第5話

 答えは時に捜そうとも見つからない

 それは力量とは別の次元で

 隠れているのではなく隠されているから



 空は暗いが今は昼近く。

 仕入れたばかりの情報を小脇に抱えてフェイは飛ぶように走っていた。

 ネスジアで家を見つけて一週間。二階建て。部屋は四つ。割り振りは男が一階、女が二階となった。イヴェールの手の中から家財道具を出し、それを設置すると引っ越し作業は完了した。半日と掛からなかった。

 今では環境にも慣れ始め、鼻や喉の渇きに苛まれなくなっていた。始めの二、三日は、フェイとイヴェールの二人だけ渇きに苦しめられた。呼吸器が渇き、目が渇き、喉が渇き、肌が荒れてしまった。シン一人が涼しい顔をして、早く慣れろ、と肩を叩いてきた。

 環境には順応してきたが、二日に一回の割合で現れる蝙蝠の対処には頭を痛めていた。数は初めてネスジアに来たときが最大だったが、銃と簡単な体術以外の攻撃手段を持たないフェイにはかなりの脅威だった。細かいものにわらわら寄られると、どちらを向いて良いのかさえ解らなくなってしまう。人間に囲まれるのであればいくらでも打つ手はあったが、対小型機械用の技は持ち合わせていない。

 そして今朝、窓の外に一匹だけ浮遊している蝙蝠を見つけた。シンに同行して貰おうとまだ爆睡中だった彼を起こしに行ったのだが、寝惚けた彼に追い払われ仕方なく一人で追跡することにしたのだ。

 見つかって追われたらその時はその時。都合のいいときだけ出現させる神様にでも祈ればどうにかなるだろう、という軽い気持ちで行動を開始した。

 探索はおよそ一時間。一人の人物と出会い、一軒の家にたどり着いた。

 その時の収穫を早くシンに伝えたかった。今走っているのは追われているからではない。我が家で一番の博識に、真偽の程を問いたかったのだ。

 入り口の扉を蹴破るように開け、見渡す流れでシンの部屋に向かう。居間に居ないのなら居る場所はここだけだ。

 ノックもせずに、ドア全開。

「シン。入るよ…………よ。……えっと、それ、犯罪。多分」

 フェイはドアノブを掴んだまま、入り口で硬直した。

「騒がしいなぁ……」

 怠そうな声をして、むくりとシンが起き上がった。頭を掻きながらフェイを見た。

 微睡んでいたような重たそうな目を開けた彼の上半身は裸。下半身は知るところではない。これで全裸だったら訴えてやる。

 何故こうも突っかかるかというと、一人用には若干大きい彼のベッドに、もう一人分の膨らみがあったからだ。赤く長い髪が一房、ベッドの下に垂れ落ちていた。誰の物かなど、詮索するだけ莫迦らしい。

「何だよ、別にヤってる最中じゃねぇんだから来いよ」

 そういう問題ではない。朝イチで訪れたときには居なかったイヴェールが、小一時間家を空けたらシンの居るベッドの中に居たのだ。しかも、ベッドの持ち主は推定半裸と来ている。嫌でも想像力は豊かになる。

