第10話

 受け入れなければ解らないこともある

 見ようとしなければ見られないものもある

 覚悟することで新たに得られるものもある



 ユンは黒い塊を見た。動いている。触り心地の良さそうな生き物がこちらに来る。

「猫?」

 皆一様に声を揃えて、地べたに座り込んだままの少女にすり寄る黒猫に注視した。足だけが靴下を穿いたように白い黒猫。瞳は蒼。宝石のような色だ。

 この血生臭い場所に、まるで彼女を目指してきたかのように真っ直ぐにやってきた。コイツは鼻が利かないのか。そう疑うほど平然としている。

 黒猫は彼女の足に身体をすりつけると、さも当たり前のような顔をしてそこに座った。

「貴方の猫?」

 イヴェールの問いに、少女は首を振った。

「ううん。知らない子。この辺で猫なんて見ないのに……」

 思わず撫でようとして、彼女は出そうとした手を引いた。手は勿論、身体中血で汚れている。毛艶の良い猫をも汚す気がしてやめたようだ。

「んで。これからどうしようか」

 シンは立ち上がり、一様に辺りを見回した。

 クロードは何か言いたげであるが、唇を噛むだけで止まっている。他は皆、ユンも含めて、おまえが決めろとシンに目で訴える。

 その視線をかわし止まるのは、やはり一人口籠もるクロードの所だった。

 赤と蒼が交錯し、場の空気を変質させる。

「咒法師と関わり合いになるのは、貴様で充分だ。胸くそ悪い」

 食あたりを起こしたような顔をしてクロードは言い捨てる。

「そう邪険にするなよ。あんた一人じゃネノーアには勝てないと思うぜ?」

「貴様に力を乞えと言うのか? 冗談じゃない」

「だったらどうすんの? あんたとユン、二人掛かりでも無理だと俺が保証書付けてやるぜ?」

 そんな保証書、頼まれても要らない。

 しかし、ネノーアの実力を知るシンが言うのだから、恐らく間違いないのだろう。彼が何処までこちらを知っているのかは不明確だ。だが、見立てはそう誤っていないとユンは思う。昔だったらいざ知らず。今は思うように戦えない。

 クロードは反論はせず、唇を噛んだ。見解はユンと同じなのだろう。だが、絶対に首を縦には振らない。

 ユンは盗み見るようにクロードを窺ったが、頑ななその表情を見て一体何と言えばよいか思い付かなかった。ここはひとつ、煩わしいことを排除する為に公式にシンと手を組んだ方が手っ取り早いことは解っている。けれど、クロードのことを考えるとユンがそれを提案することは出来なかった。

 クロードの咒法師嫌いが単に差別意識から来ているものであれば、まだ楽なのだが。

 ユンは顔を顰めるクロードを見つめた。そこには、未だ拭えない過去を背負う男が居る。内にも外にも消えない傷がある。

「シン。いいだろ。俺達は俺達のやり方でやればさ。その所為で俺達が負けようと死のうと、おまえには関係ない。そうだろ?」

 ユンはどうにか話をかわそうとする。シンが諦めそうなことを言いたいが、上手いことは何も思い付かなかった。

 斜に構えて腕を組んでいたシンは、笑みと怪訝を混ぜている。

 当惑気味のユンは、そのシンの態度が不安であった。クロードはあれきり、シンを見ようとしない。これ以上シンが傷に指を突っ込むようであれば、クロードが一体どうなるか解らない。この前の喧嘩どころでは済まないことは確実だ。

