第22話
死は人を止める
けれど誰かの死は
時に何よりも強く人を動かす
「おはよう。お姫様」
低く、優しい声がする。
ずっと聞いていたい、低音。
けれど呼ばれている。イヴェールは意識を呼び起こす。
なかなか開かない瞼に騙し騙し隙間を作ると、蒼い瞳が覗いていた。黒い髪と白のエクステンションが頬をくすぐっていた。
「身体、怠くない?」
問われ、昨夜のことを思い出して赤面。照れ隠しも兼ねて首を振った。
「そう。飯食ったらさ、出掛けない?」
「何処へ?」
「仏頂面のトコ」
それだけで誰のことか判る。胸の中にざらつきを感じた。熱を持っていた頬が、一瞬にして冷める。
「大丈夫。一騎打ちさせようなんて考えてないから。迎えに行くだけ」
「迎えにって……?」
ベッドに膝を付いていたシンは少し身を退いて、にまりと笑った。
「ケリ付けに行く。あの一家も無関係じゃないから、誘っておこうと思ってね」
他人の寄せ集めに〝一家〟という表現は不相応だが、彼が言うことは尤もだ。特にキアは因縁が深い。結末を見届ける権利はある。
クロードと顔を合わせるのはまだ抵抗があるが、この状況にあって関わらずにいることは不可能だ。きっかけだと思って、慣れるように努力しよう。
「服着て来いよ。フェイももう起きてる」
楽しそうな笑みを引き連れ、シンは自分の部屋から出ていった。
服。
言われて思いだした。未だ裸のままだ。脱ぎ散らかした服を集め、誰も居ない部屋で人目を忍びながらそそくさと着替える。そのまま居間には向かわずに、階段を上った。シャワーも浴びたい。それにはまず、着替えが必要だ。
目に付いた服を掴み、階段を駆け下りると浴室へ逃げるように飛び込んだ。
今更焦ってどうする。さらけ出してしまったあとに、恥を知ってももう遅い。
それでも感じる羞恥は洗い落として排水溝へ。
流せ。
渦を巻いて。
そしてまた綺麗になる。いつもしていたように。
今回だけは、それが少し惜しい気がした。
*
――……ろ。
真っ暗闇だ。
現実ではないことはまず間違いないだろう。
夢。
いつもとは違う。フラッシュバックでも悪夢でもない。
ただの闇だ。
まさか、両の視力を失くしてしまったのだろうか。昨日までは見えていた光が、寝て覚めたら消えていた。そういうことなのか。
見納めしたかったものなど無いが、食事がますます嫌になりそうだ。舌で味わう前に目で食うのが料理であるのに、最初の一口が無くなってしまう。惜しいことだ。ユンの料理は、食事に興味が失せた今の状態にあっても気に入っていたのに。
――……ろって。
闇は続く。
限界を寄せ付けない奥行き。
無限。その正体がこれか。解らない。
この身体はどうなっているのだろう。視界以外は正常だろうか。身体を動かそうと思うが、動いているようには思えない。
やはり夢なのか。
――……ード。早……ろよ。
遠くで音がする。
声。聞き知った声。
呼ばれている。方向が解らない。
本音を言えば、まだこうしていたい。閉じた場所に。留まり。蹲り。
「クロード!」
けたたましい音とユンの怒鳴り声が部屋に入ってきた。
反射的に飛び起き、ベッドの上で瞠目した。
何故ユンはドアを蹴破って入ってきたのか。
何故ユンは声を荒げているのか。
これは現か。
この気配は何だ。
眼前が真っ白で揺らいでいるのは急に起き上がった所為。貧血と眩暈。すぐに収まる。
だが、それを待つよりも早く動かなくてはいけない理由を感じる。
寝惚けた頭は回転を嫌がる。だが回れ。けしかけて漸く全てが合致した。
「珍しく死んだみたいに熟睡してるトコ悪いんだけどさ、解るよな」
解る。ユンが血相を変えているその理由全てが。
「この気配、黒タコなんかじゃないぜ」
「機械人形だ……」
数は、すぐ解るだけで四。
生きているものとは違う、独特の気配なのですぐに感じ分けることが出来る。殆ど真っ直ぐこちらに向かってくる。
ベッドから降りようとする。床に足を着けた途端、膝から力が抜けた。否、最初からまるで入らなかった。
「ロクに食ってねぇから」