「何したの。連れ込んだの? 誘惑したの? 襲ったの?」

「全体的に俺が悪いんだな。なんでそうなる」

「だって、……シンだから」

「俺の存在を悪みたいに言うな」

「九割五分くらい当たってると思うよ」

 残りの五分は……間違いなく良くない物だ。

「で、真相は? 攫ったの?」

 問うたところ、シンはまた頭を掻いた。

「嫌な夢見たからって自分から潜り込んできたんだよ。大体、俺寝るときいつもこんなカッコなの知ってんじゃん」

 手を広げるシン。彼が言うとおり、上半身裸で寝るのはいつものことだ。時々着ている。

 イヴェールが小さく身動ぎした。まだ起きては居ないようだ。

 話は続ける。

「ホントにイヴェールから来たの? 彼女に限ってそんなことあるかなぁ」

 始めは男に触れられたと知っただけで取り乱していた彼女が、たった数日でこんなにも変わるものか。

「震えて泣きながら来たら、迎えてやるしかねぇだろ。そこで追い返すほど鬼畜じゃねぇよ」

「そこで追い返したら十割悪だね」

「だろう?」

 内側を向いて丸まっているイヴェールに目をやった。今はよく眠っている。

 シンも彼女を見ながら上掛けを掛け直していた。

「怖く、ないのかな……」

 率直な疑問だった。傷付けてきた性に、心を許せるものだろうか、と。

 どうだろう、と言ったシンは、でも、と続けた。

「散々な目に遭っただろうに、それでも一概に男が嫌いなんじゃないんだろうさ」

「そうなのかな?」

「有り得そうなのはいくつかあるから何とも言えないけどな。ま、嫌われてないんだ。いいじゃん」

「そこが不思議だよね」

「寂しがりなのかもよ? 誰かさんと一緒でな」

 いいながら、シンはベッドから降りた。枕元に置いてあったシャツを羽織るとフェイの方へ向かってきた。

「……それって、俺?」

「他に誰が居る」

 ニヤリと笑みを見せつけて、シンは脇を抜けて部屋を出ていった。

 言われたことを反芻する。間違っては居ない。だが、若干腹が立った。

 温もりを求めてか、イヴェールが上掛けを引き寄せた。まだ寝かせておこう。

 もう少し眺めていたい気持ちを抑え、後ろ歩きで静かにドアを閉めた。

 振り返って居間を見ると、シンがソファでふんぞり返り菓子パンを頬張っていた。

「あー! それ、俺の朝飯!」

 言ったときには最後の一口。

「なに?」

「……もういい」

 どんな大口で食べればこの僅かな時間で未開封の菓子パン一個を完食できるというのか。

 悪態を付いて騒ぎたいところだったが、そこは我慢。パンはまた買ってくればいい。お金はシンからむしり取ればいい。

 ふんぞり返って菓子パンの袋をテーブルに投げ捨てたシンは、上着は本当に羽織っただけで日焼けとは無縁の肌を遠慮無しにはだけている。みっともない以前に、コートを着ないと外で凍えてしまうこの気温の中、寒くないのか。

「で、朝っぱらから何か用?」

 既に昼近くだと言うことはさておき、用事があったことを汲んでくれたのは助かる。

 フェイはシンの向かいに座り、身を乗り出した。

「今朝ね、ウチの外に一匹だけ蝙蝠見かけて、逃げてくから後追ってみたんだ。そしたらさ、その蝙蝠、何処に向かったと思う?」

「勿体ぶるなよ」

「あの目つき悪い使神が住んでると思しき家!」

「思しき?」

「正確には家に入ろうとしてるあのでっかい奴に会ったんだけど」

「えーと、ユンとかいう奴?」

「そうそう。で、シンは昨日、目つき悪い奴と蝙蝠は関係ないって言ってたけど、やっぱりなんかあるんじゃないかな」

 具体的に何かが思い当たるわけではない。だが、繋げようとしなくても繋がっていく点と点が気にならずは居られない。

「なんか、ねぇ。ブラックマーケットでも開いて蝙蝠売りさばいてるとか?」

「や、そこまで知らないよ」

「それより、ユンと話したりした? 俺はそっちの方が気になるけどな」

「んー。挨拶程度には。でも、あいつは悪い感じしなかったよ? それに、人間だろ?」

 返答はすぐに来なかった。シンは席を立つと、自分のカップにだけインスタントコーヒーを入れ、ポットの中の冷め始めた湯を入れた。

 一口啜り、湯加減が丁度良かったのか、二口ほど一気に飲んだ。

「さあて。どうかな」

「どうかな、って。シンこそ勿体ぶらないでよ」

 勿体ぶったままシンはまたソファに戻ってきた。

「あいつらはその気じゃなくても、先方には用事があるのかも知れないぜ?」

 仮定形で喋っているのに、断言しているようにしか聞こえない。ソファに偉そうに座っている家主は、隠し事がお好きのようだ。

 フェイは眉根を詰め、シンを睨んだ。

「シンさ……何でも一人で解ってて、ズルイよ」

 睨まれてもシンは特に動かない。が、一息ついた後、若干眉尻を落とした。

「俺だって、何でも解ってる訳じゃねぇよ。知ってることをおまえに言わないのは、言いたくない、めんどくさい、時期が悪い、このどれかだから」

 珍しい表情に気を取られていたが、三分の二はものぐさであると言っている。

 スルーしかけて口を開こうとしたときには、シンの表情はいつもの余裕を湛えた笑みに戻っていた。そして、カップを逆さまに傾けている。全て飲みきってしまったようだ。

「時期が来たら、ちゃんと教えてくれるんだよな」

「その時になったらな」

「あと、めんどくさがるなよ」

「ヤダ。めんどくさい」

「この……」

 拳まで作った所で、シンが立ち上がった。カップはテーブルの上。パンの袋も放ったまま。

 目尻に涙を溜めてあくびをしながら背伸びをすると、彼は歩き出した。

「でも、俺も気になるから、調べといてやるよ。だから、今度は見かけても追っかけんなよ。またウチにわんさか連れて来られても迷惑だから、俺が」

 あからさまに根に持っていると言ったシンは、コート掛けから自分の真っ黒なコートを取ると、華麗に羽織って玄関へ向かった。

「ね、何処行くの?」

「散歩」

 シャツのボタンも留めていない半ば露出狂のような恰好で散歩に行くとは。偶にやっていることとは言え、未だにその神経が知れない。

「俺は朝飯どうすればいいのさ」

「テキトーに食えば?」

「俺のパン食っておいてそういうこと言う? その魔法の右手から何か出てこないの?」

「蒼いバチバチなら喰わせてやってもいいぜ?」

「頭すっ飛ぶし」

 結論は食い逃げだ。今度は買ってきたら真っ先に何処かに隠すとしよう。

 肩を落としている間に、シンはひらひらと手を振って表へ出ていってしまった。

 閉まる扉をうろんな気分で眺めながら、冷蔵庫の中を思い返していた。

 卵。ソーセージ。チーズ。キャベツが四分の一ほど。後は主に飲み物と調味料ばかりだ。あとは肉の缶詰や野菜の水煮缶が数個。どれも単品では食事にならない。

 マフィンでも買っておけば良かった。

 そもそも料理の心得が殆ど無いフェイである。これらの食材で料理など到底無理だった。

 残る食料は飴かナッツ。

「うー」

 短く唸り、ソファに横になった。今から料理スキルを身につけようとしても、今日のブランチには到底間に合わない。長い目で見るならば別の話だが、今そこにある危機の回避が最優先に違いない。

