1-14『恋愛脳(NO)』2

「……本当、後にも先にも、初対面でいきなり泣き出されたのはアレが初めてだわ」

「なんで急に昔の話するかなあ!? 仕方ないでしょ怖かったんだから!」


 学内の、自販機の傍にあるラウンジ。

 つい最近も、そういえば月見里と来たっけか。


 教室を出てくるとき、こちらを見ているあいつの視線には気づいていたけれど。


「まあ、とりあえず飲み物でも飲んで落ち着けよ。奢ってやるからさ。何がいい?」

「……あんたは何飲むの」

「ん? まあコーヒーとかかな」

「ブラック?」

「まあ、そうだけど」

「じゃあ、あたしも同じのでいい」

「……確かブラック飲めなかったよね?」

「の、飲めるし。飲めるので。なぜならば高校生なので。大丈夫なので。ので」


 妻鹿は機械音声みたいになっていた。

 俺はさっき、こいつに隠すのが下手と言われたのか……屈辱だ……。


「飲める奴のリアクションじゃないじゃん。面倒臭え、ミルクティーでいいな?」

「く……だが、これで勝ったとは思わないでいただこうか」

「俺だって思いたくねえよ。勝負もしてないのに自分から敗北しにくるな。自爆テロか」

「――!?」


 そんな衝撃を受けたみたいなリアクションもするな。こっちの反応すぎる。

 どうしてこいつは、俺に張り合ってこようとするのだろう。

 昔から――初対面から、彼女はそこが変わっていない。もはや笑えてくるほどに。

 自販機でコーヒーとミルクティーを買い、椅子に座った妻鹿に片方を渡した。そのまま正面に腰を下ろすと、なんだか思い出してくる状況がある。


「……中学のときっぽいね」

「だな。それもあって思い出してたわ、昔のこと」


 よく放課後にこうして、ふたりきりで会話をしたことを思い出す。

 あのときも俺はコーヒーで、彼女はミルクティーだった。


「……いきなり泣き出した女と、まさか友達になるとは思ってなかったな」

「あたしの台詞だよ」

 俺の呟きに妻鹿が応じる。

「萩枝みたいな奴のこと超嫌いだったし。絶対仲よくできないと思ってたもん。――あと初対面のときのことを言うな童顔」

「うるせえハイメガバカ」

「乙女ネーム」

「陰キャ」

「陰湿根暗クソ野郎」

「……お天気ちゃん」

「くそぉ、その傷はまだ癒えてねえ! 受け止めきれねえぇ……まだ昨日の傷ぅ……」


 妻鹿がテーブルを叩いて泣いた。


 ――勝った。


 だが《争いは同レベルの者同士でしか起こらない》という言説を思い出し、俺まで泣きたくなってきた。

 嗚呼、人間同士、いがみ合うことの虚しさよ……。


「ずりぃだろ、その傷はずりぃだろ……古傷ってのが暗黙の了解だろうがよぉ……っ!」

「面白いこと言うな、笑っちゃうだろ。悪かったよ」

「っとにムカつくな……んで? 結局、そのラブレターは誰からなワケ?」


 と、そこで妻鹿も立ち直り、改めて訊ねてくる。

 なんだ? いつの間にラブレターだと確信しやがったんだ。


「別にラブレターとは限らないだろ。いいか? そもそも世の中には様々な種類の手紙が存在してだな? それはビジネス然り、あるいは――」

「長い」

「…………」

「てことは本当にラブレターだったんだ。へえ、カマかけただけだけど……へえ?」


 俺って奴は、どうして、こう。


 このポンコツに勝ち誇られるほど悔しいこともない。

 負けの気分に口を閉ざすと、そこで妻鹿はさらに続けるように、


「――それ、ぼたんから?」


 一手で核心へと切り込んできた。

 俺は、言う。


「……ちなみに、なんで?」

「まあ、単純にほかが思いつかないから、かな。月見里さんって可能性も考えられなくはないけど――」

「あいつはねえよ」

「……、そうだね。告白するとき手紙ってタイプじゃなさそうだし」


 そもそも月見里が俺に告白すること自体がない、という意味合いで俺は言ったのだが、確かに妻鹿の視点も一理あるか。

