな。言葉の上ではその通りなのに何言ってんのかわからねえ」

「つまりだね、蒼汰。《人》という漢字は、人と人とが支え合ってできているわけで」

「……それで?」

「俺は今、その支える側である、人の字の短いほうをその身で体現してるんだよ」

「……へえ、そうなんだ……」


 蒼汰が割とマジで引いた感じの声を出していた。


 わかる。俺も目の前で下駄箱に寄りかかって人文字で《人》書く奴がいたら引く。

 そもそも下駄箱が垂直な以上、漢字の《人》というよりカタカナの《ト》に近かった。

 俺は自分を守るため、下駄箱でカタカナのトになった――ということになったのだ。

 今日は朝から心がつらい。


「あー……だとすると、もうちょっと倒れないと角度が縦すぎないか? それじゃ漢字の《人》っていうより、カタカナの《ト》だろ」


 うっせーな《ヒ》くらいそっちで補完して《ヒト》にしとけよ(逆ギレ)。

 イケメンによる優しいダメ出しが心に染みるね……もう誤魔化せればなんでもいい。


「そうだね。もうちょっと前のめりになったほうがいいよね。下駄箱くんも気を利かせてもう少しこっちに体重を預けてほしいところだよね」

「いや、何言ってんだお前?」


 自分でもわからない。

 俺はさらに下駄箱へ体重を預け、足を引いて頭の高さを下げる。


 ところで、これは余談なのだが、俺の下駄箱は上から見て二番目のボックスだ。

 つまり俺が頭を下げることによって、下駄箱の蓋を開けることができるようになる。

 蒼汰はあっさり俺の頭突き封印を解くと、そのまま蓋を開けた。


「いや何してんの、蒼汰!?」

「悪いが、そりゃオレの台詞だろ。こんな手に引っかかると思わなかったよ、オレも」

「くそぉ反論できない!」

「で……へえ? なるほど、ラブレター貰ったのを隠そうとしてたわけね……」


 ――ぐう、全てバレた。


 いや、別に普通にしていればよかったんですけどね?

 ほら、一回隠そうとしちゃった時点で意味が出ちゃうじゃないですか。

 嬉しかった感が出ちゃうじゃないですか。

 そしたらもう貫き通すしかないみたいなとこあったじゃないですか……。


「今どき下駄箱にラブレターとは古風じゃねえの。よかったな?」


 蒼汰がからかうように笑いながら、手紙を俺に差し渡す。

 くそ、いい顔しおって。


 手紙を受け取って、改めて俺は封筒を確認してみる。

 黒い文字。

 さきほどはちらっと見ただけで気がつかなかったが、よく見るとその文字は筆ペンで綴られている。なるほど古風で丁寧な女の子からの……うん?

 いや、筆ペン?


「…………」


 俺は封筒を裏返し、差出人の名を見る。

 そこには、ものすごく達筆な字で、後輩の男の名前が書かれていた――『やなぎ風道かざみち』と。


 ……いや男からなのかよ。

 じゃあなんだったの、さっきの俺の一連の恥は?

 まるきりただのバカじゃん。


「く、ふっ……はははっ」


 思わず目を細めた俺の傍らで、すでに差出人の名を見たのだろう、噛み殺すように笑う蒼汰。じとっとした恨みの視線を向けてしまうのも、仕方のないことだと思う。

 なるほど梅雨明けで逆に春が来たと言うなら、確かに笑いどころかもしれなかったが。

 残念ながら、俺はラブレターですらなかった手紙を無理やり隠すために、奇妙な行動をし続けていただけらしい。

 恥を隠そうとして恥を倍に増やしただけの阿呆だった。


「風道からか。手書きの手紙ってのがあいつらしいな」


 ようやく笑うのをやめて、蒼汰は言う。


 差出人である柳風道とはアゴ部の後輩の名だ。

 部員Cと言ってもいい。

 悪評が広まったせいか、残念ながら今年入部してくれた一年生は、彼を入れてふたりだけである。

 だからってわけでもないが、俺にとっても蒼汰にとっても、かわいい後輩ではあった。


「……はあ。なんでまたよりにもよって、下駄箱に入れておくかな……」


 わざわざ便箋を用意して、筆ペンまで使いながら、封はセロハンテープで済ませている辺りがなんとも風道らしかった。

 生真面目な奴だが、生真面目すぎて少し抜けている。


 封筒から取り出した便箋。

 その文面もどうやら筆ペンで書かれている。


 そこで蒼汰が「んじゃ、先に行ってるわ」と言った。

 個人宛の手紙だから、気を遣ってくれたのだろう。

 イケメンとは基本的に気が回る生物だ。


「ん。また放課後にね」

「期待してるぜー、新部長」


 去り際の言葉に肩を竦めることで返してから、やたら達筆な文面に改めて目を落とす。

 部活の後輩の男子から朝の下駄箱に届けられていた直筆の手紙。


 そこには、こう綴られていた。


『拝啓 梅雨の合間に窺う晴れ空も、すっかり夏を示し始めたこの頃。萩枝先輩におかれましては、如何お過ごしでございましょう――』


「いや丁寧すぎるわ」


 自然とツッコミが声に出た。


 時候の挨拶から入るとはさすがに想定外だ。

 道理で妙に文章が長いと思ったよ……。

 申し訳ないが内容と無関係そうな部分は読み飛ばし、本題の部分を探す。と、


『つきましては先輩に折り入ってご相談があり、こうして筆を執らせていただきました。厚かましいお願いでございますが、本日に予定されている会合の前に、少しだけお時間をお貸しいただければと存じます。ご迷惑かとは思いますが――』


 そこで顔を上げる。文面が固すぎて、危うく中身が頭に入らないところだった。

 いつも礼儀正しい奴ではあるが、文章で見るとより堅苦しく感じられてしまう。

 どうやら、個人的な相談に乗ってほしいという頼みらしい。

 ……そういうことだよね?


