Zero Close

タカツキユウト

第1話

 全てのことは

 奇妙な何かの巡り合わせ

 世界はそうやって造られる



 眼前が黒く覆われた。

 何度目だろう。彼女はぼんやり考えていた。

 裏路地。固く、汚れ、空気が重い。

 闇。

 作り出すのは、男。

 今回は、三人の男。茶色の髪。茶の瞳。ただの人間達。この世界で、最も非力な生き物達。

 その生き物に、今、陵辱されそうになっている。

 道を歩いていたらあっという間に人気も人目もないこの場所に連れ込まれていた。上げようとした声は塞がれて、誰かに知らせる機会はなくなった。こんな暗闇に好き好んでやってきてくれる人などまず居ない。

 掴まれる腕を振り払おうと力を込めるも、敵わない。暴れても、複数人に押さえつけられてしまうとどうしようもなかった。服に手が掛かる。そのまま躊躇無く引き裂かれた。

 露わにされた胸を隠そうにも、両の腕は頭の上で括られてしまっている。

 逃げられそうにはなかった。

 地に落としただけでは足りないというのか。何処まで落とされるのだろう。何処まで堕ちてしまうのだろう……。

 気を遠くに遣った。近くに寄せておくと辛いだけだ。いつの間にか身につけてしまった技術だった。そうすることがいいのか悪いのかは分からない。ただ、その醜悪な行為の間、余計なことは考えずに済む。どちらにしろ、結果は同じなのだ。

 抵抗は虚しいままに、犯され、嬲られ、捨てられる。

 こんな風に生きたい訳じゃない。好きで身を沈めた訳ではない。生まれながら苦界で這い回ることを強いられる生など、誰が望もうか。

 けれど、そこに生まれた。そうする以外の生き方を知らなかった。

 ――何でこんなに辛いのかな。何で私だけ、こんな風に思うの……?

 欠陥品。だから今、ここに居る。でも、境遇は変わらない。むしろ悪いかも知れない。

 推定系になるのは、覚えていないから。何度目かの涙をこうして流す前のことの記憶が、見窄らしいボロのようになっているから。

「はぁ……」

 場に不似合いな溜め息が聞こえた。毒を吐くような溜め息。

「コラ。人の庭で胸くそ悪いことしてんじゃねぇよ」

 新たに一人、男が現れた。街灯の光を背負って、黒い影が立っているように見えた。

 仲間、と言うわけでは無さそうだ。悪態を付きながら、男達の手が離れていった。

 自然と肺から息が抜け出た。

 安堵した。多分そうだ。やってきた男が、味方であるとは限らないのに。

 向こう側で何か音がしている。凄く遠くに音を感じている。遠くに投げやった感覚が、まだ戻ってきていないのだ。何が起きているのかは分からない。興味もなかった。

 一度、目を閉じた。

 しかし、すぐ傍で足音がして、目を開けた。

 そこにはやはり、黒い影が立っていた。新たにやってきた男だ。彼は、手を差し伸べている。よく見れば、彼が黒く見えるのは光の所為だけではなかった。

 彼は漆黒の髪をしていた。髪にその色を見るのは初めてだった。

 人間ではない。

 それを知って身が強張った。後ずさろうにも、後ろがない。

「なんにもしやしないって。まあ、安心しろって言っても無理かもしれないけどさ」

 こんな状況だし、俺は男だし。と、少し困ったように彼は言った。優しいが、少し怖い。それは、男だから、人間とは違う色を持っているからということではない。

 奥が深すぎる。ちょっと覗けば、すぐこそに深淵がある。その深みが、怖かった。

 まだ、出逢って数秒のこの男に、暗すぎる闇を見た。

 この手を取って、その闇に呑まれはしないか。

「どうする? 来るかい?」

 手はまだこちらを向いている。でも、いつまでも待っていてくれるわけではない。

「ん?」

 首を傾げた彼の目に、光が入った。

 息を呑んだ。

 蒼い瞳だった。深いが、鮮やかな蒼。飛び込んだら、沈んで溺れてしまいそうな蒼。

 この蒼で溺れたら、肺の奥まで満たされるだろうか……。

 指を、腕を、いつの間にか動かしていた。期待も希望もとっくの昔に捨てたのに、誘惑に手を伸ばしている。

 結果としてまた堕ちるのなら、堕ちればいい。どんな深みだって怖くはない。目の前にある蒼の闇の方がよほど怖い。

 怖いのに、掴もうとしている。この矛盾は最早理解を超えている。

 手を、掴んだ。彼の手の平に、引っかかるものがあった。傷痕だと直感的に感じたが、深くは考えなかった。握り返してきた手は、少しだけ冷たかった。腕を引かれて立ち上がると、肩に上着が掛けられた。いつの間にか脱いでいた彼の上着だった。襟に付いているファーが首筋に当たってくすぐったい。

