第9話
逃げることは必ずしも臆病ではなく
立ち向かうことは必ずしも勇気ではない
答えを決めるのは全てが結果
本当のことを言えば、後先など考えていなかった。
考えていたのは、失いたくない、ということ。
背を曝し、彼女を庇うことで自分がどうなるかなど二の次だった。ただ、今になって少しだけ後悔している。今、遠退いていっている意識が消えてしまったら、彼女は一人になってしまう。これ以上護ってあげられない。またこの街を彷徨わせてしまう。
――ごめんね。
裏路地で黒い髪の女に彼女が追いかけられているのを、いつもの帰宅路から見かけた瞬間から全力で追いかけた。路地を抜けた先の大きな通りを目指していると当たりを付けて、とにかく走った。何故彼女が追われているか、理由など何も知らない。
護りたい。失いたくない。その一心だった。
この行為は、彼女を裏切っただろうか。
――ごめんね。
謝るくらいならやめておけばよかったのに。
でも、他になかったから。
何か、冷たいものが落ちてきた。一つではなく、二つ三つと。霞んでしまっている視界の中に、クシャクシャになった彼女の顔が。
泣かせてしまった。泣き顔は初めて見る。最後の最後にこんな顔をさせてしまうなんて。
――いいお母さんになれなかったね……。
この五年、楽しかった。もう、何もしてあげられない。
心残りは山ほどある。一度、何もかもなくしてしまったこの腕に飛び込んでくれた彼女を、こうして失わずにいられたことが唯一の救い。
――ごめんね。でも、生きて欲しかったの……。
最後の願いをどうか、
「キア……」
彼女が最初に持っていたものを、最後の酸素で口にした。
*
時間にして深呼吸一回分ほど。
三人は別の景色のただ中に足を着けた。
「遅かったじゃん。また道草食ってたのかよ」
「食う草なんてねぇし」
先にいたフェイが、イヴェールを庇うような立ち位置でやってきた。そう遠くには居なかったようだ。イヴェールはフェイの後ろで地面に目を泳がせている。
クロードを見れば、やりにくそうにまた別の方を向いている。
始めからこじれているものが、簡単に上手く行くわけもなく。
仲良くしろと言うつもりはないが、肩に受けた痛みが無駄になるのは望まない。会話もろくに出来ない今は、早々の解散が望ましいだろう。
「さーて、ここがツ……ぶわっ」
出鼻を挫く一陣の砂が、彼らを襲った。突風にしては何かがおかしい。
各々が腕で顔を護る中、シン一人だけが風上を見た。
鈍ったのか。自分でもそう思うほど、気付くのが遅かった。雑魚を相手にしすぎて、死線の感覚などとっくに忘れてしまっている。しかし、覚えていたくないこともある。
例えばそう、この厚塗りの化粧の気配とか。
「ネノーア」
殆ど音にはせず、口の中でその名を言った。
砂塵の幕が切れる。遠く、まだ距離がある先に、ぼんやりとしていたシルエットが輪郭を露わにし始めた。
女だ。縦ロールにした長い黒髪。瞳は蒼。普段着にするには派手で周囲から浮いているロリータファッション。色は黒。スカート丈は明らかに足より長いが、引きずっていないのは彼女が地面から十数センチ浮いている為だ。見た目は若い。二十代後半といったところか。
その足元に、女の子が居る。金の髪をした女の子だ。脱力した誰かを正面から抱きかかえ、血まみれになって叫んでいる。
「お母さん……!」
と。
こちらに気付いた女は、濃く紅を引いた唇を、左右に上げた。
シン以外の全員が対岸の様子に目を見張っていた。不可解な構図だろう。特に、配色が。
咒法師の黒。フェイの例があるが通常は使神のものである金。そして、人間の茶。
何もかもが釣り合わない。
人間を母と呼ぶ金髪の女の子に、彼女らを襲う咒法師。