 あいつがラブレターを書く様は想像しにくい。

 それを言うなら、俺にとっては正直、蝶野も大差ないのだが。


「……ま、たぶん蝶野だろうな」

 俺は、もう肩の力を抜いて言った。

「実は差出人の名前が書いてないとかいう、ラブレターにあるまじき失敗があるから定かじゃないんだが」

「うっそ」

「マジ」


 割とやっちゃいけないタイプの失敗だと思うのだが。

 いや、蝶野のことだ。わざとやった、という可能性も考えられる。意味不明だが。


「ただまあ、《萩枝せんぱい》ってあったからな」

「萩枝に手紙を送る後輩の女子、って――」

「まあ、蝶野以外は思いつかないわな。そこまで親しい後輩、ほかにいない」

「……よかったじゃん」


 そう、妻鹿は言った。思えば月見里だって、そう言っていた。

 どうなのだろう。

 それは本当に、よかったと言うべきことなのだろうか。


 もちろん、告白してもらえたことは素直に嬉しい。そこにすら文句をつけるほど、俺は良識を捨てていない。

 少しだけ、蝶野と付き合う自分を想像したりもしてみた。


「まさか、ぼたんで不満ってこと……ないでしょ?」


 何も答えない俺に怪訝な目を向け、さらに探るように妻鹿が問う。

 その問いには、俺も答えた。


「そもそも自分が、不満だのなんだのと注文をつけられる立場にすらないと思う、かな」

「それはそれでどうかと思うけど……何、振るってこと?」

「…………」

「答えなさいよ」

「…………」


 わからない。

 

 だから答えらない。


 俺は、もうとっくに、妻鹿たちに告白させないよう――その恋愛を一年間成就させないように動いてしまったあとだ。

 そんな俺が、どのツラ下げて恋人を作れるだろう。


 ならば振るのか?

 それも――それもできない。

 それは俺の目的に反してしまう。それでもしあいつが部活を辞めたら――いや仮に辞めなくても、今までのようにいられなくなったらどうしよう。

 この状況に陥ってしまった時点で、俺はもう完全に詰んでいるのだ。


「……そうなんだ」


 と。黙りこくる俺に、妻鹿が小さく呟いた。

 怒っていると誰にだってわかるほどに。

 ――氷の如く燃え滾る、声音だった。


「じゃないかと思ってた……だから、わざわざ、言ったのに……まさか本当にそんなだと思ってなかった」


 思ってたのか思ってなかったのかどっちだよ――などとツッコめる空気ではない。

 だが妻鹿が、何を言っているのかはわからない。


「受けるのもいい。振るのもいいよ――でも、それを選べないのはおかしいでしょ」


 妻鹿の言葉に、俺は答えた。


「なんだよ、ずいぶん責めるじゃん。ちょっと迷うくらい仕方ないだろ?」

「なんで迷うわけ?」

「は? なんで、って……」

「好きなら受ける。嫌なら断る。それだけの話じゃないの?」

「…………」簡単に言いやがる。


 と、そう思った。そんなに単純なものか、と。

 感情を全肯定するなんて何も考えていないバカの戯言だ。


「それって、告白を受けるかどうかを感情以外で決めるってことだよね。そんなの相手に失礼じゃん! 勇気を出して告白してくれたんだよ? だったら、された側だって真摯に考えるのが礼儀ってものじゃないの? あんた、そんなこともわからないわけ……?」


 ああ、その通りだ。俺にはわからない。

 それが恋愛感情に起因する行為であるというだけで、肯定する奴らの考えなど。


「……この世界には俺と蝶野しかいないわけじゃねえんだよ。互いの関係が影響を及ぼす何かがあるなら、計算に入れるべきだ。感情だけで決めるほうが真摯じゃないだろ」

「そうじゃない……そういうのじゃないよっ。あの子は、あんたのことが……恋のことが好きだから告白してくれたんでしょ。好きだって伝えてくれたんでしょ? だったら恋が考えることは、恋があの子を好きかどうかじゃないの? それ以外にないはずだよっ!」

