第8話

 「何の為?」

 自問のそれ

 何の為?



 仕事帰りのアリシアは買い物袋を抱え、自宅へと急いでいた。

 シフト制のフルタイム勤務。職場は喫茶店。五年前に今の仕事に変えた。それ以前はその日暮らしの低賃金で働いていたが、それでは食べていくのが難しくなった。

 一人、家族が増えたからだ。

 本当はその一年前に家族が二人から三人になるはずだった。しかし、宿っていた命は声を上げる前に消え、身体からも流れていった。数ヶ月後には離婚。寂しさだけ残して、家の中に一人だけになってしまった。

 今、家の中に自分を含め二人。

 五年前に加わった家族は、居間のテーブルでいつものように自習をして待っているのだろう。

「ただいま!」

 声を掛けながら玄関を開けると、

「あ。おかえり」

 教材とノートをテーブルに広げていた少女が、青緑の瞳を上げた。

 金の髪。青緑の瞳。人間ではない色をした少女は、五年前、自分以外の全てを悲嘆するような顔をして街の中を彷徨っていた。当時の見かけは十歳程度。見ていられず声を掛けると、名前以外の記憶がないという。

「キア」

 あの時彼女が覚えていた全てを、今日もまた呼ぶ。そうすればいつでも彼女は特異な青緑の瞳でこちらを見返してくる。

 一年間味わった絶望の返報であるかのような至福であった。

「お待たせ。夕飯作るからね」

「私も手伝う」

 帰る場所も解らないキアを、アリシアは自分の子どもとして育てている。彼女もそれを了承し、自然とアリシアを「お母さん」と呼ぶようになっていた。

 アリシアはまだ三十路一歩手前。そこに今年十五歳前後になろうとしている子どもが一人。年齢に見合わない親子になってしまったが、気にしていなかった。

 キアはテーブルの上に置かれた買い物袋の中を覗き込んでいた。首を傾げ、顔を上げる。

「今日のご飯、シチュー?」

「あったりー。久しぶりにいいかなって」

「やった!」

 満面の笑みをして、キアは袋を抱えてキッチンへ。つられて笑みながら、アリシアは何度感じても飽きない幸福に酔っていた。

 彼女が人間でなくともいい。世界の主の落とし物だったとして、何の不都合もない。こうして幸せを与えてくれた。充分だった。

 暮らしは貧しい。キアには日々の食事と自宅で学習する教材を与えるので精一杯だった。とはいえ、こんな暮らしを望まないのなら、と彼女に選択を迫るのは、彼女を追い詰めることになりそうでしなかった。全ては身勝手で始めたこと。キアが帰る場所を思い出し、帰ると言うまで、それまでは出来る限りのことを尽くそう。

 幾度目かの決意を新たに、アリシアはキッチンへ向かった。


   *


 温かい食事は数日ぶりだった。シチューを啜り、ホッと息をついた。口の中に始まり、食道、胃、そして全身が温まった。

 生きている。

 キアは食事をスプーンに掬い口に運ぶ度に、感じる熱と共にそれを思った。

 五年前、肌に感じた空気の冷たかったこと。最近は忘れることが多くなったが、一人になると偶に思い出してしまう。

 残っているアイデンティティは名前だけ。内に感じる虚しさを自覚し、打ちのめされていたのは始めのうちだけだった。暗い空。冷たい空気。殺伐とした気配。世界がひどく悲しく感じて、どうしていいか解らなくなっていた。

 意識を得てから、何処ともつかない街の中を彷徨い続けて半日以上が経ち、襲ってくる感情に耐えきれなくなって立ち止まった。身体は冷えきって何も感じなくなっているのに、心は身体を折りたいほどに痛んでいた。

