第12話
護るため隠すため
想うから惑うから
それぞれの嘘
この一週間、フェイは何かと理由を付けては外出し、街中を彷徨って帰宅するという行動を繰り返していた。
目的はある。
キアを探していた。
あれから一度も襲撃がない代わり、一度もクロードを始めとする三人を見かけていない。連絡を取る手段がないので、足を使うしかない。シンのように上空から探すという芸当が出来ればいいのだが、叶わないことだ。
彼女に会って何をしよう何を話そうということはあまり考えていなかった。ただ一つだけ、彼女に対して抱いた感覚の正体を確かめたかった。
当初は割と簡単に見つけられると、甘く見積もっていた。よく考えれば、ネノーアに狙われているキアを、彼らが簡単に外に出すとは考えにくい。単独行動などもってのほかだ。ユンは背が高いし、クロードは髪から何から目立つからどちらかでも共に歩いていてくれれば助かるのだが、彼らを単品でも見かけることはなかった。
そんなに遠くに家を借りたのだろうか。それとも単に間が悪くて出会わないだけなのか。
流石に徒歩では移動距離が限られてくる。行って帰ってくる時間を考えるとあまり遠くを目指すことは出来なかった。幸い、方向感覚はあるので道に迷うことはない。
イヴェールが日替わりで作ってくれるおやつを携え、今日もフェイは街を歩いていた。今日のおやつは小さめのマドレーヌ。小分け用の袋に入れて、ウエストポーチに入れてある。彼女は一日の中で体調にムラが出てきたので、無理に作らなくて良いと言ったのだが、気分転換したいからとイヴェールが望んで作ってくれたものだ。体調不良はこの砂埃の多い気候の所為だけでは無さそうだった。
半径数キロの範囲は全方位探索済みだ。後は遠くを目指すしかない。
ツィアと呼ばれるこの街も、歩けば歩くほどアルクァに似ていた。空の暗さも、街に流れる空気も、重苦しくてとてもよく似ている。湿度が低かったり砂埃が時々大規模に襲ってくる以外は、これといった差違を見つけられなかった。
ツィアとアルクァの関係性は何なのだろう。
アルクァからどうすればツィアにいけるのか、その方法をフェイは知らない。アルクァから見て東西南北、どちらへ向かえばいいのかさえ解らない。
シンの咒法の力を使って、一体どのようにこの地へ来たのか。
改めて考えると、この世界のことをよく知らない。解っていることは今のところ、アルクァ、ネスジア、ツィアという土地があることと、人間と、咒法師と神の使いが存在するということくらいだ。他に何があるのか、人ではない者達はどこから来たのか。誰もが心に仕舞ったままの疑問だ。
シンは全てを知っているのだろうか。クロードやユンはどうなのだろう。イヴェールも天隷だ。何か知っているかもしれない。
どうしても毎日に追われて頭から離れていきがちな疑問。シンのおかげであくせくしなくても食べるには困らない生活をしているから、こういったことがよく頭に浮かぶのだろう。でも、考えている人は少なからず居るはずだ。でも、何故答えが出てないのだろう。
世界が出来て、どれくらいになるのか。その間、完全ではなくとも多少は解明されていてもいいのではないだろうか。抱く疑問に、一つの納得もいかないのは、変だ。
そこに働いている力を感じざるを得ない。陰謀とか秘匿工作とか、おどろおどろしい字面が脳裏に浮かぶ。
いつの間にか思考を半分違うことに持って行かれ、本来の作業がおろそかになっていた。気が付かない間に大分歩いていたようだ。目は動いていたのに、結んだ像を脳は読み取っていなかった。これでは何のために歩いていたのか解らない。下手をすれば道が解らなくなって帰れなくなってしまう。
夜になっても帰らなかったら、シンは探しに来てくれるだろうか。
暫し思案。
「……無いな。早くて翌日だな」
信用している、していない以前の問題で、シンはそういう男だ。
「つまんないこと考えてないで探そ」
再び目を凝らして歩く。家の中も不審者にならない程度に横目で見ながら進んだ。
金色。フェイと同じ金の髪。一番の目印がその色だ。
前と左右。歩を進める間に見なければいけない場所は広い。いくら目立つ色とはいえ、見落とす可能性はそれなりにある。集中力が必要だった。
人通りはそれなり。大きな通りに出れば乗り物の往来もある。
今歩いているのは、大通りから一歩入った住宅街だ。道幅は広めで、見渡すのに苦労している。
右から前を通って左。そして同じ動きで右に戻る。首と目は一定の動きを繰り返しているために、疲労を感じ始めていた。
反復の中、突然窓の中の青緑と目が合った。歩く動作のまま、反射的に硬直した。
相手もまた外を向いたまま動きを止めていたが、フェイほどの緊張はない。眼差しは柔らかく、再会を喜んでいるようですらある。
探し始めて一週間。まさにその対象が、今、窓を開けた。
「フェイ、だよね? 近くに住んでるの?」
あの時は血まみれで傷付いて消沈していたキアは、影を連れながらも笑っている。
笑えるようになったのか。
ホッとすると、硬直が解けた。彼女の居る窓辺に寄って、改めて目を合わせた。
フェイの緑とはまた違う緑。綺麗な青緑だ。吸い込まれる不思議な色をしている。
「ちょっと遠いトコ。今日は遠出してきたんだ」
後半は嘘だ。探して歩き回っていたとは言いづらい。
「お。シンのトコの……フェイじゃん」
キアの後ろに現れたのはユンだった。銀のボウルを抱えて泡立て器で混ぜている。中身は生クリームのようだ。お菓子を作っている最中だったのだろうか。
「あれ。シンは居ないんだ。ひとり?」
「うん。俺だけ」
「そっかそっか」
がしゃがしゃとボウルの中身をかき混ぜながら、ユンは楽しそうだ。
「それにしても、遠くまでよく来たなぁ。迷わなかった?」
「え。何で俺んち遠いって知ってんの」
「詳しい場所までは知らないけどさ。この前、買い物帰りにシンに会って、教えてくれた」
「アノヤロウ」
キアとの会話を聞いていたからかと思いきや、シンが絡んでいたとは。偶に外に出ているのは知っていたが、会ったとはきいていない。知らないところで何をしているのか、ますます解らなくなった。
まあ、遠出のついでにここを見つけたという設定には支障ないのでスルー。
「あれから変わりない?」
「なーんも。何も無いのはいいけど、解決もしないから気ィ抜けなくて。キアもそろそろ表に出たいだろうにさ」
「外出してないの?」
「うん……危ない、から」
首肯したキアには、若干の疲れが見える。一週間も家の中に引きこもりでは、気も滅入るだろう。
「おいユン。そんなもの持って何を……」
苛立った声がしたかと思うと、ユンの後ろにクロードが現れた。窓辺に三人が揃い、若干異様な光景になっている。
クロードはフェイが居ることに気が付き、
「なんだ、咒法師のとこの子どもか」
「……シンの実子みたいだから、それ、やめて」
「……そう、だな」
割とあっさり肯定してくれた。取っつきにくいが、それだけなのかもしれない。
直後、フェイの期待に応えるかのように、
「あっ、クロード。つまみ食いは駄目っ」
「いつまでもそんなところに抱えているのが悪い」
ボウルの中の生クリームを、人差し指で掬って舐めている。思わず口を開けて呆けてしまった。キアも信じられないものを見た顔をしている。
子どもっぽい様子は、シンに似ている。だが、こんな事を言ったら、間違いなく殺される。黙っておこう。
「こらー! 二口目禁止!!」
クロードがまたやっている。つまみ食いをする動きは、一見緩慢なのに、実は素早い。
「シフォンケーキ焼けたらたっぷりのせてやるから」
「いつになったら焼けるんだ」
「さっき仕掛けたばっかだよ」
「……」
また舐めた。
「あーっ! もうクロードの分無しにするぞ!」
「じゃあ、貴様の分を奪って食う」
クロードがシンを嫌うのは、ちゃんとした理由は聞いたことがないが、若干の同族嫌悪もあるのかも知れない。何故なら、変なところでこの二人はよく似ている。
そろそろ滑稽になってきて、笑いを堪えるのが辛くなってきた。
ユンはクロードの手が届かない位置にボウルを掲げている。それではかき混ぜられないだろうに。
「そうだ、キア。フェイと一緒にお散歩してきなよ」
生クリームをクロードの魔手から遠ざけているユンからの突然の提案に、三人とも彼を見上げた。
「何言ってる。見つかりでもしたらどうするんだ」
「餌にするつもりなんか無いけど、動きがあった方がいいし。俺なんか殆ど毎日出掛けてるけど、特にアクション無いしさ。それよりも、一週間も家の中じゃ、変になる」
「……」
クロードは押し黙る。キアは戸惑うようにユンとフェイの間で視線を行き来させている。
「出掛けても……いいの?」
「近くなら。護れるだろ? フェイ」
「え、あ、うん。腕はまあまあいいからね、短時間なら」
と、突然話を振られてしどろもどろになりつつ、フェイは腰に差してある銃を見せた。シンに拾われてすぐに護身用にと貰ったものだ。術ほどの破壊力は到底望めないが、常人以上には使える。今や殆ど的を外すことはなくなった。弾切れだけが唯一の敵である。
「行っておいで。あと二十分くらいで焼けるから」
「……」
ユンが笑む横で、クロードは相変わらず黙ったままだ。
一度部屋へ上着を取りに戻ってから出掛けていったキアを見送ると、ユンは台所へ戻った。その後を、仏頂面が付いてくる。
「何故行かせた」
生クリームの泡立てを再開した直後、クロードが問うてきた。
泡立て器を動かす手は止めず、振り向くこともしないで、
「あの子は我慢してた。俺たちが抑え付けてたんだ」
がしゃがしゃという音に混ぜて、ユンは答えた。
「自分の意思かも知れないだろって言いたいのは解る。でもさ、あの子は、遠慮するんだ。他人の意思を汲んで自分を殺すことに、あんまり躊躇い無いんだよ」
喋っている間に、生クリームは次々と空気を含んでみるみる嵩を増していく。
「もし自分の意思だけで家に留まっていたんだとしたら、あんなに嬉しそうに外に行かないよ」
不満も喜びも、気が付くとこんな風に嵩を増しているものだ。
「危険と知っていても、黒い空しか無くても、募るものはしょうがないさ」
いい具合のふわふわ感だ。泡立て器をすっと持ち上げると角が立つ。子ども達にはもうすぐ焼けると言ったが、ケーキが冷めないと生クリームが溶けてしまう。あら熱が取れるまでは冷蔵庫にしまってあるコーヒーゼリーにのせて食べるとしよう。
「それに、フェイが居たし」
「貴様が付いていた方がよほど気が楽だ」
「俺じゃただの保護者じゃん。友達は必要だろ?」
とは言え、ユンもあの少年のことはよく知らない。
遠出してきたとは恐らく嘘だ。キアを探してうろうろと足を伸ばしていたに違いない。恋心でも抱いたのだろうか。彼の緑の瞳は、直視できないほど無垢だった。
今回のことに関して楽観視しているのは、自分が強い所為で危機感が麻痺していると言われれば否めない。家の近く、という約束を彼らが破らない限り、どうにかなる。傲りだろうと思う。けれど、縛り付けることも疑問だった。
「知らないからな。……苛々する」
泡立ちに満足しているユンの脇をかすめて、クロードはまた指でクリームを盗み取ると、舐めながら台所を出ていった。
「指、洗えよ」
返事はない。乱暴にドアが閉まる音がして、それきり静かになった。
ホイップ袋に中身を詰めながら、
「なにイライラしてんのかなぁ、あいつ」
独りごちた。
不機嫌なのはいつものことだが、いつもと何かが違う気がした。まだ幼さの残る女の子を相手に歯痒さでも感じているのだろうか。キアに、戻らない記憶の中の誰かの面影を見て辛いのだろうか。単に、子どもと居るのが嫌なだけかも知れない。
「その割には大人扱いしてるしなぁ……」
使神殿の考えることは解らない。
一足先にコーヒーゼリーを取りだし、袋に詰めたばかりのクリームを絞り出す。白く円を描いてから、小山に盛りつけた。
いい出来だ。
台所に立ったまま、スプーンで一口。苦味と甘みがいい具合だ。そのままぺろりと完食。証拠隠滅のためにすぐに食器を洗って洗いかごに入れた。
次に考えていることは、夕飯のこと。買い置きは色々あるが、
「今夜は鶏肉にしてやるか」
鶏はクロードの好物だ。甘めの味を付けなければ調理法は問わず、無言で人の分まで奪うほど好んで食べる。時折、食べるのも面倒だという顔をする男が、鶏を前にしてだけはその顔をしたことがない。
今回は香草焼きで機嫌を取るとしよう。
果たして、幸か不幸かキアと二人きりで出掛けることになった。
近くを散歩、といっても、今日始めてきた場所だ。近くのことは何も知らない。迷わずに帰ることが出来るだけの情報しか入れていなかった。
黙っているのは勿体ない。
「どう? あの二人、優しい?」
「うん。とっても。私のベッドをあっさり買ってくれたときには驚いたけど……。いい人」
「でも、クロードって恐くない? 二人ともちゃんと話したこと無いけど、俺、クロードはちょっと苦手」
「クロードは、不器用なだけ。あとは、悩みすぎてるんだと思う」
「悩んでる……のか」
「裏表の自分に、まだ、ついて行けてないの。きっと」
「うう」
何となく振った話が、途轍もなく難しい方向へ流れていってしまい、フェイは思わず唸った。難しい言葉は使われていないのに、その言葉で表される内容が思うように掴めない。
彼らと接している距離の違いだけではない。同じ場所に立っていても、恐らく彼女はフェイよりも深く見る。強く感じる。
すぐ横にいるキアが、とても遠くに感じた。歳もフェイの方が上に思うが、何もかもが年齢に比例し、釣り合うとは限らない。
「……キアは、自分のこと、知ってる?」
「自分の、こと?」
「そう。自分のこと」
首を傾げた彼女の青緑を見た。不思議な色だ。蒼と緑。蒼はシンに、緑はフェイ自身に見たことがある色だが、それが合わさった色など瞳の中に見るのは彼女が初めてだ。
「五年より前の自分とか。自分は何者なのかとか。俺、自分のこと、全然知らないんだ」
「五年……」
キアは年数だけを繰り返し、少しだけ目線を逸らした。少しだけ、憂えているようにも見える。
彼女の反応が気になりつつも、フェイは続けた。
「髪の色は使神と同じだけど、緑の目は知らないってシンにも言われて。いつもは知らないこと何も無いって言う癖に。……仲間を、探してたわけじゃないんだ。境遇が似てそうだからっていうのは、ちょっとある。どっちかっていうと、期待、してたんだ。キアに」
「私に?」
「元居た場所が、同じだったらいいなって」
その場所を知っていたらいいのに、と。
「ごめんね。勝手なこと言って。キアのこと、何にも知らないのに」
徐々に、キアが泣きそうな顔をしていった。泣かせるようなことを言ってしまったのかと取り繕おうとすると、彼女は答えるようにかぶりを振った。
「ううん。いいの。私も……わからないんだ。……自分のこと」
本当に、自分は彼女のことを何も知らないのだ。
今にも泣き出しそうな顔で俯き首を振る彼女の何を解って、勝手なことを言ってしまったのだろう。傷を広げてしまただけではないのか。
「あう。キア、ごめんね」
「私こそ、ごめんなさい。暫く忘れていたのを思い出しちゃって」
「亡くなったお母さんの、こと?」
恐る恐る尋ねると、キアは否定した。
「誰かも解らない自分のことが、恐くて恐くて、でも、知りたくてしょうがなくて。何もかも投げ捨ててでも自分を手に入れたいと思ってた、……昔のこと」
躊躇うような間があった。息を吸うには長すぎる。感情に浸るには短すぎる。
「本当は、今でもそう……なんでしょ?」
惑ったその時間は、否定したい自分が居たからだろう。
案の定彼女は、
「……うん」
小さく首を前に倒して首肯した。
彼女の気持ちは痛いほどよく解る。だがその痛みを、容易く口にしていい物には思えなかった。年上ぶって気の利いた言葉の一つも掛けられない。それもまた悔しかった。
楽しいはずの散歩。彼女も外に出るのを楽しそうにしていたのに、今やその欠片もない。
大変なことをしてしまった。キアをこんな表情で連れ帰ったら、大人二人に怒られてしまう。特に、クロードに。その恐ろしさたるや……。
想像して、思わず身震いした。
その眼前。黒い空から、黒い球体が落ちてくる。
思わず二度見したそれは、何度も出会ったあの黒い悪魔だ。蝙蝠と呼ばれる、同じ名前の生き物には色以外何も似ていない鉄の塊。かなりの速度で、間違いなくこちらを目指している。
「見つかった! 逃げよう!」
一匹だけならばいい。今ここで撃ち抜いて終わらせられる。だが、闇に紛れて徒党を組んでいたとすれば、この一匹にも手を出さない方が身のためだ。気付かれて、かえって襲われることになりかねない。
キアの手を取った。その次に走り出す。
どう戻れば帰れるのか、急いでルートを検索した。出来れば誘導するような真似はしたくなかった。極力近道で。それでいて、相手を撒ける道。脳内マップは不完全であるため、自信がない。
「フェイ! 前!」
言われてやや上の前方を見ると、複数の蝙蝠が居た。両手で収まる数だが、他に潜んでいないとは限らない。
だが、塞がれた。前も、後ろも。
仕方なく立ち止まり、前後を窺う。数が増えている。合わせて二十程度か、それ以上。
マガジンの予備は一つしかない。外さないことを条件にしても、ここに居る分を撃ち抜いて余裕は僅かしかない。
子どもらしく回れ右をして逃げるべきだった。後悔に意味はない。時間の無駄だ。
銃を抜く。安全装置を外し、一番距離が近い蝙蝠に照準を合わせた。
狙い定める間もなく、一撃を放つ。淀んだ空気を螺旋状に切り裂き、鉛玉は黒い装甲を貫いた。
間は空けない。キアを庇っている状態で接近されたくなかった。もう一つ、無関係な人を流れ弾に当てないために、見上げる位置にいるうちに終わらせてしまいたかったのだ。
その二つとも、程なく叶わなくなってしまった。
一匹が群れを抜け出して急接近してきた。左右を相手にしていて反応が遅れたが、思い切り足を振り回し、蹴り落とす。体勢を立て直すと同時に、再び発砲した。
これだけ大騒ぎしているのに、他の人間は一人として寄ってこない。狭い路地という場所の所為もあるが、巻き込まれたくないのだろう。いいことだ。その無関心が、今はありがたい。巻き込みたくないのに、巻き込まれに来られたら迷惑なだけだ。
一段落がなかなかやってこない。マガジンも予備の分に移り、あれから体感的にはかなり経っているのに、景色が一向に変わらない。
――減って、ない?
今までは何処かにきりがあった。いつも一掃して終われたのに、その終わりが見えない。最終的に片付けていたのはシンだった、というのを思い出し、不安を覚えた。彼の力は計り知れない。見えていた以上の数を同時に消し去っていたとしても何の不思議もない。
銃器を得物にするならばランチャーか、最低でも散弾銃を持ってこない限り、全体を対象とした攻撃は望めない。
漸く分が悪い戦闘だと気が付いた。仮定が確かならば、一人では手に負えない。
かちっ。
弾丸切れの音がした。
背後に緊張を感じた。キアにも無論、この音は聞こえている。
「キア、ごめん。失敗した」
「どうするの?」
「右手の方が少ないから、そっちを突破して、家まで逃げる。全速力。いい?」
あの時、足が向かっていた方を無理にでも抜けておくべきだった。
「わかった。がんばる」
「結局、役に立てなかった。安請け合いしてごめんね」
「そんなことないよ」
空いていた左手を、強く握られた。思わず目を合わせると、強い力を持った青緑とぶつかった。
「外に出たかったのは私なの。ずっとそれを言わないでいて、頷かないでいて、ユンが気を利かせてくれただけなの。私が嘘ついてた罰だよ、きっと」
「嘘なら、俺もついた」
「え?」
「遠出してきただけ、っていうのは嘘。本当はキアを探してた。あの時、何か思ったんだ。でも、自分でもそれの正体が分からなかったから、もう一回会えば解るかなって思って」
「解ったの?」
「ううん。わかんなかった。わかんなかった上にこんな状況だけど、今はいいかなって」
「いいの?」
「自分の感情より、自分の正体より、もっと解らなくちゃいけないものが沢山あったから」
勢いで喋っている間に、蝙蝠達がじりじりと距離を詰めてきていた。キアが目を逸らしてしまった理由はともかく、意を決するべき刻限だ。
握られた左手を握り返し、この先の道順を頭に浮かべる。
息を吸う。
ごう。
風を切る音が頭上からした。反射的に空を見上げると、大きな鳥が急降下してくる。
鳥と思ったのは翼があったからで、始めにそう判断してしまったのは、黒に同化しているそれに真っ先に当て嵌まるのが“鳥”であったためだ。
実際は違った。黒い服、暗い色の髪をした人の形が、黒い翼と槍を持って地面に向かってきている。
戮訃、とその名前を聞いたことがある。殺戮し訃報を届ける元凶になる者、と。人ならざる生き物で、最も下位の存在で、もっぱら空の闇に紛れて街を監視しているという話だ。今までそれらしき影を見たことはあったが、はっきりと認識したのは今日この時が初めてだった。
敵として現れたのであれば勝ち目はない。逃げおおせられる勝算も低い。足を踏み出せないまま見上げていると、槍の穂先を下にし両手で身体の前面に構えている戮訃の狙いは、フェイでもキアでも無さそうだった。
がつん、と音がしたのを皮切りに、彼の槍に蝙蝠が次々と串刺しになっていった。彼はあっという間に地面に到達し、手にある槍は不味そうなバーベキューの串のような有様になっていた。
「何でこんなのがここに居るんだろうなぁ」
彼は独りごちると、
「ぶん!」
口で効果音を付けて槍を一回しした。刺さっていた蝙蝠は抜け、飛び、まだ空中に残っていたいくつかに激突して共倒れしている。見ていて気持ちがいいほどあっさりとその一帯の蝙蝠が鉄くずに変わった。
掻いても居ない額の汗を腕で拭う仕草をし、戮訃は二人に振り向いた。
背も年齢もフェイと同じくらいの少年だった。薄く、汚れたような赤い髪はイヴェールが持つ色とはまるで違う。鮮やかさなど一つもない。衣装は黒。槍は背丈よりも若干短く、槍頭は蒼い色を放っている。
理由は解らないが、まじまじと見られている。少なくとも敵意はなさそうだ。
「わぁ。金髪なのに使神じゃないんだ。初めて見た。君達、何者?」
知りたいのはこっちだ、と言いたいのを堪えながら、不可解な思いに囚われた。
シン、イヴェール、クロード、ユン。今まで誰もフェイやキアの正体を知らなかった。記憶や知識が不完全な所為だとも思っていた。だが、初めて会った戮訃という種族も二人を見て何者かと問うた。知らないということだ。序列が低い所為で何らかの知識の制限があるとも考えられる。その辺りの事情はまるで知らないので判断は出来ない。
思うのは一つ。
――それなら一体誰が知ってるっていうんだよ……。
「どうしたの? あ。戮訃は嫌いか」
「そういうんじゃなくて。俺たちも、自分がなんなのか知らないから……」
「よかった。使神と同じ髪の色してるから、君達も僕らが嫌いなのかと思った」
目の前の生き物の正体よりも、嫌われていないことの方が重要らしい。彼は人懐こい笑みを向けてきた。
「使神は……あなた達が嫌いなの?」
キアが後ろから顔を出した。恐いのか、フェイの腕と服を掴んだままだ。
言葉を受けて、彼は眉根を詰めた。
「みんな嫌ってるよ。殉徒も天隷も使神も。使神なんか、ちょくちょく殺しに来るし」
ちょくちょく、という言葉通り日常的にあるのか、彼の言葉に重みはあまりない。眉は顰めていても、それほど強く憎しみを感じないのが不思議だった。殺し、殺されることがそんなに身近なのだろうか。戦うことはあっても死を意識したことがないフェイにとって、次元の違う話だった。
「そう……なの?」
キアも話の内容と見合わない口調に戸惑った様子だ。
「ちょっと待ってて。片付けてくる」
会話の途中、少年はそう言い、黒い翼を一つ羽ばたかせると同時に地面を蹴った。軽い動きで二人の頭上を越えていくと、狭い路地にもかかわらず器用に槍を振り回す。良く壁につっかえないものだと感心しているうちに、空以外に広がっていた黒が全て地面に落ちていた。
力の差を見た。
最下位と言われる戮訃に対してこんな風に思うと言うことは、本気を出したクロードを前にしたら呼吸が止まるのではないだろうか。シンはそのクロードよりも強いとうそぶいている。本当だとするのなら、シンの本気はまだ欠片も見たことがないと考えざるを得ない。
フェイは一人、戦慄していた。
一体、世界は何で構成されているのだろう。想像も付かないものに満たされて、何をしようというのだろう。
「お待たせ」
少年が戻ってきた。背にあった黒の翼も、手にあった槍も、この時には既に姿を消していた。フェイは畏れと興奮を必死に隠して笑顔を作り、恩人を迎える。
「助けてくれてありがとう。俺はフェイ。彼女はキア」
「僕はニース」
名乗った後も、やはり瞳の色が気になるのか顔を覗き込まれた。嫌な気分ではないが、気になっているのはむしろ自分たちの方なのでその辺にして欲しいとは思う。
「それにしたって、何で蝙蝠なんかに襲われてたの? 大体、あれ、とっくに廃盤になって誰も使っていないのに」
「犯人は、解ってるんだけどね。まだ相手の様子を窺ってるトコ」
「へえ。あんなの使っていびってくるようなスキモノの使神が居るんだ。こんなトコに」
よほど使神は悪の対象であるらしい。以前、蝙蝠を使役していたのが使神という事実もあるとはいえ、何も言っていないのにニースの中で犯人は使神ということになってしまっている。
「違うんだ。犯人は咒法師で、そいつにキアは狙われてて、俺の知り合いも巻き込まれてて」
「咒法師?」
誤認を訂正したところ、訝しげな顔をされた。
世界の嫌われ者の名を口にしてはならなかったかとはっとしたがもう遅い。首を傾げたニースは眉を顰めて、
「咒法師って見たことないけど、弱いんでしょ?」
「弱い?」
今度はフェイが眉を顰めた。シンのことを思い浮かべ、アレを弱いというのだろうかと首を捻る。もしそうならば、他はどれだけ強いのか。
「マドーリュさんもトーグさんもみんなそう言ってるし。厄介者だから見かけたら殺せって言われてるし」
固有名詞は聞き流すとしても、戮訃の大勢は同じ認識を持っているようだ。しかも、厄介者は殺せとは物騒である。その通りに殺された咒法師はどれだけ居るのだろう。引き合いに出せる咒法師をシン一人しか知らないので、どうしてもそう簡単にいくとは思えない。
「なんか、……僕の認識と違うみたいだね」
「……うん」
面倒を増やさないために多くは語れないが、ここは頷くしかない。何せ、あの凶悪な咒法師は、弱い、という単語からはほど遠いのだ。その男が「まあまあ強い」と評するネノーアもやはり弱いとは考えにくい。
この乖離は、あまりいい物を生まない気がする。
ニースの話によれば、戮訃と咒法師が出会えば、自動的に殺し合いが始まるようになっている。戮訃の力量がどれくらいか正確に知っているわけではないが、少なくともサシで戦って互角になる図は想像できなかった。
自分たちの方が強いと思っている戮訃は、咒法師に駆逐されてしまう。ニースには言えない予想が、フェイの中で固まっていった。
「私、戮訃のことはよく知らないんだけど、いつもここら辺にいるの?」
ずっと黙っていたキアが、フェイの横に出てきた。不安は大分和らいだようだ。
「僕はここら辺担当だから、割と居るよ」
「担当?」
「見張り。イレギュラーが起きてないか、上から見てるんだ。人間同士の面倒事はよほどのことがない限り放っておくけどね」
程度によっては介入するということか。しかも、仲裁ではなく制裁なのだろうと勝手に想像する。
「私や、フェイのことはやっぱり、知らないんだよね?」
「種族のことならわかんない。僕はまだ下っ端だからかも知れないから、もっと強い人に訊いてみる?」
「いいよ。……もし、あなた達の敵だったら、嫌だもの」
知りたいはずなのに、キアは遠慮する。誰かの敵であることよりも、接点を増やすことの方が嫌なのかも知れない。咒法師、使神。対する戮訃は、知り合っている者達の敵。直接繋がっていない彼らを、わざわざ繋げるのは何一つ益のないことだ。
「いいの? イラヴィスさんなら知ってそうなんだけど」
「本当にいいの。もう気にしないで」
「そう? そこまで言うなら訊かないよ。じゃあ、そろそろ行くね」
そういえば、ポーチの中におやつを入れていた。マドレーヌが一人分。フェイはそれを取りだし、
「これ、良かったら食べて。お礼、って言うにはショボイけど、美味しいから」
「わぁ、いいの? マドレーヌだ! 手作り? 凄いね。ありがとう」
思いつきで渡したおやつは、予想外に好評だ。ニースはほくほくと笑顔を零している。戦いに生きているとは思えないほど軟らかい表情だ。つられて笑顔になりながらも、彼の明日明後日の未来を思うと複雑な気分になった。
じゃあ、とニースは言うと、背に黒い翼を喚び、地面を一蹴り。大きな羽音を立てるとあっという間に上空の闇に溶けていった。
その後も暫くキアと二人で上空を眺めていた。やがて首を定位置に戻すと、おもむろに顔を見合わせた。同じタイミングで頷きあう。思うことは同じだったらしい。
「みんなには黙っておこう。話すには俺たち、何もかも知らなさすぎる」
「うん。そうしよう」
思わぬ襲撃が、思わぬ出逢いと情報をもたらした。知らなかった世界の断片。重みのない口調とは裏腹の、血生臭い現実。
何もなかったような顔をして歩く家路で、どうしても気分を明るくすることが出来なかった。キアとの会話も言葉少なになり、知り合う者達の話題を避けている。
帰った後のシミュレーションは頭の中で幾度もしたのに、
「遅かったね。大丈夫だった?」
そう言って迎えてくれたユンに、
「道に迷っちゃって」
と嘘臭い嘘を言うのが精一杯だった。
淀みなく受け答えが終わり、何の支障もなくシフォンケーキをご馳走になり、自然な流れで別れを告げるまで、何のつかえもなかった。若干、クロードが不機嫌だったことが気になったくらいだ。
一人自宅に戻る間、フェイは時折上を見上げた。
この黒に紛れて、戮訃という生き物は下を見下ろしているのか。その戮訃は更に上位の生き物に見下ろされ、狩られている。人間達には想像も付かない弱肉強食の世界が、どんなに目を凝らしても見えないところに展開されている。
いつか知りたいが、知りたくないような気もする。
不用心にもいつも鍵が開いているドアを開くと、イヴェールが夕飯の準備をしていた。時計を見ると、夕方になって大分経っている。
「おかえり」
笑顔で迎えられ、不意に鼻の奥がつんと痛んだ。
慌てて、手を洗ってくると洗面所に逃げ、勢いだけで顔を洗った。
鼻の奥はまだ痛い。何故か泣きそうな衝動が止まらない。こんな事で泣くほど繊細ではないはずなのに、喉が震えてしまう。
フェイスタオルで顔を覆い、大きな溜息を吐いて落ち着こうと努めた。
「大丈夫。……大丈夫」
呪文のように繰り返し呟き、何度も大きく息をした。胸に溜まった澱みを吐く。
意を決してタオルから顔を上げ、鏡の中の自分を睨んだ。睨み返されたので、更に睨んでやった。
鏡を相手に頭の悪い意地の張り合いを続けること数分。意を決して鏡に背を向けた。
やたらと固く感じるノブを回して、居間に戻る。
何もなかった顔は、自然に作ることが出来た。
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