「――――っ!!」


 子どもみたいな理屈で、道徳の授業みたいな綺麗ごとを吐く妻鹿に嫌気がした。


 違う。

 絶対に違う。

 俺は絶対にそうは思わない。


 俺は、そんなものを優先しない――それを責められる謂れは、ない。


「おかしいよ。そんなの、考える基準がおかしい。なんで自分の感情じゃなくて、を基準に考えるの? そんなの……悲しいじゃん……っ!!」


 だからどうした。

 俺はいつだってそれを考えてきた。


 別に難しい話じゃない。

 俺が望んでいることなんて、初めからひとつしかなかった。




 俺はただ、していたいだけ――それだけだ。




 ふたりだけの関係性より、三人以上を優先している。

 みんな普通にやっていることじゃないのか。

 どうして恋愛になると、急に集団より優先しなくていいってことになる?

 どうしてそれを言い訳にすれば、個人を優先しても責められないと決まるんだ。


 いや、いい。別にそれでも構わない。したい奴はそっちを優先すればいい。

 好きにしてくれればいい――その代わり、と言っている。

 やっていることは同じだろうが。

 それでなぜ俺だけが一方的に責められなくちゃならないんだ。


 多くでいるよりふたりだけでいたい奴がいる。

 ああ、そんなことは知っている。みんなだいたいそう言うからだ。恋愛と友情なら前者を取ると言うんだろう。

 別にいいさ。俺は協力しろと頼んだつもりはない。

 ただ、俺はその逆だというだけ。誰かと恋人になるよりも、この部活という《みんな》でいるほうに重きを置く。

 片方しか選び取れないのなら、俺はそっちを取るというだけの話じゃないか。


「……ふう」


 と、そこで俺は息をついた。

 違う。俺は、こんなことを話すために妻鹿と向き合っているわけじゃない。


「まあまあ、落ち着きなよ、妻鹿。そう熱くならないで」


 だから俺は言った。

 それが俺らしい言葉だと思うから。


「別に妻鹿が怒るような話じゃないじゃない。どうしたのさ、急に?」

「……あんた……」

「妻鹿の理屈を借りるなら、それこそ俺の自由だって話なわけだし。ねえ?」

「……っ」

「まあ確かに、もし俺が蝶野を振ったら、部活内で恋愛しにくい空気になるかもしれないからね。妻鹿が蒼汰とのことで、こっちを気にするのもわかるけど」

「そんなつもりじゃ――っ!」

「――わかってる。な、だから……落ち着け、少し。熱くなるようなことじゃないだろ」


 妻鹿がそんな計算をしていないことくらいわかっている。

 もし彼女が自分のことだけを考えていたなら、それこそ俺に怒る必要がない。

 そもそもそんなに器用じゃない。


 友達が欲しいのに何もわからなくて、ただ図書室で不器用に、いつか何かが変わる日を信じながら、少しずつ少しずつ自分を変えていった――そういう奴だと知っている。


「俺のことはいいからさ。妻鹿はきちんと、自分のことを考えなって。今はむしろ妻鹿のほうが、まずは蒼汰と距離を詰めていかなくちゃいけない。そうでしょ?」

「じゃあ訊くけど。どうにかするって、どうする気?」

「――っ。あー……っと、それは」


 俺は、答えられなかった。

 蝶野の件をどうすればいいのかなんて俺にはわからない。

 俺が知りたいのは――俺がやりたいのは、蝶野と付き合うことでも振ることでもない。

 蝶野と友達のままで、先輩と後輩のままであり続ける方法だった。


「……まだ、手紙の主が蝶野だと決まったわけじゃない」


 絞り出した言葉は苦肉の策で、そんなもの到底、妻鹿には通じない。

 妻鹿はバカで、バカだからこそどうしようもなくまっすぐだ。昔から、いつだって目の前のことに一直線に取り組んでいく。

 やろうと思えば、自分すらをも変えられる。


 長い前髪で目元を隠し、教室の隅でずっと静かにしていた少女は、もういなかった。

 彼女は確かに自分を変えた。その理想とする姿に近づいた。


「ほら。どうしたらいいのかなんて、なんにもわかってないんじゃん」


 だから誤魔化しが通用しない。

 彼女には、俺を糾弾する権利がある。


「いいよ。別にいい。好きじゃないなら振ってもいい。いや、好きじゃないけど付き合うって選択肢でも、わたしは別にいいと思う。とりあえずで付き合ってみるとかでも、そのあとはお互いの話だから。あの子がそれでいいんなら、わたしが口を出すことじゃない」

