第6話

 嫌いなものは

 傷付けてくる誰かではなく

 傷付いている自分



 寄り道は一時間程度だった。

 半分以上は空で蛇行していた時間だ。クロードを構ったのはおまけ程度でしかない。散策の過程で見かけることがなければ、それで帰ってくるつもりだった。

 結果として、収穫があった。頭痛の発現は余計だったが、この際よしとする。

 今は帰宅の途中。帰ったらイヴェールにちゃんとした朝食を作って貰おうなどと画策していた。

 が、思わぬ所で我が家のシェフを見かけ、シンは飛行をやめた。

 それは自宅近く。上空からはそこそこはっきり見える場所だが、そこは袋小路。

 そういえば、彼女を初めて見付けたのもそんな行き止まりだった。あの時も、数人の男に追い込まれていた。

 何故今、いつかと同じ状況に彼女が陥っているのか。

 泣きそうな顔をしてシンの部屋に来、ベッドに潜り込んできたのは二時間弱前のこと。落ち着いて寝ていたのをそのままに家を出たが、その間に何かあったのだろうか。

 何故外に居る。

 何故追いつめられている。

「うーん」

 解せず、思わず唸った。

 この間も彼女は黙っていない。甘んじて男の手に触れられはしない。だが、今の彼女に抵抗の手段は少ない。

 力があれば。翼があれば。屈辱に眉を歪めることもないのに。

 かつての彼女にはあったそれ。今の彼女にはない。

 飛べない、と彼女は言っていた。翼自体を失くしたのか、飛ぶ力を失くしたのかまでは解らない。だが、どのみち今の彼女に、本来あるべき力が無いのは分かっていた。

 感じないのだ。人ならざる者独特の力を、全てではないが感じない。

 自分も同じ穴の狢だからこそ分かる、漠然とした感覚だ。

 不機嫌な使神を虐められるのも、この感覚に因っている。

「さて……」

 解せないからと止まっていては、取り返しが付かなくなってしまう。まだ揉み合っているうちに、割って入るとしよう。



 歯が立たない。

 自分の無力さにイヴェールは唇を噛んだ。

 身体は丈夫に創られているから、人間相手に深手を負ったりまして死ぬようなことの心配はしていない。だが、心は違う。

 特に自分は。

 繊細だとか、か弱いとか、そういうことを強調したいわけではない。

 この行為を良しとしない。普通の天隷だったら、最後には諦められるのに。

 ――私は、何で不完全なの……?

 本能も、能力も、今となってはどちらも不完全。天隷の姿からはほど遠い。天隷ではない〝何か〟でしかない。

 相対しているのは二人の男。人間だ。体格がよく、見上げないと睨めないほど上背がある。

 でも、人間が、たった二人。

 ――力を……返して……!

