第13話
その傷とその痛み
引き替えるべきは
血か魂か
「のわっ!」
フェイは思わず後ずさりと仰け反りを同時にしてのけた。
寝坊してしまい、昼近くになって二階から降りたフェイの目の前に、浮遊しながら眠っているシンが漂ってきたのだ。
どうやって安定しているのか理解に苦しむが、ちゃんと横になって腕を枕に寝ている。
「咒法師ってスゲェな……」
無重力に漂うように揺らいでいるが、シンは完全に眠りの中だ。ベッドがちゃんとあるにもかかわらずどうしてこんな所で、しかもこんな体勢で寝ているのか全く解らない。浮きながら寝る必要性など何処にもないだろうに。
壁にぶつかることも、物にぶつかることもなく、器用に漂い続けている。
テーブルの上には、食べかけの目玉焼きとベーコン。そして食パン。どれもあと二口程度で終わるというのに、残されている。どうやら、朝食の最中に力尽きて寝てしまったらしい。
しかも今、寝返りまで打った。フェイに背を向け、遠ざかっていく。
見ていて飽きないが、少し鬱陶しい。
フェイは垂れ落ちているシンのシャツの裾を掴み、これ以上の移動を阻止した。風船の紐を掴んだ時のように、シンは一度下に降りてきた。だが、再び上に上がり、掴まれているシャツにたるみが無くなると、そこで落ち着いて止まった。
「なあ、シンってば。寝るならベッドで寝ろよ。シン、デカイんだからさ。こんな所でふわふわされたら、動くに動けないだろ」
声を掛けるが、小さく唸るだけで起きる気配がない。
もう一度裾を引っ張ったが同じだった。引かれた分だけ下に降り、また元の高さに戻る。
イヴェールはまだ起きてきていないか、部屋に籠もっているらしい。居間に姿は見あたらなかった。彼女は規則的に生活しているものの、身体よりも心の方が不安定であることが多いことが続いている。元気だと思っていたのに、気が付くと塞いで伏せっていたりする。彼女の状態は気がかりだった。いつかは魘されてシンのベッドに潜り込んでいたが、今もあるのだとしたらシンが寝不足になってこんな所でフラフラしているのも、まあ解る。
仮にそんな苦労があったとしても、やはり邪魔だ。そんなに広い空間ではないのに、身長百八十を超えた男が横になって浮遊しているという異常事態を早く解消しなくては。
蹴りたくなる。
「シン。もう昼過ぎてるよ。食い物とか買いに行こうぜぇ。腹へったぁ~!」
先程より一回り大きな声で呼びかける。同時に裾を引く回数を増やした。
流石のシンもこれには気付き、フェイの方に寝返りを打って眠そうな目を開けた。
「んだよ~フェイ」
「浮きながら寝るなんて何の芸だよ」
言われてシンはとろんと開けた目で、床に自分の影を見た。
「ん~? あ、あれぇ? あ~、浮いてるし」
「今頃気付くなって」
フェイが裾を放すと、シンは半身を起こして中であぐらを掻いた。目を擦り、まだ眠そうだ。
「椅子で寝たつもりだったんだけどなぁ」
「椅子二個使って寝たの?」
「うん~。朝飯食ってたら眠くなってさぁ。ほら、溢れ出る力ってヤツ? 力強すぎて勝手に浮いちゃうんだよね、時々」
「それで今も浮いたままあぐら掻いてるわけ?」
「そんなトコ」
だって椅子に座るより楽だし、と、あくび混じりに言いながら、シンはゆっくり床に足を着けて立った。長い長い伸びをして、肩と首を鳴らした。一回死んだようないい音がする。
「イヴェールはまだ寝てるのかな?」
「や。わかんね」
「シンのトコには来てないんだ」
「そんなにしょっちゅう来ねぇよ」
そうだったのか。てっきりいい頻度で不安を解消してあげているのかと思っていた。ということは、今回の事態は、単にいつもの眠い病ということか。今となってはいつものことだが、本当に何処か悪いのではないかと思うほどこの男は寝穢く延々と寝続ける。
「まあ、寝てるにしろ何にしろ、自分で出てくるまでそっとしてやって。で……買い物行くのか?」