 空腹を忘れるには寝るか菓子に手を出すか。

 寝転がったままテーブル上に置いてあるガラス製の器から飴玉を一つ取った。果物の味が何種類か入っているアソートキャンディを器にあけたものから選び取ったのは、レモン味。目を覚ませとでも言いたいのか。

 イヴェールが起きてくるまで口寂しさだけでも誤魔化しておくことにした。

 悪夢に魘されていた姫が起きるのはいつの事やら。


   *


 シンは空中に居た。

 下から見上げても、黒い空に紛れてしまって誰もその姿を確認出来ない。だが、逆に見下ろす分にはかなり眺めが良かった。

 個性のない建物が鮨詰めになって置かれている。

 見えない椅子に座っているように空中に静止し、足を組んで街中視察。ついでに腕も組んでいる。

 風速はほぼゼロなので、バランスを崩す心配もない。黒いコートも、ボタンを留めていないシャツも揺られることなく垂れている。

 表情には薄い笑みがある。だが、いつもの軽い、自信を湛えたものではない。

 それは嗤笑に近い。

 侮蔑の色さえ含んだ、余り人に見せない顔であった。

 眺めるついでに捜しているものがあった。一つは蝙蝠。もう一つは捜すという程ではなかったが、クロードの影が見えないかと思っていた。

「変わらないな。ネスジアも。……は。変わったらそれこそ一大事か」

 蒼い瞳は舐め回すように地上を眺め下ろす。それはある種卑猥な動きで、この大地を陵辱するような粘質を持っていた。

 こんな大地、嘲笑するに相応しい。貧しさが際だち、支配者は見放し、戮訃が統率者を気取る大地。人間と、ごく少数の人ならざる者達が住まう場所。彼らは見捨てられた者達。

 彼らは留まるしかない。

 だが、自分は違う。大地に縛り付けられることはない。いつでも神様よろしくこの土地を見捨てることが出来る。

 と、目の動きが止まった。同時に口角が上がる。

「陰湿で、土臭い……。お似合いじゃないか。……堕天使ちゃん」

 通常なら人の姿など捉えられようはずもない高度から、シンは確実に一人の人間を捉えていた。

 不機嫌に卑屈になって歩く金髪の男。きっと今日も目の下に酷い隈を連れていることだろう。

 シンは組んだ足を解くと、目標に向かって降下した。急降下ではない。落下傘で降下するよりも少し早い程度だ。

 気配を完全に消して、微風さえ起こすことなく彼の背後に回る。

「赤目のお兄さん。偶然だね」

 地に足を着けず空に居た時と同じ椅子に座った格好になって、気付かずに歩き去ろうとするクロードの背に声を掛けた。

 突然の声に驚き、クロードは顔色を変えて振り返った。右手が中途半端に構えられていたが、それはすぐに収められる。

 腕こそ捻らなかったが、先日受けた以上の不意打ちを仕返しとして食らわせてやったことにシンは満足して笑んだ。

「赤目のお兄さん、何処かに用事?」

「……クロードだ」

 呼び名と未だ宙に浮いたままのシンを忌々しそうに眺めやりながら、クロードは仕方なさそうに名乗った。前回、既に互いの名前は認識していたが、敢えて名乗らせた。互いに自己紹介をしたわけではない。かといって自分は名乗らない。

 クロードはもう一度、シンと大地との隙間を見やって目を細めた。

「咒法師に用はない。それに、寄るなと言ったはずだが」

「あの辺に寄るなって言われただけだし? あんたの近くに寄るなとは聞いてなかったもんでね」

「揚げ足取りは余所でやれ。しかもその怠惰な恰好、どうにかしたらどうだ」

 怠惰な恰好、と言われ、コートとシャツを一緒に摘んで広げてみた。一瞬でクロードが眼を細めた。相手にしていられないという風に首を振って、彼は踵を返した。

 逃がすものかとシンはすかさずクロードの前にまわる。勿論、地に足は着けずに。

 通り道を瞬時に塞がれ、やや仰け反りながらもクロードは足を止めた。

「退け。目障りだ。道を塞ぐな。失せろ」

「あのさ。俺んトコのチビが、あんたの家に蝙蝠が入ってくのを見かけたらしいんだけど、それってホント?」

 畳み掛けられた拒絶は全て受け流し、自分の会話だけを進めた。表情には一見好意的な笑顔。だが、目の前の男は表面に騙されてはいないようだ。そこに微塵の好意もないことを見て取って、さも不愉快そうに眉を顰めた。

「だったら何だ?」

 演技できるほど器用な男とは思えない。純粋に訝しく、迷惑で、不快に思っているだけの表情だ。

 実に分かり易い。

 モノクルの下にある赤い目が、ことあるごとに細くなっては睨むように見上げてくる。

「アレがあんたのモンなら、あんたは未だに悪徳野郎の回し者で蝙蝠使って俺達に嫌がらせしてるってコトになる」

「悪徳野郎とは誰のことを指しているのかは敢えて訊かないでおこう。それに、貴様が初対面だというのなら、こちらにはそんなことをする理由があるはず無いだろう」

「だよなぁ」

 フェイはああ言っていたが、シンは最初からクロードが実行犯とは思っていない。見透かされると知って、首を捻って困った仕草を見せる。それを見たクロードは訝しげに眉根を詰めた。

