第7話
感じる苦痛に優劣など無い
その人が苦しいと感じた分だけ
その辛酸は本物だ
「なぁ。クロード。何かあったんだろ? 一人機嫌悪くしてないで、少し俺に打ち明けろよ。おまえ一人そうやって拗ねてると、俺、居辛いじゃん」
「それなら出ていってくれて結構だ。ここに居ろとは一言も言っていない」
「う……」
所詮は居候の身。出ていけと言われると立場上強く出ることは出来ない。これでクロードが料理もこなす男だったら、今頃間違いなく蹴り出されている。本当のことを言えば、蹴り出されても生きてはいけるが、むしろその後のクロードが気になって出て行けない。稼ぎがあるからまだいいが、ろくな物を食べなくなるに違いない。
過保護だ、と自分でも思う。
「失せろ。うるさい」
「でも……」
クロードが塞ぎ込んで数日経つ。その数日間、ユンとクロードはずっとこんな調子だった。クロードは黙り込んでむっつりしている。ユンはそれを心配して色々話しかけるが鬱陶しがられるだけで何も進展がない。
しかも、自室に引っ込んで遣っているならいざ知らず、寝る以外は居間に出てきてコーヒーを片手に苛々。食事をしながらカリカリ。頬杖を付いては溜め息。
正直、鬱陶しいことこの上ない。
今日もご機嫌急斜面のクロードに声を掛け、予想通りの展開だ。
何だかんだとやかましく尋ねているユンだが、おおよその見当は付いていた。無駄に長年付き合ってない。それでもなおかつ尋ね続けるのも、長年付き合ってるからこそであった。
鬱々としたものは、余り溜め込むと眉間の皺以外にもっと良くないことが起きる。それをどうにか発散させてやりたかった。
それこそ道化となってあれこれ試すが、やはり硬直した顔の筋肉はそう簡単には動かなかった。
狭い家の中で一人悶々とされていると、本来無関係の者までその空気に呑まれそうになる。始めは温厚に事を済ませようとしていても、やがて限界はやってくる。
今回の事例も、例外はなかった。
三日目、ユンの中で堪忍袋の緒が音もなく切れた。
ダイニングテーブルに着いているクロードの斜め前に立ち、高い位置から彼を見下ろした。家の中に居るときは必要以上に背筋を張っているクロードが、今は外に居るときよりも背を丸めている。あまりに情けない姿だった。
彼がシンに会っただろうことは、確信としてユンの中にあった。クロードが帰ってきたときから予想済みだった。だが敢えてそのことは言葉にせず、彼の口から事の次第を聞こうと思っていた。
だが、もう限界だ。
だから、余計な前置きは無しに言いたかった言葉の数行先から口にした。
「クロード。いい加減、ズルズル引きずるのやめようぜ? んなことしてたって、何の進展もないじゃん」
自己の思考にめり込んでいたクロードだったが、ユンの言葉に反応するのに一秒と要しなかった。
「黙れ!」
椅子を蹴り立ち上がったクロードに襟首を掴まれ、少しよろめいた。
血走った目が睨む。
「貴様に何が解る! こんな場所に堕とされたこの惨めさの、一体何が!」
いつもなら言わないことを、勢いが言わせているようだった。冷静さなど欠片もない。こんなにも簡単に発火する所にいたとは知らなかった。
ユンは掴まれたことで窒息しないようにその手を掴んだ。
「落ち着け、落ち着けって」
言って落ち着くようなら世話はない。襟首を掴む手にはますます力が入っていった。
苛立ち紛れに怒ることはあっても、ここまで激しく赫怒することは珍しい。可能性は解っていた。だが、見るからに震えを来す程に怒号を上げるなどとは思っても見なかった。
手に込められた力は、果たしてユンだけに向けられたものだったのか。無数にある怒りの矛先の全てが、今この時、ユン一人に集中しているだけのような気がした。
「あの男は現実に負けてると言ったんだ。今まで絶対現実には平伏さないと決めていたはずだった。だが、……ああ、そうだ。負けた。この右手を握り、奴に蝙蝠の始末を任せた時点で現実に完敗したんだ。迎合していたのは自尊心のつもりだったがな。ここで生きるためには、手を握らなくてはならないと、解ってた。仕方ない。どうだ、惨めだろう。嗤え。嗤えばいい!」
クロードは自嘲しない。自らにさえも怒り狂っているようだった。
泣きもせず、嗤いもせず、クロードはただ怒りを持って卑下していた。
傷が、今も血を流しているように見えた。
苦しんで、もがいて、息つく間もなく戦い続けた。それでも彼自身の矜持が倒れることを許さなかった。許せず、許されないから、今日まで耐えて己を律してきた。
そんな男を、嗤うだって?