イヴェールの状態はシンも把握しているようだ。流石、そういうことには抜かりがない。
「食料、在庫無いだろ? それに俺、今日はまだなんにも食べてないし」
「あー、それならそこに……」
躊躇い無くシンの指先が向いたのは、テーブルの上。皿の上。
「食いかけ食わせる気?」
「……いや。行くか、仕方ない」
指さしたもののあっさり拒否された食べかけの朝食を、シンはそれぞれ一口で口に放った。最後に何も付けていない食パンを銜えた時、階段の軋む音がした。
「何処か行くの?」
イヴェールだ。寝起き、という様子ではない。
「あいおおいいおうあ……」
「食ったまま喋るなよ。食料無くなってきたから、買い物に行こうと思ってたんだ。イヴェールも行く?」
「そうね。たまには外にも出たいし」
コートを取ってくる、とイヴェールは一度自室に戻っていった。
その間、シンはもぐもぐと気怠そうに口を動かしている。その様は、相当眠そうだ。手を使わずに、口だけで次々と咀嚼しては呑み込んでいる。器用なものだ。空いた手で先程まで上掛け代わりにしていたファー付きコートを羽織っている。
イヴェールが降りて来たときにはもうパンは完食されていた。あんなに鈍い口の動きでいつ食べ終わったのか知らない。
本調子では無さそうなイヴェールに、寝惚け眼のままのシン。二人の間を歩きながら、フェイは悩んでいることがあった。
先日の戮訃のことではない。あのことは訊かないと決めていた。
ネノーアとシンを結ぶ過去のこと。不可解しか残さなかったネノーアの言葉のこと。知りたいのはその二つだった。あわよくば咒法師という存在の正体が分かるかも知れないという打算もある。どちらから聞くにしても、ただでさえ眠気が残って機嫌が良くなさそうな今は非常にタイミングが悪い。
しかも、現状、会話もなく空気が悪い。雑談くらいしてくれていればさりげなく滑り込ませる隙も出来そうなものなのに。
「ねぇ……」
決心の付かないまま、フェイは話しかけていた。
「うん?」
シンが気怠そうな顔を向けて初めて、フェイはしまったと思った。見切り発車もいいところだ。だが言葉は回収出来ない。覚悟を決め、数日間溜め込んでいた疑問を投げることにした。
「あのさ、嫌だったら、怒る前に嫌だって言って」
「……ああ。昔のことなら、もう片付いたから。訊けよ」
「……うん」
どうやら見透かされていたらしい。しかもお許しが出るとは予想外だった。
「エストラって人。ネノーアと、シンと、何があったの?」
「直球で来たな」
切り出し方を考えていなかった。何にも包まずに口にした結果がこれだ。やはり怒られるかと思いきや、頭を掻きながらあくびを噛み殺していた。
「当時は記憶もない、名前も分からない、傷と知識しか持ってないような状態だったから荒れててさ」
シンが初めて自分から語り出した過去。フェイは固唾を呑んだ。いつの間にかイヴェールも話に食いついている。
「エストラは俺のこと知ってたみたいで何だかんだ世話焼いてきて、それだけの関係。向こうはどう思ってたか知らないけど、俺にはただの厄介者だった」
あまり他人を邪険にしない印象があるシンが、慕ってくる女性を無下にしていたとは意外だった。今の性格は後に形成されたものなのだろうか。
「ネノーアは、覚えてないトコで何があったから知らねぇけど、俺を憎んでるみたいでさ。その憎しみが、あの時は俺じゃなくてエストラに向いた」
「でも、あの女の言いぶりだと直接殺した訳じゃないんだろ?」
「まあな。でも、咒法師である自分に誇りを持ってた自尊心の強い女には、死ぬより辛いことだったんだろうさ」
「蒼を……貰うって……まさか……」
今まで黙っていたイヴェールが声を震わせた。ご名答、と言いたげにシンは小さく頷いている。だが、フェイにはその言葉はピンと来ない。
蒼とは瞳の蒼の事なのだろうが、それを貰うと言うことの想像が付かなかった。