 ことあるごとに赤い目がすっと細くなるのは見ていて楽しかった。思ったタイミングで思い通りの反応をする。動作が一々あからさまで、それで居て莫迦が付くほど正直だ。

 弄るのにこんなに面白い素材はない。



 眼前の咒法師に抱く感情は不快だけであった。特にこれと言った用事があるわけでもないのに、執拗に絡んでくる。生意気な蒼い目を見ているだけでも胸がむかついてくるのに、その上出口の見えない会話に巻き込まれて未だに抜け出せない。

「そっか。あんたが知らないとなると、あの蝙蝠、何なんだろうなぁ……。あいつの所為で街中でドンパチやるハメになったしさぁ。メンドくせぇったら」

「貴様の言い回しだと、随分蝙蝠の相手をしているようだな」

「俺んトコのチビが大量に引き連れて来ちまってさ、その所為で夜逃げまでしたんだぜ?」

 夜逃げ?

 その単語にクロードは引っかかりを覚えた。そして、以前から蝙蝠に追われているという話も引っ掛かった。何故なら、クロードには蝙蝠に関わる事件など聞いたことがなかったからだ。この男がそんなものを相手にしたらきっと静かに事は済まさない。そんな先入観も手伝って、ますます怪訝な顔をした。

 引っかかることが多すぎる。

 何故蝙蝠に狙われる。

 何故昨日までこの咒法師の影も形も見なかった。

 何故この咒法師は絡んでくる。

 何処から夜逃げした……?

 いくつかの疑問を繋ぎ合わせた所、ふと尋ねてみたくなったことがあった。常人に聞くならあまりにバカげた質問だったが、シンが通常の人間と違うからこそ思い付いた質問だった。

「……貴様、ずっとネスジアか?」

「いいや。あの時、アルクァから来たばっかり」

 シンはケロッと答える。

「移動したというのか!?」

「だって俺、あんたも認める咒法師だもん。その位は軽いって」

 ある程度予想済みだったとはいえ、それでもクロードは驚いた。

 この世界では引っ越しということ自体が非常識だ。一度住み着いたら死ぬまでそこにいる。それが多くの人が取る選択であり、また、それ以外に選択肢は無いというのがある。

 そして、動くことに意味はない。何処へ行っても環境が変わることはない上に、人々は、一つの土地の名しか知らないのだ。世界の主に仕える者か、限られたごく少数の例外しか、自らが生まれた土地以外の場所も名も知らない。

 だから、アルクァに生きる者がネスジアの名を知らないようなことが当たり前なのだ。

 その当たり前が、すぐ目の前で覆っている。

 ――咒法師は、何処まで出来るんだ……。

 目を剥きそうになっている正面で、シンは得意げに足と腕を組んだ。

「で、俺、向こうでもここでもマークされてるみたいだし、あんたは俺を誰かと勘違いしてるみたいだし。だからもしかしたらあんたかな、とかいう予想をチビ君が立てたんだが」

「違うと判って貴様は来たんだろう」

 へへへ、と笑うシンをクロードは不愉快色の眼差しで見据える。

 どうひっくり返ってもこの状況は面白くない。

 長話をするつもりは毛頭無かったはずが、いつの間にか立ち止まって随分になることに気付いた。未だにシンは宙に浮いて足を組んでいる。咒法師と相対していることを思い知らされる状態が何より癪に障った。