この状況の理由など、シンにも解らない。だが、状況ならば解る。
咒法師の女が、飾られた袖を見せつけるように手の平を向けた。
「俺に喧嘩売る気か、あの女」
そう吐き捨てると同時に、蒼の閃光が高速で向かってきた。
人の通りがそこそこあるこの場所で、破壊の力は無遠慮に放たれた。先程の出来事でそれなりの野次馬が居る。何度目かのどよめきが上がった。
点と点を結ぶ直線上以外の全てを無視して、乾いた空気を割り、蒼は迫り来る。
「おい、咒法師! 何とか防げるんだろ?」
ユンが慌てながらシンに問う。まだ何も動作を開始していなかったシンは、それでも余裕綽々で問いに対して振り返った。
「名前はシンだっての。覚えとけよ。あんたと一字しか違わないんだし」
「あーっ、咄嗟に出なかっただけだから! で、防げるんだろ? あれ」
「あんたが代わりに喰らってくれる?」
「冗談!」
「冗談」
――見くびって貰っちゃ困るぜ。
四人の前に出、やってくる光に右手の傷痕を見せつけた。
ほぼ同時に彼の手の平に光の先端が衝突した。
「ふうん」
シンは少し眉を動かした。
最後に術をぶつけ合ったのは六年くらい前のこと。その時も今回も感想は同じ。まだまだ、敵ではない。そのかわり、変わっていない。
光はシンの手の平にぶち当たったままもっと前に進もうとしてくるが、シンは動かない。変わっていないと言えど、所詮は格下。この程度の力にかつて翻弄させられていたかと思うと、腹が立った。
開いた手を握ると同時に光は消滅した。造作無いことだった。
術を消滅させられたことを彼女は表情に一切示さず、お嬢様宜しく笑みを湛えている。
「あの女も咒法師か」
ウンザリだという顔でクロードが言う。
「まあまあ強いぜ」
シンの答えにクロードはますます辟易していた。酷い巡り合わせだと恨み言を思っているに違いない。
挨拶代わりの一撃を放った女が、足の関節を一つも動かさずに近づいてきた。水平移動とは、面倒なことをする。
本当ならばこちらから飛んでいって足腰立たなくなるほどに力の差を見せつけてやりたい所だが、今回は見送る。女――ネノーアが置き去ってきた二人が気になった。ここでまともに戦えば、間違いなく巻き込んでしまう。二人は恐らく逃げられないだろうし、白熱すれば街自体が消えかねない。
シンが腕を伸ばしてギリギリ触れない距離で彼女は止まった。十数センチ浮いているため、シンとの身長差はそれ程感じられない。
「あらぁ、シンじゃなぁい。久しぶりぃ。どーお? エストラの傷は癒えたぁ?」
開口一番、一番厄介な場所に触れられた。傷と言うには浅く、思い出と言うには綺麗ではない。自分の与り知らぬ所で起きた事柄なのに、思い出すと血が煮えるような感覚に襲われる。
今回も例外なく、頭が熱くなった。咄嗟に息を呑み、奥歯を噛む。
それを見たネノーアは、
「死なせたくなかったら、貴方が力を分けてあげれば良かっただけの話よぉ」
高い「ふ」の音を並べて笑った。
耳障りだ。目の荒いヤスリに頭の中を削られるようだ。
右側頭部が痛む。この痛みは、全てが乱れる。
今は駄目だ。だが、早々なる排除が望ましい。
いつも得意顔の男が、眉根を詰め表情を歪めるのをクロードは見た。
「テメェの顔見ると頭痛がする。偏頭痛ぶり返しそうだ」
会話は全く不透明で通じてこないが、
――あの男にも傷があるのか。
意外ではあった。だからなんだというわけではない。同胞よ、と手を携えるつもりもない。純粋に、意外だっただけだ。
「シンの手も相変わらず傷だらけねぇ。あれから大分増えたわねぇ。それでもまだ咒法、使えるんだぁ」
女が含みを持って言う。優位に立つ笑みは、シンのものに似ている。
「いつ壊れちゃうのかなぁ、右手」
――……壊れる?