 立ち尽くし、やがて座り込みそうになったとき、出会ったのがアリシアだった。

 今となっては毎日笑みを絶やさない彼女は、その時はまだ引きずっているものに顔を曇らせていた。彼女は近づき、手を伸ばして、

「スープでも一緒に飲まない?」

 悲しみが浮いているのに、それなのに何処か救われたような笑顔をして彼女はそう言った。

 これが現在に至る経緯の全てだ。

 人間とは全く異なる色を持っているのを解っていて、アリシアは〝母親〟になってくれた。あまりにも年の近い親子。なによりも暖かい関係になった。

 また一匙掬って、口に運ぶ。

 偶に味わう温かい食事は、自分に足りない部分に染み込んで満たしてくれる。毎日口にしていたら、きっとこの感覚は鈍ってしまう。日が空くからいいのだ。

「勉強、どう?」

「最近難しくって」

 読み書きから始まって、近頃は同世代が学んでいるようなことも理解できる程度に追いついてきていた。余裕など何処にもないのに、当初、アリシアはキアを学校に通わせると言って聞かなかった。家を出て学べる者など、一握り。そう、どこかで聞いた。様々な理由で学べない者の方が多いかも知れない。大丈夫だからと説得して、教材で勉強をする形にして貰ったのだ。

 とても幸せだった。

 ただ、その幸せが、だんだん不安定になっていくような気がしていた。誰の所為でもなく、自分の所為で。

 根拠など無い。得も言われぬ胸騒ぎが、ここ数日時折やってきては去って行っていた。

 この不安を、アリシアは知らない。知らせることも出来なかった。悪い予感など、口にしたら本当になってしまいそうで。

「ねぇ、お母さん」

「なーにー?」

「今度のお休みって、いつ?」

「えーと、明後日かな」

「明後日、一緒に何かしよう?」

「おー。いいねいいね。何しよっか」

 話に没頭することで、背後に感じる黒い未来の予感を忘れようとした。

 何も起きるはずがない。明日も明後日も、ささやかでも幸せな日々が過ぎていくだけ。

 不安は奥底で押し殺し、

「ごちそうさま」

 今日という日の幸福に感謝した。


   *


 何か悩み事でもあるのだろうか。

 キアを風呂へ遣り、アリシアは食器を洗いながらそんなことを考えた。

 感情をごまかすように表情を作っているのが気になっていた。気付いたのは数日前。初めは気のせいかと思う程度だったが、今日は明らかに頑張っているのが解った。

 気を遣わせている自覚がある為に、自分の所為であることをまず疑った。未だに疑っているが、疑っているだけだ。本当のところは何も解らない。

 五年前、二日間歩き続けた少女を家に招いたとき、自分は絶望の底にいた。同じ高さの別の場所にいる様な顔をしたキアに、何か望んで手を差し出したわけではない。

 生まれてくる前に失った子供の変わりとか。絶望という傷の舐め合いとか。

 何も望んでいない。自分のためには、何も望まなかった。

 ただ、あの子が不幸せでなくなればと。せめて、家という最小単位で幸せになってくれればと。世界という単位では流石に無理だから。

 何故そう思ったのだろう。

 幸せに出来る確証もないのに。未だにあまり自信はない。でも、彼女が青緑の瞳を細めて笑ってくれると、少しだけ自信が生まれる。

 むしろ、幸せになってるのはアリシア自身だった。

 これでキアが無理をしているだけだったらどうしよう。この生活は、独り善がりということになってしまう。

「やっぱり独善だったかなぁ」

 呟きながら、洗った器をかごへと置いた。

「うーん」

 また一つ置く。

「訊いてあげた方がいいのかなぁ」

 訊かないのは冷たいとも思う。でも、訊けばもっと隠そうとしてしまうだろう。キアはそういう子だ。年の割に思考が深く、気遣いと自分を殺すのが得意だ。

 訊かないままに、安心させてあげるのが、考えつくベスト。

 もし、それがベストではなかったら……。

「あー、だめだめ。きりがないったら」

 しっかり者のキアに対し、自分は優柔不断。護ってあげることもままならない。

 承諾したのはキアだが、先に手を取ったのはアリシアだ。その責任は感じている。せめてその責任くらいは果たしたい。

 少ない洗い物を全てかごに載せ終わったとき、

「お母さーん。出たよー」

 遠くから声がした。

「はーい」

 応じて、濡れた手を拭く。

 後で、温かいミルクを一緒に飲もう。

 少しはホッとするに違いない。


   *


 寝る時間になり、キアは自室のベッドの上にいた。電気はベッド脇のスタンドのみ。ベッドヘッドに凭れ、枕を抱えて、考えているのは〝わるいこと〟。手には握れるほどの巾着。中には数個の種が入っている。何の種かは解らない。アリシアに会ってからスカートのポケットの中に入っているそれに初めて気が付いた。ここでは植えても育たないので、種のままにしている。