 使神に勝てることはなくとも、自分より下位の者に負けるなど、以前には考えられなかった。

 だがそれは過去のこと。事実、こうして二人の人間に追い詰められている。

 拒絶の力を。抵抗の術を。

 今更本能など要らない。その代わり、力が欲しかった。

 いいとこ取りは我が儘だろうか。

「おら、大人しくしろ」

「先に縛っちまおうぜ?」

 ぞっとして、急いて振り払おうとした右手が遂に捕まった。こちらが色を失うのに対し、男達の表情は喜悦に変わる。

 左手で殴りつけるよりも早く、男の空いた手に襟ぐりを掴まれた。

「や……!」

 悲鳴になるはずの声は、掠れて短く切れ、その音さえも次の瞬間に喉に吸い込まれて、終わった。

 男の手が引かれる。

 だが、その動きは中途半端なところで止まった。男達の視線がイヴェールから逸れ、彼女の頭の上の方向で瞠目した。

 同時に、魔手と共に身体を後ろから抱いてくる腕があった。

 黒いコートの袖。最近覚えた匂い。

 これは、安堵していいもの。

「男がみんな下衆だと思われるからやめてくんない? それともなんだ。下衆駆逐事業として問答無用で去勢しようか。な、それがいい」

 やってもいいが、即時執行はやめて欲しい。絵的に。

「な、なんだテメェ」

 芸のない言葉を吐きながらも、男はまだ手を離さない。よほど飢えていたのだろうか。

 欲を暴食する人間は、一度理性を食い破った牙をすぐには収められないらしい。

 頭上で、笑ったのか呆れたのか、短い吐息がした。

「莫迦に説明するのは嫌いなんだ。身体で知れよ。そしたら忘れねぇからさ」

 身体を包んできていた腕のうち、傷痕が目立つ右手が動いた。その手の平が、ゼロ距離にいる人間の方を向く。

 その意味を知り、イヴェールは彼の右手の平に自分の左手を重ね、握った。合わさった手の平に、傷痕だろうか、浅い凹凸を感じた。

「シン! 駄目!」

 身は捩れない。顔だけで振り向いて、黒服の男を見た。すぐに蒼い目が、なんでだよ、と疑問を投げてきた。

「殺さないって。人間バーベキューは臭くて嫌いなんだ」

「でも……!」

 嫌いと思うことをかつてしたことがあるのかどうかはこの際どうでもいい。

 使神には凶器を手に走る癖に、今この状況を止めるなど矛盾していると思われていることだろう。だが、そこに違いはある。

 下す手が、自分か他人か。

「汚れるのは俺の手だし、制裁は必要だろ? それとも、人間は別?」

 見透かすように言われた。

 ここでシンが術を放てば、それは他人の手による制裁だ。持論からすればそれは可としていいものの筈。

 ここで思考がずれていく。

 そもそも、こんな事になったのは自分の所為。この状況を自力で脱出できなかった自分が悪い。なのに彼は、一つとして責める言葉を吐くことなく、

「何で……」

 傷だらけのこの手は、汚れることを厭わずに包んでくれるのだろう。

「私なんか……」

 私なんかのために。こんな生き物のために。

 最後まで言えなかった。苦しくなって、口を震わせて、シンの腕に頬を寄せた。

「イヴェール」

 呼ばれた。

 頭の上で、一度だけ、はっきりと。

「不完全が罪なら、こんな世界、無くなっちまえばいい」

 彼の答えは違っていた。

 暫く外野に置かれていた人間が、ひ、と顔を引きつらせた。シンの束縛を得ていないもう一人は、遂に背を向け駆け出した。それを見、漸く獲物から手を離した男は、緩い束縛をふりほどきやはり背を向けた。

「俺が喜んで壊してやる」

 シンが右手を伸ばした。はっとしたがもう遅い。先程まで握っていた手は、知らない間にすり抜けて光を作っていた。

 ちら、と仰ぎ見れば彼は笑っている。自信とも愉悦とも付かない、楽しんでいるということは見て取れる顔をしている。

 意味を取りかねる、角度を変えれば恐ろしい笑顔だった。

 蒼い光は創造主の手を離れると、二人の人間の背に体当たりし、壁にぶつかるまで直進した。同時に発生した風が砂埃を巻き上げ、辺りは煙っている。

 派手なだけの攻撃だった。二人は誰かの家の壁に打ち付けられてはいるが、気を失っているだけで生きている。負傷していたとしても、自然治癒に任せられる程度だろう。

「あー、すっきりした」

 事態の収束に伴って、背にずっと感じていた温もりが遠ざかっていった。

 目の前を過ぎ去っていく傷だらけの手に、新しい赤い線が一つ。それを目で追いながら振り返り、彼の右手を取った。やはり、出来たばかりの傷がある。

「シン、これ……」

「掠り傷」

「じゃあ、これは?」

 手の平を表に向けると、真ん中に大きな貫通痕のようなものがあった。不思議なのが、手の平にはあるのに甲にはないということ。そして、改めて見た彼の右手は、数え切れないほどの小さな傷痕で埋められていた。もしかしたら、手に限らず、腕にまでそれは広がっているのかも知れない。