 歩き出そうとしたその時、両足をすくい上げられた。驚いている間に、抱きかかえ上げられた。いわゆる姫抱っこの状態だ。

「ちょっと、下ろしてよ。怪我してる訳じゃないんだから」

「まあまあ、たまにはこういうのもいいだろ。蹂躙だけされてればいいわけじゃないんだ。いくら天隷だからって言ってもさ」

「え……」

 思い知らせるかのように、彼女自身の髪が風に流されて目の前に現れた。

 赤い髪。それを見る瞳は赤茶。彼女もまた、人間とは違っていた。彼が言うように天隷と呼ばれる神が造った種族だ。だが、今は天隷であるのは色だけであった。本来持つものは殆ど失ってしまった。

 生き物として無ければならないものの一つは、始めから欠けてしまっていたけれど……。

「ゆっくり休めよ。その後は、自分で決めればいいさ」

 きっと彼は知っている。天隷がどんな生き物なのか。そうと知っても尚、彼は抱き上げてくれた。

 どんな下心があるかなんて知らない。無いかも知れない。何も分からないまま、彼女は男の首に腕を回した。

 不思議と、安心した。恐怖はなくなっていた。何処に連れて行かれるのか聞きもせずに目を閉じた。

 もしかしたら、堕ちたいのかも知れない。

 その可能性をふと思った。


   *


 七年前、空っぽだった。

 名前と引き替えに、力を一つ失った。

 五年前、子どもを拾った。

 静けさと引き替えに、表情を得た。

 昨日、女を拾った。

 捨てられたように居た女は、怯えながらもこの手を取った。

 破壊の力を生む、傷を穿たれたこの手を。

 優しさなんて知らない癖に。自分のことしか考えられない癖に。

 手を差し伸べてしまう。

 何も出来ない癖に。護れもしない癖に。かといって、自分を変えるつもりも曲げる気もない癖に。

 正体に気付けば、自然と去っていく。だから放っておく。

 手を差し伸べた癖に。

 その手を今は伸ばす。手の平をの方へ向け、力を溜める。

 青い光球。添えるは笑み。

 敵にもならない敵に向かって、それを思い切り放った。



「逃げろォ!!」

 街の一角で、同じ言葉が幾つもの声で叫ばれた。人気のあまりない場所から、一個小隊ほどの男達が蜘蛛の子を散らすように駆け出した。彼らの後方には、砂埃を主とした飛散物が雪崩のように押し寄せていた。中にはかなり大きめの瓦礫まで含まれている。当たったらひとたまりもない。逃げる方も必死だ。

「ほらほら。早く逃げないと、アルクァ中の瓦礫が押し寄せるぜ」

 雪崩の発生源に、一人の青年が居た。崩れた廃屋の山に腰を下ろし、右手を前方に翳して、悪戯じみた笑みを浮かべている。

 自ら生み出した風に黒髪を靡かせ、至って満足げであった。

 男達を逃げ惑わせている強風の発生源は、彼の右手。翳す手の平の中央には、太い杭で穿たれたかのような古傷がある。傷を言うのであれば、彼の右腕は細かい傷だらけであった。古傷から生傷まで。今し方、紙か何かで切ったかのような細く赤い線もある。

咒法師じゅほうしナメると喰らうってよーく覚えておけよ!」

 ははは、と笑い飛ばすも、その相手はもう居ない。

「さて」

 目障りな物が無くなったことを確認すると、彼はゆるりと腕を下ろした。それと同時に風は止み、飛ばされていたものは重力に引かれて地面に落ちた。

 辺りを前方九十度くらいにわたり、確認。ぱっと見、甚大な被害は出ていないようだ。甚大でないものは関知しない。

 砂埃が作る靄が完全に落ち着く前に、彼は瓦礫の山から、とん、と飛び降りた。着地は軽く、数センチ上から足を着けるのと変わらない造作だった。

 片付けが苦手な人の片付けよろしく、周りにあった雑然としたものたちは、飛ばされ、押しやられ、彼が居る周辺だけが綺麗になっている。その場凌ぎの清掃に一人満足しているのは、掃除した当の本人であった。