「嗤わねぇよ。誰がおまえを嗤うかよ」
クロードは手を添えられるのを嫌うから、ユンは動作無しに言葉で彼を包んだ。
高すぎる矜持の所為でいつか自壊するのではないかと、どこかで予感していた。その自壊は、もしかしたらとっくの昔に起きていたのかもしれない。瓦解した自我を彼はどうにか再建しているのに、そも外観から気に入らないらしい。積み木のように積んでは壊しを繰り返しているうちに、一体何が自ら遵守してきたものなのかさえ見失ってしまったらしい。
積み木は全て使うことは出来ない。どれかを切り捨てなければ完成出来ないように与えられていた。彼が選び取ったのは自尊。そのつもりが、いつの間にか現実で生きるためのものにすり替えられていた。
クロードは唇を曲げ、噛んでいる。
手が、襟首からするりと落ちた。
やがて、俯いた顔は酷く沈んで何もない床を見た。
「貴様が嗤ってくれるのなら、貴様を嗤ってやるのに」
気が触れたかのように嗤笑してやるのに。
そうすれば、きっと楽になれる。
「俺は嗤われても、俺はおまえを嗤わない」
なのに、ユンの返答はこれだ。
自らを嗤うこと、自らに泣くこと。どんなに怒り狂っても、クロードはそれだけはできなかった。許せなかった。だから、仕返しという言い訳をつければどうにか出来るかと思ったのに、言い訳をつける相手は嗤ってやらないと言う。
酷いものだ。
互いにせっかくのチャンスだというのに。
指先が痛い。あまりに強く握り締めていた所為で、手が暫く元に戻らなかった。
徐々に、冷静が定位置に戻り始めていた。激昂が去るほどに所在なさがやってきた。
あんなに怒鳴り散らしてみっともないことを言って、羞恥が顔を焼いた。
どう顔を合わせればいいか解らず、クロードは上目遣いにユンを見た。色々と想像したが、そこにはいつもの優しげな顔があった。
「……随分な事を言ってくれる。この……似た者同士」
「おまえがそれ言うなんて、今日こそ世界が滅びるんじゃねぇか?」
そう言って笑う。笑わないクロードの分まで笑っている。彼が作る笑みは屈託がない。含みも、嫌味もない。
クロードは口に出して認めないが、それによって棘が落とされていることは確かだった。
救われている。
言うのは容易いが、伝えてしまうのは惜しい気がして言ったことはない。
鳶色の瞳の直視がだんだん辛くなり、クロードは顔を背けた。
「莫迦が……」
一言で、全てを誤魔化した。
気配の異変には少し前から気が付いていた。
この場にはおよそ必要のない気配。むしろ、異物。
気配の方を見やることなく、一度外した視線を向け直す。すると、すぐに目が合った。戦う生き物が気付かないわけがない。二人は顔を見合わせ、頷いた。
静を保つ。先制はせず、窺いながら期を待った。
室内に黒の割合が増えた。それは天井の隅。
その間に、クロードは右手に短いメイスを喚んだ。ユンは指を鳴らし準備万端。
「ここじゃ剣は振り回せないからなぁ」
ユンがぼやいたが、聞き流した。彼の得物は今ここにはない。与えても良かった。しかし、素手で戦えるならそうしろと思っていた。ユンとて加減は知っているとは言え、やはり空間の限られた場所で長物は振り回されたくない。片付けるのも面倒だ。
静寂の均衡はそれ程長く続かなかった。先に痺れを切らしたのは潜む闇の方だった。
クロードはメイスを逆手に構え直すと、短気な蝙蝠に一撃を放った。蝙蝠はまともにそれを喰らい、鈍い音を立てて床に落ちた。球体の身体に大きな窪みが出来、煙を上げて壊れている。
「おー? 逆手持ち? メイスってそういう使い方すんの?」
「気に入らない奴を殴るための道具だ」
「違うだろ」
無視。
「どう持とうと、何を殴ろうと関係ない。貴様を殴打してやったって誰も咎めないぞ」