 きっと自分の何かと繋がっていると信じて、その種を袋に入れて大事にしていた。

 解らない、ということは不安定だ。今まで何度も揺れてきた。しかし今、この地で目を覚ましてから、一度たりとも感じたことのない強い不安に、動揺さえしていた。

 気のせいだ、と何度も考えた。しかし、考えるほどに悪心がしてくる。

 足元で何かが動いている。何かの変異か。誰かの運命か。幻聴のようだった音が、今は轟音のように聞こえる。

 しんと静まると耳の奥にするそれは、何処まで現実の物なのだろう。

 夜という時間帯は嫌いだ。家々から明かりが消え、表からは人の気配が消え、静かになる。すると、静けさを掻き分けて、神経に何かが響いてくる。年を重ねる事に、感覚は鋭くなっていく気がした。

 余りに幸福すぎて、その反動がこの感覚なのかも知れない。杞憂に過ぎない。

 言い訳を考えて塗り重ねていく作業を初めて、今晩はもう一時間が経つ。

「小さい子じゃないのに……」

 眠れない。悪い夢に怯える子どものようだ。

 少し落ち着こう。

 ベッドを出、袋を机の上に置き、カーディガンを羽織って部屋を出ると、

「どうしたの?」

 アリシアがまだ起きていた。まさか鉢合わせるとは。おかしな顔をしてなかっただろうか。目を擦るフリをして取り繕った。

「寝付けなくて」

「寒い?」

 やましいことを抱えていると、何気ない言葉に過剰反応してしまう。今、身体は震えなかっただろうか。瞠目したりしてなかっただろうか。冷や汗さえ掻きそうだ。

「わからないの」

 見抜かれているかも知れないことを覚悟で、嘘をついた。

「あたしも何だか眠くならなくってね」

「そうなの?」

 どおりで。とっくに寝ている時間なのにおかしいと思った。

 眠れないと言っているアリシアは、コーヒーを飲んでいる。余計眠れなくならないのかと見ていると、手招きされた。

 空いている隣の席に座ると、

「キアも何か飲む?」

「……ミルク」

「じゃあ、温めてあげる」

 数分すると、温められたミルクがカップに入って目の前に来た。

 まだ熱い。カップを両手で包み、吐息で冷ます。湯気が顔に当たって、気持ちよかった。

 一口。

 まだ少ししか口に含めない。口内で転がしてから飲み下す。

 温かい。

 緊張が緩んでいくのが解った。ほつれたものが解けるのと同時に、頭の奥から眠気が差してきた。身体は眠りたいと言っていたのに、頭はどれだけ無理を強いていたのだろう。

 会話はなく、時計の音が若干耳に付いた。でも、見守られている。それだけで安心した。

 飲み終わる頃、

「ね、今日は一緒に寝ようか」

「でも、明日もお仕事あるのに」

「大丈夫、大丈夫。明後日は休みだし!」

「それなら……」

 最後の一口を飲み干し、口をすすいだ後、二人でアリシアの部屋に行った。

 共に寝るなど久しぶりだ。ここに来て始めのうちは、一人が嫌で良く一緒に寝て貰った。部屋を貰ったのを期に二年ほど前から一人で寝るようになっていた。

「今夜はぬくぬくだぞー」

 ベッドに入るなり、勢いよく抱きつかれた。その腕の中に顔を埋め、温もりを吸い込んだ。

 じゃれ合っているうちに、意識が遠退くのを感じた。

 ――悪い事なんて……。

 起きるはず無い。


   *


「みーつけたぁ」


   *


 ネスジアの某所。指定された場所にクロードとユンの二人が居た。

 他にいるのはシン一人。見渡すが、他に誰か居る様子はない。

「あれ。ちびくんと女の子、居ないの?」

 ユンは、暇を持て余して空中で空気椅子をしながら頬杖を付いて寝そうになっていたシンに尋ねた。

「ん。先に送った」

 目を擦りながら、シンは空気椅子から降りた。目尻に涙を溜め、あくびまでしている。

 ――まさかさっきまで寝てたんじゃ……。

 眼を細めて見やるも、伸びをしたり首を回したりで目線など気にしていない様子だ。

「うちのお姫様がまた使神に斬りかかったら困るしね」

「あ……」