気が付けばユンに支えられて転倒を免れている。支えられて尚、足に力が入らない。昨日歩き回って、全て使って帰ってきてしまったらしい。こうして立ち上がるだけのエネルギーさえ残せないほど、食べていなかったのか。
「放せ……。立つくらいは、自分で出来る」
そう、せめて地に足を着けて立つくらいは。
ユンの腕を押しのけながら、足に力を入れる。立つとは、こんなにも力が必要なのか。腕は差し出されたままだが、もう縋ることはしない。
「じっとしてろって言いたいトコだけど、手伝え。今の俺に、お客さんを丁重にお持て成しできる自信ねぇから」
だから、
「俺の得物を寄越せ。ちょっとくらいならお客さんも王様の登場を待ってくれるさ」
右手だけになった差し出す手に、クロードは右手から喚び出した大剣を手渡した。
とても部屋の中で振り回すことなど出来ない剣。持ち主の肩くらいの長さがある。ユンが生まれながらに持つ凶刃。今は己の中に仕舞う能力を失ったユンのために、クロードが保管している。
元々術が使えないユンにとって、その件が唯一の武器だ。その剣一本で“最強”の名を恣にしてきた。
唯一無二の相棒を片手で軽々と持つと、手に馴染む感覚が嬉しかったのか、薄く笑った。しかしそれも一瞬のことで、クロードを見ると、
「いいか、クロード。逃げたらおまえも切り刻むからな」
言い残して足早に部屋を出ていった。
ご丁寧に、ドアまで閉めて。
向こう側と繋がっていた空間が、また隔絶された。
わざとだ。きっとわざとだ。
ドアまで歩く力を、ドアノブを回す勇気を、扉を押す覚悟を。その全てをあの男は要求した。付き合いが長いだけによく解っている。
些細なこと。その一つ一つが重たくて厭うクロードに、点々と障害を立てていく。いつもそうだ。乗り越えてきてみろとばかりに、低すぎず高すぎない障壁を。
――いいだろう。
動力不足の身体を叱咤し歩を進めた。
実際、悠長に構えている場合ではない。気配は手を伸ばせば届きそうなところまで迫っている。
割とあっさりと部屋を出ることが出来た。
とっくの昔に吹っ切れていたと見える。
向かうは屋外。自宅から外に出るのに、窓から転がり出たりなどしない。常識の範囲として玄関から出ようとする。
出るためのドア。
そのドアが、向こうからやってきた。
「――!!」
有り得ない勢いを付けてドアはクロードにぶち当たり、そのままドアごと壁まで飛ばされた。
「……使神?」
板切れに成り下がったドアを退けると今度は疑問符が飛んできた。
隔たりを無くした家と外との境界に、侍女服、長い白髪、水色の瞳をした女が立っている。
「お嬢様がおっしゃっていた使神ってこれ?」
無表情で機械人形の女は首を傾げる。
それが滑稽で滑稽で、クロードは思わず鼻で笑った。
「〝これ〟とは随分だな。言葉を知らんらしい。〝
左手を突き出したいところだが、ここは街中だ。外したときの始末まで負えない。
右手に呼ぶのは紅い刀身の刀。
壁と床の接点を蹴り、跳ぶ。
途中、水色の術を切り裂きつつ、そのまま直進。薙ぐ刀を防ごうと咄嗟に出てきた手から始まって、腕、胴、髪を両断し、漸く表へ出ることが叶った。
手応えはない。それほどまでに刀の切れ味が良いのだ。
「割と早かったじゃん」
足元と顔にオイルを飛ばしたユンが顔を向けた。丁度敵を一つ切り裂いて捨てたところのようだ。辺りには既に数体の人型のモノが転がっている。
始めに感じた気配は四だったが、あっという間に数を増やしたようだ。
湧くとはこのことか。
それほど広くない通りに、人間よりも機械人形の方が多いという異様。それらは全て同じ方を向いている。
「これで全部か」
「さあ。斬っても斬っても減らねぇんだもん。つまんね。生身の女じゃないし。あんまり滾んないじゃん?」
「同意を求めるな莫迦」
心なしか、ユンの眼が紅い。いつもは鳶色のその瞳が、うっすらとだが血の色を帯びている。口ではああ言っているが、本当は興奮しているのだ。
――堕ちても殉徒は殉徒か。これだから……。
戦い始めると手に負えない。
「……さて」
掃除をしよう。
ユンと背中合わせになり、二人合わせて三百六十度の視界を得る。
「使神」
「失い過ぎた使神」
「殉徒」
「両翼を失くした殉徒」
「使神だった者」