「や! 俺が咎める! ってか、そんなギザギザ付いたので殴られたら、顔が抉れる!」
「しょうもないものは抉り取ってしまって構わんだろう」
「酷い! 二枚目に向かって何てことを!」
「このアホ面が二枚目とは。主の仕事も大したこと無いな」
「これでも俺、モテたんだぜ? ……確か」
「うろ覚えの癖に適当なこと抜かすな。莫迦言ってると負けるぞ」
「おわわわ」
慌ててみせるが、ユンの視界に既に捉えられていた一匹だった。狙いを外すことなく手拳を一つ、喰らわせる。凹みはしなかったが、それでも充分機能停止だ。二つ目の蝙蝠が床に並んで落ちる。
「今日は数、多いな」
「残り三だ」
「一と五じゃ随分な差じゃないか」
そう言っている間に各自一つずつ、計二つを床に落とした。
残る一匹はこっそりとユンの足元で機会を窺っていた。だが、それが良策ではなかったことは次の瞬間彼に踏み潰されたことで証明された。
掃除は難なく終了した。次は床掃除。これはユンに任せることにしよう。
隣で何を思われているか知る由もないユンは、足元で潰れたものを他の四体の元に寄せ、収穫物として誇張した。
足蹴にされた蝙蝠達の残骸を、鬱陶しくも怪訝にもなる目をしてクロードは眺め下ろした。
計五つの蝙蝠。
何故こんなものがここにあるんだ。
根本的なそれが解らなかった。
以前シンが言ったように、これも模造品だ。ユンが連れてきた一匹も、その時はよく見ずに捨ててしまったが、恐らく模造品だっただろう。純正でないものを、一体誰が使役し、ここに寄越してきたのか。シンと関わり合ったことは関係あるのだろうか。
「わからんな」
胸の内を一言漏らしたのと、轟音が聞こえてきたのはほぼ同時だった。それに伴って地鳴りもやってきた。室内の物が小さく音を立てる程度の揺れだが、少し待っても収まらない。
地震ではない。何かの爆音による衝撃が地鳴りになって伝わってきたようであった。
クロードはユンの顔を見たが、彼は首を振っている。解らない、と。二人ともこの轟音や地鳴りの原因に見当が付かなかった。
二人は真相を確かめるべく、取り敢えず表に出てみた。そして、音がしたであろう方向を向き、やや遠くの光景を見やる。
黒い空の一部が明滅している。初見ではそう認識した。よく見れば、地面から空に向かって光が散っている。それは小規模の花火倉庫に火が点いたような有様であった。思い出したように爆発を繰り返し、空中に何か飛んではそれも爆発していた。彩りは綺麗ではないが、闇をかなり飾っている。
「おー? 花火か?」
「というより、集中砲火されてるみたいだな」
「一体誰に?」
「思い当たるのは今のところ一人しか居ない」
「あの咒法師か」
「名前はシンだと」
「へぇ。〝シン〟ねぇ。主の呼び名を頂いてるとは、大層なもんだな」
「同じ神でも疫病神だろ、アレは。不愉快極まりない。異端者風情で傲慢な男だ」
「でもあの男、ただの咒法師じゃないぜ? あんなにスゲェ気配感じたの、初めてだ。あんな咒法師居たなんてな」
ユンの言葉に、悔しさはそれほど無い。どちらかというと、楽しんでいる風であった。相手が何であろうと、感心すべきことは躊躇わず頷く。それがユンだ。しかし、かつての彼の呼び名を知っているクロードにとって、それは理解しがたいことだった。
何故、躊躇いもなく受け入れ、感服できるのか。暢気な横顔を眺めながら、真意を測りかねていた。
ユンは戦いになると、今でも目の色が変わる。気配が一変する。血の臭いこそ今は薄れ始めているが、時々ふっと感じることがある。
ユンの異名。
かつて誰もがその力を羨望し、嫉妬さえ持って彼をこう呼んだのに。
〝最強〟、と。