 LINEにひと言送れば済むくらいの内容だったが、風道は機械に弱い。

 読むだけとか簡単な返答ならできるが、長い文章をスマホに打ち込むのは面倒だったのだろう。

 正直、俺もフリック入力を使いこなせずキーボード入力なので、気持ちはわかる。


「しかしこれ、どうやって返事すればいいんだ?」

 なんか丁寧な手紙を頂いちゃったし、俺からも手紙を書かないといけない気になってくるが。

「……まあLINEでいいか」


 さすがにそこまで求められないだろう。

 返事は普通にスマホから送るとする。


「ふーむ……」と俺は呟いた。


 こうなるとタスクがふたつに増える。

 手紙を仕舞って歩きながら、俺は考えてみた。


 というのも、実は《今日の放課後に時間を取ってほしい》という頼み、このひとつだけではなかったのだ。

 今朝、LINEでもうひとつ、別の奴から同じことを頼まれていた。


 そして、そちらもアゴ部員。

 クラスもいっしょの女子からの頼みだった。


 俺の顔を見て、蒼汰が『不景気』と称したのもそのせいだろう。

 この件を蒼汰にも相談してみようと思ったのだが、想定外の手紙でうやむやになってしまった。


「……気が重いなあ。俺になんの話があるってんだ、あいつ……」


 わざわざ定例ミーティングの日に、部員から相談ごとを持ちかけられるとなると怖い。被ったのは偶然だろうが、何か運命的なものの導きを感じてしまう。


 姉から課された《アゴ部を守る》という命令。

 嫌な予感がしてならなかった。

 実は退部したくて……とか切り出されたらどうしよう。たとえ家庭の事情でも、部員を減らすんじゃねえと姉にどやされる未来が見えた。

 ただでさえ今年は三人、一年生だけならふたりしか新入部員を確保できなかったのに。


「――あ、萩枝くんじゃん! ちょーどよかったよー!」


 と。そんな明るく響く声が届いたのは、そろそろ教室に着こうかというタイミング。

 正面に現れたるは、クラスメイトのひとりの少女。嫌な予感、再臨。


「……あー。おはよう、月見里やまなし

「ん、おはよー、萩枝くん。今日はいつもより早いじゃん」


 よく響く声。気兼ねのない笑顔。それは彼女の性格以上に、学校でのポジションを示すものだ。

 タイプとしては蒼汰と似ているだろう。学校空間における強者、ヒエラルキーの上位にいる《陽キャ》だからこそ、周囲に憚ることなく発言することができる。


「うぃー」


 などと教室の中に手を振りつつ、彼女は小走りにこちらへと駆け寄ってきた。

 けれど俺の目の前で立ち止まるでもなく、そのまま抜き去るように廊下を進んでいく。振り返ることになった俺に、彼女も視線を戻して快活な笑みを見せた。


「今日ほら、ミーティングあんじゃん? その前に、ちょい萩枝くんに話あってさー」


 鞄だけ教室に置いてきてもいいか、と訊こうかを考えたが、何も言わなかった。

 素直に従って、荷物を持ったまま彼女に付き従う。

 横に立った俺に、彼女は少しだけ声を潜めながら。


「ラウンジのほう行こ? ジュース、奢ってあげちゃうぜっ! だから、ねっ?」

「……今日だけで三人目、か。みんな部長を頼ってくれて嬉しいぜ……はあ」

「うん?」


 聞こえない程度の俺の小声に、こくりと彼女は小首を傾げた。

 あざとい、と思わせない自然な仕草だ。それはきっと、彼女の体に染みついたもので。

 俺は、それを断ることができない。


「なんでもない。それより、話って何かな?」


 だから、いつも通り《いい人》の皮を被って笑みを浮かべた俺に。


「ほかの人に聞かれると恥ずかしいから。……それは、着いてから言うね、部長さん?」


 きゃるるんっ、と日曜朝の女児向けアニメめいた効果音が幻聴されるあざとさ。


 相変わらず仲がいいねー、なんて声が教室から聞こえてくる。

 彼女の友人である女子のひとりだ。

 クラスでいちばん目立つ女子に、頼りにされちゃう俺ポジション。いらねえ。


 そんな言葉に対して、


「あっ、もう、からかわないでよー! ちょっと部活の用事があるだけー」


 クラスメイトにしてアゴ部副部長でもある彼女。

 月見里一華いちかは、まるでアイドルのような笑顔でそう答えた。


 あるいは、悪魔のような笑顔で。

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