「貴様。いい加減立ったらどうだ。そういう恰好で居られると、異常なまでに腹が立つ」

「え、嫌? しょうがないなぁ。……よっと」

 術を解き、シンは漸く足を地に着けた。

 改めて同じ形態で向かい合った二人だが、シンの方が身長が高い。どのみちシンを目の前にすれば苛つく運命だったのだと、クロードは無理に諦めることにした。

「ちゃんと立ったけど、何か話聞かせてくれるわけ?」

「……何に付けても一々ムカツク男だな、貴様は」

「最上の褒め言葉だね。嬉しーっ!」

「挙げ句、天の邪鬼ときた」

 まともに相手にしようとしたのが間違いだったか。内心で反省と後悔しきりのクロードを前に、シンは楽しそうだ。クロードとは対照的にシンは終始楽しんでいる。

 このままはぐらかして立ち去ろうかと思ったが、ここまで来てシンがそれを許すわけもない。クロードは渋々口を開くことにした。

「貴様のトコのガキが見たという蝙蝠だが」

「あ、別に俺のガキじゃないから。拾ってやって一緒に住んでるだけでそんなに年離れてないし」

「誰もそんなことは問題にしてないだろうが」

「悪い悪い。話の腰折るの好きでさ。ま、続けて続けて」

 悪気ゼロの笑顔でそんなことを言われても、気が殺がれるだけだ。

 だが、引き際のチャンスを既に無くしているクロードは、そのまま話す以外に選択肢が無い。

「……あの蝙蝠に軽く襲撃されてな。無論、即行で破壊してやったが。同居人の……」

「ユン、ってヤツ?」

「……そうだ。そいつが後を付けられたのか連れてきてな」

「へぇ。お宅も蝙蝠に狙われてんのね?」

「貴様と違って今日が初めてだ。まったく、貴様に会ってからロクなコトがない」

「そりゃどーも。疫病神とでも呼んでくれ」

「そうさせて貰う」

 それを受けて、シンは一つ頭を捻ると、わざと真面目腐った顔をした。

「……至高神と呼びたまえ」

「断る」

 クロードの即答にシンは拗ねてみせる。

「何だよ。一々意見変えやがって。呼べっつって頷くなら、いつでも同じ回答にしろよ」

「都合主義なんだ」

「へぇ。奇遇。俺もご都合主義」

「……」

 だんだん会話が不毛なものになりつつある。脱線せずに会話が出来ない相手にまともに向かっていっても埒があかない。

 かわすにもはぐらかすにも、相手の方が何枚も上手だ。

 最早、無益だ。不愉快さが募るだけで、この男を喜ばすだけだ。クロードはやはり立ち止まったことを後悔した。

 とはいえ、収穫がないわけではない。上がった成果は、互いにどういうわけか蝙蝠に襲撃されているということ。役にも立たないが、絡まれる理由を知るには充分か。クロードは決めつけて嘆息した。

 どういう経緯でこんな話になったのかクロードにはもう思い出せなかった。シンの暇潰しに付き合わされた気がして、余計に腹が立った。

「もう用はないな?」

「ああ。俺はないけど、別のお客さんが来てるみたいだぜ?」

「なに?」

 クロードは言われて初めて気付いたが、正面を向いたその先、シンの背の方に黒い影が見え始めていた。

「飽きねぇな。一体どっちに用だろ」

 振り返りもせずに言うとシンは首を傾げた。

「量から見て貴様じゃないのか?」

「や。あんたのトコは今朝一匹だけだったんだろ? 数を揃えて出直してきたのかも知れないぜ?」

「どちらにしろ迷惑な話だ」

 数は多いが脅威はたかが知れている。相手の力量に対する感覚として、シンとそれほど変わらないと推測。

 問題は、場所、そしてこの咒法師。無意識のうちに、右手は拳に変わっていた。

「あんた、戦える?」

 不意に蒼の目がクロードを覗き込んだ。

 真っ直ぐすぎる視線に、クロードは反射的に目を逸らした。蒼を見ると、また右目が疼くような気がした。

 誘われるように僅かに右手を動かしたクロードだったが、躊躇いがちに拳を作り引っ込めてしまった。

「いや……」

 シンの中で何らかの計算があったことは確かだ。

 言及はなかった。そ、と相槌を打つと、シンは漸く向かってくる敵襲の方に前を向けた。

 楽しそうなのは変わらずだったが、そこには僅かに飽きが見え隠れしていた。どうせなら多少苦戦する方が面白い。しかも毎度同じものが相手では第一から見飽きる。身体を反転させる挙動がそう言いたげであった。

 しかし、実際は違った。

「俺、あんたなら何があっても戦うって言うと思ったんだけどな」

 目は蝙蝠から逸らさずに、シンは背で庇っているクロードに言った。

 思っても見ない言葉に、黒い後ろ姿を凝視した。

「何故だ」

「咒法師を憎んでるから・・・・・・さ」

 嫌っているのではなく、憎んでいる。選び取られた言葉に、疼きを感じた。

 手を拳にして隠した時点で、憎む存在である男の手を借りる選択をしたのと同じだった。解っていて、手を出さなかった。

 憎んでいる咒法師の手を借りて生きながらえるのなら、果てる覚悟でも戦う……。

 そんな覚悟は……持っていなかった、らしい。

「あんたはどうやら、現実に負けてるみたいだな」

 ずきり。また疼く。

「でも、それって何にも勝ってないぜ? 選んだつもりで、何も守れてない。違うか?」

 一体この男は何処まで見透かしてしまっているのか。

 目の前の敵よりも、すぐ前に居る男に恐怖を感じた。

 まだ顔を合わせたのは二回。それなのに、弱い部分を皆シンに持って行かれてしまった気がする。これでは、なけなしのプライドで虚勢を張っているようにしか見えないではないか。