「ねえねえねえ、どういうこと?」
「力を、喰ったんだ」
毒っぽくシンは言う。
力を喰うとはぞっとしないが、やはり実感が湧かない。眉を顰めたフェイに、シンが下瞼を指で下に引いて瞳を見せつけてきた。
視界が蒼一色に染まる。
ぎょっとして立ち止まると、シンはもとの姿勢に戻った。
「咒法師の瞳は蒼、髪は黒って相場が決まってる。咒法師っていう種族の定義さ。あのケバ女も俺と一緒だったろ?」
「蒼の方向性が大分違う気がするけどね。でも、あのジイさんは?」
「話題にするな」
一言で言い捨てられた。よほどジュライのことは話題に載せたくないらしい。不仲というよりもただじゃれているように見えたのだが、本人達の見解は異なるのだろう。
シンは咳払いを一つ。気を取り直して話を続けた。
「力の象徴は色だ。強くなればなる程色は濃くなるし、鮮やかにもなる。これは咒法師に限った話じゃなくて、使神や他の奴らも一緒。逆に、力を失くせば色も失くなる」
「なんか、話、脱線してない?」
「してねぇよ。あの女、蒼を貰うって言ってただろ。蒼を貰う、つまり、力を喰うってこと。力を喰われて色を失えば、すなわち、もう咒法師じゃなくなる」
「そんな……」
なりたくてなれるものでも、やめたいからやめられるものでもない。それが流れる血の宿命だ。それなのに、血はそのままで力だけが奪われる。生殺し、という言葉が適切かはわからない。だがそのどっちつかずな状態は、息をしていても死んでいるようなものだ。
「そんなグロいことをエストラはネノーアにされたんだ。エストラは絶望して、自殺した。……俺の目の前で、頭吹っ飛ばして」
シンがこんな風に重苦しく何かを語るのは初めてだ。何があっても受け流せる無神経だと思っていたのは間違いだったようだ。
そして、エストラのこと。会ったことも見たこともない、シンの話の中だけの存在を思い、やるせなさに胸が痛んだ。
中途半端な所に放られる不安。咒法師にとって瞳の色を奪われることは、力以外にアイデンティティさえ奪われるようなものだ。それは何より屈辱であり、絶望に誘うものだろう。その通り、彼女は絶望して、自ら命を絶った。
存在意義に疑問を持った経験はフェイにもある。記憶がすっぽり無い自分がアルクァを彷徨っていた時のことだ。シンに会うまで、誰だかも解らない自分の居場所は何処にも見つからなかった。
度合いは違うが、抱いた虚無感は同じだっただろうと想像する。
そして、与り知らないところの憎悪と恋慕に巻き込まれ、シンは傷だけ負ったのか。
今更だが、今まで彼が語りたがらなかった理由がよく解った。いつ心の整理を付けたのか、それまではただ鬱陶しいだけの記憶だったに違いない。
「シン? どうしたの? 頭痛?」
イヴェールの言葉に、フェイは横を見た。
言葉を切ったシンは眉根を詰めて側頭部を押さえている。右側頭部。痛みが相当強いのか、表情は見たことがない険しさをしている。
「ああ……。偏頭痛が、ちょっと」
そういえばネノーアにもそんなことを言っていたような気がする、とフェイは記憶を引き出した。
しかし、ちょっと、という程度の痛みにはとても見えない。
「シンって頭痛持ちだったっけ? 俺、初めて見たんだけど」
「昔は酷かったんだ。暫くずっと治まってたんだけど、ヤッパ環境変わった所為? 俺も意外とデリケートだったんだなぁ」
冗談を飛ばしてみせるが、痛みはかなりのものらしく笑えていない。
これも意外なことだ。病気の類には完全に縁がないように見えるシンが頭痛持ちとは。
買い物ついでに頭痛薬も買おう。フェイが頭の中の買い物リストに一品加えた時、シンの表情が微妙に変わった。
少し遅れたが、その理由がフェイにも解った。
遠くから、二つの人影が並んでやってくる。例の如く砂埃の風が吹くので、きちんと確認出来るまでにはまだ距離がある。
雰囲気からこちらに用事があるのは間違いなさそうだ。