「隻眼になり半端になった」
「殉徒だった者」
「形ばかりで最早人間」
髪が短い者と長い者で二人一組の機械人形は、同じ顔を並べてそれぞれ一言ずつ眼前の敵を表現し始めた。
「地獄が取りこぼすなんて」
「それならもう一度地獄へ放るだけ」
「それは」
「それは」
「「良い考えですわ」」
ここぞとばかりに二体が声を合わせた。同じ声がそっくり重なって、奇妙ですらある。
「腹立ってきた。潰しちゃおうか」
「貴様に言われずともな」
二人とも、それぞれの得物を構える。
「ヒリダ!」
「ミトギ!」
「殺しておしまい!」
「殺しておしまい!」
無表情のまま二人は互いに声を掛ける。二人一組の彼女たちは鏡に映したような動作で腕を突き出し、術を放つ為に構えた。
同時に、ユンとクロードは互いの距離を急激に離す。代わりに敵との距離を瞬時に詰めた。
ユンは大剣を下方から切り上げる。上がった剣先をそのまま薙げば、面白いように鉄くずが増えてゆく。
クロードも状況は同じだった。右手の刀を振るった分だけゴミが増える。焦れったくなり、左手を空いた方向に向けると紅い光を纏わせた。鬱陶しい前髪から覗くその瞳と同じ色。
血の色。
死の色。
そして、神の色。
それを放つ。
クロードは嗤う。誰に対してかは判らないが、冷たい嗤笑だ。
見放されても、見捨てられても、つきまとう色。左目に、放つ力に、未だに残る紅。
見捨てた癖に。主の色は消えない。その目で景色を見、力を振るう。
どんな状態になろうとも、異質になろうとも、使神であることは死ぬまで変わらないらしい。使役からは離れたはずなのに、全てが消えて無くなったわけではない。
皮肉だ。
滑稽だ。
絶倒したいほどに矛盾ばかりだ。
「半端とぬかしたこの力、喰らって味わえ!」
調節はする。だが、遠慮はしない。
水色の波動が、左右から彼らを挟むように放たれた。
真紅の波動と真紅の刀身で真っ向から立ち向かう。
悲鳴。
頭上。
呆然。
失念。
停止。
凝視。
落下。
陰影。
飛散。
血液。
硬直。
蒼白。
「キア!!!」
二階の窓から弧を描いて落下してきた彼女を受け止めたのは、いつの間にか現れたフェイだった。身体を張って背中を強打しながらも、彼は彼女を両腕に収めている。
吐血したのか口元を血で汚しているが、それ以外にキアに特に目立った外傷は見られない。しかし、状況から機械人形の術を外へ飛ばされるほどまともに喰らっている。瞼は閉じたまま。力無くぐったりとして、フェイの腕に体重を任せたまま、ぴくりともしない。
キアは、動かない。
上から、二人組の女が降りてきた。窓から通りへと、ゆっくりと。
その機械人形が視界に入った瞬間、クロードは眼前が紅く染まる錯覚に陥った。
少し前までガス欠のまま動いていた身体とは思えない早さで、駆け出す。むしろ跳んでいた。向けられた合計二本の手も、直進してくる水色の光球も、意に介すことはしない。通過する場所は赤の刀身が全て切り裂く。空気も塵も、破壊の光も、それを生み出す腕も、腕の持ち主も。
手応えはやはり無い。背後で瓦解の音がして、気配が二つ消えることで結果を知る。
視界はまだ紅い。それが怒りの正体だと知ったのは、地を蹴ったときから止めていた呼吸を再開した時だった。
護ることに縁がない生き方をしてきたことが仇になった。そう思いたかった。
戦っていればその間は負けることがない。誰を庇わなくとも、自分さえ生きていればそれで勝利になる。かつて、周りには互角程度の力の者ばかり。庇う必要がある者などそもそも居なかった。だから、今もこうして端から切り捨てていけば、粉砕していけば、それで勝てると思っていた。
実際は違う。
今は、護らねばならない者が居た。
事実として、少女は二階の窓から放り出され、動きを止めている。戦えない彼女を、敵の標的である彼女を、護ることをしなかった。
護れなかった。その時点で、他の誰が生き残ろうとも敗北という二文字がのし掛かる。
敵か。自分にか。
怒りが収まらない。
何でもいい。端から端まで全て破壊してしまえ。そんなことをしてどうにかなる問題ではない。そうでもしないと落ち着くことさえ出来ないから動こうとした。