 選んだ。確かに選んだつもりだった。

 現実かプライドか。どちらかに負けなくてはいけない。生きていくためにはその選択が必要だった。

 けれど、たとえどちらに負けるとしても、負けるということに負けていた。

 その結果、どちらも中途半端に残り、どちらにも完敗していた。

 シンは現実に負けているという。そうかも知れない。現実に甘んじ、プライドで生きていたような自分が、今は実際に戦うことを放棄して咒法師にその先を任せている。

 覚悟もなく、決意もそぞろ。どっちつかずで一貫性もなく、捻くれた矜持が背骨を丸めさせているだけ。

「あんたは、孤独になるより、何があっても生きてたいんだな。そうじゃなきゃ、俺なんか押しのけて戦ってるだろ」

「貴様。一体何処まで解っている」

「何も解ってないさ。あんたのことなんか。けど、右の拳を握った時点で、あんたは現実に負けたんだ。自尊心を捨てたんだ。少なくても今は、そうだろう?」

 心臓が掴み出したいほどに強く疼いて、胸に手をやりそうだった。だが堪える。代わりにクロードは右手を強く握る。

 対照的にシンは右手を開く。やってくる黒い大群に向け、次も確実な勝利への一撃を放つために。

 シンの手の回りに静電気が帯び始めた。手の平中心に、蒼の光が集まる。シンの瞳より鮮やかな蒼。空気に触れている肌がちりちりと痛む。

「何度だって消し炭にしてやる! 今度は花火も付けてやるよ!」

 嬉々として叫び、シンは電気を帯びた一撃を群れる黒に向かって軽快に放った。

 密集してやってきたために、攻撃が当たったのはごく一部であったが、その場所から連鎖的に通電して、たちまち軽い音を立てながら地面に落ちていった。同時にショートした時の火花も散って、その一帯だけ花火大会のようになった。

 綺麗綺麗と悠長に眺めているのはシンだけで、脇に居るクロードは勿論、通りがかったり音を聞きつけた者達は、仰天の形相で黒いゴミが騒がしく地に落ちるのを見ていた。

 蒼い稲妻。

 咒法師の放つ電流。

 それ、過電圧。

「……ついでに、もう一つ訊きたいことがある」

「ん? なーに?」

「貴様、数週間前のネスジアでの大停電に、まさか荷担してないだろうな」

 未だに炸裂の連鎖が収まりきらない中、シンの背中に疑問を投げた。

「停電?」

 勝負は既に決している。シンは手を下ろすとくるりと振り返り、首をせわしなく傾げながら記憶を検索し始めた。暫くして、左右にぶれていた頭が、今度は上下に動き出した。

「ああ。あれかな。そっか、停電したのか」

「肯定するんだな?」

「アルクァで派手にやっちゃったときなら、俺の所為」

「他にどれだけ暴れたか知らんが、出来るのは貴様ぐらいのものだろう」

「まあね」

「貴様!」

 クロードはシンの襟に掴みかかったが、感電の痛みを覚えて弾かれるように手を放した。先程の咒法のために、シンまで少し帯電しているようだ。

 思わぬトラップに次の言葉を失いかけたが、クロードは改めて赫怒した。

「あの停電と大電流の所為でどれだけ被害被ったか、貴様、知るわけないだろうな!」

「あー……。その怒り方だと、何かスゲェ被害あったみたいね。俺の知らないトコで」

「貴様の想像も付かないくらいの被害がそこかしこでな。生活の糧の九割は飛んだ。どうしてくれる」

「お宅、サイバーテロリスト?」

「流れの意味が解らん」

 ははは、とシンは笑っている。笑い事で済む話じゃないと思ったのを皮切りに、様々な罵詈雑言がクロードの内心に蠢いた。口にはしない。会話をけしかければ不毛になるだけなのは先程思い知った。同じ轍は踏むまい。

 一通り笑ったシンは、まあ……、と続きを口にした。

「世界の支柱を崩そうとかいうテロ計画を邪魔したんだったら謝らないとな」

「……?」

 何故その条件に限って謝るというのか。

 意味深に聞こえ、クロードは小首を傾げた。

「改めて訊くが、貴様、何処まで解っている? そして貴様、何者だ?」

「俺はなーんにも解ってないし、俺はあんたが嫌いな咒法師。そんだけ。解っているなけなしの情報を披露するなら、あんたはとっても中途半端だ」

 飛べない鳥の次は中途半端ときたか。

 自嘲気味に笑むまでもなく、クロードはシンを睨んだ。

「貴様は、嫌味なヤツだな」

 同時に、飄々として生きることについて気楽そうなシンが、僅かだが羨ましくもあった。そんなことは口を割かれても言えない。表情にも出ないように抑え込んだ。

 憎んでいる相手を羨望するなど。みっともない。情けない。赦せない。

 気持ちの整理が上手く行かず、クロードは右手を強く握った。

 シンの背後では、山積みになった蝙蝠の残骸が、ぷすぷすと煙を上げている。

 その周りには多少人だかりができはじめていた。見慣れない物体がしかも山となって落ちていることに、怖いもの見たさの心理が働いているようだ。皆一様に眉根を詰めておぞましいものを見るような目をしているが、付かず離れずの所で視線を行ったり来たりさせている。

 と、何の前触れもなくシンが右手人差し指を立てて、顔の高さに上げた。シンは残骸には背を向けたまま、指先だけが後ろを見る。

 何をするのかとクロードがシンの指先を見ると、その指が関節の作りに添ってお辞儀をした。そして再び指が立てられたとき、指先に黒い固まりが一つ浮いていた。壊れた蝙蝠だ。

 シンは元から黒い黒こげになった蝙蝠を右手に掴むと、まじまじと観察を始めた。

 行動の意図が分からないクロードは、シンの手元に注視するだけだ。

「やっぱりだな」

「何がだ」

 クロードからはシンが蝙蝠の何を見てるのかまでは解らない。矜持故に覗き込むわけにもいかず、質問だけをぶつけた。

 質問に応じたシンは蝙蝠を見せつけてきた。

「これ、純正の蝙蝠じゃない。誰かが模造品を作って大量に放ってるんだ。見てみろよ。羽根と目玉」

 そんな莫迦な。訝しげな顔をしてクロードは示された蝙蝠を見た。彼はオリジナルを知っている。これが本当に偽物であるのなら、なぜそんなことが起きているのかということよりも、何故シンがオリジナルを知っているかの方が疑問だ。適当に言っているにしては、判断が速いし具体的だ。