「シィィィン! おーい、シンってば!」

 呼ばれて青年は声の方に向き直った。

 金髪の頭に古びたゴーグルを載せ、大きな緑眼が目立つ少年が声を上げながら走ってきた。

 シン、と呼ばれた彼は、少しだけ口を尖らせる。

「何だよ、フェイ」

「あのさぁ。売られた喧嘩買わなきゃ損っていうのは、シンの信条として解るけど、もうちょっと控えめに、って言葉、知ったら?」

「充分控えめだろ」

「控えめ? 何処が控えめなの? 辺り一面煙幕にして、色々飛ばすしさ。みんな迷惑してるし、それ以前に目立ちすぎ」

「控えめじゃねぇかよ。家は壊れてない。人は死んでない。ほーら、平和じゃん」

「平和の基準がおかしいよ……」

 フェイは項垂れた。

「普通に歩いてるだけでも無駄に目立つのに、これ以上目立ってどうするのさ。立場考えようよ」

「黒なのに?」

「服の話じゃなくて!」

 ファー付きのジャケットを開いてみせるシンは、フェイの言う〝立場〟を考えていない。

 百八十強の長身に、珍しい黒髪には白や黄色の三つ編みをしたエクステンションを跳ねさせている。目は蒼眼。一種独特の鮮やかではあるが深みのある蒼を湛えている。耳にはイヤカフ、首にはチョーカーやタグプレートに混じって逆十字が下がっている。服は彼自身が言うように黒だし、デザインも奇抜というわけではないが、最早服の問題ではない。

 見た目以上に、彼のその力は、否応なしに目立つ。

「また家変えるの面倒臭いからさぁ、少し大人しくしてよ」

「何か俺、おまえに説教されてるっぽいんだけど」

「自覚無いの!? バカなの? 咒法師だからバカなの? それとも、シンだからバカなの?」

「莫迦前提で話してんじゃねぇ」

「ちょ、俺に術当てないでよ!」

 悪ふざけが過ぎていた。

 からかわれた、というには程度の低いフェイの言葉に、シンは大人げなく右手に光を溜めていた。それを回避しようと、フェイは彼の右手を掴み、少なくとも自分には向かないようにしようとした結果、……上に向いた。

 見る間に光球は上空へと吸い込まれ、闇へと還ったかと思った瞬間、轟音を立てて空が光った。

「……」

「……」

 互いに顔を見合わせることなく、暗闇に戻っていく空を見上げていた。

 辺りもざわめいた。それはそうだろう。光射すことのない空に、青光りが走ったのだから。

 光は不揃いな編み目のように横へ横へと一瞬にして駆け巡った。見ただけなのに、感電したような気がしてフェイは身震いした。

「あー。何かあったらお気の毒様だなぁ」

 主犯は、完全に他人事だ。

「てめぇ、シン! 本気で撃ったな! 殺す気か!」

「未必の故意」

「ミヒツノコイ? ……それって、死んでもいいって思ってたってことか!」

「騒ぐなよ、フェイ。みんな見てるだろ」

「全部転嫁されてくる……」

 諸悪の根源が何も悪くないという顔をして歩き出した横で、フェイは本日何度目かの溜息をついて後に続いた。

 轟音と奇怪な現象に誘われて、表に出ている人が増えていた。騒然となっている。なにしろ、あんな光、見た者は恐らく皆初めてだろうから。初めてなりに、人々の反応は多種多様であった。自失する者、恐れ戦く者。様々だ。