「わからん」
「ん? 何が」
「……なんでもない。それに、あの男、アルクァから来たとぬかしていた」
「うへぇ! 移動したって?」
「神の使徒がするようなことを平気な顔してやっている。あの男、底が知れない」
苦い顔で燃え上がる遠くの景色を眺める。周りとの釣り合いを無視して、その一点だけ戦争中のようだ。
ジッと目を凝らしていると、黒い影が燃え上がるその周りを飛んでいるのがうっすらと見えた。鳥ではない。影は人の形だが、翼が見えないことから自ずとその正体は分かった。
「思った通りだ。やはりあの阿呆が何かやらかしてるらしい」
静かに過ごすことが出来ないのか、あの男は。
毒づいて、クロードは左目を細めた。
シンとおぼしき影が、空中に静止した。雰囲気としては二人に気付いて見ているようだ。
「あいつ、空まで飛べるのか。すげぇな」
クロードの脇でユンが邪念無く感心している。腕を組んで、大きく頷いていた。
この男はそうやってまた受け入れて。どういう心境で取っている行動なのか、全く理解できない。
目の前で起こっていることは解ってはいるが、それでもやはりクロードにとってそれは面白くないことだった。特に今回の場合は相手がシンであるだけに余計。
面白くない。
細めた目を、次にユンの方に向けた。
「貴様の個性を否定するつもりはないが、貴様のその動作は酷く頭痛を催す程ムカツク」
「言った側から否定してんじゃんかよぉ」
ユンは唇を尖らせるが、それは一瞬のことですぐに口角を上げた。
「ま、それがおまえらしい発言だな」
「らしい、とは、一体どこから来る個性の定義なんだ? 貴様が言う〝らしさ〟が無くなったら別人になるとでも言うのか?」
「うっわ。そう来る? うー、反論するには……」
「そうやって一々真面目に受け取って反論しようというのが、貴様に言わせる、貴様らしい所だ」
「ん? あ。それ、褒め言葉?」
「残念だが貶している」
「ひでぇぇぇぇ」
家の戸口で下手な漫才をしている間に、今まで影のようにしか見えなかったシンの姿が眼前まで迫っていた。相変わらず格好は黒ずくめで、顔には不遜な笑みを絶やしていない。
それを見て、ますます不快になった。
遠くにある爆発を伴った火事は収まりつつあった。
荒廃していたクロードの気持ちがどれだけ好転したか計りきれていない。それなりに会話が成立しているので、一段落付いた物と判断した。
風向きが変わったのか、やや焦げ臭さが鼻を突いた。咳き込む程ではないが、こめかみが軽く痺れるような不快感がある。
やってきたシンの身体にも臭いが付いてきていた。横にいるクロードが、臭いに顔を顰めるついでにやってきた相手を睨んだ。
「貴様の顔は見るとコイツ以上に不愉快だ。早々に立ち去れ」
コイツ、と指した指はユンの方を向いている。暫くその事実を知らなかったユンだが、気付くと慌ててその指をはたいた。
「ちょっと。俺って日常的に不愉快なわけ?」
「知らなかったのか」
「……知らないよ」
冗談か本気か全く見分けが付かないのがクロードの怖い所だ。後者であることを少し懸念したが、今まで無事に生きてきたことを信じることにした。
「ホント、あんた、俺のこと邪険にするね。そんなにお嫌いでやがりますか」
コートの袖やら裾やらを払いながら、異端の男は言った。相対している者の正体を知っているのにこの態度。自信過剰を通り越して愚者のようですらある。だが、ただの愚者ならばクロードはこんなにも身構えない。ユンも同じだった。
計りきれない男を前に、臆するまでは行かずとも、感じている多少の戸惑いが緊張を呼んでいる。リラックスしているのはシン一人。
「解ってるなら来るな」
「っても、用事あるんだもん。しょうがないじゃん?」