 じっと見るまでもなく、ひらひらと動く羽根のような部分の形、胴の部分のフォルムが微妙に違うことが分かった。そして、大きな目の端にあるはずの睫毛のつもりのような線がない。

 成る程、これは偽造品だ。

 クロードが納得した所で、シンは手にしていた蝙蝠を握り潰した。それは鉄くずとはならず、それ以下の砂のように細かくなって散っていった。

「第一、蝙蝠があんなに群れを成すなんて有り得ないんだからな。ここに来て初っぱなに来たヤツも見たけど、それも模造品だったぜ」

「だが、それがアルクァにもネスジアにも来たとなると、ここが本拠地とも言えないな」

「お。ちょっとやる気?」

 知らずとペースに乗せられやる気を起こし始めていたことに、クロード自身が驚いていた。この男と居ると何かにつけて調子を狂わされる。

「貴様の損害には興味ないが、こっちがとばっちり喰らってるとしたらそうも言ってられないんでな」

「じゃあ、ちょっと捜してみる? どーせあんた、暇だろ?」

「貴様と付き合うのはまっぴらだ。遠慮させて貰う」

「あらそう。暇は否定しないんだな。それに、折角会話も進むようになったと思ったんだけど」

「それは貴様の勝手な思い込みだ。それより、あの残骸をどうにか始末したらどうだ」

「はいはい」

 片づけを命じられた子供のように、渋々といった風をしてシンは黒い山に向かった。

 野次馬はあれからますます増えていた。

 人間というのは……。

 クロードは静かに胸を黒く染めた。

 愚かで無知で無力であっという間に死んでしまう。哀れとしか言い様のない生き物。

 その生き物の中に埋もれて息を潜めていることに、しばしば発作的な苛立ちを感じるようになっていた。ユンにも話していない、破壊的な衝動。苛立つくらいなら、いっそ壊してしまえばいいという、それこそ愚かで短絡的な発作だった。

 努力して抑えた。

 咒法師の本性は正直よく知らないが、断片的に見ただけでも相当の力を持っている。この男だけが桁外れ、と言うことも考え得る。どちらにしろ、それを見ていて思うことはあった。

 何故、苛立ちもせず、この境遇に甘んじながら生きることを楽しめるのか、と。



 背後に視線を感じながら、シンは人を掻き分け始めた。

「はいはいちょっと退いてくださいね。このゴミ片付けろって煩い人が居るモンだから」

 シンの姿を見た人々は、人を分ける彼の手に触れる前に道を空ける。殆ど自動で道が出来上がった。

 苦労せずに、シンは残骸の前に立った。人々は数歩下がっただけで、立ち去ろうとする者は居なかった。服の前面を開け放した得体の知れない青年が何をするのかに興味があるようだった。

 シンはゴミに向けて右手を翳すと、そこに着火した。

 どよめきが起こり、人々はまた数歩下がる。だが立ち去ることはない。

 ――離れろって言ってんのに、火の粉飛んでも知らねぇからな。

 その他大勢なんてどうにでもなれとばかりに、炎を生んだ手をひと薙ぎした。

 火はすぐに全体に周り、瞬く間に火柱に姿を変えた。

 払った腕を組み、炎を前に仁王立ちした。

 温いという感覚は既に通り過ぎ、顔が熱い。周りの人々も同じらしく、腕で顔を覆いながらじりじりと後退していく。どうせ後になって少なからず何かぼやいて立ち去るのだから、火の粉が飛ぶ前に家に帰ればいいのに。人々の行動はシンの思いとは裏腹だ。