 始めは上空に釘付けだった人々の目が、徐々に地上に降りてくると、次に彼らが見つけたのは奇怪な存在だった。

 頭の先から足の先まで真っ黒に塗り潰した影に、二点光る蒼。人間は皆、髪も瞳も茶の色しか持っていない。その中にある漆黒に、誰もが視線を遣った。

 次第に、ざわざわと、好奇の目を向けてくる人々の声が耳に届いてきた。

「咒法師? あれがそうなの?」

「この辺じゃ有名よ。ごろつき相手に好きかってやってるだけだからまだいいけど」

「でも、さっきの見たかよ。あの、蒼白い光。あんな術使うなんて、気味が悪い」

「戮訃とどっちがマシか、って感じね」

 好きなように言われている。石や罵詈雑言を投げつけられるより遙かにいいが、それでもフェイとしては肩身が狭い。フェイ自身も目立つ色を持ち合わせているのだが、シンの悪目立ちが全部持って行ってしまう。いいのか悪いのか。判断は付きかねた。

 異端の種族。その存在は稀少で知る人は殆ど居ない、生来の破壊魔。

 奇異な術を使い、黒髪、蒼眼を持つ者を、人々は〝咒法師〟と呼んで区別した。区別とは善意の解釈だ。本人は気にしていないようだが、好かれている存在ではない。

「それで。さっきの奴らはなに」

 群衆の囁きが遠くなった頃、フェイはそれとなく尋ねた。

「昨日俺がボコった奴らの仲間だって」

「ああ……昨日、か」

 一昨日までシンが惰眠を貪っていた部屋に、昨日の夕方から女性が居る。

 赤い巻き毛の女性で、フェイは勝手に自分より若干年上であると思っている。

 急にシンが抱えて連れ帰って、それきり部屋の中にいる。何があったのか詳しくは聞かされていないが、何かはあったのだろう。

 細身の綺麗な女性が、この治安の悪い土地で何かあったとあれば、おおよその想像は付いた。生々しいことはよく判らない。漠然とおぞましいとだけ思う。

 彼女はシンが連れ帰ったばかりの時はそうでもなかったのに、時間が経つにつれて様子が変わっていった。唇を青くして、小刻みに震えていたのを覚えている。食事を運んだが、はっきりと顔を見せてはくれなかった。明らかに、怯えていた。ロクに声を掛けることも出来ず、名前もまだ訊いていない。フェイが一方的に名乗って終わった。

 家に戻ったらまだ居るだろうか。それとも、何処かへ去ってしまっているだろうか。

 期待と不安が交互に足を繰り出している。

 アルクァの大地を蹴って、前へ進む。その大地は、果てを知らない平面。

 それが世界の名前なのかどうかは知らない。ただ、フェイはその名しか知らなかった。この、知り尽くす人は誰も居ない広すぎる空間を、ここに居る者は〝アルクァ〟と呼んでいた。

「野郎ばっかり大挙してきやがって。嬉しくもなんともねぇし。天下の咒法師囲いに来るなら美女の大群であるべきだよな。なあ?」

「来ないから大丈夫だよ」

「何だよ寂しいこと言うなよ。来ればいいな、ってだけの話だろぉ」

「大丈夫だよ来ないから」

「何が大丈夫なのかぜんっぜんわかんね」

 口を尖らせて、天下の咒法師は拗ねてしまった。

 大人げない大人を連れて、家へと向かう。

 街灯は強め。まだ昼だ。夜は若干光量が落ちる。この灯りが無くなれば、アルクァはただの闇になってしまう。

 空は常に黒を持って迫ってくる。底なしの色に、時に無限を、時に圧迫感を感じる。

 今更特別な感慨は抱かないが、ふとしたときに思うことがある。

 これは、正しいのか、と。

 シンに出会ってから五年。まだそのことは尋ねたことがない。

 いつか尋ねてみたいとは思っている。しかし、これは尋ねるべきものではないという正反対の考えが口を噤ませる。これは答えを貰うべきものではない。自分で、探すべきものなんじゃないのか、と。

 突然、わしわしと髪を掻き回された。

「足りない頭でまたなんか考えてんだろ。そこから何が出てくるんだ? ん?」

「で、出てくるもん! きっとすんごい答えが出てくるんだって!」

「その前に詰め込む方が先だろ? そん中、五年分しか詰まってねぇんだ。空きが多くていい音するだろ。からんからんって」

「俺の頭は金属製じゃないやい!」

「……ツッコミはそこか、おまえ」

 シンが言うとおり、頭に詰まっている記憶と知識は五年分。つまり、シンと出会ってからのものだけだ。だから、自分の年齢も本当は知らない。拾われたときに多分十三くらいだろうとシンが言うからそういうことにしてある。今は十八歳、ということになる。