 祈るような気持ちでユンはシンの動きを見守った。

「そりゃあ、俺には全然関係ないけどさ」

 何処まで計算済みなのか解らない表情ではあったが、シンはクロードの傷をいじる手を引っ込めることにしたらしい。

 一安心。しかし、これで終わりではないので、ことある事に気を揉むことになりそうだ。

 組んでいた腕を腰に当て、シンは、さて、と息を付いた。

「じゃあ、そちらさんは個人行動がいいみたいだから、どうぞご自由に。けど、巻き込む時は巻き込むけど、それでオーケイ?」

「既に存分に巻き込んでる分際で何を寝惚けたことをぬかすか。脳みそに思考を通してから発言することを勧めるぞ」

「じゃあ、オーケイって事で」

「……聞き流しを会得したか」

「それでは自己紹介といきましょう」

 そういえば、名も知らない女の子がここに居る。彼女は名も知らない大勢に囲まれて居る状態が続いて十数分になる。

 これからの関係はどうあれ、自己紹介は悪くない。

 シンから始まり、イヴェール、フェイ、クロードの分はユンが自分の分とまとめて言った。少女は座ったまま、

「私は、キア」

 黒猫を見やり、

「この子は解らない。名無し」

 野次馬が消え始めた道の一画で、暢気な自己紹介となった。これであんな事の後でなかったら、ほのぼのとしたものだったのに。

「キアは、これからどうする?」

「……どうしよう」

 ユンの問いに彼女はまた目線を落とした。

「お母さんしか、すがれる人を知らないの……」

 涙声の彼女を慰めるかのように、黒猫がまた頬をすり寄せる。

「それだったら、一旦あんたらが護ってやればいいじゃん」

 この咒法師はまたとんでもないことを言い出す。

「俺の側かあんたらの側かっていったら、考えるまでもないじゃん」

 キアの心情を考えると咒法師であるシンと居るのはまだ酷だろう。イヴェールにこちら側に来て貰うことは、クロードとの関係上出来ない。シンを引き取るなどもってのほかだ。そう考えると、構成を変えずにこちら側で引き取るのが良策だろう。

 唯一の問題は、クロードがうんと言うかどうかだ。

「クロード……」

「知るか」

「クロード!」

 たった二秒程度の間にこんなに語調を変えて同じ事を言ったのは初めてだ。突き放すようなことを言いそうだとは思ったが、本当に言うとは思わなかった。

 本人の意思も訊かずに、しかも男所帯に放り込もうなど無茶というより非常識であることは解っている。だからといって、このまま放っておくことは無責任だ。咒法師という未知数の種族に狙われた、今し方たった一人の身寄りを亡くしたばかりの少女を一人、この路上に放置するなど出来るわけがない。

 非難する目を向けると、クロードは首を振った。その動作に否定の意味合いは薄い。

「あ、あの……」

「つまみ出すような真似はしない。だが、責任は持てない。よほどそこの咒法師の方が力を持ってる」

 困惑気味のキアの言葉をクロードが押しのけた。

 全て解った上で、クロードは敢えて言っている。相性の問題よりも、護れないことの方が問題だ、と。

「お。じゃあ、決まりな。またなんか解ったら探しに行くから」

「シン、ちょ、ちょっと」

「待ってよ、シン」

「俺たちも家探さねぇとな」

 途轍もなく強引に話をまとめると、これまた勢いだけの力でイヴェールとフェイを引きずってシンは何処かへ向けて歩き出した。引かれる二人は抵抗を試みているが、どうやら何一つとして通じないらしい。黙って見守って暫く後、影さえも見えなくなった。

 残された三人と一匹。

 キアはおろおろとして、せめて立ち上がろうとするもまだ足に上手く力が入らないのか、結局座り込んだまま見上げてきた。見下ろすのはあんまりなので、ユンは屈んで目線を合わせた。

「どう、する? なんか、凄く強制的にこうなっちゃってるんだけど……」

 即答は来ない。無理もない。色々なことが唐突すぎる。

 だが、道ばたで、しかも彼女は全身血まみれの状態で、あまり長居はしたくない。

 母親を失ったばかりの女の子に選択を急くのは酷だ。本当はもっと泣きたいはずだ。声を上げて、哀しみ、怒りをぶちまけたいはずだ。だが、彼女はそれをしない。母を呼ぶのも、涙を流すのも、とっくにやめてしまっている。