何にも関わりたくなくとも、相手がある所でそれは無理な話のようだ。
やってきたのは二人の女性。一人は肩、一人は腰辺りで髪を切りそろえ、その色は白だ。かなり若い顔だが、水色の目は据わり、無表情である。二人の顔のパーツは全て同じ形で、髪以外に見分けることが出来る場所は何一つ無かった。背格好も同じ、服装もそっくり同じメイド服。そして、ネノーアと同じく十センチ程宙に浮き、足を動かさずに前進していた。
白髪なので、黒のヘッドドレスがかなり目立つ。服も白と黒しか色がないので、全体的にモノクロの印象だ。
「
顔を顰めたまま、シンが溜め息混じりに言った。
「まきな?」
「ロボットだよ。あの様子じゃ、間違いなくネノーアのお使いだな。今日はノらねぇってのになぁ。こっちにだって気分はあるんだ。でも、お断りしてはいそうですかって引き下がってなんかくれないよなぁ」
珍しくシンが愚痴っぽい。気分が乗らないのは本当のようだ。頭痛の影響というのは、万年ナチュラルハイのシンのテンションも下げてしまうらしい。
恐るべし偏頭痛。
口を一文字に結んでそんなことを考えたフェイだが、気分が乗らないならどうするのだろうという疑問も浮かんだ。
シンは動かない。策は決まっているのか。それともまだ思案中か。
そうこうしている間に、無表情の女二人は音もなく目の前に迫った。
「シンですね?」
シンから見て左側に居る髪の短い方が尋ねてきた。
「敬語使う気あるなら、様とか殿とか付けやがれ。教育なってないってご主人様に投書するぞ」
「敬称は必要ないと仰せつかって参りました」
「じゃあ俺に話しかけるな。用事も持ってくるな。俺の気分がいい時に出直してこい」
「それは出来ません。命令ですので」
シンから見て右、髪の長い方が割って入る。
やっぱダメか、とシンは口を曲げた。
「それはあんたらの勝手な都合だろ。俺に強制するなよ、迷惑だから。行こうぜ」
表情からしててっきり対峙するのかと思いきや、彼女たちの脇を抜けて歩き出した。完全に無視した形だ。置いて行かれてはたまらないと、フェイもすぐにその後を追う。
「大丈夫なの?」
不安そうにイヴェールが問うが、シンからの返答はない。
数メートル歩いても彼女たちは追ってくるどころか振り向きもしなかった。フェイは気になって度々後ろを向いたが、いずれの時も彼女たちの白髪が見えるだけだった。
――諦めたのかな?
だが、それが事実であるなら、シンが未だに険しい表情をして黙ったままでいることの説明が付かない。彼女たちの存在を知った時から、まるで変わっていないのだ。
「ヒリダ」
髪の短い方が長い方に呼びかける。顔は真正面を向いたまま。
「ミトギ」
応じるように髪の長い方が短い方に呼びかける。同じように顔は真正面。
「許しませんわ」
「許しませんわ」
「お嬢様の命に基づきやってきた私たちを無視するなんて」
「私たちを無視するなんて」
「バカになさってはいけませんことよ」
「そんな資格あなた如きにあるはず無いんですから」
左右交互に言い放った後、ミトギは右手、ヒリダは左手を突き出しながらシンの背に向け振り返った。手の平からそれぞれ水色の波動が放たれる。服のレースが生まれた風によってひらひらと揺れた。
「わわわ!」
慌てたフェイの横、怒気を含んだ溜め息がした。
「構うなっつってんだろ!」
シンは眉を釣り上げると、振り返り様に右手を突き出し、真っ青な波動を放った。
色だけではシンの方が勝っている。二人で一つの波動と、一人で一つの波動が真正面からぶつかり合う。
圧されるのは彼女たちのハズ。その確信がフェイの中にはあった。
だが、現実を見て言葉を失う。
シンの蒼が弾かれ、彼女たちの水色の先端が顔を見せたのだ。
「チッ」
舌打ちをしてシンはもう一度術を放つ。彼らの所に彼女たちの術が届く一歩手前でのことだ。術が圧し消される一歩手前で、シンは堪えていた。
――苦戦してる?