「貴様の用事に付き合わせるな」
遂にクロードはシンから目を離し、そっぽを向いてしまった。
顔の側面を向けられたシンはニヤニヤと笑いつつ、今度はユンの方を向いた。
蒼の瞳を、初めて正面から受けた。咒法師とは、話には聞いていてもこうして目の前で見るのは彼が初めてだ。厳密に言えば恐らく一度だけ会ったことはあるのだが、その記憶は途切れ途切れである上に不鮮明で、記憶しているとは言いがたいものだ。ユンもまた、過去の一部が記憶の中から欠如していた。そのことについては気にしていないし、無理に思い出そうともしていなかった。
使神ではない金髪の少年と天隷の女を連れた世界の異端者は、何故か執拗にクロードに絡んでくる。意図は分からない。若干見え隠れする悪意は気になるが、敵意の類は見あたらない。
鮮やかなるも深く底の知れない蒼。気を抜くと、呑まれそうな感覚さえした。
「ね? お宅の大将っていつもこんなん?」
「そんじょそこらの一般人より格段に咒法師ギライだから」
「黙れ、ユン」
「……」
仰せのままに。
周知の事実を伝えたまでだが、何故か怒られた。
こちらから嫌忌する存在ではない。ユンはそう思っていた。確かに、シンという存在は不明瞭だ。はっきりしない記憶でも、咒法師相手にいい目を見ていない。だが、それとこれとは違う。
あの咒法師とシンが、同一人物であるというのならば話は別だが。
可能性を言うならばゼロではない。だがその可能性のために彼を避けるか。
――そーゆーの好きじゃねぇな。
クロードを知るユンにとって、彼がシンを忌み嫌う理由は嫌と言う程解っている。ユンよりも強く、見えなくなった過去を引きずっている。だが、それをいつまでも飽き足らず連れ回してる様は、見るに堪えない。だからこそ引きずるなと先程言ったのだが、結局クロードを怒らせただけで何も変わってはくれない。
黙れと言うから黙ったまま横目で睨んでも、やはり変わらない。
「じゃあ、聞く気無いみたいだから勝手に喋るぞ。さっきな、あそこで蝙蝠の模造品詰め込んだ倉庫があったからぶっ壊してきたんだけど、そこにいた野郎の話だと、本拠地は今は別だと」
へぇ、と聞くユンに対し、相変わらずそっぽのクロード。
「それと、あんたらも標的らしいぜ? 俺達だけじゃなく」
「何故だ」
だが、耳は生きていた。
反射的にクロードは食い付いた。今が糸を引く時だとばかりに、シンは得意顔になる。
「訊くべきは俺じゃなく主犯のヤツだろ?」
「誰の仕業か、知ってるのか?」
「さあ」
知らない、と言う顔ではない。ブラフとも考えられるが、確かめようがない。眼を細めて睨み付けても、無駄だった。
「……拠点は別だと言ったな? 何処だ」
ユンと同じ事を考えていただろうクロードだが、敢えて問わずに話を続けた。完全に針付きの餌を飲み込んでいる。シンの完勝だ。
にんまりと笑み、勿体ぶってその唇をなかなか開けようとしない。きっと焦らすような内容ではないだろうに、勿体ぶっては楽しんでいる。
短気なクロードが痺れを切らす一歩手前で、シンは舌で唇を湿らすとゆっくりと言った。
「ツィア」
と。
「ツィア? 動けって?」
先に声を上げたのはユンだった。クロードは口だけを「は」の形にし、眉を顰めて疑問詞を付けていた。
思うことは同じだ。非常識。そして、不可能。
硬直した二人の前で、言葉が通じなかったのかという面持ちでシンは首を傾げた。
「動かないでどうやってツィアに行く?」
「ってもな、あんたはいいかもしれないけど、俺達は移動なんて……」
自分たちは咒法師なんかじゃないから。
不満たっぷりにユンはシンを見た。