 見栄。我慢。疲労。空虚。あの女の次に、彼女は一体何に襲われているのだろう。

 哀しみという感情は解らない。縁もない。もしかしたら、そんなモノは感じない心に創られているのかもしれない。だから、知った口を利くのはやめようと思う。

 掛けるのは別の言葉を。

「キアのうちって近く?」

「え……う、うん」

「一旦そこに行くってどうかな。君もその、……ね」

 言いにくくなり後半をだいぶ濁してしまったが、彼女は酌み取って頷いた。

 行動に移そうと、キアは地面に手を付いた。膝を立てようとして苦戦している。

 手を貸してあげよう。そう思ったとき、

「ほら」

 手が伸びてきた。無論、キアに向けて。

「全部自力で立てとは言わん。努力して駄目なら、その時は言え」

 クロードだ。立ったまま、男にしては細くて傷一つ知らない手を差し出し、

「手の一つくらいなら、貸してやる」

 彼なりの優しさに、彼女は手を伸ばすことを躊躇っていた。それは拒絶ではなく、

「気にするな。血なら、慣れてる」

「……うん」

 血に慣れっこであることを公言するのはどうかと思ったが、不器用にもよく頑張った方だ。そこは責めないでおく。

 クロードがキアを立たせると、ユンは開いた側に立った。猫は彼女の足元に寄り添っている。

 ユンも、キアの手を取った。驚いた眼差しに、笑って返す。

「俺も気にしない。クロードより慣れっこだから」

 自分は昔、今のキアと同じような様をして、使徒を狩っていた。嬉々として。それこそ、血を浴びるようにして殺していた。今更手が血で汚れることなど、他愛ない。

 血にまみれた過去を想像し、手を離されるかも知れないと思っていた。しかし、放されるどころか強く握られた。クロードに対しても同じだった。今度はクロードが驚きを混じらせた訝しげな顔を向けた。

 キアは正面を向いたまま、

「頑張って、歩くね……。でも、もう少し、支えて欲しい、な……」

「いいよ」

「……好きにしろ」

 今日日、実の親子ですらこんな風に手を繋いで歩くのをなかなか見ない。それをここで実演して、少しいい気分になった。仏頂面の使神も、表現が下手なだけでそれほど悪い気はしていないように見える。

 表通りを避け、裏路地に入った。

 二人を導きながら、彼女は真正面を見ない。気丈に振る舞っているが、立ち直れているはずがない。

 キアの手を取ったまま、ユンはずっと言葉を探していた。探し当てられるはずもないと解って、検索を続けている。クロードは何も言わない。ただ、手は離していない。

 トンデモな女と、その女に支えを奪われた時折電波が入り交じる少女。関係性は不明。

 だが、関係は既に出来ている。そこかしこ。この手もその一つ。

 せめてこれ以上、彼女が何かを失うことがなければいい。

 叶うことのないことを不用意に思った。綺麗事を恰好付けて思っただけだ。

 護りたいなどと口実を付けて、実は戦いたいだけなのかも知れなかった。不謹慎にも、何処か愉しいのだ。不安なのはクロードのことだけで、あとはうずうずとする物を遠くに感じている。

 抱く感情を正当化しようとは思わない。元々がそういう生き物だ。仕方ないし、仕方ないと理解して貰うしかない。

 結果が付いてくれば誰も文句は言うまい。さあ、どう料理しよう。

 不穏なことを考えながら、幼気ながらも健気な少女の手を引いて歩く。

 罪悪感はなかった。


   *


「ねえ、本当に大丈夫なの? 今からだって戻れば……」

「大丈夫」

 イヴェールの不安に対し、シンは一言で断言する。さっきから似たような会話を二人は何度もしている。フェイは黙って聞いていた。しかし何度聞いても、シンの断言には根拠も道筋もないように思えた。

「でも、あんな……」

「使神なんかに、って? いくらなんでも子どもに手ェ出すほど、あいつらだって獣じゃないさ。まあ、男所帯だから多少苦労するかもしれないけど」

 と、シンはニヤニヤ笑っている。彼の中で、苦労するのは男二人の方、という認識のようだ。そうだろうか、と思いつつ、納得のいく回答が得られずに黙ってしまったイヴェールの代わりに疑問を投げた。

「別に、うちだってよかったじゃないか。イヴェールだって居るんだし」

 おまえも言うのか、という顔がフェイに向いた。

「理由は色々ある。アレでいいんだよ」

「なんで。自分も咒法師だからあの子が気にするからとか?」

「多少はそれもあるけどな。でも、一番の理由は違う」

「じゃあ、一番の理由って何だよ」

「ちょっと思い知らせてやりたいだけさ」

「誰に?」

「愚かな男」

 ユンとクロードのどちらを指しているのか、それだけでは解らなかった。ただ、シンが虐めて愉しいのはきっとクロードの方だろう。言い終えたシンはやはりニヤついている。

 その顔は、一人だけ何かを知っている愉悦の顔だ。それが何かは皆目見当が付かないが、また何かを嗅ぎ付けたに違いない。それを材料に、また人の弱いところに指を入れる気だ。