 自分のことさえ何も知らない。それなのに、世界のことなんて気にする余裕は本当は何処にもない。

 余裕の無さ。疑念の強さ。双方を勘定にかけたら、いつの間にか両方掴もうと無茶苦茶になっていた。

 遠回しに、焦るなよ、とシンは言う。焦っているつもりはないと自分では思っている。

「答え探し」

 シンが言った。見上げると、彼は正面を向いたままだ。

「手は貸してもいいけど、あんまり頼るなよ」

「……それは、わかってるよ」

「や、おまえが考えてるそういう意味じゃなくて」

 何を考えているのか、この男は解っているとでも言うのか。訝しく思いもう一度見上げたが、やはり目は合わせてこない。かわりに、いつもは見せない真面目な顔をしている。その表情が、少しだけ怖い。

「俺は、薄情だから。いつ興味なくすかわかんねぇし。その時に裏切られたって言われても、それは俺の所為じゃねぇし」

 薄情、だろうか。

 フェイは首を傾げた。

 自分を拾い、連れ帰って五年も面倒を見てくれた。今も進行形。時に腹立たしく思うことを言われたりもするが、共に過ごしていれば多少はありそうなことだから気にしていない。そして昨日。男達に襲われたいた女性を拾い、何をするわけでもなく、介抱して軒を貸して。

 常人だってそこまでしない。

「だから言っとく。俺は薄情だから、期待するな。勝手に期待して、勝手に裏切られても、俺の所為にすんな」

 なのに、この男はこんな事を言う。シンが薄情なら、他の人間はどうなる。みんなクズになってしまう。

 言わんとしていることがイマイチ解らず、取り敢えず頷いた。

「一応、聞いとく。俺は、そうは思わないけど」

「いずれ解るさ。解ったときに認識しても、きっと遅いからな」

「……ふうん」

 既に話半分。気のない相槌を返した。

 辿り着いたのは粗末な平屋。見た目は瓦礫の箱の様で、明らかに断熱性はない。鉄板、トタン、コンクリートが主な構成要素だ。アルクァでは平均的な住まいだ。その中の一つにくらしている。

 扉に鍵穴は付いているが、用はなしていない。ドアノブを回すと、一つの引っかかりもなくすんなりと開いた。鍵は掛けていない。物騒だと抗議したところ、シン曰く結界を張っているのだそうだ。内側からかここの住人でないと解けない仕様になっているらしいが、仕組みはまるで解らない。咒法師のやることだ、とよく解らない形で勝手に納得していた。

 中に入るとすぐそこに居間。食卓テーブルと椅子、ソファと低いテーブルとがある。脇にこぢんまりとしたキッチン。散らかっている。

 奥に二つの扉。それぞれフェイとシンの個室だが、昨日からシンの部屋は女性が寝ている。シンは居間のソファに追いやられた形だ。

 そのソファに、誰かがまるまって寝ている。あの女性だ。テーブルの上には、パンの袋が置いてある。買い置きしてあったのを食べて、眠くなって寝てしまったのだろうか。

「逃げてなかった、か」

 シンは一旦自室に入るとタオルケットを持って出てきた。それを、彼女に掛ける。

 フェイは玄関のドアを閉め、遠巻きに眺めていた。

 彼女はシンのシャツにスウェットを着ている。枕元にでも置いておいたのだろう。連れ帰ってから着替えさせている様子はなかった。

 男物の服に着られている感が、何となしに可愛いと感じた。

 シンがタオルケットを彼女の首元まで掛けたとき、はっと赤茶の目が開いた。

 恐怖。混乱。場の空気が、一辺に乱れた。

「いや……やめて! 来ないで!」

「落ち着けって。ほら、俺だよ。何にもしやしないって」

 取り乱した彼女を、シンが抱き留めた。腕の中で暴れる彼女の背をさすり、宥め続けた。

 彼女はシンの顔を見ると、掴んだ手はそのままに、首を傾げた。

 焦点が合う。

「咒法師……?」

「そ。昨日自己紹介しただろ? 忘れた?」

 息を落ち着けながら、彼女は暫し沈黙。

「シン……であってる?」

「アタリ」

 ああ、そうか。と、彼女は思い返すように息をついた。

 次に彼女はフェイを見た。

「……フェイ、だよね」

「覚えててくれたんだ」

 うん、と彼女は頷いた。

「それにしても、逃げなかったんだな」

「起きたのは、ついさっきだし……、ごめんなさい。声上げたりして……。あと、服。置いてあったから勝手に借りちゃった。出ていかなかったのは、確かめたかったから……」

「何を?」

「蒼い闇の正体」

 彼女はシンの瞳を凝視した。

 蒼い瞳に、彼女はどんな闇を見ているのだろう。確かに、吸い込まれそうな程深い蒼ではあるが、フェイはそれを闇と思ったことはない。底の知れない綺麗な蒼だ、とだけ思っている。