それに対し、シンは悪戯っぽい蒼の瞳で見返してきた。咒法師の瞳にしかない色は、未だに見慣れない。特別何をしていなくても常に勝ち誇ったようなシンの表情に、僅かに圧倒された。胸部に圧力を掛けられているような錯覚に陥る。
――なんだよ……。
顔を合わせているだけで呼吸を奪い去られていくような威圧感。これで敵としてまともに対峙したら微動だに出来ないだろう。動いた瞬間に殺されそうな気がする。
――俺がこんな風に思うなんて……。
シンの存在はあるだけで重たかった。今まで様々な者と出会ってきた。敵にしろ味方にしろ、数多い。だが、目が合うだけで圧されるような、思わず怯んでしまうような相手に出会ったのは初めてであった。
かつての呼び名を自負するつもりはない。名を使った事はあるが、名に威を借りたことはない。使われることもなかった。ただ、負けた相手が居なかった。戦った相手全てに勝ってこれただけの力を持っていた。それだけのことだ。
そうして恐れる相手を知らなかった自分が、出来れば敵に回したくないと思う相手に初めて出会った。
咒法師という、不可解な種族に。
「何もあんたらに勝手に行けなんて言ってないだろ。どうせうちの住人も連れて行かなきゃならないんだ。ついでに一緒に送ってやるよ」
「貴様を含めて五人。一度に移送するのか?」
「ん? 何か不都合ある?」
「……いや。可能なら別に……」
ここに来てまたもやクロードはシンのペースだ。最早完全に乗ってしまっている。話の流れでツィアという土地に動くことに承諾している。事態に気付いたクロードは額に手を遣ったが、もう遅い。商談はまとまってしまった。
「じゃあ、一時間後に初めて顔合わせた所に来いよ。こっちもすぐには出られねぇし」
「今日すぐにか」
「善は急げってね」
「善悪で言うなら貴様、悪だろう」
「いやいやいやいや。悪者は誰か見せてやるよ」
じゃあな、と手を振って、誰かの承諾を待つことなくシンはまた闇の空に消えた。
キャラ的にシンが悪役だろう。ユンもそう思った。
でも悪者と悪役では意味が違うか。考え直し、しかしクロードと同じ結論に至る。真相は、この先知ることとなるだろう。
残された二人はシンの姿を追いかけるのをやめ、目線を水平に戻した。
静止すること暫し。
「クロードが誰かに流されるなんて珍しいな」
「……ふん」
反論がない。これもまた珍しい。
不機嫌そうに口を歪めると、クロードは家の中に戻った。その後を追ってユンも中に入る。
それらをまとめて手渡され、何事かと瞠目していると、
「どうせ直す気なんて無くしてたんだ。それだけあれば充分だろう」
「え? じゃあ、他のそのデカイのはどうするわけ?」
「破壊する」
「さっきみたいにメイス使って?」
絵を想像し自然と口元がほころんでしまった。しまったと思うも、想像力はたくましく次から次へと有りもしない光景を脳内で展開していく。これは面白い。
一方クロードは、呆れ顔。
「あの時はこいつらに影響があっちゃマズイと思ってメイスを出したんだ。そんな物理攻撃しなくても、もっと楽な手段はいくらでもある」
クロードはメインに使用していたコンピュータのタワーに左手を載せた。
「それ持って表に出てろ」
言われるがままに、ユンは渡されたパソコンその他を持って表に出た。あのまま居座ると、折角救い出されたこの機械まで使い物にならなくなってしまう。クロードが使おうとしているのはそういう術だ。左手が破壊の対象を向いていたのがなによりの証拠だ。
使神の左手。魔を放つ手だ。シンが右手で放つのと同様の力を生む。
ユンにはない力だった。
一抱えの機械を文字通り抱え、戸口まで待ち惚け。今はすっかり大人しくなった黒い空を眺めながら、自分のことを思った。