「テメェの既に壊れた頭の状態気にした方がいいんじゃないのか。っても、もう手遅れか」
「ネノーアは未だに完全完璧よぉ。見てっ。冴え渡る術にこの美貌!」
咒法師というのは皆揃って有害なまでに自信過剰なのか。
いくつか引っかかるポイントはあるものの、この場は咒法師同士に任せて、関係無い者は退散することを提案したかった。そこに口を挟む余地があったら、だが。
この場を去りたがっている数名が居ることを完全に無視して、咒法師同士の言葉の応酬は続いていた。
「何が美貌だか。言葉に申し訳ないだろ。無理して若作りすんのそろそろ卒業したらどうだよ。ケバくて臭いぜ、その化粧」
「ん~? シンがそれ言えるのぉ? ネノーアはちゃんと若いわよぉ」
「今、この服に着られた生物の発言の意味が分からなかった。俺はちゃんと年相応のカッコしてんぜ?」
「ネノーアだってしてるわよぉ」
「テメェはどう考えたって合ってねぇだろ。正しい認識も出来ないいくらい耄碌してんのか?」
「酷い酷い! お師匠様に言ってやっつけて貰っちゃうんだからっ!」
「そのお師匠様はどこへやらだな。ほら、泣きながらチクりに行けばいいだろ」
シンが調子を取り戻しつつあるように見える。相手の会話には絡まず、自分が言いたいことだけで返答して、完全に話を別のものに変えてしまった。
ここまで来ると話を切り上げられるのはシンだけだ。早く解放しろと内心で連呼する。
その時、ネノーアが初めて視線をシンからずらした。首を傾げ、下から見上げるようにして見たのは、
「……」
目が合った。視線は一度背後に移り、また戻ってきた。
彼女はクロードとユンを見た。居たのね、とでも言いたげに、口元には笑み。
何故ここで巻き込まれるのか解らず黙っていると、ネノーアは二人の前にやってきた。
「〝緋の王〟に〝最強〟じゃなぁい。こんな所で何してるのぉ?」
息が、止まりそうだった。
シンでさえ言わなかったその別称を、この女は一つの澱みもなく言った。背後でシンが、頭を振っている。言わんとするのは、この女余計なことを、だろうか。
「ちゃあんと知ってるのよぉ? そのあざなの由来とか。シンは知ってるのかしらぁ。わかんないけど、あの子あれで物知りだしねぇ。でも、知ってたらもっと虐められちゃって、シンとなんか一緒に居るわけないわよねぇ。ホントの所はどうなのかしらねぇ」
二人の咒法師それぞれに初対面で言われたことに、ショックを受けずには居られなかった。
疑問と困惑が渦を巻いた。
シンとは違う蒼の色をした瞳が、面白がるように顔を覗き込もうとしてくる。牽制しようと睨めば、嫌でも目が合う。
襲い来る、蒼の、光。それが、この、光を、奪って……。
モノクルの下の右目が、じわりと痛みを持った。焼き鏝を当てられるような痛み。そこに何かが流れた。冷や汗かと思ったそれは、まだ生きている涙腺から流れた涙であった。幸い、鬱陶しく掛かっている髪があった為にそれを見られずに済んだ。
ユンは既に表情を緊張したものに変え、ネノーアを睨んでいた。
同じ咒法師でも、傷の弄り方がシンとは違う。ネノーアのそれは、閉じた傷を開く目的しかない。
嫌悪が走った。
同時に、遠く向こうで座り込んでいる少女の事が気になって仕方がなかった。今は叫ぶのをやめ、誰かを抱きしめて震えている彼女に、一刻も早く接してあげたい。一人飛び出しても良かった。だが、折角こちらに引きつけることが出来ているのに、興味を戻すようなマネは避けるが無難と判断して堪えた。
「何知ったみたいに俺達のコト語ってんだよ」
低い声でユンは言う。
彼女の知識に興味はない。その知識の使い方が気に入らない。
「まあっ。生意気な口利くとエストラみたいにしちゃうわよぉ?」
「さっきからその名前出てくるけど、誰」
シンの過去に何かあった人に違いないだろうが。訊いてから、聞き流せば良かったと悔やんだ。意図したものではないとはいえ、彼も散々したとは言え、シンの傷を暴くことになってしまう。
後方で、シンが片目を細めるのが見えた。済まないと思いつつも、今更話を変えることが出来なかった。
「あの子の蒼はネノーアが貰ったの。そしたら、おかしくなって死んじゃったぁ。ネノーアが殺したんじゃないわよぉ? あの子が勝手に死んだんだからぁ」
蒼を貰う。
不可解な表現であった。
ユンは眉をひそめて首を傾げた。
何気なしにクロードをチラと見て、ハッとした。
蒼を貰う。
それを紅に置き換えたのなら……。意味が、解る。
「いつかシンの蒼も欲しいわぁ。シンが蒼を失ったら、どうなっちゃうのかしらぁ。あのプライドの塊、泣き叫んで発狂するかしらねぇ? ふふっ」
解ると同時に、ネノーアの笑みが酷く邪悪なものに見えた。クロードもその意味が解ったのだろう。顔を歪め、ネノーアを凝視している。視線だけで殺せそうな程に、強く。
「言いたいことは、それだけか」
クロードが低く言うと、ユンのそれよりも重い。恨みや憎しみ。あらゆる負の感情が声の高さを落としている。そして強い視線。その二つだけで、充分に凶器だ。
それで圧されるネノーアではなかったが、引き際は知っているようだ。
彼女が正面を向いたままシンの所へと戻ろうと動き出したとき、何かが聞こえてきた。
砂埃と共にそれはやってくる。
それは、奇声というべきものだ。
「シンちゃぁぁぁぁぁぁん!」
五人同時に声の方を向いた。始めは砂埃で何も見えなかったが、やがて立ち込めるその中から人影が現れた。
短身を転がすように走ってくる。そして、何やら手を振っている。極彩色の奇怪な衣装を身につけ、化粧が濃い。だが、その物体は男のようだ。白い髭と髪を三つ編みにして揺らしている。瞳は蒼い。
「シンちゃん来てたのねぇっ! 久しぶりぃぃぃぃぃぃ!」
とはいえ、物腰は完全に女性だ。
駆け寄ってくる人物を、シンは呆れ引きつった顔で眺めていた。
「貴様の名を呼んでいるぞ」
「知らねぇ。あんな分類不能な生物」
とは言うが、確かにその人はシンを捉えシンの名を口にしている。
「あーん。お師匠様ぁ!」
嬉しそうにはしゃぐのはネノーア一人。他は呆然か嫌忌の表情をしている。
無論シンの表情は嫌忌。ネノーアがふわふわと走ってくる物体に向かい出したのを見計らい、シンは右手を斜め前方の地面に向けた。一瞬地面が蒼い波紋を描いたが、すぐに消えてしまった。
不発か? と、皆がシンと向かってくる何かとの間で視線を行き来させた。
地面に向けられた手はそのまま。
「らびゅ~ん、シンちゃぁぁん!」
正体と同時に性別不明のその人が先程蒼く光った地面の部分に足を着けた。シンに飛びつくために踏み切ろうとした瞬間だった。
その途端、再び地面が蒼く発光した。よく見るとそれは陣である。
「くははは! 失せやがれ、有害廃棄物ジジイ!」
多少狂気が混じるその嬉々としたシンの叫びと同時に、陣の中にその人の足がずぶりと埋まった。
「ジジイじゃないわよっ、失礼ねっ! それに、酷いわシンちゃん。アタシを堕とす気ねっ!」
「いっちばん下まで堕としてやる。どうせすぐに這い上がって来れるんだ。ガタガタ騒ぐな、みっともねぇぞ、クソジジイ!」
見る見るうちに地面の中に沈んでいく。ばたばたと騒ぐが、無駄な抵抗であるようで抜け出すことは出来ていない。
「お師匠様ぁ! 頑張ってぇ!」
「仕返ししてやるわっ! あら、ネノーアちゃん。なんていいところに。助けてくれないかしら」
「うーん。難しいわぁ。ネノーアも巻き込まれちゃう」
「いやーん。助けて助けて」
「きゃっ。ネノーアまで入っちゃったじゃないのよぉ。お師匠様一人で呑まれてくれれば良かったのにぃ」
「まっ。この子ったら、意外と薄情なのね!」
「あーん。お洋服が汚れちゃうわぁ」
黄色い音声のやりとりが、周りを完全に無視して行われている。シンは楽しそうだが、周りはそろそろ辟易し始めている。
「俺を誰だと思ってるか。お二人さん、せいぜい仲良くしやがれ、
「きぃぃぃぃっ! 鬼畜! 鬼畜よ、この子!」
「じゃあな!」
口が埋まると流石に何も言えないようで、シンの凶悪な笑い声だけになった。
結局沈んでいった彼の手が消え去るまでシンの極悪非道の形相は続いた。
翳した手を引っ込めると、地面に出来た蒼の陣も消え去った。
終始何らかの形で癪に障った女が去る姿を、一番強く見ていたのはフェイであった。シンの昔を知り、その手の傷についても何か知っているようなことを言っていた。知りたくて尋ねても教えて貰えなかったことをネノーアは既に知っている。そのために馴れ合おうなどという気を起こしたのではない。彼女がそれを知っている、ということにワケもなく腹が立ったのだ。知っていると言うことに関する自分との優劣ではない。ワケもないことに敢えてワケを付けるのならば、彼女にはそれを知っている資格はないと思ったことだ。
ネノーアと関わって何か利益になることはまず無いだろう。誰も口にしない個々の意見を集約するとそうなる。
「あーあ。ヤなのと関わり合いになりそうだな」
「なりそうなんじゃなく、既になってるだろうが。この状態で何を言うか、阿呆」
「あ。そうか」
「というより、あの女、貴様達との関わりしか見えてこないのだが?」
「うん? あれだけ構われてまだそれ言う?」
言えないな。と、クロードは微苦笑で自分の発言を否定。
「はいはい、俺にも言わせて」
ユンが手を挙げた。
「あんた達の話の流れから思ったんだけど、走ってきた変なジイさん。アレも咒法師?」
「認めたくないけど、一応な。名前はジュライ。あのクソババアの師匠だと」
「これ以上咒法師と関わりを持たせるな。貴様だけで辟易してるというのに」
突然割って入ってきたクロードに、ユンはあからさまに面白く無さそうな顔をした。
「クロード。俺が訊いてるんだから口挟むなよ。でさ、俺の予想。そのジュライってヤツ、あんたの師匠でもあるんじゃねぇの?」
その問いにはシンは溜息で返す。
「ぶぶー。はずれ。何しろ、初めて会った時には既に俺の方が数段強かったんだから。ヤツのケツに火ィ付けて、……あの逃げまどう様、面白かったなぁ」
「老人虐待に悦に入るな、阿呆」
「だーかーら、クロード。俺とシンが話してんの。話の腰折るなよ」
また会話に侵入されてユンは不愉快全開になった。クロードはそんなユンの様子を気に掛けることなく、年中おなじみの顔を拗ねる彼に向けた。
「ほう。まだそんなにくだらんコトを沢山訊く必要があるのか。訊いて役に立つことなら訊いて良し。それ以外は鬱陶しいから訊くな」
そう言われてユンは黙ってしまった。
シンは苦笑しながら哀れみを持ってユンを見る。
「スゲェ言論統制されてんのな? あんたらこんなトコまで来てまだ昔のまんまなの? おっかし」
「貴様には関係のないことだ」
「はいはい。邪魔しませんよー」
入れない会話を前に、フェイは振り返った。イヴェールはどうしているのだろうと思ったのだが、どうしたも何も、そこにいない。視線を彷徨わせると、彼女は遠くにいた。金髪の少女の隣に膝を付いている。彼女たちの少し離れた場所を流れる、無関係な人間達の歩みは止まらない。ちらちらと顔を向けて、それだけだ。
我も、と思うのは不謹慎と解りつつ、フェイは走った。後から大人達が付いてくる足音がする。
辿り着き、目を覆いたくなった。
少女は全身に血を浴びて、血溜まりの中に座り込んでいる。彼女の腕の中には赤い塊にしか見えない遺体。何となく、人間の女性であるように見て取れる。
掛ける言葉などどこを探しても見あたらなかった。
背を吹き飛ばされたかつて人間であった肉塊を少女は「お母さん」と呼んでいたが、実の母子とは考えにくい。
焦点を失った彼女は、遺体を抱きしめたまま微動だにしない。怪我などしていないと思いたいが、いかんせん血に濡れていない場所がないため確認できない。
イヴェールも横に膝をついたはいいものの、声が一つも出ていない。追いついてきた三人も一様に言葉を失っていた。
長い躊躇いの間の後、少女の脇にユンが屈んだ。
「あの女なら、もう居ないよ。怪我は、無い?」
反応がない。首をちょっと動かすこともしない。目を開けたまま死んでいるのかと思うほど動かない。
ユンの眉がハの字になった。流石に困っているらしい。
「うーん……」
「……を、……」
「ん?」
掠れた声に、ユンが聞き返す。
息を幾度か吸いながら、少女は身震いしていた。まだまともに話せる状態ではないのだろう。話そうとしては震えに阻まれ、それを繰り返し、
「お墓を……作って、あげたいの……」
「墓?」
ユン、クロード、シンの三人が声を揃えて同じ事を言った。イヴェールも声にはしないが同じ事を言いたそうな顔をしている。
何故、疑問に思うのだろう。人が死ねば、何らかの葬儀をして墓に入れる。そうやって弔うものなのに。実際に立ち会ったことはないが、そういう物だと知っている。
「そっか。人間だもんね……」
イヴェールがぽつりと言った。
「俺たちとは、違うからな……」
ユンが続ける。
違うとは、どういうことか。答えを求めて辺りを見渡す。皆口が重たく、空気も重い。
人間とそうでない者と、色と力以外に、どんな差があるのか。
一分近く沈黙が続いた。
一つ、溜め息がした。
「人間は不便だな。死んでもすぐに消えられない」
クロードだった。その言葉に、皆、沈痛さを増している。フェイだけ一人置いて行かれていた。
強い疎外感があった。正体は分からないが、自分にも人間とは違う血が流れている。それなのに、同じ立場の者達と認識が共有できない。正直、悔しかった。
少女が少しだけ顔を動かした。何を言うわけでもなかったが、恐らくフェイと同じ疑問を持ったのだろう。誰かの顔を見ようとしているようだが、顔を上げるだけの力が今の彼女にはない。
誰でもいいから教えて欲しい。悲痛な心持ちにさえなって、大人達を見渡した。
イヴェール。ユン。クロード。まだ見ていない方を向こうとしたとき、肩を叩いてくる手があった。
「死ぬと消えるんだよ。世界の主の手で創られた奴らはな。跡形も無く、後腐れも無く、さっぱり無くなっちまうんだ」
シンだ。珍しく、焦らすことも、回りくどくすることもなく教えてくれた。
「シンは?」
「わかんね。でも、エストラは、消えたからな。俺もそうかも知れない」
シン曰く、勝手に傷付いて勝手に死んだ女。以前、触れられて静かに激昂した過去にいる女性。彼女が消えたというのなら、咒法師も消えるのかも知れない。主が咒法師を創ったのかという疑問はさておき。この流れだと、自分も彼らの中に含まれている可能性がある。
言われたことを、声に出さずに何度か復唱した。
跡形もなく、後腐れもなく、さっぱりと無くなってしまう。消える。消える。死ぬと消える。
消える、という感覚がどうにも想像できなかった。
体験したことは勿論、見たこともないのだから仕方がない。それにしても、すんなりと消化できる言葉ではなかった。
消えるとは。
事切れた次の瞬間には、死体を残さずに跡形もなくなってしまう。
消えるとは。
死を美化する、究極の形。物や思い出だけがひっそりと残り、やがてそれさえも失われていく。
消えるとは、そういうことか。
「それって……」
綺麗かも知れない。散りゆく先に何も残さず死ぬというのは。
でも、それは、
「虚しくない……?」
目を閉じた後、感覚も魂も抜けた後、誰にも抱きしめて貰えないというのは、虚しくも悲しいものではないだろうか。
たとえ何も思えなくても。何も感じられなくても。その死を悼んで欲しいと、思わないだろうか。
「虚しい、か」
解らなくもない、という顔でシンが腕を組む。
「俺なんかはその方がいいと思うけど。まあ、残された方にしてみれば、受け入れにくいよな。実感する暇もないわけだし」
でもな、と言葉が続く。
「所詮、俺たちに人間の感覚なんてわかんねぇんだ」
それは少し残念だった。フェイは人間の感覚しか知らない。人間と同じようにしか生きたことがない。
墓を作らないということは、死者に対する儀式もないのだろうか。弔うことをしないのだとしたら、死の重みは、何処で知るのだろう。フェイはまだ近しい人を失くしたことはない。しかし、その重みは知っているつもりだった。たった五年だが、その間に見聞きした事で得た感覚は、それほど間違っているとは思わない。
想像だけで現実を知らない認識だが。それだけを持って非難するつもりはないけれど。
容易く殺し合える神の使徒と異端者は、死さえも容易いのだろうか。
そうなのかもしれない、と思ったとき、心が黒くなるのを感じた。
「ユン」
呼ばれて顔を上げると、シンが手招きをしていた。
フェイは俯いて口を一文字に結んでいる。会話は聞いていた。感想は、自分もシンと同意見、だ。ただ、人間ではない者達でも例外はある。神の手に創られていなければ、死体は残る。墓を作る習慣がないので大抵その場で消失させ、弔う。今は思い出せない過去の何処かでそういったことに遭遇しているかもしれない。だが、そうだとしても、人間の感覚からはほど遠いことだろう。
死者を悼むことを知らない野蛮人。この少女やフェイにそう思われてしまっていたら、少し悲しい物があるが、仕方がない。
立ち上がり、手に招かれてシンの前に立つと、
「俺の代わりに訊いて? どっちがいいかって」
小声で言われた。
「自分で訊けばいいじゃん」
「あのな。数分前の状況と俺を見て言えよ、それ」
「……あー……」
今の今まで失念していたが、見るまでもない。シンがずっと少女の後ろで彼女の視界に入らない位置に立っていたのはその為だ。
とは言え、重たい役目だ。周りを見れば自分が一番適任だということはよく解る。しかし、どう言えばいいのか頭が痛い。一言二言声を掛けるのにも言葉を選ぶのに苦労したというのに。
たった数歩が長い。
元の場所に戻り、同じように屈む。その間もずっと言葉を探していた。
提案などしなくても、彼女がしたいようにさせてあげればいい。そうも思った。
「みんな……」
先に口を開いたのは少女の方だった。
「みんな、人間じゃないのね……」
「うん……。種族は、全員バラバラだけどね」
「私も、きっと違う。……でも、私は人間しか知らないの……」
少女が顔を上げ、ユンを見た。
血まみれの顔の中に、二つの青緑の瞳があった。髪は金だが、使神ではない。しかし、フェイの緑とは色が違う。
青緑。その不思議な色に、ユンは息を呑んだ。
「お墓ね、作ってあげたいの。でも、どうすればいいかも解らないし、お金もないから……」
ノウハウがないのは自分達も同じだった。お金ならばクロードが意地汚く、否、こつこつ貯めた分があるだろうからフォローは出来るだろう。
しかし、と他に思うことがあった。
形を崩しつつある遺体を綺麗にし、弔って葬る。その一連の課程を終えるのにどれくらいの時間が掛かるのか。その間、ネノーアは放っておいてくれるだろうか。
人間の物ではない習慣を、人間の習慣しか知らない者に押し付ける傲慢に、彼女は怒るだろうか。
「ねえ、ちょっとだけ、きいて?」
「……なに?」
「お墓を作る手伝いは、出来ると思う。でも、俺たちのやり方で弔ってあげることも出来る。選ぶのは君でいい」
「あなたたちの、やり方……」
会話は聞いていたのだろう。疑問は投げずに、彼女は目線を遺体に落とした。
待っている間、居たたまれなかった。即答しないからには、彼女なりに意味や状況が解っているのだろう。そこにある葛藤は、想像が付かない。
「貧しい人は、まとめて放り込まれるだけなの……。死に化粧もしてあげられないの」
ぽつぽつと話す彼女の手に、少しだけ力が入った。
「物みたいに扱われるくらいなら、ここで、弔ってあげたい……」
「本当にいいの?」
「お母さんの思い出は、私が持ってるから大丈夫。私が死ねばそれも消えるけど、それは誰だって同じ事だもの……」
悔しさはあるのだろう。力を込めた手が、行き場を探しているように見える。
ユンはシンを見た。答えは訊いた、あとはやれ、と訴える。
この中で満足に力を使えるのはシン一人だけだ。クロードは出来たとしても、人前で力を使いたがらない。ユン自身はからっきしだった。
シンは頷いて、少女の前まで歩くと、そこで片膝を着いた。
ぼんやりと顔を上げた彼女の表情が、一瞬で引きつった。瞠目し、唇が震えそうになっている。
青緑の瞳が、憎しみの色を持っている。蒼と黒。今の彼女には憎む以外にない色だろう。結局はこうして前に出ざるを得ないのに、結論を出させてから姿を曝すとは、少しだけ卑怯に思えた。
「悪いな、あの女と同じでさ。八つ当たりは、これが終わったら俺だけにしろよ」
言って、シンは右手を肉塊に翳した。
少女はシンを見たまま遺体を自分に引き寄せた。咒法師が相手でなかったらこんな反応はしなかったことだろう。更に壊される。そんな思いが表れていた。
彼女の力をほぐすのに、時間以外の何が必要なのか、咄嗟には解らなかった。
「何で……」
――何でこの人は……。
何か思考に上がることはあったが、種々の感情に押し潰されてしまった。眼前の二色の色に、嫌でも感情が乱される。落ち着け。キアは自分に言い聞かせるが、なかなか上手く行かない。
敵ではないと解っているのに、意に反して身体は強張った。
あの女とは違う蒼が現れ、一連の出来事がフラッシュバックする。
負ける。そう思った瞬間にアリシアが身を挺してきた。彼女が息を引き取るその時、名を呼ばれた。その声が耳に蘇り、離れない。
声を出せずにいると、不意に肩を抱きしめられた。
ずっと脇にいてくれた、赤い髪の女性だった。
「今は恐いかも知れないけど、悪い人じゃないの」
血で汚れるのにも構わず、彼女は身体を押し付けてきた。
体温が移ってくる。浴びた血ではない暖かさが、凍り始めていた心を融かしてくる。
「だから、信じてあげて?」
憎しみで盲目になりそうだった視界が晴れていくような気がした。快晴にはまだ遠い。しかし、突き放すべきか否かは判断できる。
「……お願い」
やっとの事で腕から力を抜き、アリシアを差し出した。
もうこれ以上穢されない。これ以上貶められない。人間の死の形とは少し違うけれど、還る場所はきっと変わらない。
――私、間違ってないよね?