フェイの頭にそんな嫌なことが浮かんだ。絶対最強の無敵男と一部の他人と自身が認めているシンが、苦戦を強いられている。
表情が何かに歪んでいる。まだ術は押し返し切れていない。
手の甲に走る傷がいつもより多い。血管や骨を浮かせた甲から血を滲ませ、込める力によって軽く痙攣している。
対するミトギとヒリダはやはり無表情だ。その無表情が余裕に見える所為で、余計にシンが圧されているように映る。
「く……」
シンが奥歯を噛みながら声を漏らした。
紛い物の術を使う造形物であるのに、今まで敵無しだったシンに奥歯を噛ませた。それならば、その人形を使役する主の実力は一体どれくらいのものなのか。以前シンはネノーアのことを、まあまあ強い、と評していたが、果たしてそれはどれだけ正しいのか。
フェイは一気に不安になった。
起きる風によって、辺りの砂は飛ばされている。服も髪も、嵐に立ち向かう人のように風を受け後ろに靡いている。
「ぬぁぁぁぁ! ウゼェんだよ! ほーら喰らえ、屑鉄人形!」
更に強くシンは腕を突き出した。同時に顔が顰められる。
改めて放たれた波動の色は赤。消え入りそうな水の色を灼熱の色で染めていく。蒼の術しか放ったことがないシンの手から赤が生まれるとは思っても見なかった。焼き尽くすようなその色は目に痛い。
勢いがまるで違った。相手の術を凄まじい勢いで喰い潰しながら、シンの術は彼女たちに迫った。
「きゃっ」
「きゃっ」
危機感のない軽い声が、シンの術が到達したのと同時に聞こえてきた。
シンは右腕を降ろすと、前腕を強く押さえた。
「フェイ。イヴェール。逃げるぞ」
「へ?」
勝ったにもかかわらず、シンは逃げるという。理由を推し量る前にシンが走り始めてしまったので、フェイは仕方なく後を追った。イヴェールも後ろを気にしながらも共に駆け出した。
術同士の衝突で発生した煙の向こうで、ミトギとヒリダが尻餅を付いていた。
「逃げましたわ」
「卑怯ですわ」
「あら? ヒリダ。あなた、左腕が無いわよ?」
「あら。ミトギも、指が数本足りませんわ」
ヒリダの左腕は、肩から綺麗に吹き飛ばされていた。ミトギの右手の指は親指を残して手の平の大部分と共に無くなっていた。切断面からは機械油が流れ、金属の内部が露呈されている。
「困りましたわね。これでは術が使えませんわ」
「シンの勝ち逃げなんでしょうか?」
「いいえ、そんなことないわ。あの顔を見たでしょう? 焦っていましたわ」
「何処か痛めていましたわ。捨て台詞を吐いていましたわ」
「シンは逃げたんですわ」
「負け犬ですわ」
やはりミトギとヒリダで交互に話し、結論として自分たちは勝った、ということにしてしまっていた。
二人は立ち上がり、十センチ程度浮き上がると、正常に機能する方の手でひらひらしたメイド服の埃を払った。ヒリダは髪の埃も手櫛で取り除いた。
「行きましょうヒリダ」
「行きましょうミトギ」
「お嬢様に報告しなくては」
「お嬢様に修理していただかなくては」
二人はそう言って、相変わらずの無表情で立ち去った。
*
三人はかなり遠くまで走った。方向など最早適当だ。
袋小路に入り込み、漸く足を止めた。イヴェールは完全に息が上がっている。苦しそうに胸を押さえていた。
「逃げるなんて珍しいじゃん、シン」
「いつでもどんな時でもバカ正直に立ち向かうなんて、そんなの勇気じゃない。そんなコトするのは他に選択肢を持たないか、自分の判断に自信がないバカだ。いろんな
「ま、逃げてる様は格好悪いケド」
「正面から向かって死んでくよりかは賢いだろう。死んだらここじゃあ肥やしにもならないしな。今回は特別訳ありだ……」
そう言ってシンは笑うが、何処か無理が見える。額に浮いているのは走っている為の汗ではなく、脂汗に見える。