が、意思と身体は別物だった。
前傾姿勢を取ろうとした覚えは無い。それなのに、身体は傾いて。
「倒れんならキアに謝ってからにしろよ。みっともねぇ」
襟首を後ろから掴まれたかと思うとぐいと引かれた。
顔の横から黒い袖の腕が現れたと思えば、その手には蒼の光。
「さ。王様の代わりに俺がおもてなしだ。光栄に思えよ。屑鉄ども」
「そこ退けユン。ミンチになるぜ!」
声に、ユンは反射的に飛び退いた。その鼻先を、蒼い光球が高速で抜けていった。頭までとはいかずとも鼻を持って行かれかねなかった攻撃に睨みを利かせようと顔を向けたときには、相手は光球を追いかけるように跳んでいったところだった。残っていたのは青白い顔をしたクロード一人。
向こう側では破壊魔が享楽に浸っている。放っておいても残りの機械人形は数秒で始末してくれることだろう。
剣を一振りし、刀身の付着物を落とす。仕舞うことは出来ないので肩に担いでフェイの所へ寄った。彼は嗚咽を漏らし、膝に載せたキアの上半身を抱いていた。イヴェールもフェイに寄り添い眉尻を落としている。黒猫も傍らでしきりに鳴いている。
言い訳など存在しない。
クロードもきっと同じだろう。怒声も放たず、あんなにも激しく怒りに支配されている彼を、この八年で始めて見た。
悔しいのは同じだ。
違うのは、赫怒しながら悔し涙を浮かべているクロードに対して、ユンは純粋な怒りしか感じていないことだ。哀しみが付随してこない。沸々と煮えるものを腹に感じるだけ。
そもそも、哀しみについては言葉以外にその正体を知らない。
「これ、で、おわ、るるるとおもって、は、いけません、わ」
「エニロム兄、様が、かなら、ず、かな、ら、ず」
「はいはい。雑音は消えちゃうといいと思うんだぜ」
砕かれる金属音。それを最後に、通りから一連の騒音が消え失せた。
手をはたきながら満足そうにしたシンがゆっくりと歩いてくる。視界に映る四人の中で一人だけ、状況にそぐわない笑顔を眉目秀麗に載せている。
異質だ。
彼が笑う理由が、何一つ解らない。キアを護れなかったユンとクロードを嘲笑する意味も含まれているに違いないが、それにしても不謹慎だ。
「なんだろうな、この祭りの後は」
クロードを見てシンが言う。斜に構え、見下すように辺りを見渡しながら。
バラバラになった人型の機械。倒れた少女。抱きかかえる少年。掛ける言葉のない女。後悔と怒りに立ち尽くす男。そして、怒りしか知らない男。
シンにとっては滑稽な惨状なのか。そこまで薄情な男とはおもわなんだ。そして、キアの方は特に見ることはなく、対象はもっぱらクロードだ。
「また止まるのか、クロード。どうしたらあんたは動き続けられるんだろうな」
醜悪なものを見るような目つき。
取り戻したばかりのものを手放しかけているクロードに、どれだけ届いているのかは解らない。
「……やっと、解った。解ったんだ……」
「解ってどうした。こうなって初めて解ったことの方が多いように見えるのは俺の錯覚か?」
ずっと様子を窺っているが、クロードがいつものように、言葉を遮ろうとする声を上げることはない。既に塞いで、シンの言葉など耳に入っていないのかも知れない。
ユンも、シンの言葉を止めようとは思わない。確かに、耳障りは悪く、聞いていたくなどない。だが、何も出来なかった分際で黙れと声を荒げる権利はないように思えた。何も言えないから、だからといって悔しさが消えるわけではないから、全てを噛み潰した。視界の中でシンがどんなに嗤おうと、放てる言葉など無い。
「キアが死ななきゃ自分が今どこに立ってるのかも解らないなんて、不幸だな。キアも、あんたも」
ユンだけでなく、誰も彼の言葉を止めない。跳ね返せない。庇う言葉も反論も正論も、全て現実の前に口を噤んだ。
静まりかえる場の中、フェイの嗚咽だけが散らばる。イヴェールが震えるフェイの背をさするが、彼が吐き出す哀しみは留まるところを知らない。
その脇を素通りし、シンはクロードの目の前に立った。コートのポケットか何かを取り出すと、力無く垂れたクロードの手に無理矢理握らせた。
「後悔してるなら仇討ちぐらいしてこいよ。あんたは、どんな矛盾があっても、キアのためには動こうと決めたんだろ? それ、嘘じゃないなら証明してみろよ」
握らされたものをクロードは広げて目を落とす。隣に立って覗き込めば、それは地図だった。縮尺も距離も全てを無視した簡易な地図で、目的地と思しき場所は、ペンで黒く塗り潰されている。
用意が良すぎる。
「……貴様は、行かないのか?」
考えたことは同じようだ。クロードは眉を顰め、今日初めて心の顔を正視した。
対する薄情者は両手を広げておどけてみせる。
「おいおい。俺まであんたの感情に付き合わせるなよな。今動きたいのは、あんただろ」
「ふん……。所詮咒法師だな。冷徹なのがお似合いだ」
「本物の使神には負けるよ」
「貴様と違って、所詮、半端者だ」
地図はクロードのコートのポケットの中へ。
そのまま手を突っ込んで歩き始めた横について、ユンも共に歩いた。大剣は担いだまま。出来れば預かって欲しい。地図の場所までかなり距離がある。その間この凶器を見せつけて歩くのは些か気が引ける。
「寄越せ」
手の平が、主語を省略して目の前に現れた。
「よろしく」
何度かそうしたように、身の丈近い剣をクロードの男らしくない繊手に手渡す。重みが移ったときにはもう跡形もなくなっている。
せめて自分のものくらい持っていられたら。
失くした力の中でそれだけが少し惜しかった。
*
立ち去った二人を見て、フェイはキアをイヴェールに託すと立ち上がって爪先に力を込めた。駆け出す。しかし、走り出して数歩。まだ走ったとも言えない段階でシンに襟首を掴まれた。
一瞬息が詰まり、げ、と変な音が喉から漏れた。
「おまえはあの単細胞と一緒に行くな」
「何で! 俺も行ってあのクソババア殺してくる!」
フェイは暴れるが、掴まれたまま自由にならない。首が絞まろうと何しようと前に行こうとするフェイに、シンは溜息さえ吐いた。
「フェイ。落ち着け」
「落ち着け? どうやったら落ち着けるって言うんだよ! シン、頭おかしくなったのか?」
「……このガキ。いつからそんな失礼なこと言うようになったんだ」
「おかしいよ。絶対おかしい。いつもおかしいけど今日だけは何が何でもおかしい。クロードとユンだけ行かせて、シンは行かないで俺も引き止めるなんて」
「あのなぁ。俺が酷い奴だったこと今まであったか?」
「ある意味いつも酷いよ」
「うお。キツイ一言だぜ……」
「バカ言ってるんだったらこの手、放せよ!」
「あああ、じゃあ、俺の次の答えで納得いかなかったら行っていいから、冷静に良く聞け」
冷静に、というのは無理かもしれないが、聞くことにした。
聞け、と言われて聞いた話で、ロクでもなかったことは一度もない。
「……わかった」
フェイは動きを止め、シンを見上げた。見上げてくる目に合わせるべく、シンは屈んだ。同じ高さで緑と蒼の瞳がぶつかる。
半信半疑で答えを待つフェイを前に、シンは憎らしい程不敵な笑みを見せた。
フェイはそれを見て思わずぎょっとした。何に対して何を根拠にそれ程までに自信を示すのか。その笑みは、時々怖い。
ここにやってきたときから、一度もキアのことを心配しなかった理由はこの笑みに隠れている。ずっと倒れた少女には目も向けず、ただクロードを非難するだけに終始していた。薄情もここまで極まったかと、遠くの方で聞きながら薄く殺意すら覚えていた時間帯。
意味は、存在した。
「あのくらいでこの子は死なねぇよ。ちゃんと確かめもしないでわんわん泣きやがって」
「どういうこと……?」
事実、彼女は動かないし、服は汚れ傷んでいて、口からは細く血を流している。
だが、言われてみれば脈を診たわけではない。
「気絶してるだけさ。おまえだって、落ち着けば解るはずだ。この子の血はそんなヤワじゃない」
血。
何の話だろう。
疑問に首を傾げていると、
「それに――」
シンはその笑みのまま、赤い唇を開いた。
「俺を何だと思ってる。最強の咒法師だぜ? 知ってんだろ?」
脈絡なんて無かった。
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