「気になる?」

「気に障る?」

 別に、といいながらシンは、自分の傷を一瞥。

「いつか、あのガキにも訊かれるんだろうな」

「フェイのこと? まだ、訊かれてないの?」

「俺がキレると思ってあんまり訊いてこねぇからな」

「貴方が悪いんじゃない。実際、この前、怒鳴ってたし」

「まあな……」

 この分だと、隠し事はかなり多そうだ。

「それより」

 と、突然腰に手が回ってきた。かと思うと、街を見下ろす高みに居た。

 数少ないマンションの縁だ。階層は二桁に届かないが、それでもこの辺りでは充分高い。

 しかし、こんなビル、近くにあっただろうか。

 数秒前まで居た場所を探して地面にせわしなく目をやっていると、地上では感じることのない横風に煽られた。

「気をつけろよ。飛べないんだろ?」

「うん……」

 ひやりとした感覚が、今になって背筋を昇っていった。身震いする。一気に体温が下がった。

「何であんなトコにいたんだよ。また、嫌な夢でも見た?」

 砂煙が遠くに見える。一瞬にして移動するには、距離がある。

 そして、高い。

「それより、ここ、怖い」

「あ、悪い」

 また身体が浮く。今度は数メートル後退した場所に足を着けた。住人が据え付けたと思われるベンチと物干しだけがある屋上だ。開けていた眼前はフェンスによって景色を変えた。黒と金網に囲まれた孤島のようだ。

 イヴェールはベンチに座り、足を投げ出した。隣にシンが倣う。

「で、なん……」

「怖くなったの。また、失くしたかと思って」

 二度は問わせない。

 風に曝されている足が、少しだけ寒い。着の身着のまま出てきたために、服は薄手のもの一枚だけだ。コートがないとたちまち身体が冷えてしまう気温なのに、今はむしろ火照っている。

 横顔を見られている。しかし、目は合わせなかった。

「やっと安心して眠れるようになったのに、起きたらまた独り。これ以上暗い場所なんて無いと思っていたのに、黒が、もっと色を増して迫ってきたみたいで……」

 一息。

「怖かった」

 恐怖に駆られて、軽率にも表に飛び出した。フェイのことは意識になかった。きっと声を掛けてくれたのだろうが、覚えていない。

「そっか」

 視線が離れていったのが解る。長い足が並べるように投げ出された。

「フェイに訊かれた」

 今度はイヴェールが横に視線を遣った。彼は黒い空を仰ぎ、透明な息を細く吐き出していた。

 今更気付いたが、シンはシャツもコートもボタン一つ止めていない状態だ。男の身体は見慣れている。ただ、寒くないのか、とだけ思った。

「おまえは俺のことが怖くないのか、って。もしかしたら、俺たち、かも知れないけど」

「何て答えたの?」

「テキトー。本人に訊かなきゃわかんねーだろって」

「それもそうね」

 シンとは対称に、イヴェールは俯いた。

「無理してるのかもってフェイは思ってるんだろうな。全てを知らずにあんな話聞いたんじゃ、天隷の女は男を憎んでて然るべきだと思うだろうし。あいつだって頭ん中はガキでも、男だって自覚くらいあるんだろうし」

「……うん」

「言える理由なら、言ってやれよ。自分が下手に触って傷付けるの怖がってるから」

「……うん」

 どんなに聞いていても、シンから問い掛けられることはなかった。答えを知っているのか、それともどうでもいいと思っているのか。

 行動の理由は尋ねる癖に、内面に関わってくることになると食い下がってこない。

 問えば、知ることになる。

 それを避けているような気がした。

 知れば相手が自分の中に食い込んでくる。侵入されるほどに、何かあったときの傷が大きくなる。

 だから避ける。問わない。知ろうとしない。

 でも、関わっている。手を差し伸べる。包んで、言葉を掛けて、受け入れる。

 大いなる矛盾を正当化するように、自分は薄情だから、と相手と距離を置く。

 身勝手。でも、優しい。

「貴方は、なんで右手を差し出すの」

 話題の右手を、シンは空に翳し、表に裏にと返すのを眺めている。

「さあ。自己満足じゃねぇの?」

 手はやがて膝の上に降り、

「護ろうと思って護りきれるなんて、思ってねぇし。自分が後悔したくないから目先のものに手ェ付けてるだけさ。それって自己満足だろ?」

 膝の上で揃えた左右の手の平を見ながら、彼は言う。

「壊すんだったらお手のモンなんだけどな。何だって壊してやる」

「世界でも?」

 不完全が罪なら、こんな世界、無くなってしまえばいい。

 何を知り、何を知らずにそんなことを口に出来るのか。咒法師とは、強いだけで世界の高みに何があるのか、それを知らずに生意気なことを言うだけの愚か者なのか。それとも、この男が単に高慢なだけなのか。

 問い掛けに、シンは漸く目を合わせてきた。

 笑っている。奥行きの解らない深く鮮やかな蒼が、僅かに細まって笑んでいる。

「壊すで終わるなら、今すぐにでも」

 ――随分な自信ね。…………え……待って。今、何て……。

 愚者を相手にする心持ちは、数秒で変化した。

 この男は、無知ではない。自信過剰な感は否めないとしても、間違いなく識っている。

 イヴェール自身でさえも僅かにしか識らない、この世界の理を。

「な。それほど莫迦じゃないだろ?」

 咒法師はまた笑った。この男は心を読む。そうとしか思えない言葉が多すぎる。

「やっぱり、貴方は恐い男」

「うん?」

「世界の主は、貴方を知ってるの?」

 得体の知れない力を伴った、博識の咒法師。底が見えない蒼い闇。それを主は見過ごしている。片鱗を見るだけでぞっとするその力は、過ぎたものだ。神の使徒を相手にしても、互角、あるいはそれ以上に戦うことが出来る可能性がある。

 主にとってはどうだろう。

 それを脅威とは呼ばないか。

「異端の生き物に目をくれてるほど暇じゃねぇんじゃねぇの?」

 それか、面倒くさがっているか。

 鼻で笑いながら、シンはベンチから立った。

 黒のコートに手を突っ込み、数歩前へ。足取りがご機嫌だ。

 褒めすぎただろうか。危惧し、また怪訝にも思い、眉を顰めた時、

「それでも俺が世界の敵だって言うんなら、とんだ失態だ、神様」

 振り返った異端者は、大胆に不敵に主の名を出し、嗤った。

 出所不明の無限に湧き出す彼の自信は、心強く思う以前に、恐怖だ。しかし、惹かれて止まない。

「どうする? これでもまだ、俺が手を出せば握り返すか?」

 こうして右手の指先がこちらを向いたのは何度目だろう。ポケットから出された手は、敵意など一つもなく視線と同じく真っ直ぐだ。

 心はざわざわと落ち着かない。歓喜にも似た恐怖。主に対する畏れは、もしかしたらこの地に堕ちた時にちぎれて大部分を失ってしまったのかもしれない。だからこうして相反する感情が震えている。そう解釈して納得しようとした。

「男が怖くないのか、って訊いたよね」

「フェイがな」

「あなたは訊かないの?」

「さっきおまえが自分で言ってたろ。恐い男、ってさ」

「貴方は恐いけど、男はどっちでもない」

 朧気な記憶では、思い出は語れない。付随してくる事柄は磨りガラスの向こうなのに、その時の感覚と感情だけが経過と結末を思い起こしてくる。

 映像や詳細を思い出せないのは、幸か不幸か。

 確かだと言えることは少ない。失ったものが多すぎる。失って、一度ばらけて、残ったピースを全て合わせて出来上がったのが、今の自分。

 イヴェールはゆっくりと手を伸ばす。

 始めから不完全だった絵を、手元に置いてくれる人が居た。

 時に引き裂き、穢していく人が居た。

 更に不完全になった絵に、居場所をくれる人が居る。

 それもこれも、

「私を傷付けるのが男なら、私に手を差し伸べてくれるのも男だったから」

 せめて温もりをくれた人のことを覚えていられたならよかったのに。それが少し悔しかった。

「女は?」

「莫迦ね。女が女の味方なわけないじゃない。自分以外の女は、全て敵よ。特に天隷はね」

 手を取る。引かれるままに立ち上がり、そのまま勢いに任せて抱きついた。

 シャツをはだけさせた胸、彼の素肌が頬に当たった。右手と違い傷のない肌は、また違った安堵がある。

 暖かい。ずっと埋もれていたいほど心地いい。

 背に回した腕でぎゅっと抱きしめた。応じるように両の腕が回ってきた。

「冷えきってるじゃねぇか。帰ろうぜ。俺、朝飯食いたい」

「もうちょっとだけ……」

「ったく」

 と言いながらも悪い気はしていないようだ。

 子どもにするように背中をさすられた。懐かしい。漠然とそう思った。かつて誰かにこんな風にして温もりを分けて貰っていたのだろうか。

 頬を寄せても拒まれないことに甘え、目を閉じて思い切り腕の中に浸った。

 全身がほどけていく感じがした。

 このまま眠ってしまいたい。

 このまま堕ちてしまいたい。

 もう一度、確かめるように回した腕に力を入れた。

 やはり、温もりが返ってきた。


    *


 イヴェールをあやしながら、シンは遠くの空を見ていた。

 目線の先には、空に同化するように飛ぶ、黒い翼の生き物の影が一つ。今はもう落ち着いてしまっている砂煙の跡の上空を、執拗にうろついていた。

 ――〝鴉〟が……。

 暗い空に獲物を探して這い回る、戮訃と呼ばれる神の先兵。光から最も遠く、主の寵愛からも外れた、人ならざる者の中で最も下位の存在。

 それが異変を嗅ぎ付けてやってきた。

 群れるのが好きな生き物が、珍しく単独だ。

 見つかっても問題はない。だが、頭痛を思い出したばかりの身体に、面倒事が過ぎるのは避けるべきだと判断した。

 日頃から潜めている気配を更に殺し、敵の動きに注視した。

 一定の半径で旋回すること数十秒。収穫はないと判断したらしく、戮訃はこちらとは反対方向の彼方へ飛び去っていった。

 ――久しぶりだな。こんな近くまで寄られるなんて。

 自分の悪目立ちはよく知っている。だからこそ上手く逃げ隠れ出来ていた。

 目立つと言えば、蝙蝠も同じだ。もし、そのついでに目を付けられたらいい迷惑だ。

 嫌な兆候は見過ごせない。だが、頭痛を理由に頭痛の種を撒いたままで置くのは、悪循環の発端を作るだけだ。

 機会を失う前に、自ら動くが吉か。

 生来怠惰な性格だが、トラブルは好んできた。今回の一件について腰が重いのは、知覚するより先に意識は知っていたからかも知れない。

 追い詰めるほどに、追い詰められる可能性を。

 避けているものに、自ら触れに行く羽目になることを。

 ちり、と右側頭部に痛覚を得た。悪いことを考えるなとでも言いたげなタイミングだ。

 数秒だけ目を伏せ、痛みを感覚から追いやった。

 ――酷くなったら、面倒だな……。

 煩わしいことがやってくるときは大挙するものなのか。

 鬱陶しい。

 舌打ちは心の中で。今は、傷付いた雌猫を温めることに神経を使うことにした。


    *


「何してたのさぁ、二人とも!」

 帰宅早々、フェイがハの字眉で飛んできた。

「いちゃついてた」

 と返せば、ムキになって体当たりしてきた。同時に、横から肘が入った。ダブルで、しかもどちらも急所に命中。腹を押さえて身体を折ればいいのか、肋を抱えて横に倒れればいいのか。どちらも選べず、奇妙な恰好で悶える羽目になった。

「ふ、二人とも、キツくね……?」

「嘘言うから」

「嘘じゃねぐふっ」

 照れ隠しにしては本気だ。同じ場所を二度も肘で強打してくるとは、流石に痛い。

 みぞおちに体当たりしてきたフェイは、仁王立ちして睨みを利かせている。何割かは今朝のパンの恨みがありそうだ。

 と、消し炭のようなものが突き出された。新手の嫌がらせかと思うも、そんなことはなく。フェイが摘んで見せつけてきたのは、停止した一匹の蝙蝠だ。

「どうした、これ」

「来たの、うちに! 一匹だったからどうにかなったけど、大変だったんだからな!」

 言われてみれば、争ったような跡が若干。フェイは無傷だが、部屋の中が被害を受けたらしい。一見何事もなかったかのような室内だが、床には始末しきれなかったと思しき何かの破片があり、また、家具の位置が変わっている。

 相当慌てただろうことは想像に難くない。

「よくやったな。褒めてやる」

「要らない。それより、これ、どうにかなんないの? 俺、そろそろ限界だよ」

「俺が褒めてやるなんて滅多にないのに」

「何でシンが残念そうな顔するのさ」

 折角気が向いたのに要らないって言われたから。

 横で、イヴェールが数秒前肺と肋骨に攻撃した腕を伸ばしていた。興味本位の指先が黒いガラクタに接触を果たしたとき、

「やっ」

 短い悲鳴が上がった次に、耳障りの悪い軋めきが起きた。

「あんなに頑張ったのに!」

「しぶといもんだ」

 イヴェールから拒絶され、フェイの手から取り落とされたそれは、醜い音と姿をして床すれすれを浮遊している。

 爪先で転がすと、ぎりぎりと嫌な音を立てながらまた起き上がる。

 そこにノイズが混じった。

「ザ、ザザ、だ……な所……ザザザ……てるぅ?」

 女の声だ。

 シンは目を細めた。

 先日と同じ女の声。それは聞けば顔まで浮かぶ声。

「聞こ、てるぅ? まぁだ、そんな所、ザザ、燻ってるのぉ?」

 その後に、ふ、が並ぶ笑い声と雑音が続いた。高い音と低い音。二つが混じって不快な騒音に変わった。

 引きつった場の中で、シンは口元を歪めた。

「悪趣味じゃねぇか、相変わらずよぉ」

 頭に過ぎった顔と一緒に、足元の黒を力任せに踏みつけた。踏みつけ、踏みにじる。殆どの負の感情を足に込めて、クズになったそれを床にすりつけるようにした。

 片付ける手間が増えたことは二の次だ。突沸した怒りを発散しなければ、また側頭部が痛み出したことだろう。

 身体に残った怒気吐息にして排熱した。僅かだが落ち着いた。

「誘われてる……みたいだけど……」

 イヴェールが不安を浮かべた顔を向けてきた。

 関わりのない、それこそ他人事の筈なのに、何故こんな表情をするのか疑問だった。

 フェイもそうだ。決断を求められている当事者でさえしない顔をしている。

 俺には解らない。思うのはそれだけだ。

 時期が来た。重い腰を上げるべき時が。だから立つ。それだけだ。

「いい加減頭来た。でも――」

 散らかった足元を跨ぎ、シンはソファへ。

「今日は飯食って寝る。今日が終わったら――」

 反転すると、落ちるようにクッションに腰を降ろした。

 二人は視線を寄越し、待っている。僅かに訝しげではあるが、気にしない。

 聞くまでもなく、彼らは答えを予想済みだろう。

 足を組み、口角を釣り上げた。

 だが、敢えて言おう。

「そしたら、奴に制裁をくれてやる」

 逃げるなど、有り得ないのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る