ふとフェイが視線を移すと、シンの右手から血が滴っているのが見えた。シンは右前腕を押さえている。どうやら血の出所は、手の甲ではなく、その前腕のようだ。
「ねえ、シン、その血、どうしたの!」
「酷い出血。攻撃なんて、いつ……」
夥しい血液にイヴェールも眉根を詰めてシンの腕にそっと触れた。
「これな」
苦笑いしながら、シンは近くに積まれた木箱の上に腰掛けた。
押さえていた手を放し、コートを脱いだ。服はべっとりと血に濡れ、白いシャツがどす黒く変わっていた。そして、二人が見守る目の前で、袖を肘まで捲った。
大量の血で腕の肌色が全面赤に変わっていた。その中に、一際濃い赤で手首から肘にかけて裂けたような大きな線が一つ付いていた。血の流出源はこの大きな傷だ。
「シン……これって……」
攻撃の直撃はしなかったはずだ。それにもかかわらず、シンの腕は傷を負った。
シンは自嘲気味に自分の腕にある傷を見やった。
「これが、力の代償。仕方ないんだよ」
「代償、って……?」
イヴェールの疑問はフェイの疑問でもあった。力に代償が要るなど、今まで聞いたことがない。
周りの心配を他所に、負傷している当人は他人事のような顔をしている。
「この細かい傷もそのウチの一つなんだ。力を使えば、それに応じて傷が付く。今回は気分乗らないのに戦ったから」
シンは薄く笑う。痛みと自嘲が混じった笑みだ。
「で、でも、咒法師みんなそうなのか?」
「多分俺だけじゃん?」
「何でシンだけ」
「さあな。左手はろくな術使えないし、右手は使えば使うほど傷が残る」
「手の平のもどっかで無理したの?」
「これ?」
そう言ってシンが見せたのは、手の平にある太い杭で穿たれたような傷痕。その周りにも細かい無数の傷痕が残っている。皆、傷痕など残らず消えてしまっても問題ないような傷であるのに、シンの右手に出来る傷だけは消えずに残る。
こうしてみると、シンの右腕は本当に傷痕だらけだ。そして、手の平の後は一際目立ち、くっきりと残っている。
「これは最初からあった。俺が目を覚ましたその時から。もしかしたらこれが代償の原因かもな。よくわかんないけど」
「それが、代償の原因……?」
「わかんないけどな。まあ、理屈なんかどうでもいい。考えたってどうせ分かんねぇ。とにかく、事実として、力と引き替えに傷が付くんだ。そんで、多分……いや、絶対だな。あんまり咒法使い続けると……」
「いつ壊れちゃうのかなぁ。右手」
ネノーアの言葉がフェイの耳に蘇った。
「腕が、壊れる?」
口にするのもおぞましい気がした。危険な爆弾を腕に抱えて生き、そして戦っているのと同じだ。
腕が壊れた後たとえ命は続いても、咒法師としての命はそこで……。
考えがそこまで及んで、フェイは唾を飲んだ。その横でイヴェールは息を呑んで口を覆っている。まるで自分のことのように泣きそうな顔さえしている。
深刻に表情を硬直させている二人に対して、当事者であるシンはやはりあっけらかんとしていた。
「そういやネノーアが言ってたな。この腕壊れたら、俺は死んだも同然だ。力喰われて瞳の蒼を失わなくても、咒法師のカッコのまんま咒法師じゃなくなる」
「シン。それ解ってて今までずっと咒法使ってきたの?」
「勿論。別に怖くないし。咒法師として死ぬことも、俺自身が死ぬことも」
「それって、投げやり?」
「違うな。俺は、負けると思ってない。そりゃあ、来るかも知れないその時の覚悟は昔から出来てる。けどさ、その為に自分大事で護り入るの、その方が俺は死んだような気がするから」
負ける気がしないというだけで何もかも怖くないと言い、護りに入るのは死と同等だから生の実感と引き替えに傷を負う。
信条とはいえ、そこにどれだけの覚悟があるのだろう。
――何か次元が違うな。