「バーベキューの用意があれば最高だったんだけどな」

 でも、臭いが付いて不味くなるか。よそう。

 組んでいた腕を解くと、今度は下から上へ右手を払った。そこにあったゴミと炎は手の動きに合わせて一瞬で消え去った。

 酸素を消費する火は無くなったというのに、周りは息を呑んだままだ。

 ここは真空か。

「お騒がせしました。どーも」

 仕事を終えたシンは回れ右をして歩き出した。一度は塞がれた通り道が、再び出来上がり、また閉じていった。

 大仕掛けの手品を見せられたような気分になっていた観衆は、道は空けたものの暫くの間黙っていた。

 だが、ある程度シンが離れふと熱が冷めた人々は、声を潜めてシンに流し目を送り始めた。

 咒法師? そうだ、咒法師だよあいつ。近寄らない方が身のためだぜ。

 どんなに声を潜めようとも、彼らの声は耳に良く届いた。

 いつものことだ。陰口は叩いても、石一つ投げることもなく人々は冷視だけを送るだけ。

 そんな中で、一人だけ違う表情をしている男が居た。赤い目を細め、静観している使神が。



 クロードにも群衆のざわめきは聞こえていた。好きなことを言って、それで居て恐れている。勝手だ。そして、改めて自分が相対していたものが何だったのかを思った。

 黒で身を固めた男は、クロードの目の前に戻ってくると自虐とも取れる笑みをした。

「解ったろ? 訊く前からあんたも知ってるはずだ。俺は、こういう存在」

 忌まれ、遠ざけられる、そういう存在。それは問うまでもなく、いわば世界の常識。

 クロードは、そうだな、とは言わなかった。浮かんできた色々を押し留めて殺した。

 と、肌に嫌な感覚を覚えた。

 人の視線だ。

 一騒動起こした咒法師と会話しているとなれば無理もないか。

 しかし、自分も人間から見たら異分子。瞳はともかく、金の髪は嫌でも目立つ。人の目に付くことは望まない。

「気になる?」

 問い掛けに、クロードは首を傾げ、何が、と目で問い返す。

「人の目。気になるんだろ?」

「解ってるなら消えろ。そもそも貴様の――」

「俺の所為なんだろ。はいはい。みんな誰かの所為。そうすりゃ楽だもんな、多少」

 言われ、また右手を拳にしていた。力を放つのを、理性で必死に押さえつけた。冷静になろうとすればするほど頭に血が上る気がした。

 その様をまた見られ。悪循環。

「俺の言葉が一々障るんなら、あんたも同じ事思ってるって事だろ。いいじゃん。それだけあんたは考えてんだ」

「黙れ」

 他に言える言葉がない。事実を告げてくる口を閉ざす言葉がない。

 自動的に頭の中で繰り返されるシンの声の後ろに、聞き取れない人々の囁きが重なった。全てが自分を詰っているように聞こえる。わんわんと響いて、被害妄想は強くなる一方だ。

「眉間、皺寄ってる」

 嗤われた。そう思ったのは一瞬のことだった。

 真っ直ぐ捉えれば、彼はただ笑っているだけだった。しょっちゅう現れる安い笑みだ。不思議と嫌味がない。

 少しだけ、ユンが笑うのに似ていると思った。

「ま、虐めんのはこれくらいにしといてやるよ。泣かれたら面倒だからな」

「誰が……」

 前言撤回。あの笑みは、瞬く間に口元へ悪意が宿していった。

 咳払いを一つ。

「とにかく、やりたいことがあるのなら貴様一人でやれ。巻き込まれるのはゴメンだ」

「俺は巻き込まれオッケーな人だけど、そっちがそれじゃ仕方ない。それじゃあごきげんようさようなら」

 後半部分は既に棒読みだった。

 まだざわめき収まらぬ中、シンは手を振りながら黒い空に向かって飛んでいった。

 すぐさま彼の姿は空に溶け入るように消え失せ、地上からは確認不能となる。

 問題の咒法師が居なくなったことで、人々は一斉に散っていった。次々に視線が離れていく。秒単位で全身が緩んでいった。それだけ緊張していたことを、今になって知った。

 汗の滲んだ手を、両方ともコートのポケットの中に突っ込んだ。

 胃の奥から吐き出すは溜め息。悪態はまだ奥にある。出てくるのは、家に帰ってからになりそうだ。

 人々に少し遅れてクロードも元来た道を引き返した。一体何のために外に出たかなど、既に忘れてしまっていた。忘れるくらいの用事だ。どうせ大したことではない。

 つい数分前のことにも興味を無くした人々の横をそしらぬ顔ですれ違い、慣れた道を自宅へと歩いた。

 帰ったら、いつもの苦いコーヒーを淹れさせよう。

「……」

 思考停止には訳がある。

「豆を、買いに来たんだったか……」

 充分に重要な用事だった。よりによってこの用事が頭から抜けてしまうとは。

 直帰という選択肢はない。

 Uターンはしない。あたかもそこから向かったかのように回り道をして、行きつけの店に向かうため、元居た方角を目指した。


   *


 帰りの途中、シンは右側頭部に鋭い痛みを覚えた。何かに突き刺されるようにキリキリともじんじんともつかない痛みが続く。

 痛む所を手の平で押さえるが、どうにも治まってくれない。

 空中で一度止まると、瞼を軽く閉じて深く息をした。

 脈と一緒に疼痛が来る。目を閉じた所為で痛みの輪郭が際だった。

 ――偏頭痛なんて、久しぶりだな。

 大分昔、いつの頃だったか覚えていないような頃に、随分と偏頭痛に悩まされた記憶があった。右だか左だか、とにかく一旦起きるとなかなか治まらず、断続的にその鋭い痛みは続いたものだった。薬を浴びる程飲んでも効果はなく、回復は時間に任せるしかなかった。

 フェイを拾った頃からフェードアウトしていってそれきりだった。

 それが今になって蘇ってきた。引き金はなんだか知らないが、迷惑以外の何物でもない。

 女を拾い、あるべき姿を失った男二人に出会った。それだけだ。

 得ただけで、何も失っていない。それなのに、いつかの荒涼とした過去の断片を呼び起こす疼痛がする。幻痛ではない。

 また何か起きなければいいが。嫌な兆候だ。珍しく胸の中が曇った。らしくない、と頭を振って、暫し休息。

 暫く耐えていると、痛みは鎮まった。

 また鎮痛剤漬けの日々に戻るのだろうか。

「それは勘弁して欲しいぜ……」

 嫌な予感は引きずったままに、自宅への飛行を再開した。

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