「……なら」

「だけど萩枝が、もしバランスを取りたいからなんて理由で返事を決めるなら、あたしは絶対許さない。……いや、別にあたしが何言ったって萩枝は曲げないよね。だったら別の方法を取るだけだよ。だって、あたしが何を優先したって、あたしの自由なんでしょ?」


 ――こいつは何を言っている?


 その通りだ。俺が俺の自由にするように、妻鹿がそれを自分で決めるなら、俺はそれを止めないし、文句も言えない。

 思惑と食い違えば邪魔はするが、決して糾弾はできない。

 では、その上で妻鹿にできることとは、なんだ?


 彼女は言った。




「――あたしは今日、伊丹に告白する」




 そいつは確かに、致命傷だった。



     ※



 とにかく妻鹿椛という人間は、どこまでも頑固で面倒臭い人間だった。


 あの日。

 妻鹿を泣かせてしまった俺は、なんとか泣きやませようと必死で慰め、彼女の機嫌を取っていた。図書室で騒がしくしたせいで、安住の地がなくなっては困るからだ。

 どうにか宥めることに成功し、司書の先生から怒られずに済んだのは僥倖だ。

 ただ唯一の計算外として、俺は以来、妻鹿と頻繁に会話をするようになったのである。


「……お前、ここと教室とでキャラまったく違うよな……」


 あるとき俺は、そんなことを呟いたと記憶している。

 妻鹿と話すようになって、しばらく経ったあとだったか。

 泣いた妻鹿に狼狽えたことで結果論、泣いている人間を見過ごせない程度の善性があると認識されたらしい。


「萩枝くんには言われたくないんだけどっ!」


 長い前髪で目元を隠し、いつもおどおどしていたド陰キャは、だが俺には辛辣だった。


「俺はどこでもこんなもんだろ……何が違うって?」

「クールぶってるくせになんだかんだ知り合い多くて、やれやれ騒がしいのは嫌いなんだがな、みたいなテンションするくせに、結局は参加するとこがめっちゃ鼻についた」

「……嘘。え、俺、そんなふうに見えてたの……?」

「わたしたちみたいなのは当然見下してるし、その上でクラスで目立つような人たちとも俺は違う的なオーラ出してて、本当に足の小指骨折しないかなってずっと念じてた」

「……去年したんだよなあ。あれ、お前のせいだったのかなあ……」

「わたし、そういう奴は大っ嫌いだと思ってたから」

「軽い話だと思ってたのにガチの批判が来て、今すごい予想外に傷ついてんだけど……」


 なかなか的確なところを射抜く奴だ、なんて。

 俺が妻鹿に感心したのは、このときが初めてだった気がする。

 自覚もできていなかった自分のダメなところを、初めて突きつけてきたのが妻鹿だったわけだ。

 ここから反省するようになるのだから、そういう意味では恩人だったのかもしれない。


「……でも、最近はそうでもないよ」


 思いのほか俺がダメージを受けたことに満足してか、妻鹿はふっと笑った。


「あ、そなの?」

「うん。わたしも人のこと言えないし。……だから前は、ヤなこと言ってごめんなさい、萩枝くん。ゆるしてくれると、うれしい、です」


 そして頭を下げてくる。律儀に。

 少し面食らったが、そういうところが実に妻鹿らしい。

 悪いと思えば謝れるところが。


「ああ……まあいいよ。今なら急に話しかけられて驚いたんだって、俺もわかるからさ。おあいこってことにしとこうぜ」

「ありがと。わたし、萩枝くんのそういうとこ好きだよ。いろいろ考えてるとこが」


 思春期の男子には効果抜群の台詞だった。

 友達がいない弊害か、普通に話すと恥ずかしい台詞を妻鹿は意外に素面で言う。


「それに、わたしにとっては唯一の友達だしね。……へへ」


 ここまで緩んだ妻鹿の表情は、きっとクラスでも俺しか知らないはず。

 正直に言えば、こうして距離の縮んだ妻鹿は、わかりにくいけれど――すごくかわいかったのだ。

 とても警戒心の強い小動物を、自分だけが手懐けたかのような、そういう優越感があった。

 赤くなった顔を見られないよう、そっと俺は顔を背ける。妻鹿なら誤魔化せるだろう。


「……そうやって笑ってりゃ、お前ももっと、たくさん友達ができるはずだけどな」

「そ、そんなこと言われてもだよっ! 緊張しちゃうんだから仕方ないじゃん!」

「それは仕方ないけど、緊張すると刺々しくなるのがな……せめてぎこちなくても笑っていられれば、まだなんとかなりそうなんだけど」


 なにせ、わざわざ俺に負のオーラを放ってきたくらいだ。

 警戒心が露骨にわかるような、たとえれば全身の毛を逆立てる犬のように妻鹿はなる。

 こうして慣れた相手にしか、笑顔を見せることができない不器用さんなのだ。


「……わたしも、萩枝くんみたいになれたらなあ」

「俺みたいに、か……?」

「うん。萩枝くんみたいに――」

「明るくて社交的な人間になりたいって? いや参るなあ――」

「――本当は悪い性格を隠して、もっといろんな人と普通に話せるようになりたい」

「妻鹿さんや。君の唯一の友達が今、すごく泣きそうになってるよ?」


 もうちょっと、もうちょっと言い方ってもんが……まあ否定はしないけど……。

 無駄に傷つけられる男の正面で、少女は長い前髪の奥の瞳を、きらきらと輝かせた。


「わたしはさ、友達がたくさんいる人のことを尊敬してるんだ」

「……、尊敬?」

「そう! だってあたしにはできてないから。だから、そういう人みたいになりたくて、そういう人と友達になりたくて……だから緊張しちゃうんだと思う」


 ――憧れてるんだ。


 照れもなく妻鹿はそう言った。そう言い切れることが羨ましくも思えた。

 誰かを羨むということは、劣っていると認めることだ。

 自分が大した人間ではないことくらい、とうに理解しているのに、事実から目を背け続ける俺よりずっと大人だった。

 自分の姉に対しコンプレックスを拗らせまくっていた俺に、妻鹿の言葉は効いたのだ。


「……まあ、応援はしてるよ」


 俺はそう答えた。そう答えられたんだと、思う。

 そんな俺に、妻鹿はとても嬉しそうな表情ではにかんで。


「うん、ありがとっ!」

「…………」

「わたしの最初の友達が、萩枝くんでよかったよ!」


 だから、俺は。


「――それならさ」

「うん?」

「俺のことは、これから名前で呼べよ。友達なんだろ? 俺もお前を名前で呼ぶから」

「……!」


 まるで大したことのない、人生で何度言ったかもわからない程度の提案に。

 息を弾ませ、本当に心の底から嬉しそうに、妻鹿は答えたのだ。


「――うん、恋くんっ!」




 以降、妻鹿は少しずつ自分を磨いていく努力を重ねた。

 俺はいわば、彼女が理想の自分へと近づいていくための《師匠せんせい》という立場だ。

 初めは単に、俺以外に話す相手もいない地味な奴の面倒を見てやっていた、という上から目線の憐みだった。

 それがいつしか、俺にとっても親しい友人だという認識に変わっていく。


 ――だからこそ。

 そいつはきっと、実にありがちな話だったのだと思う。


 学校では目立たないが、話してみれば面白い――自分だけがかわいらしいと知っているクラスメイトの女の子。

 俺だけが彼女に頼られている、という安い優越感。

 それらを自覚すらしないまま、どこまでも中学生のバカなガキだった俺は、ある日。


「ね、ね。聞いてよ、恋くん! ――わたし、好きな人ができたんだっ!」


 ごくごく当たり前のように、初恋を失ったのだと突きつけられた。

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