解る解らない以前の問題のような気さえして、フェイはそういうものかと思うことにした。
「おまえが心配すること無いからな? 傷だって少し経てば、……ほら」
笑みながらシンは血塗れの腕をフェイに示した。
改めてよく見ると、一面真っ赤であることには変わりないが、一際赤かった一筋の線が細くなっている。消えきらないのは、それが傷痕として残るからだ。何とも痛々しくはあったが、出血はこれで止まった。
「ほんっとスゲェな、咒法師って」
「俺が凄い、って言えよ」
「ホント、シンはスゲェよ」
シンは笑って左手でフェイの頭をくしゃくしゃっと撫でた。応じてフェイも笑う。どんなに心配して暗い顔をしても、シンの傷痕が無くなるわけでも、事態が改善されるわけでもない。それなら、前向きでいた方がいいじゃないか。
頭を撫でられ、シンの心構えが少し解った気がした。
傷も運命も歯牙に掛けるほどのこともない顔をしているシンを見て、イヴェールはどうしてもつられて笑むことが出来なかった。
何故それだけのものを負って、愚直なまでに前を向いていられるのか、理解できない。
男一人、使神一人、欠陥だらけの自分に心を乱され病んで塞いで苦しんでいるのが愚かしいほどに、傷だらけの咒法師は自らの境遇に楽観的だ。
一歩後ろさえ歩くのを躊躇う。並んで歩くなど、ほど遠い。
決着を、けじめを何処かで付けたかった。だが、その方法も対象もまるで解らない。折れればいいのか、殺せばいいのか、諦めればいいのか。選択肢はいくつもあるのに、どれも当て嵌まらない。無理に嵌めようと思っても、納得がいかないので結局は振り出しに戻る。
気分を変えようと知っている限りのお菓子を作っても、作り終えればまた同じ状態になるだけだった。ただ、作った物を喜んでくれる人が居るのは違う。喜ばれたときの、自己満足、自己肯定の感覚が、恒久的なものになればいいのにとどんなに思ったことか。
「貴方は、どうやって覚悟を決めたの……?」
思わず零した言葉に、覚悟なんて、とシンは笑った。
「どうやって生きたいか、それが決まってるだけ。他のことはあんまり考えてない」
まだ血が乾ききっていない右手を握っては開きを繰り返し、
「消えるその瞬間が無様じゃなきゃそれでいい」
まだ少し痛むのか、時折眉が動く。それでも握力を取り戻そうとするように、彼は手を動かしていた。
望む形のためには、どんな犠牲も甘んじて払うということらしいが、とても真似できそうにない。そんなことが出来るほどに、彼の心は強いのだ。同じ強度を持っていない自分に、同じ事は出来ない。
「参考にならないよ」
「当たり前だろ。俺とおまえじゃ違うんだ」
「そうだよね……」
すぐさまやってきた正論に、思わず俯いた。
「だから、自分で出来る範囲のことでいいじゃん」
突き放された直後の言葉に、再び顔を上げれば、男はやはり笑んでいた。
「無理するなよ。俺が手本じゃ、やってらんねぇって」
「そうだよ。こんな人外、付いていっても大変だよ?」
「おまえは黙ってろ」
「いたたた痛い痛い!」
先程まで撫でていた手を今度は拳にして、フェイの頭をぐりぐりと虐めている。
真面目な顔をしていたかと思えばすぐにふざける。シリアスを維持するのが苦手のようだ。
彼の言うことは、正しすぎて頷くしかない。
しかし、出来る範囲と言われても、それでは何も変わらないとイヴェールは思っていた。出来ることならもうやってきた。これ以上のことを望むなら、背伸びをしなければ届かない。
――やっぱり、無理は必要よ……。
笑うことが出来ないままの頭上に、気配を感じた。
見上げれば、黒い影。
黒い翼が、舞っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます