第11話
生きること
その根源の一つ
食べること
クロードは新居の居間で苦いコーヒーを啜っていた。
一晩だけ宿を借り、翌日の夕方に丁度いい物件を見つけて即入居した。重視したのは間取りと部屋数。女の子が一人増えただけで選択肢がこんなにも狭まる物かと、決めるにはいつも以上に時間を要した。
あのあと、キアに持っていきたい物は何か無いかと尋ねたところ、彼女は台所に入り、カフェオレボウルを一つ持ってきた。
望んだのは、使い込まれた食器一つ。
「それだけか?」
もっとあるだろう。そういう意味を含めて問うと、キアは小さく頷いた。
「後は、服を少し、持っていきたいだけ」
「遠慮するな。家財道具一揃いくらいなら容易く持って行けるんだ。後から悔やむことはするなよ?」
「うん。無理も、遠慮もしてない。本当に、そんなに無いの」
右手に物を格納できることは既に説明してある。納得はしたようだったが、彼女が持ってくるのは鞄一つで事足りる。それこそ、わざわざクロードが持つこともない程度だ。
キアはカフェオレボウルをクロードに手渡すと、自室と思しき部屋に入った。服を取りに行ったのだろう。その間、渡された物を渡されたままの恰好でしげしげと眺めた。
両手の中にすっぽり収まってしまうほどの物。これが、彼女が真っ先に選んだ大切な物。こうして持っている手の指先にちょっと悪意を込めれば壊れてしまう、そんな脆い物をどうしたらこんなにも想えるのか。
彼女がどれだけの寿命を持っているのか知らない。恐らく人間よりは長い生の中で、この食器が彼女の寿命を上回ることはないだろう。天寿を全うできず、明日明後日に無くなる命ならばいざ知らず。
クロードが形あるものへの執着が少ないのは、生きる年月が長いからだろう。人ならざる生き物は、皆そういうものだ。彼女もまた同じだろうに、生きてきた環境の所為か何処までも人間に近い。
この器が壊れたとき、彼女は思い知るのだろうか。形あるものの虚しさとか、虚しくなって心が離れていく荒廃感とか。
「やりにくそうだね」
「やりにくい。人間の感覚が、まるで解らん」
「俺もそこら辺は器用じゃないからなぁ。シンだったら巧く立ち回るんだろうけど」
「名前を出すな。話題にするな」
「はい」
返事ではなく提示の呼びかけに、クロードはユンを見た。
差し出されていたのは、写真立て。中にはキアと彼女の母親が写った写真がある。キアはまだ幼さを感じる顔をしている。二人とも、家の前で笑顔を作っている。
「渡してあげて。多分、写真ってこれだけだと思うから」
言われてから辺りを一巡見渡すと、他に写真立てはなかった。アルバムを思わせるものもない。
「……貴様が渡せばいいんじゃないのか?」
「俺が渡すより喜ぶよ」
「そんなことは……」
「やってみなよ」
受け取り、カフェオレボウルの時と同じように眺めた。これもまた、色褪せて崩れてしまう物だ。こういうものは解らなくもないが、やはりどこか虚しいと思ってしまう。
やがて小さな鞄を持って出てきた彼女に、
「これも持っていけ」
と、渡すと、
「あ……。ありがとう……!」
忘れていたというわけでもないだろうに、それはもう嬉しそうな顔をして受け取ると、両手でそれを持って見つめていた。
それとも、母親を忘れようとして、置いていくつもりだったのだろうか。
哀しみを和らげる手段として何処まで正しいのか、判断は付かない。キアの場合、あれほど無理をするなと言っているのに、こういうところで無理が見えるように思えた。
「無理に直視することはない。それも、飾っておく必要はない。だが、忘れてやるな」
忘れてはいけない物が何かさえ忘れてしまっている自分が言う資格などないかもしれないが、
「忘れてしまえば、そこで終わりだ」
思い出せないからこそ苦痛を感じ、一方で苦痛を感じずに済んでいる。規制を超え、封じられた先へ歩を進めることが出来たとして、どれだけの苦しみが待っているのか想像も付かない。
彼女は頷き、
「解ってる。解ってる、つもり。もう、忘れたくないもの……」
彼女もまた、同じように忘れてしまった物があるのだろうか。
その時は尋ねなかったが、二日経って、唐突に気になった。
部屋の片付けを終えてやってきたキアに、ユンはホットミルクを作って持ってきた。差し出したカップは、今朝、買い物に出掛けたユンがいそいそと買ってきたキア専用のマグだ。白地に、緑色で四葉が描いてある。最初に見たときは色々な含みを感じたが、単に似合うから買ってきただけということが判明した。
ユンも自分のコーヒーを用意して、三人が居間に集まった。黒猫もキアの隣の席にいる。
「いくつか質問するが、いいか」
「え、うん。……いいよ」
「人間を母親と呼んでいたが、まさか実子というわけではないだろう。どういう経緯か知りたい。その青緑の目の色も見たことがない色だ」
「……うん」
深呼吸ほどの間をおいてから、キアは訥々と話し出した。
五年前に名前以外を覚えていない状態でアリシアと会った。貧しいながらも、幸せに暮らしていた。それだけのことを、たっぷりの時間を掛けて彼女は語った。本題に入れないことに若干の苛立ちを感じていたが、クロードは黙って聞いていた。彼女にとっては大切な過去なのだ。一言二言で済ませることは出来ないのだろう。
ここまでで解ったのは、彼女も自分のことを知らないということだ。青緑の謎は謎のまま。
「それで。何故、あの咒法師に狙われた」
「解らない。会ったのだってあの時が初めてだし、咒法師なんて、見たことも無かったし」
だが、狙われた。女の方には明確な理由がありそうだが、次の機会に尋ねたとして、果たして素直に語るか疑問だ。そもそも、蝙蝠の事件にこちらも関係しているらしいとシンが言うから付いてきたというのに、その点に関しては何の進展もない。ついさっきまでそんなことを言われたことも忘れていたほどだ。
身に覚えのないことをこれ以上訊くだけ無駄に思えた。傷を抉るだけだ。
話が一段落したところで、全員が揃って各自のカップの中身を口に含んだ。喉を鳴らす音はするが、誰も次の会話を始めようとしない。
沈黙が流れた。
「訊かないんだな」
「ん?」
ふと思ったことを口にすると、キアが首を傾げた。
「何も訊いてこないのだなと、思っただけだ」
何故かキアは俯いた。カップを抱え、中を見ている。
「おしゃべりはコイツ担当だから、訊かれないことは話さないが」
親指でユンを指す。自覚はあるのか、ユンはしつこく頷いている。
そんな大人を前に、キアは少し困ったような顔をした。眉は僅かにハの字で、口元はやんわりと笑んでいる。
「訊いたら、傷付けてしまいそうだったから……。私よりも、自分自身が、自分のことを知りたいんじゃないのかな、って……」
この表情。デジャヴの様な感覚だが、何処かで見たことがあるような気がする。
困ったように優しく笑んで、言葉を選んでいる様は、一体何処で見たのだろう。それが〝いつ〟かも〝誰〟かも解る由の無いままに、クロードはキアを凝視して固まっていた。
「以前……会ったことが……?」
「マジで?」
「いや……そんなはずはない。だが、何だ。この感覚……」
「クロード。何か思い出せそうなのか? キアのこと知ってんの?」
「……」
ユンの声はあまり耳に入ってこなかった。
ぐるぐると頭の奥が渦を巻いて気持ちが悪い。出てこようとしている物を、何かが無理に押さえつけてきているようだ。頭痛がする。抗うほどに、痛みが増していく。
眼前が、ぐらりと揺れた。
駄目だ。耐えられない。
クロードは額を押さえて立ち上がった。ふらつきながら自室へ向かう。声を掛けられたが聞き取れなかった。耳鳴りがして、それどころではなかった。
突然青い顔をしてクロードが立ち上がったのを、ユンが呼び止めた。しかし、クロードは取り合おうとせずに、危うい足取りで部屋に入ってしまった。
「……私、誰かに似てたのかな?」
会ったことはないという前提が立ってしまったのは意図してのことではない。
投げた疑問に対してユンは頭を振って、
「わかんない。俺たちも、最近のこと以外ろくに覚えてないからさ」
思った通りだ。
「やっぱり、探してるのね……」
「探す?」
「自分自身のこと。私も、生まれてから五年前までのこと、ずっと探してた。……お母さんには、言わなかったけど……」
自分は何者だろうと、考えて解ることではないことに気をやっていた。きっと、アリシアは気付いていたに違いない。時々、何の前触れもなく抱きしめられることがあったのは、その所為だと今になって思う。
「クロードは使神、俺は見た目は人間と一緒だけど殉徒。二人ともね、神の徒だった。八年前までは、ね」
使徒でなくなった理由は解らない。大事なことは何も覚えていない。そんな状態で八年間、黒い空の下でくらしていたのだとユンは話してくれた。まるで他人事のように話すユンを、じっと見ながら話を聞いていた。
堕落した自分を責めるかのようなクロードと違い、ユンは完全に割り切っている。少しくらいは絶望したり哀しんだりしそうなものなのに、この件に限らず、ユンはそれらの感情を知らないように見える。少し歪で不安定ながらも、強い魂を感じた。
「取り戻せるならそうしたいけどね。戦うのは好きだし、今まで出来たことが出来ないのはもやっとするし」
それでも、機会があれば、でいいのだとユンは言う。
「ただね」
ずっと笑顔だった彼の表情が、曇天に変わった。
「クロードは、俺みたいに適当じゃないから。早く何とかしてやりたいんだけどさ。せめて振り回してやらないと、取り殺されそうで」
見ていられないんだ。
言葉にならなかった部分が、聞こえた気がした。
中途半端に覚えている分、彼らにはまた別の苦痛があるのだろう。
「さて。お昼にしようか」
一方的に会話が打ち切られた。ユンがカップを持って立ち上がる。知らない間に俯いていたことに、顔を上げることで気が付いた。
「何か食べたいものある?」
「好き嫌いは殆ど無いから……何でもいいよ」
「じゃあ、昼間だし、チャーハン。具沢山の」
ユンはほくほくしながら台所に向かった。早速冷蔵庫を漁って食材を取りだしている。
クロードの不思議な右手から出てきた家財道具で一番不思議だったのがこの冷蔵庫だった。手の中は時間の概念がないためなのか、コンセントを指す場所もないそこから取り出された冷蔵庫は、ドアを開けると冷気を目一杯吐き出したのだ。勿論、食材に一切の変化はない。これは流石に驚いた。
アリシアとの暮らしの中にあった冷蔵庫と違い、彼らの冷蔵庫は潤沢だった。冷蔵効率が落ちそうなほどに食べ物が詰まっていて、そもそもの容量が大きい。家具も、数は少ないが質はいい。初めて感じる物質的な贅沢だった。
「ねえ、キア。パスタとか、グラタンは好き?」
「うん。大好き」
「じゃあ、どっちか今夜の夕飯にしような」
「わあぁ……」
わあい、と言うつもりが、感激が過ぎて語尾が脱力してしまった。そんなキアを見て、ユンは苦笑している。
食材が揃ったところで、料理が始まった。キアも横について手伝う。
油にごはんが爆ぜていい香りがし始めた頃、クロードが姿を現した。匂いか音に釣られて出てきたのかも知れない。顔色は大分良くなっていた。コーヒーをお代わりして台所を抜けた。その時に、
「いつかのような物を作ったら、今度こそ殺すからな」
と言い捨てていったのが若干気になった。
何のことだろう、とクロードを目で追っていると、
「ああ、あれね。旨いと思ったのが不人気でさ。ちょっと奇抜だったのは認めるけど。ま、今回は普通のを作るから安心して」
安心できないような物を作ったのだろうか。何を入れたのだろうと想像力が豊かになってしまった。
ごはん、葱、叉焼、卵。油はごま油で、味付けは醤油がメイン。
結局最後まで不思議なものは何も入らずに、パラパラごはんのチャーハンが出来上がった。凄くいい匂いがする。口の中で唾液がじわじわと広がっていた。
「はい。これ、テーブルまで運んでくれる?」
「わかった」
二人分の皿を受け取り、一つはクロードに、一つは自分に。ユンが自分の分を持ってきたところで昼食になった。
早速一口食べてみた。チャーハンとはこんな味だっただろうかと首を傾げたくなる程、ひと味もふた味も違う。美味しい。後を引いて、二口目からは沢山頬張って食べていた。がつがつと食べる性分ではないのに、自然と手を動かすのが早くなり、咀嚼の回数が減っている。勿体ないけれど、次々に味わいたい。
この食事までは外食だった。それほど食欲もなく、二人が食べている物を横から摘む程度しか食べなかった。
食べる、すなわち生きるということへの無関心は、今となっては何処へやら。
やっと自分のことに気が回るようになってきたようだ。
今まで感じていなかった空腹を一気に満たそうとするかのように、身体が食べ物を求めている。貪欲なほどに。さもしいほどに。
極力自制しながらも順調に皿の中身は質量を減らし、男二人とほぼ同時に完食した。
圧倒されている気配が横からするが、気にしない。欲を満たした快感が胃を中心に全身を巡っている。心地好かった。
「美味しかったぁ。ごちそうさま」
「お粗末様」
相槌を打ち、ユンは食器を下げると、暫くしてコーヒーとカフェオレを持ってきた。コーヒーはサーバー入りで、カフェオレはキアが持ってきたボウルに注がれていた。一口飲むと、仄かに蜂蜜の味と香りがした。
「この蜂蜜って……」
「あ……。勝手に持って来ちゃった。棚に残ってたからつい」
「……嬉しい」
気が利く上にマメ。些細なことだが、心に沁みる。
――食卓を囲んで楽しい人が、また出来たよ、お母さん。
*
エストラ。
勝手に惚れて、勝手に傷付き、勝手に死んだ女。
彼女のことを、実のところシンはよく知らない。
気の強い咒法師の女で、気が付いたら傍に居た。当時、記憶を失い理性を保つので精一杯だったシンの傍らに居て、頼んだ覚えは一つもないのに、甲斐甲斐しく世話を焼いていた。関係性は知らない。今となっては、誰かが知っていて教えてくれない限り永遠の謎だ。
あの頃は彼女の気遣いが鬱陶しくてならなかった。挙動の一つ一つを見られているようで落ち着かず、何に付けても一緒に居ようとするのがたまらなく嫌だった。
何故この女に掻きむしられなければならないのか。日々嫌悪感だけが増していく毎日だった。この狂気にも似た執念と感じていたものが、彼女の愛情だと知ったのはフェイを見つける少し前のことだった。彼女が死んでから一年以上後のことだ。
エストラのことは蒸し返される度にあの時の悪心までも蘇ってくるようで避けていたのに。
ネノーアを関わると知ったときから、この話題は避けられないと解っていた。だが、またあの時の表現しがたい不快感に、今こうして眉を顰めている。関わらないに越したことはない。だが、向こうがその気なら受けて立つ。たとえ不愉快な記憶が掘り起こされたとしても、それはそれだ。二度と手出しできないようにしてやれば、多少は気も晴れる。
それにしても、エストラは何故自分などに好意を持ったのだろう。彼女に関する、唯一の疑問だった。
――こんなろくでもねぇのにさ。
力だけを見ていたのだとしたら、見る目がない。力はただ力であり、人格がそれに見合うほど優れたものとは限らない。彼女は、両の眼で一体何を見ていたのか。
思い出されるのは黒い虹彩ばかり。
彼女は蒼を失った。
同時に様々なものを失って、終いには自分で頭を消し去った。
最後の最後に、
「あんたの所為じゃないから」
恨めしそうな目をしてそんなことを言って、右手を自分のこめかみに当てて、死んだ。
死んで、消えて、彼女のものは殆ど残っていない。クロゼットに仕舞いっぱなしになっていた、今イヴェールが着ている服くらいのものだ。捨てておけば良かったかも知れない。だが、今更出てきてそれをイヴェールが着ていても、なんの感慨も不快もなかった。
不思議なものだ。過去の映像にはあんなに過敏であるのに、その映像の主の持ち物には何も思わないとは。
そんなことを思いながら見上げるのは天井。場所はベッドの上。
ツィアに着いた当日中に新居を決め、自分のベッドで寝ることが出来た。翌日、寝穢く寝続け、散々右に左にとゴロゴロした後、今に至る。
部屋にはシン一人。家の中は静かだ。ドア一枚隔てた居間からは物音がしない。各々自室にいるのだろう。たまにはこういう静寂もいい。
大の字から、頭の下に手を持ってきた。見るのはやはり天井。
過去を思い返しているうちに、弱い頭痛を感じ始めていた。最近多い。
それでも今日は、考えることを止めなかった。たとえこの痛みが激痛になっても、ここに居れば支障ない。出掛ける予定だったり、呼んでもいない客が来るのであれば話は別だが。
浸りたい。そんな気分だった。痛みと引き替えの思考は、心地よさの一つもないというのに。
蒼い瞳がシンを見る。やっと彼女の蒼を思い出せた。彼女は何度も振り返り、見上げてくる。回を重ねる事に、目に宿る意志は強くなっていく。しかし、突然、蒼が黒に変わった瞬間、彼女から全ての意思が消え去った。
力と意思が比例していた彼女にとって、抜け殻になってしまった身体は最早、肉塊に過ぎなかったのだろうか。絶望に病んで、それさえも失って。
辛かっただろうとは思う。そこまで想像できないほど無神経ではないし、別のものならシンも失っている。自我の一部である記憶を、彼女にあったときには既に欠如していた。だが、死のうとは思ったことがない。
死を思うほどの苦しみや絶望を、シンは知らない。感情は解る。だが、そこから死へ向かったことがない。
価値観の相違には違いない。恐らく、同じだけの物を無くすか、あるいは生涯理解できない感覚だ。
また側頭部が痛んだ。痛みは強くなっている。
この行為と代償は、後悔故だろうか。それとも、未練か何かなのか。端から見れば、自戒のように映るのだろうか。
「……違う」
声にして否定した。
思い出も、痛みも、罰ではない。ただの事実だ。
彼女には未だに何の感情も抱いていない。それも事実。
事実なら、不快感を八つ当たるのはもうやめよう。
この一件は、しつこい女を黙らせるためにある。忘れた頃に余計なことをしてきたネノーアが悪い。
どうでもいいと思っていた割に片付いていなかった心の中の整理が付くと、急に胸がすっとした。今度フェイかイヴェールに昔のことを問われたら、声を荒げずに語れることだろう。あの時はまだ、散らかっていて、足元にあるそれらを踏まれて不快だったのだ。もう大丈夫。足の踏み場もなかった床は、綺麗になった。片隅にはまだ仕舞いきれずに山になっている物もあるが、これはゆっくり片付けよう。
「はぁ……」
深く息をついた。肺に沈んでいた重い空気が、それ一つで追い出されて無くなった。何故今まで溜め込んでいたのか不思議なくらいだったが、関わりはないと思っていても、やはり身の上に起きたことだ。見えないところに、傷を負っていたのだろう。もしくは、その傷を見ようとしていなかったか。
「若かったのさ、俺も」
自嘲気味に笑んで、シンは半身を起こした。
階段が軋む音がする。足取りからしてイヴェールだろう。いい機会だ、とシンはベッドから降りた。長時間横になっていた所為で背中が痛い。伸びをして、あくびも一つ。
部屋を出ると、丁度イヴェールと鉢合わせた。
「腹減った。何か作って?」
「もう。今までどうやって生きてたのよ。この家の男は私が来ないと食事もしないわけ?」
文句をいいながらもイヴェールはその足で台所に入った。
「随分長く寝てたけど、大丈夫?」
冷蔵庫を覗きながら、イヴェールが尋ねる。
「大丈夫って?」
「具合悪かったりとか。そういうのじゃないの?」
「ああ。全然。俺、一回寝るとなかなか起きないから」
「なかなか起きないなんてレベルじゃないよ。お昼ご飯の時、呼んだのよ? 返事無かったからフェイと二人で食べちゃった」
「え……? 今、何時?」
「もう夕方。そろそろ夕食」
「マジ……?」
流石のシンも頭を掻いた。
感覚は正午過ぎくらいだったのだが、まさか丸一日横になっていたとは思わなかった。その時間を眠ることに費やしたのか、思い耽ることに費やしたのかは解らない。
片付けには時間が掛かったようだ。しかし、おかげで気分は晴れている。
「夕食に差し障るから、軽くでいいよね?」
「いいや。晩飯まで待つよ」
「そう? じゃあ、おやつ」
台所から戻ってきたイヴェールが持っていたのは、見慣れない容器だった。円形のホーローのタッパーだ。大きめのホールケーキくらいの大きさがある。こんなもの、前から持っていただろうかと首を傾げている間に、容器の蓋が開けられた。
中身はクッキー。ココアとプレーンが渦を巻いたりタイル状になっていたりしている。アイスボックスクッキーというやつだ。バターのいい香りがして、じゅるり、と口の中で音を立てた。
「なにこれ。いつ作った?」
「今日。シンが夢の中にいたとき」
夢は見てなかったが、全く気が付かなかった。
断ることもせずに一つ摘んだ。サックリと焼き上がっていて非常に旨い。甘い物は外で買ってこない限り食べない。こういった味には若干飢えていたが、何せ甲斐性がないので糖分に金を回すという頭があまりない。
二つ三つと頬張ってから漸く、
「イヴェール、これ、すっげ旨い。沢山焼いて売れよ。儲かるぜ?」
「差し出した人に美味しいって言って貰えるだけで充分」
会話の間にまた二つ口に放り込んだ。空腹も手伝って、容器から摘む手が止まらない。
全体量の三分の一ほど食い尽くしたところで、手を叩かれた。
「こら。フェイの分が無くなっちゃうでしょ」
「いいじゃん。また焼けばさぁ」
「だめ。少しは自制しなさいよ。ホントに王様なんだから」
王様、か。
――そりゃ俺じゃない。
最後に奪い取った一枚を奥歯で砕きながら独りごちる。
思い浮かべたのは、不機嫌な紅い瞳。想像するのは、金の髪とモノクルで隠された右目の様子。あの右目は、今でも涙を流せるだろうか。
口の中に残るクッキーのかすを舌で集めながら、時期を探っていた。
――いつ虐めに行こうかな。
あの男も思い知ればいい。
眼前にある現実を。
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