――色々失くしたよなぁ。思い出せないけど。
物理的。感覚的。諸々。失くしすぎて、身体も頭も軽くなりすぎてしまった。それを悔やんでも仕方がないので、今となってはあまり気に病んでいない。生きているだけで儲けもの。本当ならば、死よりも過酷な世界に封じられてしまっていたはずだった。それが何の幸運か、こうして自由に生きている。
――ありがたい、んだろうなぁ。
クロードはこんな自分を暢気だという。確かにそうだ。そして、割り切っているだけだ。
自分のようになれと言うつもりはない。ただ、少しくらいは重荷を捨ててもいいのではないかと思い、クロードと接している。今のところ実を結ぶ様子がないのが残念である。
いつか。いつかでいいから、クロードも楽になればいい。そんな願望を勝手に抱いている。
「さむ……」
一度温まった身体はとっくに冷め、上着を着ずに出てきた所為で寒さが身に染みてきた。
身を揺するながら眺める景色は、気温も色も寒々しい。
この空の下に留まり始めてもう八年になる。このままずっと、死ぬまで同じような生活が続くと、何処かで思っていた。それが、何の弾みが、変わり始めている。動くはずがないと思っていたものが、第三者の力に触れて目を覚ました歯車が、音を立てて回り始めている。
徐々に気分が高揚してくるのを感じた。この流れに期待しているらしい。
楽しくなれ。
自然と口元がほころんだ。
家の中。クロードはまだ作業に移っていなかった。
タワーに手を載せたまま、全く別のことが頭にあった。それはやはりシンのことで、考えを巡らせる程に苛立ちは募った。
それがコンピュータの破壊の躊躇いになっているわけではない。コンピュータはデータ流出防止のために、消去ではなく破壊をする。だが、その行為の原因となった事態が気に入らない。
破壊を選んだことで、自分がここを出ていったら戻る気がないことを自ら思い知った。定着せざるを得ない境遇であるにもかかわらず、定着することなど出来ない性分なのだ。だから、動けるのであれば動いた先に居よう。戻るなどと野暮なことはするものか、と、思考の裏側で決めていた。
行くべき道はいつの間にか随分と造られてしまっている。今こうやって立ち止まっていることは時間の浪費でしかない。
「役立たず……」
タワーに当てた手から力を放つと、一瞬白く発光した。瞬時に流し込まれたエネルギーがケーブルを伝って、繋いである物の隅々まで行き渡った。火花が弾けるような軽い音がしただけだったが、その場にあった機械類はもう使い物にならない。
自分で言った言葉に苦味を感じ、胸を押さえた。
壊れた機械と今の自分とが線で繋がり、息苦しい。
この地に足を着けた日から、まともに鏡を見たことがない。不完全になった自分を、思い知ることになるからだ。そうして見ないようにしても、失ったという感覚は身体の内から感じてしまう。目を伏せ、苦いコーヒーを飲み下して消えない失望と違和感を誤魔化してきた。
だが、もう限界だ。
コートかけから真っ赤なコートを掴み取り、一息に羽織った。
扉を後ろ手で投げるように閉め、大きな歩幅で玄関の戸を開けた。
「あ、終わった?」
「ああ」
預けていた機械を受け取ると、右手に仕舞い、そのまま歩き始めた。
「あ、ちょっと、俺、コートとか色々……」
後ろで何か騒いでいるが、足は止めない。
「早くしろ。置いていくぞ」
「ちょっとー! 俺にも支度させてよー! 家具とかはどうするのさ!」
やはり後方で騒がしい音がする。しかし振り返らない。後ろを向くのは、次に辛くなったときにしよう。そう決めて、また一歩踏み出した。
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