 そういうことか。言われてみれば納得だ。クロードも横で口をきつく結んでいる。

「俺だって、止める度に刺されてたらやってらんねぇし」

「誰も止めろ等と言ってないだろ」

 黙っていればいいのに、一々反応して、全く不器用なことだ。

「じゃあ、どうすんの? 俺の代わりに刺されてくれるわけ? それとも力でねじ伏せんのか?」

「それは……」

「力を失くした天隷なんて、容易いよなぁ。慣れてんだろ。やり込めるのとかさ」

「いい加減にしろ!」

 クロードは声を荒げたもののそれだけだ。以前のように飛びかかったりしない。大人になったと解釈すれば平和だが、知らないところでこの二人に何かあったのだとしたらあまり穏やかではない。……何かは、あったのだろう。つい数時間前まであれだけ消沈していたのだ。

 それにしてもよく知っている。使神と天隷の関係性は人間ならばまず知らない。

「憎まれて当然とは思うが、何故憎めるのかが解せん。それに、恩を売るくらいなら余計なことはしなくていい」

「解せん、か。あんたがわかんないことこそ、彼女がこんなトコに居る理由なんだろ」

 本当ならば、有り得ないこと。イレギュラー。それが起きている。それは、主に言わせれば〝不良品〟。もしくは〝規格外〟。そういうものは捨てられる。

「堕とされた……のか」

 ユンが思ったのと同じ事を、クロードが言った。

 先の二つ以外に同じ事が起きるとしたら〝規則違反〟。どれにしても理不尽なものばかりだ。

「よく、無事だったな……」

「それは彼女に言ってやれよ。こんなトコで、生き方も知らないで何年も彷徨ってたんだ」

 シンは襟を寄せ、一息。

「まあ、あんた達も無事で何より」

 でも、と人差し指を、クロード身体を指した。指先が触れた瞬間、クロードがその手を掴み自分から逸らす。それでも逆の手で執拗にクロードを指差した。

地獄ゲヘナはいつでも口を開けて待ってる」

 とん、と指先がクロードの薄い胸板を押す。

「今からでも行ってきていいんだぜ?」

 地獄とは嫌な言葉だ。堕とされた者がどうなるかまで知っていて、この嫌な単語を持ち出してくるとは何という嫌味か。

 ――それに。何もかもお見通し、ってか。

 そろそろ牽制するか。と、初動に移ろうとしたとき、

「はい。俺のイジメタイム終わり」

 ぱっと手が離れていった。

 このやりとりに一切入っていかなかったユンだが、

 ――食えないなぁ。

 この先どうなるか分からないが、長い付き合いになったら殺し合いでも始めそうで恐い。特にクロードの我慢が効かないだろう。

 これが、動き出した結果か。傷を負った者と、傷を弄る者。この関係が変わらないとしたら、いい結末は望めない。

 期待、していた。それが、第一歩目でこれか。

「あーあ」

 色々言いたかったのを押しのけて出てきたのは、溜息。

 いじめっ子に、怒りんぼ。そして自分は、脳天気。

「なんかさぁ、こう、もっと楽しくしようぜ。俺、こういう雰囲気、キライなんだよ」

「楽しく、ねぇ」

 腕を組むシン。クロードは不愉快そうに口を歪めている。

「そもそも馬が合うわけねぇじゃん。あんたと俺はともかく、王様は俺のこと嫌いでしょうがないみたいだし。昔になんかあったみたいだし、種族は違うし、俺は虐めるの大好きだし」

「その呼称を使うな」

「……まあ、仲良くなれる要因はない、と」

「少なくともクロードが多少なりとも折れない限りはね」

「だって」

「断る」

「だって」

「じゃあ無理だ」

「もう……」

 我が儘め。我の強い二人の取り持ちは根気が要りそうだ。

「さ。行くだろ?」

「誘ったのは貴様だろう」

「乗ったのはあんたらじゃん」

「……」

 よく我慢した。ユンはクロードの肩を叩く。

 そうしている間に、足元には蒼い円陣が浮いていた。シンの右手が地面に向けて力を放っている。蒼い術は見慣れない。恐らくこの色を持つのは咒法師だけなのだろう。淡く光と風を呼んで、力は足元から吹き上げている。

「ネスジアに来て何年?」

 唐突に問われ、指折り。

「八年……くらいかな。クロードは俺よりちょっと前」

「八年ね。嫌気が差すには丁度いい頃かな。じゃ、八年ぶりの別世界へ」

「空の色は変わらんだろ……」

「そう言うなよ。黒い空だけど、別の空だ」

 前置きが長いのはわざとだろう。薄い唇が左右同時に引かれると、陣が力を発揮した。

 空間から掻き消される瞬間、久方ぶりの感覚を得た。制限された力と範囲の中、昔はこの感覚を操っていた。クロードはどう思っているだろう。同じように感じているだろうか。それとも、自分に出来なくなったことをいとも簡単に、それも目の前でされて、腹を立てているのだろうか。

 ――いいなこれ。

 久しぶりに、かつての力を取り戻したいと思った。


   *


 アリシアは仕事だ。今日は早番で、夕方頃には帰ってくる。

 キアはいつものようにダイニングテーブルで教材を広げていた。

 足をぶらつかせ、今の時間に学ぶのは数学。数字の羅列を解きほぐしていく作業は好きだった。とっかかりを掴み、糸を引き、組み替えて、隠れている答えを露わにさせる。やり方さえ理解してしまえば簡単だった。

 一つ、二つ。時間を忘れて解いていた。

 頭が過加熱にのぼせ始め、手を止めた。ふと時計を見ると十六時を回っていた。もうそろそろアリシアが帰ってくる。

 もう一息、とは思ったが、一旦休憩を取ることにした。

 一度中身を入れ直したカップの中は空。飲んでいたのはカフェオレだ。

「ミルクだけでいいや」

 カップを手に、立ち上がる。床に足を着けた、その時、どん、という音。そして、

「はぁい」

 くどいと言わざるを得ない粘度を持った女の声が、開け放たれた玄関からした。

「え……」

 玄関の戸は鍵を掛けて閉じてあったはずだ。それをどうやったのか扉は鍵を失い、口を開けている。壊された音など聞こえなかった。もし、その音がしたというのならば、女の声がする刹那前、少々重たいものが聞こえた。とするならば、扉が開くのとほぼ同時に鍵が壊れたことになる。いくら粗末な家とはいえ、普通はそんな風には開かない。

「やぁっと見つけたわぁ」

 女の髪は黒。瞳は蒼。俗に〝ロリータ〟と呼ばれる服装をしている。足元は床から十数センチ浮き、そのおかげでスカートは汚れずに済んでいる。

 緩い動きで家の中を眺める女に、見覚えはない。女にある色は、今まで一度としてみたことがないものだ。一つだけ解ることは、

 ――人間じゃない。

 しかし、自分とは違う。故に、何であるか解らない。それが恐い。

 筋肉が強張るのを感じた。緊張している。固唾を呑んだ。

「あらぁ。お勉強してたのぉ? 偉い子ねぇ」

「出ていって」

 声が震えそうになる。悟られまいとして、静かに語気を強めた。

 しかし、女は意に介した様子もなく、

「いいおうちねぇ。小さいけどぉ、温かい感じがするわぁ」

 す、と女が身体一つ分、家の中に入った。境界を越えられ、怒りが恐怖を上回った。

「出ていって! お母さんと私の家よ! 貴方なんかが侵していい場所じゃない!」

 誰かも解らない、得体の知れない女に、感情にまかせて怒鳴っていた。これを戦いと呼べるのかどうかは解らない。そうでなくとも、これしかできないから、叫ぶしか今は護る術を知らないから、出来る限り声を上げようと思った。

「お母さん?」

 女の声のトーンが変わった。高温が耳に付く声が、オクターブ下がった。舌足らずな発音も消え、同時に笑みもなくなっている。

「大事なもの。あなたには、もうないの、そんなもの」

 あっという間に、恐怖が背筋を冷やしていった。強がりも品切れだ。

 分からない正体。意味の通らない一方的な言葉。黒と蒼の力。

「あったらいけないの、そんなもの。要らないの」

 また一歩分、女が中に入ってきた。キアとの距離が、また縮む。

「あたしは失くしたもの」

 圧倒してくる一枚向こうに、殺意を感じた。

 この感情は何だ。悲しみと絶望、そこに入り交じる敵意さえも超えたもの。

 また一歩。今度はキアも動いた。後方に一歩。二人の距離は先程と同じ。

 そこに更に一歩詰めてきた。

「貴方を――」

 聞き終える前に、キアは後ろを向いて床を蹴った。

 ――殺される……!