きっと許してくれる。そう、自分に言い聞かせた。
「やめるなら今だぞ」
「……いいの」
わかった、と彼は改めて右手を出した。よく見れば、傷痕が多い右手だ。由来は解らない。気を取られているうちに、蒼い光が広がり始めた。
あの女と彼が使う力。それは同じ蒼の色を持つ術なのに、突き詰めればどちらも消し去る術なのに、用途が違うだけでこの色を綺麗だとさえ思う。
腕に掛かる重みが無くなっていく。
指の間から零れることもなく、空に舞い上がることもなく、光は水平に霧散し、文字通り消えていった。
残ったのは、服に染み込んだ血液だけ。地面に広がっていた血溜まりも若干の跡だけ残して無くなっていた。
本当に、消えてしまった。
「お母さん……ありがとう……」
本当の母親のようだった。否、血の繋がりこそ無いが、最後の一瞬まで間違いなく本当の母親だった。
張りつめていたものが腕の重みが消えると同時に切れてしまった。全身から力が抜けると同時に、目尻から涙がこぼれた。不思議と、堰を切って溢れてはこない。まだ感覚が遠いのかも知れない。
「何か言いかけてただろ? 言っていいぜ?」
罵声を浴びせられるとでも思っているのだろうか。黒髪の男はすかした風を装って、それで居て真面目な顔を向けてきた。
「何で……」
先程言おうとしていたこと。蓋になっていた感情が退いたことで口に上ってきた。
「何で貴方は、自分を悪者にしようとするの?」
そんなこと、とでも言いたげに、彼の眉が僅かに跳ねた。
「別に。誰かの代わりに恨まれてやるほどお人好しじゃない。でも、悪者になることで、他の誰かに余計な傷が付かなくて済むこともある」
「貴方の傷は、どうするの?」
「俺はもう傷だらけだから。別に気にしねえ」
右手以上に、どれだけの傷を負っているのだろう。傷を傷とも思っていないような顔をして、どれだけ自分を犠牲にしているのだろう。そのことに悦に入っている様子でもない。本当にそれでいいと、彼は思っている。
「あのな」
何か気に障ったのか、彼は形のいい眉を顰めた。
「勝手にイイヒトみたいに思うなよ。飛び火すると面倒臭いから、面倒臭がりな俺はそれを避けてるだけ」
「面倒なだけじゃ、そんなこと、出来ないよ」
持ち上げるつもりは毛頭無い。感謝のつもりもない。思ったことを言っただけのキアに、彼は頭を振った。
僅かに迷惑そうな目を向けられ、また少し、身体が強張った。頭では解っていても、まだ反射的に怯えてしまう。慣れるには時間が必要そうだ。
しかし、口は動かした。
「今もそうやって、悪役を演じてるんでしょ?」
人見知りしないにも程がある。自分でそう思う。怖がっている癖に、自ら打ち解けようとさえしている。
向けられる好奇心に釘を刺すように、
「俺は悪者。どいつもこいつもすぐ勘違いする」
彼はそう言った。
あの女と同じ種族であるからそういう言い方をするのか。それとも、全てをひっくるめて彼は言っているのか。即断は出来なかった。
周りにこれだけの人が居て、何故自らを悪者と言うのか。
どんなに見つめ返しても、今は解らなかった。
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