 タチが悪い。その一言に尽きる。

「内容は大したこと無いけどさ。自分に裏切られたとき、どんな顔すんのか、ちょっと見てみたい」

 シンの独り言に、フェイだけでなくイヴェールも首を傾げた。内容がまるで通じてこない。

 勘や想像ではなく、確かな根拠が欲しかった。今まで、殆どのことにそれが示されたことがない。結果を知って初めて、過去の判断が正しかったと知ることばかりだ。

 住処を見つけたら、早いうちに様子を見に行ってあげよう。流石にシンも、それを止めたりはしないはずだ。それに、キアというあの少女に、何か思うところがあった。漠然としすぎていて、捉えるのが難しい感覚だった。強いて表現するならば、似ている、とでも言おうか。感情ではなく、別の部分で通じ合うもの。もしこの感覚が確かならば、解らない過去を知る手がかりになるかも知れない。そんな期待もあった。

「ねえ」

 後ろから声がした。

「貴方は自分の興味本位のためにあの子を投げ遣ったの?」

 イヴェールだ。足を止め、眉を釣り上げている。刃物を取り出しそうな剣幕だ。

 フェイ、遅れてシンが立ち止まった。振り返った男は、相対する女とは対照的な顔をしている。何も気に病んでいない、楽観の表情だ。

「俺がどんだけ薄情に見えるか知らないけど、結果的に都合が良かったからそうしただけさ」

 手を広げておどけてみせると、イヴェールはますます眉尻を上げた。

「薄情を謳ってるのは貴方自身じゃない」

「それは俺に対してのこと。自分の力で立つのもやっとな子ども相手に、殴り倒すような真似できねぇよ。クソガキだったらまた別だけど」

「何なの? 貴方の正義って、どんな姿をしてるの」

「俺の正義?」

 目が、僅かに細くなった。ふざけた様子は消えている。

 これだからシンは恐い。スイッチが切り替わった途端に表れる、凶悪なまでの正しい言葉。目を逸らしたいと思っていたことを、次々と眼前に突きつけてくる。よほど筋の通った思考をしていない限り、容易く折られてしまう。

「そんなの知ってどうする。誰もが誰とも違う独善を、暴いて間違ってると指差すことに何の意味がある」

 それよりも、とイヴェールが口を挟む間もなくシンは続ける。

「なんであの子一人にそんなにこだわるかの方が興味ある。あの子にしてみれば、あいつらも俺たちも、見知らぬ赤の他人だ。それなのに、どうして自分の方がいいと言える? 自分は自分が一番よく知ってるからな。何もしないって、言い切れる。でも、向こうにしてみたら違うだろ。選び取らざるを得ないとするなら、確実に自分が生き残れる方を選ぶだろうね」

 そこまで計算しているだろうか、という疑問は多少ある。だが、シンの言い分の方が納得いった。シンは多少享楽に走っている感はあるが、考え無しではない。イヴェールは何故と尋ねるだけで、自らの正当性を一つも証明していない。