「殺してあげるわぁっ!」

 叫声が背に刺さる。見えない手に足を取られそうになりながら、ありったけの力で床を蹴った。向かうのは裏口。そこには鍵。指先で捻れば外れるそれが、指が震えてなかなか回転しない。その間に女は、キアが懸命に駆けた分を風に吹かれるようにして移動した。

 真っ黒に塗られた爪を持つ手が肩に触れる寸前、

「開いて……!」

 手応えがした。鍵が、軽い音を立てて封印を解いた。半ば体当たりするようにドアを開け、前のめりになりながらも駆け出した。

 細い裏路地を全力で走った。背後には常に圧力を感じる。それを振り切りたい。振り切るために、腕を足を滅茶苦茶に動かした。

 ――何でこんな事に。

 自答できる自問ではなかった。

 全てが理解の範疇を超えている。意味も脈絡も全く道理にない。一つでも何か思い当たることがあるのならばそこから紐解こうと出来る。しかし、何も無い。本当に何も解らない。

 ――お母さん……!

 奥歯を噛み、唇を一文字に引いた。

 どうすれば助かるのか解らない。人間でないであろう自分が戦慄するほどの相手と解って、アリシアに助けを求めることの無意味さを感じていた。でも、すがれる人は彼女しか居ない。包んでくれるのも、愛してくれるのも。

 大通りが見え始めたとき、膝が笑っていた。疲れと恐れが足から感覚を奪っている。息が上がって胸が痛い。だからといって止まれば捕まる。捕まれば……。

 頭を振った。これ以上悪いことを考えてはいけない。こうなったのは、あの時悪いことを考え、予感に流されてしまったからに違いない。

 走れ。せめて、大通りまで。

 自分の呼吸音がうるさい。すれ違う人々は目では追っても救ってはくれない。無力な自分は逃げるしかできない。自己救済できるだけの力があれば、と、こんな風に思ったのは初めてだ。経済的に支えられる力は欲しいと思っていた。だが、暴力に対抗する術が欲しいともう時が来るとは思いも寄らなかった。

 壊すのではなく、護る力を。自分だけではなく、大好きな人も共に包める力を。

 薄暗い路地を抜けるこの瞬間のように、未来は開けないのか。

 街灯の強い光が目に飛び込んできた。一瞬だけ強く目を閉じる。薄明かりの中にいた時間はそんなに長かっただろうか。目の奥が細かく明滅している。

 この逃亡に宛はない。息の限界は近い。

「あっ……!」

 この付近では割と大きい通りに入ってすぐ、何も無いところに足を取られ、派手に転んだ。立ち上がろうと手を地面に着いたとき、肘が音を立てそうな勢いで震えていた。立ち上がれないまま振り返れば、すぐそこに黒髪の女。

「待ってよぉ」

 涼しい顔をして、勿論息など一つも切らさずに。

 差が、ありすぎる。逃げるにも、戦うにも、そこには見上げても頂点の見えない差がある。

「ばいばい」

 女の右手に、蒼い光が生まれた。直感的にこれから何が起こるのか分かる。

 負ける。

 光が一度収縮し、次に膨張すると手の平一杯の大きさになっていた。

 一撃が、来る。

 顔を伏せることも出来ず、ただ瞠目して強すぎる自分の拍動に聴覚を奪われていると、視界に覆い被さってくる影があった。

 コーヒーの匂いが染みついた腕に抱きしめられ、横向きに地面に倒された。

 知っている匂い。知っている影。

 認識するほどに、全身が凍っていくのが解った。動けない。声も出ない。

 ――そんな……。

 背後から、冷たい手に抱擁された。

 それは、絶望の双手。

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