 目を合わせている二人を見て、フェイは胸の裡がもやもやするのを感じた。恥ずかしいとはまた違う、消化不良の感覚だ。表すための言葉を知らない。

「ね、名前教えてよ。名前」

 自分では処理しきれない空気をどうにか破るために、フェイはその個体を縛る名詞を尋ねた。フェイの場合は、いつ身につけたのか、首に下がっていたドッグタグに刻まれていたそれを。

「イヴェール」

 自分の名を口にした彼女は、心なしか目に輝きを宿していた。自己確認。再認識。名前というアイデンティティは彼女を取り返していく。

「ねえ、フェイ。緑の目なんて、私、その色知らない。ホントは赤、ってことないよね?」

 緑の目に、金の髪。人間のコミュニティの中にはどうしても溶け込めない色。

 頭に手を遣り指摘された色を掻きながら、フェイは苦笑した。こうする以外の表情が思いつかなかった。

 まさか、この状況で彼女が一番最初に気にしたのがこの色とは。

「コンタクトも術も使ってない、正真正銘緑だよ。俺のことは、俺も良くわかんないんだ。五年前まで何してたのかも全然わかんないし。自分のこと、何も知らないんだ」

「そうなんだ……。私も、よくわからない。自分のことはある程度知ってるけど、どうやって生きてきたのかとか、なんで、ここにいるのか、とか……」

「みんな、多かれ少なかれ同じなんだね」

「……みんな?」

「シンもそうみたいなんだ。ロクに話してくれないからよく知らないけど」

「そうなの?」

「……俺のことはどうだっていいだろ」

 再び戻ってきた視線を受けて、シンは顔を背けた。彼の不機嫌そうな表情は久しぶりに見た。

 自分のことになると、シンは途端に口を閉じる。他のことは饒舌なのに、この一つの話題だけは例外だ。

 解らないから苛立つ。知ることが出来ないから忘れたがる。辛いから掘り返さず。放っておいた方が楽だから触らない。

 シンに限ってこんな後ろ向きな考え方をするだろうか。疑問に思いつつも、他に理由が思いつかなかった。無論、本人に聞いたことはない。

「聞きたそうなツラしてるから、一つ教えてやろうか」

 不機嫌なんてレベルじゃない。彼は怒気を含んで言った。

 フェイに向き直ったシンが、近づいてきた。

「俺は知らないのに、俺を知ってる女がいた。同じ咒法師だった。その女は、これまた俺の与り知らないところで俺を憎んでる女に力を奪われ、自殺した。勝手に傷付いて勝手に死んだんだ。それ全部、俺の知らない部分にあることだけで勝手に回っていった。だからって俺は何も思い出せない。心に風穴開けられただけさ」

 胸くそ悪い。小声でそう続いた。

「わかりもしないことが勝手に回って巡っていくのに首突っ込むのはもうごめんだ。だから触らないようにしたんだ。思い出せるなら触ってもいいと思ったけどさ、無理みたいだし。不快な思いだけ残っていくくらいなら、刹那主義に生きた方が楽だし、俺のスタンスに合ってるからな」

 静かだが、語気は荒い。これほど強く奥歯を噛みながら話すのは、その傷が深いから。話している傍から血を流しそうなほどに、まだ癒えていないから。右手の傷のようには治らない場所に出来た傷は、まだ生々しいのだろう。

 その様は、想像が付かない。

 以前似たような会話の流れになったことがあったが、ここまで強い口調で言われたのは初めてだった。イヴェールが、女が居たから、というのは有り得なくない。幾重かの条件が重なって、傷が空気に触れたのだ。

「だから俺の知らない場所に勝手に触るな」

 気圧され、フェイは知らない間に息を止めていた。

「手を伸ばすな。目を向けるな。訳も解らないうちに色々失くしていくのは、うんざりだ」

 放っておいても、過去が無くなる訳じゃない。知らないだけで確かに存在する過去に、復讐されているような気がしているのは錯覚だ。放置は解決にはならない。何もしないでいても、いつかきっと、知らないことが勝手に回り始める。

 思ったことは終ぞ言葉にならずに収束していった。そんなことくらい、シンはきっと解っている。解っていて、でも、上手く収拾できていないからそう言っているだけだ。フェイはそう思うことにした。

 ぎゅるるるるる。

 緊張したこの場に緊張感のない音がした。

「……」

 シンの腹だ。

 自分で作った緊張を自分でぶちこわした。

 犯人に睨まれたので、フェイは必死に首を振って否定した。濡れ衣甚だしい。

「大人げないこと言ったら腹減ったじゃないか」

 知るかそんなこと。

「さて。夕飯は……どうすっかな」

 すっかりいつもの調子に戻ったシンは、散らかった台所を眺めやった。

 台所がこの様子になってから十数日。自炊は過去の話だ。

「片付け、手伝ってくれたら作ってもいいけど?」

「料理、出来んの?」

「少なくとも、貴方たちよりはね」

 救世主イヴェールの言葉に、シンは道を空けて彼女を導いた。

 男二人暮らし。当然のように出来上がった台所の腐海。そこへ踏み込んだイヴェールはどうやってこの難敵を攻略するのだろう。

 ぎゅるるるるる。

 この段階で腹の虫を喚かせているシンが、果たして調理完了まで耐えきれるのか。

 それが一番の問題だった。

 台所に足を踏み入れ、早速彼女の手が動いた。

 様々なものが積み上がった山の中腹から、指二本でつまみ上げたのは変色した物体がいくつも入ったビニル袋。

「何かな、これ。新しい生命が芽生えてるこれは、誰の仕業かな……?」

 いい笑顔が怖い。フェイは一歩後ずさった。

「そそそそれは、俺が一月かけて育てたんだよ」

 シンも同じ事を考えているようだ。声がどもって上擦っている。

 確かに、シンが一ヶ月くらい前に買ってきて行方不明になっていたパンだ。まだ一つも食べていない。今や色とりどりのふさふさがはびこって、見事に別の物体になっている。

「そう。それじゃあ、さぞかし美味しいでしょうね。はい、あーん」

「待って! ゴメンナサイ! 粗末にしました! そんなの食べたらいくら俺でもヤバイ! トイレが俺の家になる!」

「ふうん。じゃあ、こっちは?」

 と、もう一つ引き上げられたのは、これまた変色した三角形。

 どこからがご飯でどこからが新しい命なのか。さっぱりわからない。

 こちらの事件に手を挙げたのはフェイだった。

「それは……俺。……忘れてた」

「もう、駄目よ。食べ物こんな風にしちゃ。勿体ないでしょ」

「……はい」

 片付けの前にお説教があるとは思っても見なかった。

「あのさ、なんだか俺とフェイで態度が違うのはなんで?」

 いつの間にかフェイよりもイヴェールとの距離を取っていたシンが、口をへの字にして居た。

 何でも何も、とイヴェールはつまみ上げた二つの物体を掲げ、

「貴方は男、フェイは男の子だから」

「成年、未成年の差で言うなら、そんなに無いと思うんだけどな……」

「それに、明らかにシンの方が常習犯だから。きつく言っておかないとまたやるでしょ?」

 やってきて半日のイヴェールに、家主は指揮権を奪われ気味だ。そのうち、完全に取って代わられるかも知れない。

 でも、どうしようもない男を叱る女の図の片側に、若干のはにかみがあるのは気のせいだろうか。こういった微妙な感情を汲むのは、フェイの苦手分野だった。単純で分かり易い感情しか解せない。これでも解るようになった方だ。シンと会った頃は、自分の感情表現すら上手くできなかったほどだ。

 またもやもやする。

 イヴェールに作業再開を促すシンや、渋々とゴミ袋を広げて捨てられる物を端から投げ入れていくイヴェールを見て、フェイは少しだけ口を尖らせた。

 こんなにすぐ傍に居るのに、置いて行かれている気がした。

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