「イヴェール」

 シンが口調を変えて彼女に数歩近づいた。

「まだ殺したいのか? それともやっぱり、男は憎いか」

 イヴェールが真っ赤になって顔を上げた。激している。

 きっとこれが彼女の内に隠れていた本音なのだろう。クロードを、使神を、殺したいほど憎んでいるから、その手にキアを渡したくなかった。

「言ったでしょう! 傷付けるのも、手を差し伸べてくれるのも男しか居なかった! でも、使神は別。覚えてもない癖に、憎しみばかり込み上げてきて、右手が震えるの!」

「悪いのはその右手か。それなら……」

 もう数歩、シンは歩を進めた。立ったのはイヴェールの横。右側。

 左手で、彼女の右手を取った。ぎょっとして息を呑むと、イヴェールもシンを見ていた。

 同じ事を考えているのだとしたら、右手を切り落とすのではないかという懸念。シンならやりかねない。

 取った彼女の右手を、シンはそのまま左手で握った。丁度、手を繋ぐ恰好だ。

「悪さしないように捕まえとかないとな」

「な……」

 またイヴェールが赤くなった。火照った赤みは先程とは質が違う。

「ちょっと、放しなさいよ!」

「さぁ。家探し面倒だなぁ」

「人の話、聞きなさいってば! コラ!」

 手を引き、手を引かれて眼前を過ぎ去る二人を見て、フェイは何となく胸を押さえた。

 少し息苦しい。肋骨の向こうで、何かが軋んでいるようだ。

 深呼吸を一つ。原因が分からないので、対処法も解らない。いつものように自分を落ち着けるほか無かった。

 胸の奥の違和感が気にならなくなった頃、二人が歩いていった方を見ればかなり引き離されていた。急いで追いかける。

 またこの感覚を得ることがあったら、今度は話してみよう。


   *


 案内された家のダイニングテーブルで、クロードとユンは向かい合って座っていた。

 キアは着替えを持ってシャワーに行かせた。血を流す必要があったし、一人にしてやる必要があるようにも思った、とはユンの言だ。その間、クロードは口を閉ざして壁に背を付けて立っていただけだった。

 シャワーの音が聞こえ始め、ユンに促されて漸く椅子に腰を降ろした。隣の席では黒猫が毛繕いをしている。

 水音を聞きながら、暫く沈黙が続いた。

 クロードは、もう一つ、自分の拍動を聞いていた。それと共に、少し前から頭痛がしていた。今となっては痛みはかなり増し、飲めない酒に酔って二日酔いになった時のようにガンガンと痛む。

 早くこの頭の痛い状態から抜け出さなければ。それには、ネノーアを始末すればそれで済むのだろうか。思考は堂々巡りする。

 クロードは実のところ、ネノーアの力量を量り切れていない。それはユンも恐らく同じだろう。シンの脅しの影響を抜きにしても、未知数の相手にいきなり殴り込む気はしなかった。

 、尚更。

「クロード。悩んでる?」

 沈黙が割られた。

「そう見えるか?」

「うん。頭痛を装って酷く考え込んでるように見える」

 装っているとは心外だ。事実頭は痛い。だが、言葉の上での頭痛もある。

「貴様は咒法師二人に好きに言われて何も感じないのか?」

「そりゃあ、……痛いトコ触られて、ちょっとは疼くけどさ。前も言ったけど、引きずってちゃ、何にもならないから、違うこと考えてる」

「例えば何を」

「うーん。あの女、どのくらい強いのかな、とか。何かいい作戦あるかな、とか」

「前向きで結構だ。本当のところはもっと不穏なことを考えているのだろう」

「クロードも真似してみろよ。眉間の皺、少し減るかも知れないぜ?」

「……余計なお世話だ」

 強く反論する気力がない。久しぶりに、抱えている物の量に圧倒されているようだ。

 言葉にしないことを酌み取って、必要に応じては黙っていてくれる。そこがユンのいいところだ。たまに制止も聞かず踏み込んで来てうるさく感じることはある。だが、この男は下僕ではない。既にわきまえる分は知っている。充分だった。

 この先をどうすべきか。

 気になることは山程ある。はっきり言えば、何から何まで気になる。

 キアの青緑や、フェイの緑も気になる。シンの右手も気になるし、ネノーアが口走った不吉な言葉も気になる。ネノーアのことに関しては殆どどうでもいい。力量くらいにしか興味はない。しかし、執拗に絡まれる理由は知りたかった。

 こんなにも何かが気になるのは久しぶりだ。

 だが。

 クロードは頬杖を付いて手に顎を乗せた。

 今浴室にいる独り身の少女を、これからどうすべきか。状況的に引き取って護るのが最前だろう。反面、そんな義理は無いとも思う。どちらにしろ、この一件が片付けば、側に置く理由はない。

 傷心の子どもに、何処まで言っていいか。

「はぁ……」

「何だよ、溜め息なんて吐いてさ」

「溜息も吐きたくなる。頭痛の種を食うほど抱えてるんだ。もう、面倒事ばかり……」

「そう言うなって。クロードだって、無下に出来ないんだろ? だから結局」

「ああ、黙れ。うるさい。貴様が全部やれ。気を遣うのは嫌いだ」

「はいはい。クロードは自分のことに気を遣えばいいさ」

「この……」

 怒鳴るのも面倒だ。手に顎を乗せ直し、そっぽを向く。

 少し、長い。時計を見、浴室のある方を見た。

 動くことはしない。たとえ泣いていたとしても、一人にしておくことも大事だ。そう思った。


   *


 キアは、カランを目一杯ひねり、頭から大量の湯を浴びていた。

 乾いてこびりついていた血は、湯に流され排水溝に赤い渦を巻き、今や身体には殆ど残っていない。

 ただ、臭いだけは落ちない気がしていた。鼻孔の奥に独特の鉄錆の臭いが残っていて、呼吸する度に血を嗅いでいるような錯覚に襲われた。

 そして、感覚。腕にはまだアリシアの重みが残り、粘度の高い液体の触感があり、あの現場にまだ居るようだった。手を繋いでくれた二人の感覚は最早遠い。

 忘れたくないが、決して残しておきたいものではない。

 忘れることは、裏切ることにはならないか。

 忘れずにいることは、苦しみを感じ続けることにはならないか。

 葛藤と共に、一度は途切れた涙が溢れてきた。今度は堰を切って流れ出す。堪えきれず、嗚咽を漏らした。

 哀しみ。悔しさ。怒り。それらが綯い交ぜになって奔出した。

 こうなると止められない。聞かれても構わないと思いながら、声を上げて泣いた。

 顔を覆い、拳を握り、やがては座り込んで泣きはらした。

 アリシアはもう居ない。遺品と記憶以外、彼女にまつわるものは残っていない。弔い方に後悔はなかった。物として捨てられるように土に投げ入れられるより、その場で昇華させてしまう文化の方が、彼女の尊厳を護れる気がした。今でもその気持ちは変わっていない。

 ただ漠然と、彼女が居ないという空虚が、キアを苦しめて止まなかった。

 苦しい。突然心の中心に大きな風穴を開けられて、どうやって息をすればいいか解らない。噎び泣いている所為で、ますます呼吸が不自由だ。

 隙間を縫って息を吸い、やっとの思いで吐き出して、気道をこじ開けまた吸い込む。

 立ち上がろうと足に力を込めるのに、支えを失った身体は簡単に崩れてしまう。頑張って歩くと、クロードとユンに誓ったのに。

 出会ってまだ一時間程度の彼らのことは、完全に無知である。それでも信頼できると思った。大切な人を失くした直後で拠り所を求めた末の過ちだとしたら、自分を恨むまでだ。

 嘘つきには、なりたくない。

 迷いに答えは出ないまま、想い一つだけでキアは口を結んだ。暫くはしゃくり上げが止まらず、喉を震わせては奥歯を噛んだ。

「おかあ、さん……」

 湯の滝の中で呟いた。

「見てて。負けないで、生きるから」

 もう一度、足に力を入れた。崩れないように、ゆっくりと膝を伸ばす。ふやけてしまった足の指先でタイルを踏み締める。

 目を閉じて、顔からシャワーを浴びた。

 生きよう。

 彼らの手を取って庇護を受けながらでも、生きよう。

 生きることを、アリシアは望んだはずだから。


   *


 目を見て、長いこと泣き続けたのだな、とユンは思った。

 キアの瞼は少し腫れぼったくなり、顔は紅潮し、指先はしわしわにふやけていた。バスタオルを肩に掛け、おぼつかない足取りでやってきた。

 彼女が居間に入ってくるのを認めると、黒猫は椅子から降りてキアの足元にすり寄った。随分な懐き様だ。

「何か飲む?」

「……ミルク。冷蔵庫に……」

「温めてあげようか」

「え……。うん……」

 キアに空いた席を促し、ユンは台所に入った。

 冷蔵庫を開けると、しんとした冷気が押し寄せてきた。袖部分にミルクの瓶があったが、他の内容はあまり豊富ではない。家の規模も内装も、あまり豊かではないことが見て取れていた。

 生活は楽ではなかっただろう。それでも彼女たちは幸せだったように思える。

 その幸せは、一瞬にして壊れた。キアが受けた衝撃は想像も付かない。

 ミルクを取りだし、一杯分だけ鍋に入れる。火に掛け、辺りを見渡した。蜂蜜がある。小瓶に、半分弱残っている。大切に使っていたのだろうと勝手に想像した。

 少し拝借。温めたミルクに一匙入れた。

 かき混ぜて、テーブルへと運んだ。

 静寂の中に二人が居た。あれから会話をしていなかったのだろうか。ユンが座っていた隣の席にキアが座り、彼女の斜め向かいにクロードが居るのだが、とても静かだ。黒猫はキアの膝の上にいる。

「はい」

 キアの前にカップを置くと、

「ありがとう」 

 と、掠れた声が返ってきた。

 やはりあれから一言も喋っていないようだ。持て余すのは解るが、そこは大人なのだから何か声を掛けてあげればいいのに、と横目でクロードを見る。見られた方は知らんぷりだ。

 ユンが席に着いたタイミングで、キアはカップを両手で抱え、口元に運んでいた。息で冷まし、恐る恐る一口啜る。

「あ……」

 幽かな声を上げると、キアはユンを見た。

「この味……」

「蜂蜜。勝手に使わせて貰っちゃったけど……ダメだった?」

「ううん。……お母さんが、良く作ってくれたの。……美味しい」

 正面に向き直り、少しずつ大事そうに飲み続けている。何気ないことで傷に触れたかと心配したが、キアの表情は割と軟らかい。多少でも喜んで貰えたのなら幸いなのだが。この表情も努力して作っているのだとしたら、痛々しくてならない。

 半分ほど飲んだところで、漸くキアはカップをテーブルに置いた。猫がカップに興味を示し、テーブルに白い前足を付いて触ろうとしている。キアは猫の前足を取って、

「熱いからダメよ? 火傷したら大変」

 窘めて、頭を優しく撫でた。気持ちいいのか、

「にゃあ」

 と猫は啼いた。それを聞いて、キアは表情を綻ばせた。

 動物は、何を言うわけでもないのにこうして笑顔を引き出すことが出来るのか。物言う生き物は、それだけで不自由なのか。

「名前、付けてあげないとね」

「そうね……」

 関係のない話なら出来るのに、しなくてはいけない用件はなかなか切り出せない。

 クロードの指の一本が、苛々しているように動いていた。彼自身も掛ける言葉に困ってはいるものの、状況が進展しないことにはやはり苛立ちを覚えているようだ。我慢が切れて一枚もオブラートにくるんでいない言葉を吐き出す前に話をする必要がある。

「……ごめんなさい」

「へ?」

 突然、しかも言われるとは思っても見ない言葉に、ユンは声を裏返した。

「巻き込んで、迷惑掛けて、私はこんな状態で、苛々させて」

「ああ、全くだ」

「クロード!」

 遂に口を開けてしまった。牽制して止まるクロードではない。

 キアは猫を抱きしめたまま、俯いている。

「言葉選べないのは知ってるけど、下手すぎだろ」

「黙れ。引っ込んでろ」

 自分もうじうじと塞いで同じ事を繰り返す癖に、とは流石にここでは言えなかった。自分だって、と言いたいのを堪えている間にクロードは続けていた。

「手を貸すと言ったのに、何を気にしている。この状況が不安なのは解らんでもないが、今更の事はもう捨ててしまえ。こちらはもう、そんなこと許容してるんだ」

 キアがおもむろに顔を上げ、青緑の瞳でクロードを見た。驚いているようだ。ユンもまた似たように瞠目した。

 きっと、クロードは自らに対しても同じ事を思っているのだろう。自分では上手く行かないが、どうすべきかは解っているから他人には言うのだ。もどかしさの裏返しと取れば納得は行く。傲慢と見ればそれまでだが。

「だから、つまらんことを気にするな。頭を使うならもっと別のことにしろ」

「例えば?」

 尋ねるのはユンだ。

 何故貴様が、と言いたげな目をしてクロードが睨んでくる。笑みを返すと目を逸らされた。

「……何が食いたいか、とか」

「それ?」

 ユンは思わず吹き出した。あまりにも平凡で、あまりにも本能的な内容を、クロード真面目腐って言うとは想像もしていなかった。よりによって、食べる事というクロードが一番興味のないことを言うとは。笑われた当人は腕を組んでそっぽを向いてしまった。

 キアも僅かだが口角を上げている。笑ってくれているのはありがたい。

「もういい。後のことはそっちで勝手に決めろ」

「勝手に決めると文句言う癖に」

「文句があったら言う」

「じゃあ勝手に決めろとか言うなよぉ」

 全く持って面倒臭い。そこがまた、クロードらしい所だ。

 この数時間、ずっと勢いだけで物事が進んでしまっている。勢いで生きている自分はともかく、キアは少し休んだ方がいい。焦ってもろくな事にならないことくらいは解る。だから彼女の方を向き、

「ゆっくりでいいからさ。今はそれ飲んで、落ち着こう?」

「うん」

 キアは頷いて、残りのホットミルクを飲み干した。一息吐いて顔を上げた彼女の表情が、少し前と変わっている気がした。

 それが、覚悟という物かもしれない。

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